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2014年4月9日水曜日

テキスタイル学校の寮 イヴァン・ニコラーエフ 1931 ★★


シューホフ・タワーから南に少し行ったところに建つのがロシア構成主義の記念碑であるイヴァン・ニコラーエフ(Ivan Nikolaev)設計のテキスタイル学校の寮(Communal House of the Textile Institute)。

その名の通り1931年にテキスタイルを学ぶ学生が住まう寮として設計されたこの建築。またの名を、ニコラーエフ・ハウス(Nikolaev's House)と呼ばれるように、新しい世界の新しい建築のあり方を探求したニコラーエフの考え方が色濃く反映されている建物である。

こちらもオフィスで進めている「Social House」の研究の一環で、詳しくロシア人スタッフから説明を受け改めてその意味を深く理解するのだが、元は2000名の学生の寮として計画され1996年まで使用されており、その後は保存運動も進んではいるがやはり人の手が入らなくなりかなり朽ちてしまっている感を受ける。

28歳の若きニコラーエフにとっては初となる個人での設計作品。やはり若い社会で、若い才能にいろいろな挑戦を許容できる時代というのは、その結果として新たなる価値を生み出すものだと実感する。

この建築のもっとも強いコンセプトは「学生は軍並みの規律を持った生活を送るべきだ」というニコラーエフの考えを反映し、ほとんど睡眠のためだけの住スペースと、シャワーやロッカー、カフェなどの公共スペースとが明確に分離されており、違う棟として配置されている点である。

その構成から必然的に全体はH型の建物となり、8階建てで200Mの長さを持つ住スペースに3階建ての公共スペース棟がくっつく形となる。

学生の所有物は最小に限られるために、教科書や日々の着替えも公共スペース内のロッカーに置かれ、住スペースは非常に小さな睡眠用のスペースとなっている。この住スペースを横ビル細長い窓はその後のコルビュジェが定義する近代建築五原則の一つである「リボン・ウインドウ」へとつながって行く。つまりは構造と表層が分離することによって可能になったこの細長い窓。建物が地面から持ち上げられているピロティもまたコルビュジェによって近代のテーゼへと昇華させられてゆく。

そしてこの建物の先駆的なところは、物流用ではあるがエレベーターが設置されていたこと。学生は住スペースに二つ、公共スペースに一つ設置されていた階段にて各スペースにアクセスする。

刑務所ばりに起床を知らせるベルで起きた学生は公共の運動スペースに移っていき、その間に住スペースは夕方まで鍵をかけられていたというから、かなり徹底した管理体制だったのが見て取れる。

そうでなければ、これほど冷たい表情の建築は出来上がらないだろうと思えるほど、徹底した思想が背後に潜む建築の構成。今も続く改修工事の様子をフェンスの外から眺めながら、100年弱でどれほど社会が変わったかを実感しながら、次の100年に思いを馳せて次なる目的地へと足を向ける。














2014年4月8日火曜日

ルサコフ労働者クラブ Rusakov's workers club コンスタンチン・メルニコフ 1928 ★★★


レニングラードホテルやロシア連邦運輸機関建設省が立ち並ぶモスクワの東の玄関口から更に東に地下鉄に乗り数駅進んだ先にあるのが、ロシア構成主義の建築としてすぐにイメージされるこのルサコフ労働者クラブ(Rusakov's workers club)。

設計はロシア構成主義を引っ張ったコンスタンチン・メルニコフ(Konstantin Melnikov)。午前に見てきた住宅の設計者でもある。

ロシア構成主義の建物を調べると、何度も「労働者クラブ」という名称を見かけることになる。「なんだか物騒な企てをしていた秘密結社なのか?」と思っていたが、なんてことはなく、当時は文化施設を「労働者クラブ」と呼んでいたとのことである。

そんな訳でこのルサコフ労働者クラブも内部には1000人以上収容可能な大ホールとなっており、それが概観を特徴付ける大きく外に張り出した3つのキャンティレバー状のボリュームとなっている訳である。

建築の機能は、その外部に表現されるべきとしたメルニコフ。その考え方をダイレクトに現したのがこのルサコフ労働者クラブ。周囲の建物を比較してみると分かるが、明らかに新しい考え方をもとにして設計された建築であり、機能を直接表現とし、様式を採用していないだけに、現代においても決して古びれた感じを帯びていない。

これを見て思い出すのはやはり先日訪れた米子にある、村野藤吾設計の米子市公会堂。自らロシア構成主義建築への傾倒を言及する村野だけに大きな影響を受けているのが見て取れる。

どうやら現在は使用制限されているようすでフェンスで覆われて建物には近寄れなくなっている。建築の力を信じて疑わない時代の力強いそのフォルムを見上げ、そろそろ翳ってきた太陽を気にしながら駅へと向かうことにする。











ロシア連邦運輸機関建設省 セブンシスターズ 1953 ★★


レニングラード・ホテルから地下鉄一駅分を西に歩くと見えてくるのが次なるシスターズである、ロシア連邦運輸機関建設省(ソビエト連邦運輸建設国家委員会)。こちらも高さが午前中のものほど高くなく、110メートル(18階)。先ほどのレニングラード・ホテルよりも更に低くなっている。

目の前にそのデザインがロシア構成主義で作られている有名なメトロ・クラースヌィエ・ヴァロータ駅があるが、片側7車線くらいありそうなモスクワの道では、道を挟んであちら側は日本のように雰囲気が伝わる距離感ではなく、とてもじゃないが簡単に渡ってみるという訳にはいかない。

さすがに7本あるうちの5本目ということで、最初のころに感じた高揚感は無くなり、シスターズにもかなり慣れてきてしまった感は否めない。政府の建物ということだけあって、最初のロシア外務所のシスターズに雰囲気は似ているが、あちらほど豪華な装飾は施されてはいない。

全身を覆うようになった疲労感と、夜までにこなさなければいけない残りの目的地の数を考えて、とっとと次の目的地へと向かうために地下鉄の駅に向かうことにする。


メトロ・クラースヌィエ・ヴァロータ駅



Narkomfin building モイセイ・ギンズブルグ 1932 ★★★


メルニコフ自邸から北に向かい再度西に向かって有名なスラブ状の巨大スケールの集合住宅が落とす影の中に吸い込まれながらさらに北に向かって目指すのは、次なるセブンシスターズである文化人アパートエリア。その手前にあるのはロシア構成主義の傑作である集合住宅。しかしここらへんになるとかなり専門的になってきてしまう。

共同主宰する建築オフィスMAD Architectsでは、オフィス内でリサーチに特化したグループを立ち上げ、進行するプロジェクトとは別にテーマを持って様々なリサーチをし、それぞれのテーマごとにオフィスとしての結論をだし、そしてプロジェクトという形で答えるという活動を始めている。

それぞれのテーマが今後は進行する各プロジェクトにフィードバックとして与えられ、オフィスの方向性を強化する目的がある。ほとんどのオフィスはやはり日常業務に追われ、どうしても体系立てたリサーチを行いたいと思っていても、どうしても後回し後回しで結局手つかずになってしいがちであるが、やっとそれを体系立てて専属のメンバーを数人確保してリサーチを進めている。

その最初のテーマが「Social House」。日本語にすると公営住宅、つまり団地ということになる。都市部への人口集中が止まらない現代の社会において、新しい都市環境に適し、現代のライフスタイルを反映し、最新の技術を採用した新しいタイプの「Social House」とはどんなものかを考えるために、歴史の中で集合住宅や団地がどのような社会的問題を背景して計画され、どのような問題点を建築がターゲットとしたか、そしてどんな建築的言語、そして技術を背景として、どんな解決策を建築家が提案してきたのか。

もちろん社会的背景は時代と国によって違ってくる。幸いながら、それだけの多様性をカバーするだけの国際性に富んだスタッフがいるので、台湾とロシアの女性スタッフが中心となり、ジョン・ウッドのクレセントから産業革命を経たロンドン。スラムと疫病が蔓延する劣悪な住環境を解消し、管理の行き届く快適な労働者の住環境を整えることがより効率的な生産性につながるとされたルドゥーによるショーの製塩工場の発展形である様々な形のロンドンの「Social House」。

人類史上初となる世界大戦を終えた各国が、復員兵士たちへの住居を短期に大量に作り出さなければいけなかった全世界的な背景から作り出した機能的で標準性を持った住宅。その中でもマルクスに率いられた新たなる社会革命を目指したソビエトで掲げられた新たなる社会への新たなる建築のあり方を目指したロシアン・アヴァンギャルド。そしてその後再度訪れた第二次世界大戦とその後の住宅ブーム。

そんな流れをほとんど各国出身のスタッフにリサーチをしてもらい、それを説明して一つの資料としてまとめていくと、今まで理解していた流れとはかなり違った視点を得ることができる。

数日ごとに厚みを増していくリサーチ。フランス、イギリス、ドイツ、ロシア、スペイン、アメリカ、ブラジル、日本、中国、等々。各国で各時代にどのような問題を抱え、どのような技術的革新を背景に、どのような解法が取られたのか、多国籍のスタッフがいる環境だからできる深みのあるリサーチ。これはどんな大学の授業よりも面白いのではと思いながらリサーチのレビューをしていく。

基本的には日本で出版されている集合住宅関係の歴史、資料を基にリサーチを開始するのだが、各国での事情やさらに細かいプロジェクト例など今まで自分が知らなかったことやプロジェクトを目にすることになる。それは建築家にとって非常に楽しい作業である。それらの資料をさらにそれを編集していく。

その中でも際立つのがやはりソビエトでの新しい建築への探求を行ったロシアン・アヴァンギャルド達の激しさ。これらを詳しく見て、しかもかなり早い段階でコルビュジェもロシアを訪れてこれらの実験的な住宅作品を見て、その可能性を理解していたと知ると、その後のユニテにつながるコルビュジェの作品もかなり違って見えてくる。

建築に関するオリジナリティはかなり怪しいもので、全世界の建築家による集団知の蓄積によって徐々に次世代へのブレイクスルーが準備されるものであるが、それにしてもこの時代にソビエトで積み上げられた蓄積の厚さにはほとほと舌を巻くことになる。その後の流れはほとんどこの時期のソビエトでやられていたんじゃないか。しかもそれぞれの内容がまさにアヴァンギャルド。なんでもやってみる。

その後のチーム・テン、CIAM、メタボリズムさえここに発芽があったのではと思えるほど多様な建築言語。そして社会的提案。ピロティ、スキップフロア、機能別ゾーニング、分離棟、等々。

そんな訳でモスクワに足を運んでこれを見逃す手はないという建物がこの「Narkomfin building」。ロシア構成主義の指導者でもあったモイセイ・ギンズブルグ(Moisei Ginzburg)の意欲作。大地から持ち上げられたピロティ、機能別に分けられたアクセス棟、1階と4階に設けられたアクセスフロア、ロフトを持った内部空間、等々とにかく意欲的。

という訳で、この今ではボロボロの建物は建築家にとってはかなりの記念碑である訳である。ランドスケープを専攻するオーストラリア人にはやはりちょっと分かりずらいようであるので、簡単に説明するが、どうもピンとこないようである。しかしこの内容を英語で説明するのはやはりかなりしんどいので、軽く切り上げて100年近い時間を経たこの記念碑を写真に収めることにする。

















メルニコフ自邸 The Melnikov House コンスタンチン・メルニコフ 1929 ★★


最初のセブンシスターズの塔を見学し、建築巡礼の気分も上がってきながら、「場所を見つけるのが難しい」とネットで書かれている「メルニコフの自邸」へ。

この「メルニコフの自邸」。建築に関わらない人にとっては全くどんな意味がある建物なのかが分からないかと想像する。まずは自邸というだけあって、その持ち主であり、そして設計者でもあるメルニコフ。

コンスタンチン・メルニコフ(Konstantin Stepanovitch Melnikov)。ロシア語の名前なので日本語表記にするときに、メルニコフだったり、メーリニコフだったりメリニコフなどと違って表記されるが、同じ人である。

一体どんな人物かと言うと1890年生まれで20世紀を通して活躍したロシアの建築家である。1878年生まれのヨシフ・スターリン、1870年生まれのウラジーミル・レーニンとほぼ同年代に生きた建築家であり、当然ながら時代の流れ、ロシア革命をはじめとする大きな国家の変革の中に生きた建築家である。

そしてこのメルニコフを紹介するときに、必ず形容されるのが、「ロシア構成主義建築の巨匠」という表現。その「ロシア構成主義建築」というのは、建築における一つのムーブメントであり、その先に来るのがよく耳にするロシアン・アヴァンギャルド。

ロシア革命によって、新しい時代、新しい社会を目指した当時のソビエトは、1910年代から1930年代初頭まで、様々な分野において新しい芸術運動が起こってくる。その運動を総称して呼ぶのがこの「ロシアン・アヴァンギャルド」。

フランスのキュビスム(1907年)、イタリアの未来派(1909年)など西ヨーロッパで興ってきた他のモダニズム運等と連動しながらも、ロシア独特の芸術運動となっていったのものである。ロシア・アヴァンギャルドに含まれる芸術理念には、主に次の3つがあるとされ、いずれも過去の様式を断ち切り、革命以後の新たな生活様式をデザインしようとしたものである。

レイヨニスム(Rayonism)
シュプレマティスム(Suprematism)
ロシア構成主義(Constructivism)

シュプレマティスムは有名なカジミール・マレーヴィチなどの象徴的でありながら、幾何学を利用した構成を持つ絵画の流れを作り出す。革命後の新しい時代、社会を標榜するための様々なプロパガンダにも採用されながら、様々な分野に広がりを見せる「ロシアン・アヴァンギャルド」。美術や建築だけでなく、1898年生まれの映画監督であるセルゲーイ・エイゼンシュテーイン(Sergei Eisenstein)などにも影響を与えた総合芸術運動となっていく。

そしてその「ロシアン・アヴァンギャルド」の中の一つの流れとして纏まっていくのが「ロシア構成主義(Constructivism)」。先のキュビズムやシュプレマティスムの影響を受けながら、絵画、彫刻、建築など多岐に渡り広がっていく運動である。

特に建築分野においては、社会主義革命によって新生するユートピアの都市・建築のビジョンが多く描かれることになる。新しい時代に、新しい社会に相応しい、新しい建築の形態。伝統的な建築の制限から解放され、新時代の素材、技術を採用し、新しい表現方法が様々な場所で探索された時代である。

その代表的な建築家とその作品としては、ウラジーミル・シューホフの作品、ウラジーミル・タトリン(Vladimir Tatlin)の「第三インターナショナル記念塔」(1920年)、エル・リシツキーEl Lissitzky)の「空中オフィス計画」(1924年)など、相当に意欲的な挑戦的な建築のビジョンが描かれていく。

そんな流れで登場するのがこのコンスタンチン・メルニコフ。その流れを理解していくと1929年に完成したこの「メルニコフ自邸」。平面的には非常に単純で、二つの大小の円筒を重ねる形で垂直に立ち上げる。その円筒の壁面に六角形の窓を幾何学的に配置するシンプルな住宅である。

レンガ造であるにも関わらず、外装表面は白く塗り固められのっぺりした表情とされ、その構成の幾何学的な構成が主題となるように仕上げられている。それまでの伝統的な建築や、他のヨーロッパで同時代に行われていた他のモダニズムの建築に比べても、なんと分類していいのか非常に曖昧な建築となり、2014年の今現在にその建築を見たとしても、現代建築として信じてしまうほど、極めて純粋で論理的な幾何学で出来上がっている建築である。

このメルニコフの建築表現は、第一次世界大戦後のエーリヒ・メンデルゾーンやブルーノ・タウトなどのドイツ表現主義との類似性が指摘され、彼らの間での交流があったことも認められており、徐々に建築が国家の枠組みから徐々にインターナショナルの舞台へと持ち上げられる移行期にあることが理解される。

その曰くつきの「メルニコフの自邸」であるが、一時期メルニコフ記念館として利用されていたようであるが、現在では、取り壊しの危機に瀕しており、様々な保存運動が行われているという。そんなこともあり、ある住宅地の一部に位置するため、こっちからからかと思って入っていくと、柵で区切られた後ろ側に出てしまうが、円筒形の窓を見るにはちょうどよいポジションであるので何枚かカメラに収めつつ、「この建築はどんな意味があるんだ?」と聞いてくるオーストラリア人にざっくり説明をしながら、正面へと周っていく。

正面にも柵で出入りを制限されており、敷地内部と建物を見ると手入れが入っていなく随分痛んでしまっている様子である。フェンスの隙間から中を覗いていると、管理人と思わしきおばちゃんがやって来て、鍵を開けて中に入っていく。「これはチャンス」という訳で、「何とか中に入れくれないか?」とジェスチャーで懇願するが、あっさりと拒絶される。

時代の中に取り残されたようなその佇まいに、新しい建築の可能性を必死に追い求めた時代に収まりきらなかった建築家の想像力に思いを馳せながら、次のセブンシスターズに向けて地図を片手に歩を進めることにする。