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2014年2月7日金曜日

馬籠宿(まごめじゅく) ★★



古代ローマの発展を支えたのは帝国内に張り巡らされた舗装された道路網。整備された道は馬車での移動を高速化する。統治する各地方で取れる産物や優秀な人材を、その道路網によって拘束で中心ローマまで輸送し、そこで価値の再分配を行い別の土地に届ける。道路を整備する膨大な費用を負担できれば、それは同時に帝国の更なる発展を意味してくれる。

その事を十分に理解していたのが戦国の世を制した徳川家康。関が原の合戦に勝利した翌年、新たなる価値の中心である江戸を中心とし、全国を結びつける5本に陸上交通路を整備する国家事業を開始する。それが五街道(ごかいどう)。

東海道:1624年完成。
日光街道(日光道中):1636年頃完成。
奥州街道(奥州道中):1646年完成。
中山道:1694年完成。 
甲州街道(甲州道中):1772年完成。

整備するとは具体的にどういうことかというと、一里(約3.9キロ)ごとに一里塚(いちりづか)とよばれる旅行者の目印として設置した塚(土盛り)を用意し、距離を正確に把握させる。また一定間隔ごとに宿場を用意し、街道沿いに新たなる宿場町というリニアな都市を作り出した。

その中で4番目に完成されたのが今回の主役である中山道(なかせんどう)。江戸の日本橋から草津宿まで本州中部の内陸側を経由する路線である。木曽山脈を抜けていく為に、「木曾街道」や「木曽路」とも呼ばれる。通過する土地は険しい山の中の道であり、現在の都道府県に当てはめると東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県にあたる。

その中山道の中でも高い人気を誇るのが、43番目の宿場であり、木曽を通る宿場を総じて呼ぶ木曽11宿の一番南の宿場町である馬籠宿(まごめじゅく)。越県合併により岐阜県中津川市に編入され、石畳の敷かれた坂に沿う宿場で、馬籠峠を越えた信州側の妻籠宿(つまごじゅく)(長野県木曽郡)とともに良く知られている中山道の宿場町である。

その妻籠宿(つまごじゅく)は一つ手前ということで、中山道42番目の宿場となり、経済成長に伴い全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだことが評価され、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれた町でもある。

そんな馬籠、妻籠の間は程よい距離で道も整備されており、中山道ハイキングと呼ばれ全長9Kmの徒歩2.5時間~3時間の距離なので、ゆっくり周囲の美しい木曽山脈の風景を楽しんであるける距離である。

そんな訳で、かつての日本の風景を楽しもうと立ち寄ることにしたこの馬籠。できることなら宿場町ということで、「一度は泊まりたい宿」にあげられている幾つかの昔ながらの宿を見て回りたいところだが、流石にそれは同行者の手前時間が許されず、道中よってきた中津川の有名和菓子屋で教えてもらった蕎麦屋さんに向かうことにする。

細く伸びた宿場町は上と下で随分高低差を持っており、まずは教えてもらった蕎麦屋があるという上に向かうことにする。その宿場町の規模を見ると、かつては相当に栄えていたのが伺える。残念ながら蕎麦屋を訪ねるが休みのようであり、どうも平日はほとんど観光客が来ないので飲食店のほとんどが閉まっているようである。

観光客が訪れる時期にに一気に稼ぐということか、地元に人に聞いて見に行ったお店も閉まっていて、しょうがないので下の入口に戻り整備された観光センターのようなところで、台湾からの観光客と一緒になって食事をすることに。

「次の宿場が妻籠なんで、折角だからそこまで行きたい・・・」といえる雰囲気ではなく、早く宿に行こうという妻からのプレッシャーの為、しょうがないので美味しい蕎麦と堪能し、車を走らせ中津川に戻り、そこから下呂方面へと向かうことにする。






2013年12月23日月曜日

「日本人へ 国家と歴史篇」 塩野七生 2010 ★

人生を生きる上で、価値判断の基準となる物差しを持つことは素晴らしい事である。物差しは英語で「スケール」というが、その価値の物差しのスケールもまた長ければ長いほうが良いと思う。

自身が学生の頃に教えていただき、その後教える立場として一緒に学生を受け持たせていただいた恩師の建築家はとにかく古代ローマを専門としており、何かものを考える時のスケールが常に古代ローマ基準。良い建築を選ぶ時も1000年単位で選んでくる。

何かの良し悪しを判断するときにも、「こういう時古代ローマの建築家ならこういう処理をするのではないかな」と言われてしまうと、もう敵わないと思ってしまう。

長い歴史を経て現代でもなお生き続ける古代ローマの建築達。建築や都市という更新される分野の中で基礎となる価値を創り出した時代でもある。そして古代ローマから1000年以上を経った今、物事を思考する時間の起点をローマに持ってくる。

短いスケールでモノを見れば見るほど、あっちこっちに気持ちがブレる。しかし、1000年単位でもモノを考えれば、その間に何が消え、何が残るかが良く見えてくる。そして残るもの。モノの原理原則が何かを見据え、判断し設計する心構え。その姿にはいつも感銘を受けていた。

その建築家と同じ物差しをもって現代を生きる人がこの著者だと思っていた。現代社会にとっては何とも長い年月をかけてローマの物語を書き続けるその姿はやはりブレない姿勢を見て取れる。

そんな著者の新書でかなり売れ行きも良かったと聞いているのでブックオフで手にとって、暫く本棚に放ってあったら、珍しく妻が手を伸ばして読み出したようである。なんでも、「考え方が共感できて今年の一番かもしれない」と絶賛のご様子。

「そうか、そうか。やはり時間の物差しの長い人の見るものはそれなりに時間を遅くしてくれるのだろう」と、相対性理論のようなものの見方など期待してページを開いてみる事に。


1章あたりはところどころに引用されるローマの英雄。ローマ人の物語にものの見方のスケールの大きさを感じながら線を引きながら読み進めるが、徐々に期待していたようなものとのギャップに疑問符を持ちながら進めるので、徐々にページをめくるのが遅くなる。

妻に「何が面白かった?」と聞いても、「ものの見方」と返ってくるが、どうもその視線は古代ローマという悠久の歴史を背景に支えられているというよりも、長いこと日本を離れて海外に住んでいる品の良いおばちゃんのものの様に見えてきて、あれやこれやと外から見た日本へのダメだしばかりに見えてきてしまう。

その度に、「違う違う。これは古代ローマを旅した一人の淑女の思慮深い言葉に違いないんだ」と自分を励ましページをめくる。そんなことをしているので、新書にも関わらず3週間ほど時間をかけてなんとか終えた一冊である。

人には人の受け取り方があり、男女にもまたその差があるのだと思うが、自分にはどうもこれくらいの内容なら、本として出版するよりもブログなどで社会派を気取って発言している多くの人と変わりないと思うのにと思えてしまってしょうがない。

エッセイ集という芯の無い本であるからその印象はなおさらなのだろうが、それでもこういう本が結構売れると言うのは一定の読者がついており、期待して本を手にする層がいるということで、それは間違いなく筆者の今までのブレない執筆活動の賜物なのだと思いながらページを閉じる事にする。

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目次
Ⅰ    
/後継人事について
/葡萄酒三昧
/「ローマ人の物語」を書き終えて
/女には冷たいという非難に答えて
/世界史が未履修と知って
/遺跡と語る
/「硫黄島からの手紙」を観て
/戦争の本質
/靖國に行ってきました
/読者に助けられて
/夏の夜のおしゃべり
/安倍首相擁護論
/美神のいる場所
/歴史ことはじめ    葡萄酒篇
/歴史ことはじめ    チーズ篇
 
Ⅱ  
/滞日三題噺   
/ブランド品には御注意を
/バカになることの大切さ
/ローマで成瀬を観る
/夢の内閣・ローマ篇
/夢の内閣・ローマ篇(続)  
/漢字の美しさ 
/福田首相のローマの一日
/サミット・雑感
/オリンピック・雑感  
/“劣性”遺伝 
/開国もクールに!
/雑種の時代 

/一人ぽっちの日本
/海賊について
/拝啓 小沢一郎様
/イタリアが元気な理由   
/地震国・日本ができること
/昔・海賊、今・難民
/現代の「アポリア」
/ソフト・パワーについて
/八月十五日に考えたこと
/円の盛衰
/戦略なくしてチェンジなし
/価格破壊に追従しない理由
/「仕分け」されちゃった私
/仕分けで鍛える説得力   
/「密約」に想う

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2010年4月12日月曜日

古代ローマの建築家たち

建物と共に建築家の名前が示されるようになったルネサンス時期が、建築家の職能が確立された起源だと言われるが、もちろんそれ以前にも「黒のトイフェル」にも登場するような、想像力と技能を持った建設現場を指揮する建築家が古代ローマにもいたはずだという想いと共に、長年に渡って古代ローマの建築物の研究をし、綿密なリサーチの元に、どの建築家がどの建物を手がけ、どのような設計手法をとっているか、その積年の成果をまとめ、「古代ローマの建築家たち」(丸善)に纏められた、尊敬する建築家の一人・板屋リョク先生。非常勤講師をさせていただいる早稲田芸術学校で、一緒に授業を持たせていただいて既に3年になるが、今年も一回目の授業ということで、本にも書かれた「パレストリーナ」の話を聞かせて頂いた。

パレストリーナはイタリア・ローマ郊外の都市で、大戦時の連合軍による数ヶ月に及ぶ空爆によって、表層部に建てられていた当時の街が全て取り除かれたその下に、歴史家も分からない大規模な遺跡が発見された。それを調べると、キリスト教がヨーロッパに広まる前に信仰されていた、水を崇拝する宗教の神殿だったことが分かったという。

街のスライドと共に、全体を構成する力線を説明されて、丘の上からの風景を「この場所からの風景を眺めた人の心の中に湧き上がる感情は、今も2000年前も恐らくそんなには変わらないと僕は思うんです。」と言われる板屋先生の言葉を聞きながら、また新しい季節がやってきたんだと、そしてもっと建築を学びたいという想いに駆られる。

板屋先生のローマの2000年と同じように、自分にとっては中国2000年の歴史を自分の眼差しを通して語れるようになるのが、恐らく自分自身の建築家としてのライフワークになるんだろうと改めて思わずにはいられない。