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2015年2月22日日曜日

学習と修練

職業人として能力を高めるということには、新しい知識や経験を学んだりする学習と、職人の様に毎日同じことを繰り返すことの中で徐々に技を磨いていくような修練がある。

職業によってそのバランスは違えど、この「学習と修練」のどちらかがかけても本当の意味での能力向上には繋がらない。

野球のイチローの様に、毎日同じ動作を繰り返し、何万回もバットを振ることによって自分の動作を磨いていく様に、いろんな角度から考えながらも自分を律して同じ動作を繰り返し、それが所作となるくらいまで当たり前の動作まで昇華させることによって、自分の自由に物事に対応できるようになる。

それと同時に、常に変化する社会の動きや、生活スタイルの多様化の動きを理解し、グローバル化しながらも地域格差を作り出している国の形の変化や人の動きを把握し、日々進化する専門技術や新しいアイデアを常に追いかけながらも自分の中の考えを発展させる。

これらの二つの学びを常にバランスよく行うのは難しいが、振り子の様にどちらかに傾いたら同じだけ次には逆側も深く追求すること。年齢や地位の変化によって仕事内容が変わるという口実を作るのではなく、それでも真摯に職業に向き合いながら、この二つの学びをサボることなく続けることが、プロフェッショナルに繋がる唯一の道なのだと改めて理解する。

2015年2月19日木曜日

建築士定期講習 2015

3年という月日はあっという間だと教えてくれる、そんな区切りがあることはいいことだと思う。その一つがこの建築士定期講習。

普段からよく思うのだが、例えば医者。人の命を預かる大切な職業であるだけに、基本的な知識とともに、日々進歩する技術において最先端の知識を常に学び続けなければいけない職業であるが、それがどのように資格として担保されているのか?

それが国家資格として医師と呼ばれるために国家試験を受けて、その後はある程度個人に任されてしまい、大学病院など大きな組織に属しており、組織が体系立てて常にメーカーから新しい技術の講習を受けたり、製薬会社が主宰する勉強会などで新しい薬の知識を得たり、もしくは自身でいろいろな本をを読んだりして新しい社会の病気のあり方を学ぶ。

そんな最近流行の「意識高い系」の人ばかりとは限らないのがこの世の中。

下手すれば、何十年前にパスした国家試験の内容の知識で、あとは日々の診療という日常の中での経験だけに依拠し、それこそ何十年も前のカビの生えたような能力で診察を続けているという人だっているはずである。

能力を高めるためには、新しい知識を吸収するのと、日々同じことの繰り返しの中で修練する二つがあるとすれば、もちろん日常の中で様々な症状を見ていく中で修練されていく能力もあるに違いないが、それと同時に新たなる知識を更新していくのも確実に必要である。

またこの修練というものも、その環境によりまったレベルの違うものになってしまう。自分では随分レベルの高い日々を送っていると思っても、より大きな組織で、より競争の厳しい世界にさらされている人々に比べたら、何倍も遅いスピードで、まったく緊張感の無い中で時間をすごし、結果的職能としてまったく低いままの状態を維持すること、もしくは能力の維持どころか、かつての能力よりもずっと右肩下がりに落ちていることだってあるのかもしれない。

それが「技能」を保障されてそれを糧に社会から報酬を頂く技術職としてのあくなき葛藤であろう。ある程度までは資格というもので技術を担保するが、その先その人が技術をさらに伸ばしていくか、社会の変化に対応しただけの能力を身に着けていくか、資格を確保したときと同じだけの技術を維持していくか、それらはすべてその個人に拠ってしまう。

それを社会として確実に担保していくには、数年おきにその有資格者に対してある程度の確認作業を行い、彼らの技能が一定レベルと確保していると保証することが必要となる。

建築という、同じくかなり複雑で多岐に渡る技能を持って社会に向き合っていく職業を糧をしていると、上記の葛藤に常に悩まされることになる。

建築といっても、人によってはまったく設計をせずに何十年も自分を建築家と呼ぶ人もいれば、資格を取っても一度も図面すら引かない人もいる。そうかと思えば、施工とはかけ離れた表層的なことを日々の生業にしている人もいれば、逆に技術的な図面ばかりに向き合う人もいる。

それだけ分野内において細分化が行われている現代の中で、1から10まで一人でやり、しかもそれを長い年月において「やり続ける」というのはなかなか厳しいというのも事実である。しかし、「建築家」として社会に認められる上では、有資格者として最低限の技能を一定レベル以上に保つための努力はしなければいけない。

そんなに起きた姉歯事件。「プロフェッショナル」という特殊技術を糧に社会に奉仕するための技術者が、その職業倫理を守ることができなかったという事件以後、国家としてどのように資格者の技術レベルの担保を行うのかという議論の果てに義務付けられた3年ごとの講習会への参加と、その講習会の最後に行われるテストをパスすること。

あってしかるべき動きであると思う。

そんな訳で一番最近に受けた講習より3年以内に再度講習を受けなければ行けなく、また講習が受けられる場所も決まっているために、随分早く予約を入れることになる。講習内容といえば朝の9時から開始して、各コマ1時間の授業で間に10分の休憩。モニターを使った録画講義を元に手元のテキストを確認していき、職業倫理や最新の事故事例、新しい技術や素材の授業をみっちり受けることになる。

一級建築士という資格上、会場に来ているのも人の年齢層もやはりそれなりに高いが、誰もが集中して授業内容を聞きながら、最後のテストに向けて重要項目に線を引いている様子である。

そんな中、テレビ講義の中で講師として登場しているのが、大学で教わっていた先生であったり、また会場にもかつて学校で教えていたときにご一緒させてもらっていた先生がいたり、かと思えば同時期に資格に受かったかつての仲間の顔があったりと、なんだか懐かしい気分に浸りながら夕方の17;20分まで濃密な時間をすごし、職業人としての能力を少しだけ向上した気分で会場を後にする。

2014年4月16日水曜日

「最悪」 奥田英朗 2002 ★★★★★

モスクワから戻ってきて、すぐに日本で進めている保育園のプロジェクトの打ち合わせの為に日本に戻る。国境をまたいでの移動は、空港での待ち時間に、飛行機の中で身体を拘束される時間を合わせ、必然的に読書がはかどる時間でもある。

そんな中で読みきったのが、大藪春彦賞や吉川英治文学新人賞など1999年に様々な文学賞で受賞候補に挙げられた奥田英朗の有名作。そのタイトル通り、読んでいても、「なんでそんな風にしてしまうんだ・・・」と心がムカムカするほどの登場人物の判断力の無さや行動内容。まさに「最悪」としか言いようが無い。

最近読むことが多かった、ある数人の主人公にスポットを当てるのではなく、多種多様の人物を平行して追うことにより物語を進行する群像劇ではなく、あくまでも主役は3人なので、読んでいきながら流れをつかみやすい。そして3人の転換も非常にテンポが良い。

一人目の主人公は鉄工所社長の川谷信次郎。鉄工所の社長といっても、「僕達急行 A列車で行こう」の瑛太の様なのんびりした感じでも、池井戸潤の描くような技術に裏打ちされた職人的な側面を描くでもなく、ただ真面目に、そして愚直に仕事に取り組み、家族を少しでも楽にできるようにと休日返上でも単価の低い仕事でもこなしているいいおっさんである。しかし、かつての田畑に囲まれた中に鉄工所があるという風景から、開発がされ周囲にはマンションが立ち並び、地縁で繋がってはいない新規の住民が周辺に住み着くようになる。

彼らは夕方以降や、週末での騒音は出さないようにと一方的に要求を突きつけてくる。それが如何にも外資系のサラリーマンという形で理論武装をして追い詰めていく。そこに近所付き合いや人情なんてものは入り込む余地は無い。

そんな苦情は区役所にも回っていき、お役所仕事として「形だけでも」なにかしらの結果を欲しがる役人から、どうにか約束を確約しようとされてストレスをかけられる。折りしも取引先の懇意にしてもらっている担当者から進められた設備投資の甘い話。その彼から紹介された通常の取引銀行ではない大手の銀行からの融資の話。その話が済むまでは近隣での騒音問題を抱えている会社とは知られる訳にはいかず、なんとか隠し通そうとする信次郎。

冷静に考えれば、自らの身の丈に合っていない設備投資であり、無理な借金をしてまでも行うことではないと分かるはずなのに、他の幾つものストレスが重なり、ある種の思考停止に陥り、とにかく設備投資さえ出来れば全てが解決すると盲目的に信じてしまう状態。その描写がなんとも素晴らしい。

建築事務所なんていう零細企業を行っていると、つくづく人間は属している組織の大きさによって自らの態度を決め、そして相手の組織の大きさによってとる態度を決めているのだと痛感させられる。決してその人の能力や人間性でではなく、あくまでも最終的にその人を守るであろう組織の大きさでである。

小さい、もしくはその人が知らない組織に属していれば、人はとことん攻め入ってこようとする。人が謙虚に下手に出ていけばいくほど、人は漬け込んでくる。何かこちらに非があると思われることを見つければ、これ見よがしに漬け込んでくる。その目的は最終的には金銭となることが多い。

建築設計を行っていても、時に適正価格というものを考えず、ただただ提示された額からどれだけ値引きさせることができるかが、自らの能力だと考えている人に出くわすことになる。恐らくそれらの人が生きてきた人生と言うのは、そういう中で能力が評価される世界だったのだと想像し、さぞやさもしい時間だったのだと思いを馳せる。

本来はその仕事の業務量がどれほどで、その中で専門的能力がどれほど関与し、手間と時間がどれだけ費やされての報酬額かを理解し、また取引をする企業にとって、この仕事でどれだけの利益が出て、企業活動の継続が可能である範囲かに思いを馳せることがいいのであろう。

しかい多くの人は、他の人はその金額を払っても自分だけは値引きをして欲しい。自分だけは恩恵を被ってもいいはずだ。それでもおたくも問題ないでしょう。という態度となる。この空気が強く現われたのは自由主義経済を進めてきた2000年代の後半。デフレの波が世の中を多い、本質を見ることなくただただ値段の問題へと還元されてしまう専門業務。それは何も残らないイナゴの大群の通った後の風景を思い起こさせる。

そんな思いを抱えながら世の中を眺め、なんとか耐え忍んできた身にとっては、信次郎がどうには現状維持の生活からなんとか上昇のスパイラルへと希望を描き、数多の可能性の中のベストなシナリオしか頭の中に思い描けなくなってしまったかが良く分かる。それほど、社会の下で必死に生きている人の姿をよく理解し描いた作品だと思わずにいられない。

二人目の主人公の藤崎みどりはかもめ銀行の銀行員。職場での淡い恋心や上司からのセクハラ、奔放な妹への心配、自分を目当てに通ってくる少し地方気味の老人顧客への対応など、まさに日常の中の些細なことではあるが、本人にとっては非常に大きな問題を抱えながら生きている。

最後の主人公は、チンピラの野村和也。パチスロで生活費を稼ぎ、水商売の女のヒモとなり、ヤクザの友人とトルエンの強盗を繰り返し、そこからヤクザに追われることにあっていく。

それぞれの状況が徐々に徐々に「最悪」の方向へと沸騰していき、あるとき急に沸点に達したかのように事態が動き出す。そしてバラバラだった三人があるところで運命に引き寄せられる。

三人が三人とも、なんで真面目に生きているのに、何で頑張っているのに、それなのにどうして俺だけ、私だけこんなに悪い方向に進んでしまうのか?どうして俺だけこんなに負担が大きいのか?なんで頑張っているのに人生がよくならないのか?という思いにかられながらも坂を落ちていくようにどんどん「最悪」へと嵌っていく。

まさに読んでいて、気持ちのよいものではない。それだけに描写が素晴らしいということである。恐らく日本人の誰もが、主人公の誰かのどこかに自分の日常を写し合せることができるのだろうと想像する。それだけ日本人は真面目で平凡に毎日をこなしている。それなのに、悪い方向へといってしまう。

あっという間に読み切れてしまうスピード感ある良作である。


2014年3月13日木曜日

プロフェッショナルの定義

朝ドラの当たり年だった2013年。朝ドラだけでなく、ドラマの当たり年といってもよいかもしれない。

その最後を飾る「ごちそうさん」もあと少しを残すだけ。物語を彩る様々な個性的な登場人物の中でもとりわけ印象的なのが、建築家の大先生である竹元勇三。物語の中では、ヨーロッパを遊学し、最先端のデザインを学び帰国し、帝大で教鞭をとりつつも、大阪の近代化の肝入りプロジェクトである御堂筋線の駅舎のデザインを行う人物である。

天才というのを印象付けるように、思い立ったら人の意見など聞かず、自分の信じる建築をいかに実現するかに邁進する。予算がなくて、どうしても設計変更で対応しようとする主人公に対し、

「お前の仕事は私のデザインを守ることじゃないのか!!!!!」

と大声で怒鳴る竹元教授。これはあたかもスター建築家、大先生というのは、予算も条件も何も考慮に入れなくて、自分の感性の赴くままにデザインをし、愚鈍な大衆には理解できない、大変立派なビジョンを一人の天才が社会に実現してやるのだといわんばかりの態度に映ってしまい、大きな誤解を生む可能性もありそうである。

自分は美しいもの、理想を掲げた外形だけを気にして、建築が抱えるもっとドロドロした部分、機能の調整や、予算の問題、関係するさまざまな人たちの要望や、工期の問題。雨水処理や換気方式などなどとにかく上げれば切がないほど細部にわたり、一つでも無視することができないのが建築が総合芸術と呼ばれる所以である。

それを、そんな些細なことは下々が処理するべきで、私のような天才は、もっと大きなビジョンを提示すればいいのである。それを死守するのが私の役目である。という描き方。

「このデザインだと要求される面積が足りないんですけど・・・」

という担当者の言葉に対して、

「それならば面積が足りなくても問題ないとクライアントに言えばいい!。その数平米とこのコンセプトを守ることとどっちが大事だと思っているんだ!」

と怒鳴るようなものであるが、それでは建築は成り立たない。それでも成り立った時代があるのかもしれないがそれはまた別の話。とにかくグローバル化した現代社会。誰もが同時代的に情報を得ることができる中、建築家が世間から距離を置き、専門家としてのベールをまとうことで「天才」を演じ切ることはできない時代。本当に一から十までどこの部分でどれほどの能力があるのかどうかがすぐに分かってしまう時代においては、プレイング・マネージャーとしての建築家でなければやっていけない。

その竹元教授のモデルとされたのが、まさに「ごちそうさん」の同時代である明治から大正にかけて活躍した建築家・武田五一(たけだごいち)。東京大学を卒業し、東大で助教授を務め、文部省より派遣されヨーロッパへの留学。そこで見てきたアールヌーボーやセセッションを日本に紹介し、帰国後は京都大学で建築学科を設立し、大阪の街づくりのシンボルでもあった地下鉄御堂筋線の心斎橋駅を1933年に設計し、セセッション様式を採用して設計を行った。

[大阪名所図解] 地下鉄御堂筋線 心斎橋駅

まさに「ごちそうさん」の竹元教授そのもの。

内藤廣が「形態デザイン講義」でもいうように、技術を社会にわかりやすく、そして受け入れてもらえるように翻訳するのがデザインであるとすれば、ヨーロッパで学んだ新しい鉄筋コンクリートの天井の高い大スパンの空間の心地良さ。そこに煌びやかな洗練された装飾が適度に施され、訪れる人を迎え入れてくれる駅舎空間。その駅舎空間を地下鉄の駅に採用した武田五一。日本が近代化していく過程で人と物を動かす起点となり、都市の活動の幅を広げる地下鉄の駅には、新しい空間が必要だと採用したその様式。

知識が限られていた時代においては、それを見て理解していることは専門家としての地位を守る大きな武器であった。しかしその知識の希少性が薄れる時代においては、本当の意味で新しいものを作り出せる想像力か、さまざまな条件の中で創意工夫をしてクリエイティブな解決法を見つけていける力か、それとも技術を深く理解し、その本質を熟知することで、関係者にとってメリットのある方式を提示し推し進めていくプロフェッショナルとしての実現力があるかどうか。

少なくとも、ある分野で進んだ国家に留学し、それを持って専門家として一生安泰の地位でいることは不可能となった時代において、専門家、プロフェッショナルとして何を持ってそう呼ばれるのかを、誰もがみな今一度顧みる必要があると感じさせられるドラマの一シーンである。

2014年2月4日火曜日

東光園 菊竹清訓 1964 ★★★★



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所在地  鳥取県米子市皆生温泉
設計   菊竹清訓
竣工   1964
機能   宿泊施設
規模   地上7階地下1階
構造   SRC造
敷地面積 13,071㎡
建築面積 485㎡(本館)、1,396(新館)
延床面積 3,355㎡
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米子の日本海沿いに広がる皆生温泉(かいけおんせん)に建つ老舗旅館。今回の山陰巡礼でずっと追ってきた菊竹清訓の作品であり、間違いなく初期のピークといってよい戦後の日本建築にとって大きな意味を持つ作品。

それが公共建築でも個人住宅でもなく、温泉街の老舗旅館、しかも木造ではなくモダニズム建築を体現するコンクリートをまとって作られているから驚きである。建築を学び、建築を職として過ごすものにとって、人生の中で何度も出くわすその特徴的な立面。

しかし山陰という地理的な制限があり、実際に見ることはなかなかかなわない。そんな訳で今回は出雲大社と双璧する最大の目的地として定められたのがこの東光園。老舗旅館ということで、思い切って奮発し連泊して内部空間もじっくり観察する事にする。

前年に出雲大社庁の舎を完成させている菊竹清訓。この皆生温泉でチャレンジしたのは何といってもその建築の構成。建物は1-3階にボリュームがあり、その上の4階部分は部屋が無く外部空間となっている。つまりはピロティとして中間層が空けられ、上部が浮いている構成になっている。

コルビュジェが提唱したピロティは通常1階部分に採用され、建築を大地から持ち上げることによって1階部分の動線を自由にする。しかしここではそれを発展させ、4階部分にピロティを採用し、ここを屋外庭園として明確な分割を行う。

通常ならその上にも階があるだけのはずだが、この建物ではそれだけでは終わらず、1階から立ち上がった構造は7階部分まで延びていき、その間の5,6階部分は今度はその7階のボリュームから吊り下げられている。そんな訳だから外から見ると分かりやすいが4階部分を境目に構造が大きく変わっているのが見て取れる。

これだけ大げさな構造を可能にするためには相当太い柱が必要になってきてしまう。そうすると室内空間はかなり重苦しい雰囲気になってしまうので、それを解消する為に採用されたのは、SRC造と呼ばれる鉄骨鉄筋コンクリート構造。

通常のコンクリート造では内部に鉄筋という細い鉄の芯を何本か通して、その周囲にコンクリートを流し込み固め、コンクリートと鉄筋でそれぞれに引張りと圧縮に強いという特性を兼ね備えて素材にしてやるのだが、この鉄骨鉄筋コンクリート構造は更に上を行き、まずは鉄骨で柱や梁を組み、その周囲に鉄筋を配筋しそこにコンクリートを流し込む。つまりは鉄筋コンクリート造と鉄骨造の長所を兼ね備えた構造ということになるが、その分コストが高くなるために、一般の建物にはなかなか使用されず、高層建築など、構造にコストをかけても十分に経済性を確保できる特殊な建物などに使用される。

そのSRC造を決して高層建築では無い規模のこの建物に採用し、できるだけ断面積を小さくすることと同時に、もう一つ取られたのが、木造建築などでも良く見られが、強度が足りない柱のそばにもう一本細い柱を足してやるという添え柱のアイデア。

一本の柱だと余りに太くなり不恰好だが、それを添え柱として力を分担してやれば、細い柱の集合体として、一本一本の柱のプロポーションはスリムに保たれる。それぞれの添え柱と中心の柱は貫でつながれ上部からの力を流す役割と果たしてくれるという訳である。

そんな訳でこの二つのアイデアを採用し、4階部分までは4本の添え柱を伴った柱が立ち上がり、上から吊られている5階部分に接触することなく、役割を終えた添え柱は消滅し、後は中心の柱だけが7階まで達していく。その構造の力の流れを明快に見せる為に、4階上部で沿え柱は5階の床面に触れる事が無く、隙間が残されている事が必要であるということ。

5,6階は通常の柱、梁で構成されるラーメン構造ではない訳で、上から吊られている箱の中を自由に間仕切り部屋にできるという利点を利用し、梁が無い為に階高が低くても十分な室内高さが確保でき、繊細な縦線によって壁面が構成できることから水平線を強調したファサードとなる。これが底部のゴツゴツとしたファサードとの対比を見えてくれる。

アクロバティックとも言ってもいいその構造形式をできるだけ建築の外形に素直に表現する。それらの建築は構造表現主義と呼ばれるが、この建築は鉄骨鉄筋コンクリート構造と、添え柱というアイデアによって可能になった構造形式を明確に外形として表現する現代技術を体言する建築として高く評価されたのも頷ける。

くしくも同じ1964年に完成した丹下健三設計による国立代々木競技場もまた、鉄筋コンクリート構造と吊り構造によって空間に描かれる美しい3次曲線の建物として鉄筋コンクリートの構造表現主義として戦後の日本建築の在り方を世界に示す事となる。

世界では1951年にフェリックス・キャンデラがメキシコでHPシェルを用いてコンクリートの新しい可能性を提示し、60年代を通じてHPシェルの持つ美しい双曲線の教会を作り出し、1955年にはヨーン・ウッツォンがシドニー・オペラハウスのデザインにコンクリート・シェル構造を採用し美しいシルエットを描き出し、1962年にはエーロ・サーリネンがTWAターミナルにてコンクリート・シェル構造を用いた流れるような曲面を作り上げていた。

その流れをつぶさに見ていた日本の戦後モダニズム建築家達。丹下健三が第一陣をきり、そして菊竹清訓はどうにかしてその先に行こうと苦悩し、辿りついたのがこの東光園での構造表現主義。時代が可能にした技術を適切な形で翻訳し、世の中の人に美しいと受け入れてもらえるような建物として実現する。

そんな歴史的な建築に宿泊でき、なおかつ日本有数の温泉を堪能できるというのはかなり稀有な体験である。添え柱が堂々と鎮座するロビー空間は内部に広がる広大な日本庭園に開放的に接合され、低くなった床レベルはまるで直接庭園に繋がるかのような気分にさせると共に、ロビーの背の高い空間を意識させるに十分である。

再度温泉で身体を温め、持ってきていた「田崎つくる」を静かなロビーのソファで読み進めると、どうやら隣の席ではテレビの製作会社と思われる若いスタッフが打合せをしているようである。テレビの多局化によって放送するコンテンツ不足に陥ったメディア業界では、恐らく物凄い数の制作会社が短い時間で番組を作る事を求められているのだろうと、なんだか建築と同じだなと思いながら本を読み進める。

そんな東光園。山陰を代表する老舗旅館だけあって、なんと天皇陛下もお泊りになったという。


そんな由緒あり、そして戦後モダニズム建築の代表作の一つである東光園であるが、先ほど立ち寄った市内の居酒屋で大将に話を聞いたところ、なんと一度経営破綻をし倒産を経験しているという。大将によれば、老舗だから天狗になって、殿様商売しているうちに客が来なくなったんだといい、「泊まった事があるがサービスがなってなかった」と言っていた。

調べてみると、確かに経営破綻をしており、2007年には米投資銀行ゴールドマン・サックスグループ系の企業に事業譲渡されたという。その後ゴールドマンと事業提携している星野リゾートが運営を引き継ぎ、新しいコンセプトを打ち出していくというのが2008年。

「おお、ハゲタカに買われた老舗旅館か・・・・」と小説を思い出しながらも、その営業努力が実ってかどうかは知らないが、館内にはお隣韓国からの旅行客と思える団体が大勢いたり、館内にも「平日昼間に○○プラン」などという若い女性向けのプロモーションが多く見られる。


これも確かに経営努力であり、この山陰という地方を考えたらできることは限られているのもまた分かるのだが、モダニズムの傑作建築で現在も素晴らしい内部空間を見せてくれる建築だけに、どうにか大衆化されることなく良い生き残り方を見つけていって欲しいを思わずにいられない。






















2014年2月2日日曜日

出雲大社庁の舎 菊竹清訓 1963 ★★★

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所在地  島根県出雲市大社町杵築東
設計   菊竹清訓(きくたけきよのり)
竣工   1963
機能   社務所
構造   鉄筋コンクリート造
規模   平屋建(一部中2階)
延床面積 631m²
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1963年(昭和38年) 第15回日本建築学会賞 
1964年(14回) 芸術選奨文部大臣賞
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神楽殿から出雲大社の境内に足を踏み入れると、右手のうっそうとした木々の中に周囲の環境とカモフラージュするかのように、表面に深さと太さを変えられたコンクリートの凹凸をもった壁面が現われる。

神々の国の首都の中心地に立つ出雲大社。その境内に現代の社会的機能を果たすべく計画されたこの出雲大社庁の舎。神々の時間の長さに対してどのような建築が対抗できるかを必死に考え抜いて答えを出した若き建築家の姿を想像させてくれる作品である。

日本有数の神域空間。今後も今まで同様に、何百年と繰り返すことで今を更新し、時間を重ねていくこの出雲大社の空間で、現代に造られる建築物として残っていく宿命をどのような考え方と形態でもって応えるのか。その重責に挑戦できるのは、この日本の国に生まれた中でも数人の建築家のみ。

1958年のスカイハウスから5年後。35歳という建築家という職業としては過分に若い時期において、日本人として、建築家として、二重のプレッシャーを引き受けなければいけない大きな挑戦に挑み、そして自分なりの答えを提示した菊竹清訓(きくたけきよのり)氏。

1969年に出版される『建築代謝論 か・かた・かたち』にて発表される設計理論である「か・かた・かたち」論を構築していく過程で手がけることになった1963年の出雲大社庁の舎。そしてそれに続く1965年の東光園と徳雲寺納骨堂という現代建築を代表する作品を通して確実に理論と実践を前に進め、その後のキャリアに大きな意味をもたらした重要な時代の作品。

出雲というあまりにも大きな相手に挑む為に建築家が拠り所としたのは、現代の「技術」と、この地域を風景を作り出してきた「農耕」の二つ。

まずは「農耕」。社務所というのは、寺社における現代的な機能を提供する空間である。様々な祈祷やお払いなどの申し込みやその手続きなど、一般の方に供される寺社の公共空間であるといってもよいであろう。

その建築に与えられたのは、出雲大社が農耕の神であること、またこの出雲の地が豊かな稲作文化に支えられて発展してきたことを象徴し、出雲地方の「稲架(はで)」をモチーフにした山形を採用されたという。「稲架(はで)」というのは、「稲掛け(いなかけ)」とも呼ばれ、収穫を終えた田圃において、稲を乾燥させる為に、木材や竹などで柱を作り、そこに横材を掛け渡しそこから稲をかけて干すことを指すと言う。そうすると下が膨らみ、緩やかな山形を形成することになる。

しかしそのまま「稲架」をモチーフにしたのなら、出雲大社の本殿の大社造同様、地面から持ち上げられ、地面との間に「距離」を与える必要があるが、それは採用されず、むしろ地面から直接山形が立ち上がるようにして形態を与えられている。

それは、その形態を実現させる二つの目の武器である「技術」に拠るところが大きいのであろう。木造建築である寺社空間に、融和するように木造建築を採用するのではなく、あくまでも現代の時間を挿入する為に、現代の素材である「コンクリート」を採用し、現代の発展した技術によって、その素材を神域空間に耐えうる前の強度をもたらすことに挑戦する。

コンクリートは「土と砂利と水」という自然素材から生れる素材。それだけに古代ローマでも多く採用されてきた人類にとって馴染みの深い建築素材である。水を多く含ませ液状となったものを、器となる型枠に入れて十分にかき混ぜ、その後乾燥をさせて固形化するという、独特の生成方法を持つために、その過程の精度を高める高い技術が要求される素材である。

建築技術の発展により、コンクリートを自由に扱えるようになった現代の建築家。一般的な素材であるコンクリートを、技術の粋を結集させることにより、特殊な素材として昇華させる。それが試されたのがこの出雲大社庁の舎。

ではどんな「技術」を持ってコンクリートに形が与えられたのか?
そこには二つの挑戦がある。

まずはこの建築の大きな特徴の一つである、そのスパン。階段室などを中に含んだ周囲16mにもなる巨大な2本の柱。そしてその間に架けられたのは47mものスパンをもつ2本の梁。この梁はI型をし、コンクリートの予め圧縮力がかかった状態(プレストレス:PS)としておくプレストレス・コンクリート(PSコンクリート)を採用したという。

なぜ予め圧縮力をかけておくと良いのか?となると、建築士の試験勉強の様になるが、力には押す力である圧縮力と、引っ張る力である引張力があり、コンクリートというのは圧縮力には強いが引張力にはそれほど強くないという特性がある。そんな訳で引張に強い鉄筋を中にいれて、互いに補強しあうという鉄筋コンクリートが使われることになるのだが、鉄筋の代わりに高強度のPC鋼材を利用し、荷重が作用する前にコンクリート部材に圧縮力がかかった状態(プレストレス)とし、荷重を受けた時にコンクリートに引張応力が発生しないようにするものである。そうにより鉄筋コンクリートに比べ、引張応力によるひび割れを防ぐことができるが、同時にコストも上がるという代物がプレストレス・コンクリート(PSコンクリート)である。

PC(プレストレストコンクリート)はどうやってつくるの?|株式会社ピーエス三菱

PCって何?   株式会社富士ピー・エス

プレストレスト・コンクリートにおけるプレストレスの働き

2-11.実務上の構造力学


こんなややこしいことをして何のメリットがあるのかというと、上記の様に一般の鉄筋コンクリートよりも強度の高く、耐久力も良いコンクリートが作れるので、絶対に壊れてはいけない橋梁などの土木施設や、防災施設などに使用されるのが一般的である。

では、どうやってストレスを与えるかなのだが、コンクリート打設前に PC 鋼材を緊張する方法である、プレテンション方式と、コンクリート打設後に PC 鋼材を緊張する方法である、ポストテンション方式の二つがある。

そんな訳で、寺社空間という長い時間軸に対抗する為に耐久性の高く、そして現代の技術をもってでしかなし得ない建築空間とする為に巨大なスパンを飛ばすために採用されたのが、ポストテンション式のPSコンクリートによる巨大な梁。そのサイズは梁成(せい)が1.8mで、幅は0.4m。

もう一つの挑戦は、側面の長い壁面に現われる特徴的なパターン。通常コンクリートというのは、液状のものを器に入れてかき混ぜた後に何日もかけて乾燥させ、水分を蒸発することによって固形化し、器を外してやるものである。そのため通常は使用される現場にて木製の型枠を準備し、そこへコンクリートを作る工場からミキサー車というグリングリン回っている筒のようなものを乗っけた作業車で届けられ、ホースを使って準備してあった型枠の中に流し込まれる。

その流し込み作業である打設時には、水分に関して繊細な作業であるので、雨を始めとした天候に大きく左右されてしまう作業であるが、打設が終わった後は、コンクリートが一体となって、大地と一体になった表情を見せてくれる素材である。

現場での作業ということで、常に作業台の上でやりやすいように作業が行える訳ではなく、上を向いたり、横を向いたりと作業の姿勢も不安定になったり、また周囲の環境によって大きく影響を受けたりと、その施工精度に少なからず差がでてしまう。それを埋めるのが熟練された職人の腕になるわけだが、それでもやはりその場その場の状況によって完成品の質が変わるのは否めない。

それに対して、工場で常に同じ体勢を保ち、機械などを利用し、精度を高め、品質を一定に保つ事ができれば、天候にも職人の能力にも左右されない工業品として高い品質のコンクリートが作る事ができる。そういうコンセプトで作られたのが、プレキャスト・コンクリート(PCコンクリート)。先に打って作っておくコンクリートという訳である。

その代り、工場で打設し、現場に持ってきて設置する訳だから、輸送と施工が可能なサイズに分割しないといけない訳になる。なので一枚一枚のパネルに分けられ、それを組み合わせて全体を構築する。

それは同時に、部分が劣化した時にその部分だけ取り替えることができるという「更新して持続」することは、まさに式年遷宮の概念に繋がるということで、1960年に発表された「新陳代謝」を掲げたメタボリズムの概念をここでも取り入れた形となっている。

鏃(やじり)をモチーフにした妻側外壁のPCコンクリート版。凹凸の深さを帰ることにより、異なる陰影を描き出す。それに対して側面には細長いPCコンクリート版がセパ穴にセパレーターを残されたまま段上に設置され、その間の細い溝にはガラスがはめ込まれ内部に繊細な線の光を落としている。内部に光が通るということは、逆に夜には内部の光がこの細い溝を通り外に透過することを意図されている。

そんな緻密なコンクリートの造詣は、まさにPCコンクリート版を採用したからこそ可能になった表現である。現場うちされたと思われるコンクリート部分の型枠は全て杉板が採用されている。そしてそれらはもちろん焼き杉を利用し表面的ではないパターンが付けられている。それは建物後部に位置するトイレでも徹底されている。

大地を縁を切る大社造に対して、あくまでも大地に根ざし、大地から生えてきた建築を意識するかのように、その「足元」の造詣には相当に注意が払われている。正面側は薄い階段状に手前に拡張して境界線を曖昧化し、後部では荒々しくコンクリートの斜めの壁が地面に突き刺さり、その緊張を視覚化するために溝が掘られ水が境界を決定している。

施工後既に50年を経過したこの建築。出雲大社の式年遷宮のサイクルである60年を意識して採用された様々な技術と素材。それが功を奏してか、そのサイクルを終了しようというほど時間が経過したにも関わらず、まったく劣化を感じさせない面持ち。

内藤廣も言うように、時代の技術を理解し、社会に対して受け入れてもらえるように技術を翻訳し、見事な形態と空間を生み出した作品に違いない。それには、寺社建築が持つように、ある一定の機能に追随するのではなく、数十年で更新する機能を覆いこむような大らかな建築を目指した建築家の視線が大きく寄与しているのだと勝手に理解し、向かいに位置するこれまた菊竹清訓設計による神祜殿へと足を運ぶ事にする。