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2015年3月7日土曜日

身体を通しての認知

写真やインターネットでエッフェル塔を見ても、「あ、エッフェル塔だ」としか感じないが、しかし実際そこに身を置き見上げる時に感じる「おおっ」というあの感覚は一体何なのかと不思議に思う。

同じ様に、Google Mapで航空写真として見下ろすパリの街並み。それを見ても何とも感じないが、しかし着陸寸前の飛行機の窓から見下し、流れていく街の光としてパリの街並みを見るときに湧き上がる「おおっ」という感情は何なのだろう。

百科事典が限られた人の特権だった時代から時間は流れ、今では無料で無限の情報に触れることが出来るようになった。情報が限られていれば限られているほど、その情報に触れたときの感動は大きいはずであり、それが動画でも画像でもましてや活字であっても、その価値は相対的に決まっていたはずである。

それに対し現代では、世の中に存在するほとんどのものや景色はインターネットで検索すればほぼ目にすることが出来る。実際に自分が決していけないような場所や、顕微鏡の様にスケールの違う世界の様子も簡単に目にすることが出来る。

その「目にすることが出来る」ということを、実際に体験した、理解したと同様に感じてしまうこと。

そこに人の愚かさがあり、そこにこそ、例の「おおっ」という驚きが隠されているはずである。

人間がものを感じ、理解するのは決して視覚だけの問題ではなく、自分の身体や周囲の建物と比較して大きさを体感したり、その場に差し込む光の微妙な変化や、吹き抜けていく風のぬるさを感じること。そんな身体を使って感じることが本来の体感することである。

視覚に偏重した現代社会だからこそ、できるだけ身体を使って物事を感じること、物事を体感することの価値が高まり、同時にそうして身体を通して世界を認識することができるかどうか、その訓練を重ねてきたかどうかが、その人の感情の豊かさや想像力に比例していくのだろうと思わずにいられない。

2015年3月6日金曜日

反射的な過ごし方

すっかり間が開いてしまった。
やはりブログを書くには精神的余裕と、物理的時間が必要だと改めて実感する。

過ごした時間を改めて積極的に見直すことが出来ないということは、積極的に日常を生きているというよりも、ただただ流れてくるものを対して反射的に生きているようなものだと思う。

目の前に現れる問題や困難を処理する。
様々なストレスを解消すべく、できることを考え実行する。
時間を使ってしっかりと思考してメールをするよりも、ただただ未処理事項を一つ解消するための打つメール。

人々の生活をより豊かにするために発達したテクノロジー。
そのテクノロジーのお陰で我々人間の能力と身体は拡張されたことは間違いない。
ただし、CPUの処理速度が進歩するのと歩調を合わせ、日々の業務で処理すべき事柄の数もまた増加する一方。
人が介在しなければいけない作業である限り、物理的な人の作業と何よりも一つ一つに費やさなれければいけない思考の時間はどうしても圧縮することは出来ず、増加する処理すべき事象と物理的存在である一人の人間の思考速度との間には大きな偏差が生まれることは止むを得ない。

「情報」に翻弄される現代。

「忙しき日常」に少しでも足元をすくわれると、「あっ」という間にその情報の渦の中に吸い込まれ、「引き出しに仕舞う」ことも、「ライフログという糸」を紡ぐこともできずに、ただただ「消えた時間」の前で呆然と立ち尽くし、反射的にその日一日を過ごすのみ。

「喜怒哀楽」という反射的な感情のみに支配される1日。その繰り返し。
その中で人の理性はただただ麻痺し、弾性力を失っていく。

情報社会の中でメディアに流され、踊らされ、自分が何をしたいのか、何をしているのかさえ考えることのない、動物的な日常を送ってゆく。思考を失い、語彙を失うその先には感情さえも失っていく。

そんな危険な反射的な過ごし方から逃れるためには、やはり「記憶の整理」をし、積極的に「忘れていく」ことが必要となる。その為の最も有力な手段として感情や記憶をしっかりと自分の身体から外部化し、いつでもそこにアクセスできるようにログにて管理するブログの有効性はあと数十年近くは続くものと思われる。

そのためにできるだけ「やり残し」を作らずに、簡潔にでも言語化していく作業を貸していくことが必要だろう。

2014年11月8日土曜日

ライフログという糸

人の一生という時間の流れの中には、様々な線が分岐している。
比較的近いDNAを持っている家族であろうとも、過ごした時間の中で経験した出来事と、
その受け取り方で微妙にだが人生の線に様々な分岐点を作り、
それぞれが自分の線を作っていく。

時間を共にした友人
考え方に影響を受けた人々
感動を受けた絵画
涙を流した映画
日が沈んだ後の海の音
頬をなでる風の心地よさ
何度も読み返した本

今の自分は10年前の自分と比べても、
恐らく同じ体験をしてもまったく異なる反応を見せるに違いない。
それはその間に過ごした時間が自分に幾多もの分岐点を与え、
当時の自分からは遥か遠くの場所に立たせているからである。

毎日の日常の中で感じる様々な悩み、喜び、悲しみ。
そんな心の揺らぎも小さな小さな分岐を自分の中に作り出し、
止まることの無い時間と同様に、自らの一生の線もくねくねと前へと進む。

自分ですら気がつかないような繊細な分岐の繰り返しによって、
明らかに物事の選択に変化が起きるが、それらの原因となる分岐については、
複雑に絡みあった体験と心情によってもたらされるものであり、
それを家族といえども他の人が100%理解することはどう考えても無理である。

しかし少なくともその変化は体験した出来事やその時々の反応を共有することによって、
少なくとも分岐後の軌跡を目撃し、理解することは出来る。
だからこそ、幼少期から家を出るまでの時間を共有した兄弟よりも、
結婚を経てその後の時間を共有する夫婦のほうが、
ある一点を越えた時点でより心理面での理解が深まるのは当然のことであろう。

移動がより活発化し、情報を選ぶ時代に入った現代においては、
同じ家の中にすんでいても、その日常のなかで過ごす時間の質はまったく異なってしまう。
ましてや、世界中に住まう可能性がある現代においては、
出身地や国籍よりも、どんな日常を過ごしているかがよりその人の人格を形成してしまう。

そんな頼りどころの揺らぎ始めた現代において、
せめて自らは、現在の自分の行動の根拠を少なくとも把握する為に、
自分の過ごしてきた人生の跡に残されたささやかな一本の糸を手繰り寄せるように、
うっすらと見える細い糸を途切れさせること無く、
選択と同時に捨て置いてきた数多の可能性の中の分岐を繰り返す自分の線を見つけていく。
その為に、日常の中で、その時の自分が何を見て、何を感じ、どう取り込んだのか。
その小さな小さな時間を身体と脳の外に置いておくことが、
山の中で道に迷わぬように、分岐点に置かれた印の様なものになる。
それがライフログ。

茂木健一郎がいうような些細なクオリアが自らの脳内でどう発生したのか。
どんな場面で見た、どんな空間が、自分の中にどんな影を落としたのか。

「軽さ」

という言葉を聞いたときに自らの脳内でどんな体験や本、空間や建築が思いおこされるのか。
その根拠となる体験と心の動きをアーカイブとして残していくこと。
自らの脳内シナプスが、どんな風に結合してより複雑性を増していったのか、
その結果見えるようになった新しい風景がどんなものだったのか、
それを少しでも自らに明らかにする為に記するのがこのブログ。

しかしどんなに頑張っても、複雑な脳内現象を言語という非常に限られたメディアを使用して100%書き留められるはずも無く、また時間のスケールを異にする脳内現象をタイピングとしてデジタル化する時間の不整合の問題も横たわる。同時に誰でもアクセスできる場所に日常の過ごし方が晒されることもまた様々な問題を引き起こす。

そんな訳で暫く今後のデジタルライフの行く末と、日々体内の蓄積する様々な体験と感情との付き合い方に思いを馳せていたが、やはり従来的なアナログ方式で、一つ一つ経験と向き合い、時間を費やし、手を使って言葉へと変換することに変わる良案が見つからず、再度こうしてブログを綴ることにする。

2014年2月17日月曜日

「アウトレイジ」北野武 2010 ★★

先日こんな報道が流れた。

「ガーナ大使「公邸」で闇カジノ」

それで思い出すのがこの映画。ビートたけし演じるヤクザ・大友が率いる山王会大友組。その組員が外交官の外交特権、つまり治外法権で外交官は国内法では検挙できないことを利用し、彼らに契約させた物件の中で違法な闇カジノを運営するというもの。

恐らくその話の元となったのは、もっと以前に摘発されたコートジボワール大使館員の契約した物件の事件だと思われるが、しかし本当にその様な事がまだ横行しているとは、恐らく事件の裏で同じように暗躍していたヤクザが法の網を掻い潜りなんとか人の欲望を刺激しそれを金に買える手段を何ともよく考えるものだと感心せずにいられない。




たけし映画の代名詞となっているその暴力表現。

「まいっちゃったよ。お前のせいで俺が指詰めなきゃいけないんだよ。」

という飄々とした雰囲気から一気に圧倒的な痛みを伴う暴力へと変化する。通常なら暴力を与える方がその「痛み」を理解しながら、同じ人間としてその「痛み」に嫌悪感を感じながらも暴力を振るい続けるという場合がほとんどだが、それをまるで人が血を吸う蚊を払い落とすように、何の感情も、何の痛みも感じてないかのように「暴力」を行使する。そのギャップの冷たさ。

たんたんと業務をこなす様に、冷淡に人を痛め続ける。一般社会での、「人を殺したら法律によって裁かれ刑務所に入れられる。同時に社会的信用も失い人生を棒に振る」という倫理的なブレーキは一切利かず、まったく常識の異なった世界に住む人間の姿にゾットする。

そのパラレルワールドの手法が新鮮であったのは良く分かるが、これほど繰り返し使われてもまだ、欧米の映画祭などで評価を受け続けているのは何の理由なのかと思わずにいられない。

このようなパラレルワールドの住民が、同じ社会を舞台として生きている事。ほんのギリギリの境界を持ったすぐ隣には、まったく常識の通用しないあちらの世界がパックリと口を開けて待っている。夜の繁華街はその世界が同化してしまうその恐ろしさ。

そしてその世界では権力を得る為には、親も子も関係ない、兄弟の絆も関係なく、ただひたすらに騙し、利用し、賢く強いものだけが最後に生き残り、そしてその力もまた新しい力によって奪われる、終わり無き権力闘争。どんなに勝ちを続けようと、勝ったまま終わることは無理な設定。それでも誰もが終わりを見ずに一歩先だけを目指して突き進む。

巨大なピラミッドを形成する組織の頂点に立つ人間は、古代の王族のような生活を送る。それぞれの階層で誰もが「少しでも楽をして、少しでも多くの金を稼ぐ」と願い、自分より上の階層に諂い、下の階層をこき使う。そしてその最下層に属すると、更にその下に一般社会のはぐれ者まで手を伸ばし、薬物や風俗などモラルを破壊してでも自分と組織の利益を求める構図となる。

組長の集まりの様子などを見ていると、一体この世界では全体としてどれだけの経済規模を持っているのだろうかと想像を膨らませずにいられない。

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スタッフ
監督・脚本・編集 北野武
プロデューサー 森昌行
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キャスト
ビートたけし 山王会大友組組長 大友
椎名桔平 山王会大友組若頭 水野
加瀬亮 山王会大友組組員 石原
三浦友和 山王会本家若頭 加藤
國村隼 山王会池元組組長 池元
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作品データ
製作年 2010年
製作国 日本
配給 ワーナー・ブラザース映画、オフィス北野
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2014年1月24日金曜日

「斜陽」 太宰治 1947 ★★★


漱石にしても太宰にしても、描くことはその時代時代に目新しい事象ではなく、人間の持つ本質的な感情を描き出すから、何十年経っても決して古びることなく読めるのだと感心する。

まさに戦後と呼べる1947年に書かれた、没落にせよ貴族が残っていた時代の物語。

異なる時代の太宰自身が投影されたという4人の登場人物の設定ということだが、何と言っても冒頭から不思議な雰囲気を醸し出す母のなんとも上品なしぐさに、全てが大衆化に向かう現代には無いものを感じざるを得られない。

貴族という、ある種の下部構造に支えられる階層が社会の中にあることで、それぞれの役割分担が深層心理の中で共有されていた時代。生活の保障の上に成り立つ文化への深い造詣など、生きる事を心配しなくて良い身分ならではの日常だが、社会が変化し、その基盤も変化する変動期において、人々がどうリアクションし、市井の大衆であればあるほど、軽やかにその変化に対応していくのに対して、高貴な人々はそれぞれが新たなる道を見つけられずに没落していく。

まさに一日の終わりに訪れる斜陽の様に。

そして現代の日本に訪れているのも、社会の根本を変えないといけないほどの変化の波。それが外からも内からも沸き起こっているのに対し、大衆は敏感に変化へと向かいつつあるにも関わらず、現代の貴族達はやはり変化を拒み、今を継続しようと躍起になる日々。

そこに訪れるのは同じような斜陽なのか、それとも終わる事の無い夕闇なのかは誰にも分からない。

2013年11月22日金曜日

つがい


「愛」に関するダンスを見たからではないだろうが、街を歩いていると行きかう人の中でやはり一番目に付くのはカップルの姿。冬が本格的に始まるとその印象は更に強くなるばかりである。

二人が結婚して夫婦だとしても、彼女彼氏という恋人の関係でも、やはり目に止まる中で一番多いパターンが男女二人という姿である。

この「つがい」という特徴は動物界では見られなく、哺乳類の一部だけに見られる現象だと昔何かの本で読んだことを思い出す。それはつまりは、人類だけに許された理性の成せる業だということだ。

ある一人の異性に対して好意を持ち、互いに同じ感情を共有し、ずっと一緒に寄り添っていく。天皇陛下の火葬が発表されたばかりであるが、長きに渡って寄り添われてきた皇后陛下が共に埋葬されるのは恐れ多いと発言されたばかりだが、現世から離れた後も現世で契った「つがい」の気持ちは続いていく。

それが宗教による刷り込みなのか、社会を安定される為に人類の歴史の中で必要として発明された制度なのかは緒論あるだろうが、それでもやはり人間特有の理性が在るゆえのシステムだといえる事は間違いない。

その他のどんな動物でも、DNAの中で最上位にプログラムされているのは種の保存。人間の「つがい」の様な一異性に対する感情を持ち続けないようにインプットされ、刹那的に生きる事が、種としての子孫繁栄に繋がっていく。

人類が理性を手にしたと同時に失った発情期というプログラムが発動した時に、近くにいる集団の中の異性と結ばれ、そこで次世代をつくっていくことが、種の保存のためには都合がいいのは間違いない。

そうして考えると、動物とは違う人類としての特権を一番の形で発現しているのがこの「つがい」の風景。それは人類が理性の生物であるという証左。動物的に生きる多くの人間ももちろんいるのだろうが、街を埋め尽くす多くのカップルの姿を見ると、それでもなんだか嬉しくなるのはそういうことなのだろうと理解して家路を急ぐ事にする。

2013年10月7日月曜日

「坊っちゃん」 夏目漱石 2003 ★★★

やはり漱石文学の凄いところは、基本的に人間固有の感情、社会的な背景からくる立場や出世、出身などに対する妬みや僻み、派閥や陰口、それらの人間関係を描き、それが人間として、社会的生物として根源的な問題であるからこそ、時代を超えても古びれず、何度も何度も読まれ返し、その度に読まれた時代にあった意味が見えてくるのだろうと想像する。

中心から周縁との格差。東京から地方へと放射状に移動する坊ちゃん。移動した先で出遭う様々な人間とその人間関係。その人間関係に振り回されても決して揺るぐことの無い自信。それは同心円の中心に待っていてくれる、帰る場所としての清がいるからこそ。清こそ自らを坊ちゃんとしてくれる止まり木のような存在。

日本で生まれ育つと、生活するために毎日働かないといけないのにも関わらず、まるでそれが美徳の様に、毎日の労働が自らの精神の向上につながるかのように刷り込まれて育つことになる。

なので、とてもお金持ちで、毎日せこせこ働かない人に出会うと、羨ましいという気持ちをなんとか押さえ込み、逆に変な感情をもってしまうこともあるであろう。それは株や不動産で生計を立て、サラリーマンの様な務め人をしていない人間があまり人格的に尊敬できる人物が少ないというのももちろん大きく影響しているのは止む得ないのだと思うが・・・

しかし、世の中には、毎月の生活費を稼がなければいけないために、一年通して働き続ける人に対して、一年の中で1、2ヶ月だけ働いて、その報酬で十分で一年を暮らせる人間もいることはいる。しかもそれが本当の意味で豊かな育ち方をし、豊かな家庭環境の中で育まれてくると、どうしても金では買えない品の良さを身につけることになる。

そういう人間に出会うと、「この人は本当に坊ちゃんだな・・・」と思わずにいられない。それは決して悪い意味ではなく、捻じ曲がった感情を持たず、まっすぐに人に接し、自分が何を好きかを十分に時間をかけて過ごし、そしてそれに十分な時間を過ごしてきた人だからこそ得られる優雅さに振れると、絶対に叶わないと思わされる。

漱石の坊ちゃんにとっては、その背景になるのは清がいること。自分に自信をつけてくれ、どんな状況になっても帰る場所として、無条件で迎えてくれる、無条件で褒めてくれる人がいる。その人がいつでも受け入れてくれるという安心感。

それがある人にとっては経済力であるだろうし、ある人にとっては家柄かもしれないが、何かその人が自信をもち、安心感を持って生きていけるものがあるのが坊ちゃんの条件なのだと改めて理解する。

2013年9月28日土曜日

「こゝろ」 夏目漱石 1952 ★★★


自分自身の古典を探すためには、人生の中で何度も同じ本を読み返す事が必要だということで、本棚の中から忘却の彼方に置かれている本を探しだし、手に取った一冊。

言わずと知れた「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」の物語。

書生システムがまだ生きていて、学校以外でも自らの「先生」と呼べる人物にである事が可能だった明治末期。

陳腐化する以前の有産階級達がまだ生存していた消費社会の波に呑み込まれる前の日本。その時代には、「生きる」ことに膨大な費用を支払う現代のような汲々とした日常は無く、家族と女中、そして数人の書生を抱える姿は多くの過程で見られた風景であった。

田舎のそこそこの資産家の息子である自分。そして同じく田舎の資産家の息子であった先生。共に学の為に東京にやってきて、学ぶことを目指して日々を過ごす。

書生でありながら夏には涼を求め、房州を巡りながら学習をするなんて、現代から考えたらなんとも贅沢な時間の過ごし方が可能であった時代。高度成長という幻影のお陰で、国全体が豊かになったように見えるが、かつてあった文化的豊かな生活を送る余裕と、それを支える経済力を共に持ち得るのが非常に難しくなった現代は、本当に豊かになったのだろうか?と思わずにいられない。

自分は何を成すべきか?
自分のすべき事に対して自分の日々の過ごし方は十分にストイックであるか?

そんな高貴な思いではなく、もっとドロドロした人間の本質的な感情。自分が叶わないと思っているライバルとどうにかして蹴落としたいが、それを自分が好意を寄せてる相手に知られたくは無い。

千利休が死をもって永遠なる文化の華を咲かせたように、Kもまた死をもって永遠に先生の心の中で生き続ける。明治天皇の崩御に続いた乃木大将の自決。死が選択肢として生きていた時代のまっすぐな自らの表現。

ネットが露にしつつある人間の醜い本性。努力することなしに、誰か近しい人間が自分よりも高みに足をかけようとすると、ものすごい勢いで足をすくおうとする負の力。社会全体が病みだし、生きていくのが簡単ではない現代。

そんな時代にこそ、読み直す価値がある一冊なのかもしれないと読み直しに満足できる一冊。

2013年9月18日水曜日

対極に振れる

この世が作用反作用の法則によって支配されているように、人の感情もやはり寄せては返す振り子の様に、一方に振れた後は必ず対極に振れ返すものだと思う。

自分にとってもここ数年の寺社を始めとする日本の数百年もの古建築などに対する興味もまた、その振れ戻しの作用なのだと思わずにいられない。では、その対極にある日常は何かと考えると、毎日を過ごす中国でのスピード感。

日本では、というよりも、他のどの国でも考えられないほどのスピード感とプロジェクトの巨大さの波の中で揉まれながら生きている。波に呑まれて流されないようにと必死に手を伸ばすように、効率を上げて考えながら、同時に手を動かしてスケッチをする。

建築家として生きてきた時間の仲で、こういう短い時間でこなしていかないといけない設計では、どうしても奥行きのある味わい深い空間はできないだろうと理解しても、今やれることはそこから逃げ出すことではなく、その状況に自分を晒し、慣らし、手なずけること。そしていつか自らコントロールできるように自分が上がっていくことに他ならない。

朝に、「ッフ!」と息を吸い込んで、気がついたら夜になっている。そんな疾走感。

建築家を目指したからには、ゆっくりといろんな本を読みながら、じっくりと様々なことを考慮しながらスケッチをし、いろんな角度から検討して設計を深めていく。そんな世間よりゆっくり流れる時間を持ちながら設計に取り組む。そんなことを夢見るものであるが、今の状況ではそれは望めないこともまた理解する。

だからこその振れ戻し。自分の中でのバランスをとるために、どれだけ振れ戻さなければいけないか?それは頭よりも身体が知っている。その求めるままに人の人生なんてなんて短いスパンだと思えるような悠久の時間が流れる空間に身を置きに行く。

悩み苦しむ自らの一日なんて、まさにハッと息を呑む一瞬だと理解するために。

出来る限りの対極に振れ戻せば戻すほど、日常を生きる力になるのだろうと思いながら、多くの聖域に流れる空気を自分の身体に吸収して帰ってきた日常の時間の中で、以前よりも更に遠くまで触れることができるようになった自分を感じながら今を生きる。

2013年8月3日土曜日

「月と蟹」 道尾秀介 2010 ★★★★★


誰にでもあった少年時代。世界が今よりもよっぽど大きく、そして毎日は冒険に満ち溢れていたあの頃。

たわいの無いことが友達の間のとても大切な守りごとになり、仲間内だけでしか分からない遊びが流行ったりする。

決して裕福とはいえないシングルマザー家庭で、祖父と同居する主人公の慎一。
彼と唯一仲のよいクラスメイトである春也は父親からの暴力を受けている。

そんな二人のどうしようもない日常を特別なものに変えてくれるのが、浜辺で捕まえたヤドカリを裏山の上まで持って行き、ライターで炙っては殻から出して、粘土の台座においては焼き殺しながら願い事をするという儀式。

鶴岡八幡宮で行われる鎌倉まつり 。
日本で最初の禅寺である建長寺。
その裏山にある唸る十王岩。

海があり、裏山があり、ハレの場としての境内がある。
規模は違えど、日本の原風景に違いない。

しかし今では、それらが残っている地方は幸せな地方だとよく分かる。海も消え、川も消え、山も消え、現れたのはイオンモール・・・

ある日見かけた風景。誰か知らない男の人の車の助手席に乗り込む母親の姿。それ以来母が自分の知っている母ではなくなってしまったような思いを抱えて生きる慎一。

家庭のこと。少し仲良くしている女のクラスメイトのこと。子供にとっては精神状態を揺るがすようなそんなことをなじる手紙が教室の机の中に入れられる。

そんな日常の中、唯一心から楽しく思えるのは春也と過ごす時間。

「互いに本当は知っていながら、黙っている何かが、もっともっと欲しかった。」


「何にでもきっと理由ってのがあんだ、世の中のこと全部にな、ちゃんと理由がある。結局は自分に返ってくるんだ。」という祖父の言葉。

「叱られたとき、もうそれ以上叱られないようために口にする謝罪と何も変わらなかったからだ。どうしてこんな言葉しか返せないのか、慎一はつくづく自分が厭になった。」

「その夜慎一は、血の色をした蟹がハサミを無造作に持ち上げて、何か薄い、大事そうな膜を乱暴に突き破る夢を見た」


身体と同じく、感情も未熟であるからこそ、とても直接的に外部の世界に晒されることになる子供の精神世界。その過程で自らどう防御をするのか見につけていくのだが、家族のまなざしがなければ、時にそれはあまりに残酷な仕打ちとなって押し寄せる。


「見えない手で頬の筋肉を掴まれているように、顔から笑いを消すことが出来なかった。」

「何かがじりじりと自分を包囲していくのを、慎一は感じていた」

「感情に苔が何重にもまとわりついたようなぼんやりとした間隔」

「春也は口にいれてしまった不味いものをなかなか飲み込めないというように、咽喉のあたりに力を入れて唇を結び、じっと凹みを見下ろしている」

「諭すような口調で言ってやった。そのほうが、いっそう相手を傷つけることができる。いっそう恥ずかしい思いをさせられる。慎一は相手の心臓をのこぎりで挽こうとしているような、残酷な興奮を感じていた。」

「苔に覆われた感情の中心で、何かが声を上げていた」


どうやったらここまで細かく、そして繊細に子供時代の感情を描けるのだろうかと思わずにいられないくらいの表現たち。子供だからこそ、あまりにダイレクトに、あまりに隠すのが下手なこの時代の世界との接し方。だからこそその凶暴さはむき出しにされる。

そしてそのことは、子供だけでなく大人も同じように、社会性というベールに隠されて入るが、その薄膜一枚下では、子供時代となんら変わることの無い、ドロドロしそして恐ろしいまでに残酷な感情を抱えながら毎日を過ごしていること。

相手が何を考えているかは、本当に意味では知ることは出来ない。それが気になるからこそ「ちらり」と視線を投げてしまう。

そんなことを思いながら、何を考えているんだろうと椅子に足を乗せながらパソコンの画面を見つめている妻の横顔を「ちらり」と眺めることにする。


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第144回(平成22年度下半期) 直木賞受賞
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2013年7月20日土曜日

行き道と帰り道での違い

朝早くからろくに食事も摂らずに、汗だくになりながら部活や修行の様にあちこちを小走りで駆け巡る。それが何日も続くと疲労も蓄積し、「一体なんでこんなことをやっているのだろう」と考えない訳でもない。

しかし行き道の自分と帰り道の自分では必ず何かが違うのだろうと思い直しまた足を進めることになる。その違いとはなんだろうか。

行き道では、ある程度の情報を元に想像を膨らませる。どんなに広いか、どんな感じを受けるか。

一生に一度しか与えられないチャンス。その場を初めて訪れる時に受ける感情。

帰り道では少なくとも、どんな場所で、どれくらいの広さで、何があり、何が見えるのか、そういうことを既に知っている。そして何よりも重要なのは、そこに始めて足を踏み入れた時に自分が何を感じたのかを知っている。その感情はどうしようとも偽れない。

その地域のほかのどんな場所よりも、多くの人間が集い、時間を過ごしてきた特別な場所。地域を護り、地域から護られてきた日本の根本の場所たち。そこに身をおくことで、
何か分からないが、確かに自分の中で何かの変化があるはずだと信じてまた一つ帰り道を増やしていく。

2013年4月30日火曜日

「ほしのこえ」新海誠 2002 ★


新海誠のデビュー作らしい。

森川嘉一郎の「趣都の誕生―萌える都市アキハバラ」で書かれるように、パソコンの普及によって出現したアマチュア・スターの第一人者という位置づけのようである。勉強不足でまったく知らなかったが、同人誌業界では相当な人物のようだと、2000年以降のアニメ動向を追ってみて分かってきた。

そんな作者が監督・製作・脚本すべてをこなし、今まで溜め込んでその世界観を思う存分ぶつけたのがこの作品というところらしい。音楽もその後の作者の作品を引き続きチームを組む天門が担当し、その後の作品が納得というような世界観を作り出す。

それにしても建築批評の世界も、映画を引用する巨匠達から、小津の低い焦点に現れる風景の切り方などと映画関係者ばりの映像知識を必要する時代から、団塊ジュニア世代を育て上げたジブリ作品の世界観を考察する時代を経て、エヴァを経てたどり着くこのような作品に視られる現代の社会性などということまで重箱の隅を突かなくてはいけないのかと思うと、その苦労を想像しながらも、オタクの世界に現れるある種の無意識の現代性などと、インテリの役割として追っかけ続けるのも大変だと思うが、「こういう作品に時代的意味を見出さなくてはいけない」というある種の強迫観念も行きすぎなのではと思わずにいられない。

ガンダムをテレビの再放送で見て幼少期を過ごし、ジブリ作品とともに少年期を過ごし、エヴァを見ながら青春期を過ごしたであろう世代の作者が、妄想を膨らませて作り上げた世界観。どれだけ科学が発達していようが、お構い無しに踏み切りで電車を待つ田舎の風景。その奇異な共存が意外性を伴う不思議な世界観を作り出すというところだろうか。

何万光年も先の宇宙でガンダム張りの戦闘を繰り広げる一方で、コンビにの前でアイスを食べる中学生。

その後の作品でも何度も何度も繰り返されるようなシーン。開くまでも子供の部類に入る中学生の男女の主人公たちが、引かれながら引き離され、それでも過剰なほどに感情を起伏させるような音楽にそって自らの苦悩を言葉にしていく。

「アガルタ」や「タルシアン」といった、「いかにも」的な名称を考えるのが楽しくてしょうがなかった時代。男の子なら一度ははまる冒険やファンタジーがごっちゃになって頭の中で膨らむ妄想の世界。そこに好きな女の子との純愛が絡み、「あぁ!」とか「いけっ!」という感情を表すいかにも「アニメ的」な単純な言葉。

技術の進歩を表すためのそれらしき難しい言葉たちと、地球防衛軍に小さな少女が戦力として参加するという宇宙モノの王道の世界観。良くも悪くも一人の人間がすべてをやりきり、その人間の妄想がすべて形にされた作品。

それにしても、人をとことん感傷的にさせるような台詞と音楽と世界観。「時間や距離を越え、ただ君がいるからこの世界は存在するんだ」的にとにかく感傷的な登場人物達。

このようなアニメを見て思春期を過ごすと、それはそれは影響され、その性格も相当に感傷的になっていくのだろうと想像せずにいられない。そうして形成された過剰に感傷的な性格で、この獰猛な現代社会で生きていくのはかなり厳しいだろうと思わずにいられない。

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スタッフ
監督 新海誠
製作 新海誠
脚本 新海誠
音楽 天門

キャスト
篠原美香
新海誠
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作品データ
製作年 2002年
製作国 日本
配給 MANGAZOO.COM
上映時間 25分
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2013年4月4日木曜日

「ツナグ」 辻村深月 2012 ★★★★


読み終えて妻に聞く。

「もし、生きているうちに一度だけ死者に会えるとしたら、誰に会う?」

よくよく考えてみても、なるほどよくできた設定だ。「一度だけ」だと分かっているから、「この人にその機会をつかってしまって大丈夫だろうか?」なんて悩むことが無意識の中で想像されて、その葛藤を踏まえての決断をしてきた登場人物達の話だということが前提になる。さすがは2012年の直木賞作家というところか。

その絶妙な設定もさることながら、誰にでもある些細な、しかし絶妙な心情の描写が素晴らしい。

高校生の小さな嫉妬 。若いからこそのプライドと、その為に陥る自己嫌悪。絶対に誰にも言えない様な自分の「嫌な感情達」。それを小説というメディアを通して、非常に正直に描かれている。

ドラマチックなこともない、どこにでもいそうな、なんてことはない人達。その人たちをなんて活き活きと描くのだろうか。

「死んだらどうなるのか?」

という誰もの考える問題から一歩進んで、

「死者は誰の為にあるのか?」

という設問に昇華させる。


「人間ってのは、身近なものの死しか感じることも悲しむこともできないんだよ。」

「今、思い出した。目を閉じると、懐かしい匂いがした。音も匂いも、それが身近にあるときには一度だって意識したことが無いのに、間を空けて戻ってくると、こんなにも一気に記憶が巻き戻されていくものなのか。」

「御園のためじゃない。自分が楽になりたいだけだ、と気づいてしまう。」

「病気を変化と捉え期待してさっきまでの自分を思い出し、恥ずかしくなる。」

「会ったことで忘れられてもかまわないから、それでも会いたい。」

死者という「あっち側」の人に触れるということは、自分の中にこっそりと仕舞いこんでいた感情の蓋を開けることのメタファーに違いない。その時に発せられる言葉に見える、その人たちの生きてきた時間。


「記憶を攫むみたい。曖昧なところから連れ出してくるんだなって言う印象。あの世から呼び出すっていうよりも、この世に残っているその人の欠片や記憶をいろんな場所からかき集めて、どうにか一人分の形にするように、見えた。」


死者と使者。同じ読みだがその意味はまったく変わってしまう。しかし両者とも生者を「ツナグ」存在であるのは変わらない。とてもよい一冊である。

2012年4月8日日曜日

剥き出しの喜怒哀楽


昨日、妻のドライヤーを買うために訪れた北京市内の家電量販店:苏宁电器 sūníng diàn qì


ネットでの評判は上々だったので、恐らくヤマダ電機的なポジショニングかと想像をしながら、わざわざ2キロほど歩いて行ったは良いが、ナノイーとイオンの違いなど説明できるわけもなく、展示しているくせに在庫がないからとPhilipsのごついドライヤーではどうか?と言い出す始末。

だからナノイーじゃないと駄目なの。といっても結局理解される訳は無く、誰か英語わかる人をお願いしますと登場した女性も笑顔で一体いつ入荷するかは我々は分からないと・・・

じゃあどこで見つけられるんだ!他の支店は?他の店舗は?と聞いても埒が明かない。もどかしい言葉の壁に怒りと悲しみが沸騰する。

そうかと思えば、道中に見つけた自転車屋で、マンションの大家さんが使っていいと置いてあった自転車では、二人乗りをするには後ろで妻が腰掛ける形になる荷物台がついているのだが、それだと腰が痛くなり、段差もお尻が痛いと言うので、子供のころ禁止された二人乗りの立ち乗り様のバーが無いものか聞きにいく。

子供用のやつだろ?と言って取り出してくれたのは、バーよりも安定感抜群おペダルの様な踏み台。これはいいと、妻と揃って有頂天に。ついでに夜間運転も危険なので、前と後ろに証明を設置してもらうことにし、盗難防止に両方とも取り外しが可能なものにしてもらう。ついでについでにと、ブレーキの調整、タイヤの空気補充、チェーンの油差しなど全部見てもらう。やはり三丁目の世界だね、となんだか納得。

早速立ち乗りで妻を後ろに乗せて、上空の枝に気をつけてとスピードを上げるとなんだか高校生に戻ったような気分に浸れ、楽しい日曜の昼下がりを満喫する。


言葉が不自由だと、できることが限られて身体も精神も数十パーセント縮小する様なもの。つまり世界が小さかった子供の頃に戻った様な感じで、あの頃同様に感情もまた境界が明確となる。

そんな剥き出しの感情と付き合いながら、飽和の世界とは違う、足りないからこその幸せを楽しみながら生きていくことが重要なのだろう。

2010年5月26日水曜日

「生きることの意味―ある少年のおいたち」 高史明 ちくま文庫 1986 ★★★★






















ある日、長屋の家に帰ると、居間の真ん中にウンコがしてある。

帰ってきた兄と父に言うと、「きっと、泥棒が入ったんだ」という。なぜ、ウンコが泥棒につながるか。それは、昔の朝鮮の諺に、「泥棒がウンコを残すと、その泥棒は決して捕まらない」というのがあるという。

こんな盗むものもない貧しい部落の家に盗みに入って、捕まるのが恐ろしいという思いから、狭い家のなかで戸口に向かって必死にウンコをしている泥棒の姿を想像し、親子3人、笑いが止まらなくなる。

「流れる星は生きている」に描かれた敗戦後の朝鮮に生き、祖国を目指す日本人。
これは敗戦の日本に生きるまなざしを祖国に向けながらも、日本に生き続ける在日朝鮮人の家族の物語。

1910年の日韓併合に伴い、急増した朝鮮からの移民。土地調査事業によって、持ち主不明の土地として、それまで慣習に沿って土地を所有していた人が持ち土地なしの流民として日本に労働力として移住させられ、さらに文化の象徴でもある、言葉を強制的に奪われた35年間の間に、移民一世の子として、父と兄のまなざしに見守られながら、「人はなぜ生きるのか?」の問いに答えをだそうと、そして、「どうしたら日本人と朝鮮人が仲良く暮らせるか?」を子供なりにひたむきに考え、悩み、苦しむ日々。

片言の日本語しか話せなく、酒飲みでばくち打ちの移民一世の父のまなざし。

勉強が好きだけど、父の反対のために進学をあきらめる兄のまなざし。

移民二世として、朝鮮人としての自我と争い続ける自分のまなざし。

困難に立ち向かう勇気を教えようとしてくれた阪井先生のまなざし。

敗戦によって依るべくものを失い、どうした態度をとっていいのか迷う先生達のまなざし。

様々なまなざしに囲まれながら、死によって終わる苦しみではなく、立ち向かうことで見えてくる生きることの喜びを、自分なりにどう見つけていけるか。

子供時代の気持ちを、その時の言葉で書いていて、毎日揺れ動く感情がストレートにあらわされているだけに、ぜひ子どもに読んでほしい一冊。