ラベル 距離感 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 距離感 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年3月5日土曜日

「ジャージの二人」 中村義洋 2008 ★★

--------------------------------------------------------
スタッフ
監督 中村義洋
脚本 中村義洋
原作 長嶋有『ジャージの二人』
--------------------------------------------------------
キャスト
息子:堺雅人
父親:鮎川誠(シーナ&ザ・ロケッツ)
息子の妻:水野美紀
花ちゃん:田中あさみ
岡田:ダンカン
遠山さん:大楠道代
--------------------------------------------------------
夫婦の間で問題があり、会社も辞めたばかりの息子が、グラビアカメラマンの父に連れられて、避暑地の軽井沢にある古い山荘で数日過ごす夏休みの様子を描いた物語。どうやらこの山荘は、父親の実家であり、かつ子供が小さいときからこの山荘に夏休みの度に来ていたようで、周囲の住民とも顔なじみの様子である。

富士山も眺めることのでき、キャベツ畑の広がる広大な自然の中、なぜかダンボールの中から取り出されたのは、この地域の様々な小学校のジャージ。この山荘にいる間はジャージで過ごさなければいけない家族のルールがあるのか、二人は何の疑問も無く色鮮やかなジャージで毎日を過ごすことになる。

ロケは嬬恋など北軽井沢周辺で行われたというが、周囲はほとんど緑色という環境の中、二人のジャージの姿がとても印象的な画になっている。父と息子、夏休みでやってきた娘に息子の奥さん。そして近所のおばさんとおじさんと、主要登場人物は非常に少ないにも関わらず、閉塞感も無く、広大な風景そのもの、ゆったりとしたテンポで物語りは進んでいく。

テレビゲームに勤しむ父に、できるだけ映画を観ようとレンタルビデオ店に通う娘。そして小説を書こうとするがなかなか書き進めない息子など、それぞれが自分の時間をすごす対象を持っていながら、互いの距離感は離れすぎないと、なんとも仲の良い家族の関係を描き出す。

携帯の電波が届きにくい場所で、キャベツ畑の一箇所だけ電波が3本も入る穴場があり、そこに行っては手を掲げ、受信するメールの音が流れるというシーンは、ネットワークから外れることができない現代人と、ネットワークから外れることはすなわちドロップアウトすることだという脅迫概念に追われながら生きている我々にとって、なんとも象徴的なシーンである。

主演の一人である父親役の鮎川誠についてはまったく知らなかったが、息子たちと絶妙な距離感をとりながら、子供のようでありながら父親をこなしている役にぴったりなキャスティング。同時に、やはりこういうのほほんとした映画には堺雅人はよく合うなと納得してしまう一作である。








中村義洋

2016年2月13日土曜日

深遠なるコミュニケーション能力

人というものは、小さなころから家、学校、部活、大学、サークル、バイト先、職場などで、徐々に親から兄弟、友達やクラスメイト、同僚や仕事関係者へと、親しい関係性から徐々に社会の中で自分の立ち位置や周囲の人との関係性など、様々な要因を考慮しながら、何千、何万というコミュニケーションの中で、失敗を繰り返し、徐々にどうやって距離感をはかり、どうやって関係性を構築していくのかを学んでいるのだと改めて理解する。

自分の望むように振る舞い、話をしても、それが自分の望むような関係性を作り上げることに繋が
らず、「独りよがりな人だ」と相手に嫌われてしまうこともあるかもしれない。自分が好意を持って、距離を縮めたいと思っている友人や異性に対して、相手に好意を持ってもらうためにはどうしたらよいのか。そんなことに悩む思春期を誰もが過ごしてきたはずである。

家庭の中で、友人との間で、異性との恋愛関係の中で、そして社会人として外の世界の中で。それぞれの場所で、求められる関係性の構築方法は違ってしかるべきであり、家庭環境や自らの性格によっては、それを学んでいく上に経験する機会の数は、人によって恐らく何百、何千倍という差になってしまうものであろう。

これが世に言う「コミュニケーション能力」と呼ばれるものであり、数々の苦々しい体験の中で、この状況ではどのように言葉を選んだらいいのか、どのような態度を示したら相手が喜ぶのか、そんな微妙な感情や相手との距離を測りながら自らの振りまいを調整していく。その為にはそれ相応の場数が必要であり、深い洞察力と豊かな想像力がその手助けになってくれることであろう。

インターネットやSNSの発達のお陰で、かつてとは日常で行われるコミュニケーションの総数、そして相手の多様性が加速度的に増加した現代。今までの社会では出会うこともなく、交流する必要も無かった異なる背景を持った人々と否が応でも接触を重ねていかなければいけないこの時代。

学歴や職業という目に見えやすいラベルでは測ることのできないこの「コミュニケーション能力」。現代という多様な社会で生きていくうえで、今後この能力の高低差がより一層重要性を増していくだろうと実感しながらも、人間という多様で複雑な成り立ちに改めて畏怖の念を感じずにいられない。

2014年5月9日金曜日

「羊をめぐる冒険 上・下」 村上春樹 1982 ★★★★

----------------------------------------------------------
第4回(1982年) 野間文芸新人賞受賞
----------------------------------------------------------
村上春樹の三部作と呼ばれるデビュー作でもある1979年の「風の歌を聴け」。1980年の「1973年のピンボール」、そして1982年の「羊をめぐる冒険」。

三部作だというのは後で知るものであるから、読んでいくと、「あれ、これあの本に出てきた人物だよな・・・」と気になる人物がチラホラ。主人公に、鼠に、バーテンのジェイ。

そこらへんで気になって見てみるとやはり三部作で、「風の歌」の後日談だという。「だよね」と思いながら読みすすめるが、村上春樹の本を読んでいると、ウイスキーも上手く飲めるようにならずに中年になってしまったのがとても恥ずかしく思われながら、冷蔵庫からロックアイスを取り出してウイスキーを片手に先を読みことにする。

村上春樹を読むと、生きることをじっくりと味わうことのない時間を過ごしてしまっている自分に悲しくなる。というよりも、人生の過ごし方というのは、いっぺん通りではなく、本の中の人物のように、非常にマイペースでゆっくりと生きている姿を見ると、それは自分らしく生きるとはどういうことだろうと思わずにいられない。

そしてそれは同時に背筋が伸びる思いをさせてくれる。人間は誰でもこの人に会うと背筋が伸びるという、ある種の尊敬を感じられる人がいるものである。もちろんそういう人がいない人もいるだろうが、そういう人は非常に不幸であるだろう。人生の中で常に背筋が伸びると思える人をそばに置いて時間を過ごすことは何よりも人生を豊かにしてくれる。

常に自分よりも先を行っている
常に自分よりも勉強している
常に自分よりも豊かな人生を送っている
と思えることは自分にとって学ぶことがある
いろいろなことに対して同じレベルで話し合うことが出来う

それは小説でもしかり。
この人の本を読めば背筋が伸びる。
ウイスキーと背筋。

マッチしないように見えるがそれが村上春樹。

ダラダラとした印象が3分の2過ぎまで続くが、その独特な世界観を持った章題に惹かれた読み続けると、いきなり物語が展開し始め、独特の世界観が破綻をきたすことなくスピードを加速させる。

素晴らしい。

前作も良かったが、それはデビュー作という今までの鬱々とした長い年月の間に身体の中にたまった言葉と妄想を吐き出した熱さを持った良さであったのに対して、近作は作家として生きていく決意を元に、程よい距離感を保ちながらキザに過ぎない台詞を選び抜いて紡いだ物語。

また別の意味での傑作であろう。

ネットを探しても何処にも目次が載ってない。しかし自分でタイプする価値は十分あるので、物語の復習がたてにとタイプしてみる。そうして再度物語を早足でかけていく。それでもいい。

順番を違えてしまったが三部作の二作目も読まなければと思わせてくれる一冊である。




----------------------------------------------------------
第一章 1970/11/25
・ 水曜の午後のピクニック

第二章 1978/7月
1 16歩歩くことについて
2 彼女の消滅・写真の消滅・スリップの消滅

第三章 1978/9月
1 鯨のペニス・三つの職業を持つ女
2 耳の開放について
3 続・耳の開放について

第四章 羊をめぐる冒険Ⅰ
1 奇妙な男のこと・序
2 奇妙な男のこと
3 「先生」のこと
4 羊を数える
5 車とその運転手(1)
6 いとみみず宇宙とは何か?

第五章 鼠からの手紙をその数日後譚
1 鼠の最初の手紙 1977年12月21日の消印
2 二番目の鼠の手紙 消印は1978年5月?日
3 歌は終りぬ
4 彼女はソルティー・ドッグを飲みながら波の音について語る

第六章 羊をめぐる冒険Ⅱ
1 奇妙な男の奇妙な話(1)
2 奇妙な男の奇妙な話(2)
3 車とその運転手(2)
4 夏の終わりと秋の始まり
5 1/5000
6 日曜の午後のピクニック
7 限定された執拗な考え方について
8 いわしの誕生

第七章 いるかホテルの冒険
1 映画館で移動が完成される。いるかホテルへ
2 羊博士登場
3 羊博士おおいに食べ、おおいに語る
4 さらばいるかホテル

第八章 羊をめぐる冒険(Ⅲ)
1 12滝町の誕生と発展と転落
2 12滝町の更なる転落と羊たち
3 12滝町の夜
4 不吉なカーブを回る
5 彼女は山を去る、そしておそう空腹感
6 ガレージの中で見つけたもの 草原の真ん中で考えたこと
7 羊男来る
8 風の特殊なとおり道
9 鏡に映るもの・鏡に映らないもの
10 闇の中に住む人々
11 時計のねじをまく鼠
12 緑のコードと赤のコード・凍えたかもめ
13 不吉なカーブ再訪
14 12時のお茶の会

エピローグ
----------------------------------------------------------

2014年3月19日水曜日

「コミュニケーション力」 齋藤孝 2004 ★★★★

建築という極めて「コミュニケーション」が多くの地位を占める職業についていると、日常の中で様々な人と接することになる。その中には、自分の思っていることだけを、バァーーッと話して、あたかもそれが理論的で的を得ていて自分は偉いんだと満足げな表情をしているような人を見かける。そんな時にこの本を手にすると、「なるほど」と何度も頷くことになる。

言葉を介するということは、言語を介するのとはレベルが違う。相手の文化的バックグラウンドや、過ごしている日常で接している人々の教養レベル、ボキャブラリー、文脈力、構成力、全体を捉える能力、どれくらい本を読んでいるか、どれくらい勉強しているか、どれくらい世間に対してアンテナを張っているか、そんなことを判断しながら、その相手との会話に適した内容で、語彙を選び、散らし方を調整しながら会話を進めること。

ある分野の職業的能力が高いからといっても、それはコミュニケーション能力が高いとは一概に言えず、自分の分野に関しては、長い年月をかけてここまで理解できるようになったということをしっかりと認識し、門外漢の人にレベルを落とすことなくわかりやすい言葉で伝えることができつつ、自分の分野以外のことにもある程度の基礎知識を入手する努力はしながらも、それ以上の専門性の高い部分に関しては、想像力と自分の分野で培ったきた経験を駆使して、相手のレベルがその分野でどれくらいのものかを探りつつ、徐々に把握していく。

門外漢の人にあたかも専門性が高いというように装うことは簡単であるが、本当のプロフェッショナルであれば、掘っても掘っても底が見えないくらいの知識の海を感じさせるべきであり、同時に「これだけ勉強している人ならまちがいない」と相手を安心させるべきであろう。

専門分野において、自分の立ち位置と目指すべき高みへの距離感。それをズレることなくしっかりと把握することは、同時に新たに接する人がどんなに違う分野に属していようとも、その人がその分野でどのような立ち位置にいるのか、そしてどのような高みを目指しているのかを図るうえで、大きなズレをもたらさないようにしてくれる。

だからこそ、文化レベルの高い人と話す時には相当な緊張感を感じることになる。自分の無知を知られ、うまく会話を紡げないのではという恐怖。しかし本当に教養レベルの高い人と話すと、うまくダンスをリードしてくれるかのように、会話に適切なフレームを与え、「今、何が会話の焦点か」を明確にして進めてくれる。そして自分でも曖昧にぼんやりと描いていたイメージに対して、うまく言葉を当てはめてイメージを明確化してくれる。そんな会話は非常に心地が良いものである。

会話力のある人、ただ頭がいいだけでなく、相手との会話の中で本人すら思ってもいなかったような新しい意味を与えてくれるような喜びを伴った会話に参加させてくれるような人。誰もがそんな人との会話の時間はとても楽しいものだと理解している。

そういう人は年齢を重ねれば到達できる訳でもなく、やはり人生の中で常に意識を持って会話を重ねていくことでしか辿りつけない。

多くの人と接していればいるほど、そのような会話力のある人というのが如何に貴重な存在かも理解している。そういう人と日常の中で同等の関係を保つためには、自分も相当な努力を積み重ねなければならず、大概はその不一致の為に、学校で先生に授業という立場で授業料を支払い会話を共有させてもらうか、それとも夜の街の様に高いお金を払って会話の時間を買うことになる。

大切なのは、自らの専門性を深めつつ、それ以外の分野の基礎構造を理解する横へのい広がりをもって総合知を獲得しながらも、多種多様の人と会話をしながら楽しみつつも技を磨いていくしかないかと思われる。その為にはなんといっても、人への興味を常に持つことが大切であろう。
----------------------------------------------------------  
第一章 コミュニケーション力とは
―文脈力という基本―  
コミュニケーションとは意味や感情をやり取りする行為
やりとりする相互性があるからこそコミュニケーションと言える
人間は感情で動くものだ
同時に感情面での信頼関係を培う事のできる人は、仕事がスムーズにいき、ミスもカバーしやすい

/「感情」と「意味」の座標軸
恋人同士という関係においては、意味を常に生産していくような関係が求められているのではなく、感情を確認しあい強固にしていくことが重要なのである。

/ディベート乱用の危険性
本当に求められている能力は、相手の言いたいことを的確に掴む能力である、要約力
クリエイティブな対話 相手を言い負かすだけの議論は、一見はなばなしいようでも生産的ではない
何かの価値を押し通そうとしているというのが実情

/クリエイティブな関係性
新しい意味がお互いの間に生まれる
大切なのは、今ここでこのメンバーで対話をしているからこそ生まれた意味がある。
意味に日付と場所を書き添えることさえできる
目的は、一つでもいいから、具体的なアイデアを出すこと
自分一人では思いつくことのできなかったことを思いつく
触発

/自分と対話し言葉を探す
文章を書くという作業は、自分自身と対話する作業である
言葉にすることによって、感情に形が与えられるのだ
現在流れている会話の流れをひたすらつないでいるだけの会話もある
相手と話している文脈は維持しながらも、自分自身の経験値の深みに降りていく。この二つの作業を同時に行う能力が、対話力である。
相手の経験世界にまで思いを馳せることだ。

/「ていうか」症候群
話題を全く変えてしまうのだ
それまで相手の話していたことと全く関係のないことを話し始める
お互いに言いたいことだけを言う
自分の話したいことを話すほうを皆が選択している
誰でも自分の話をしたいからだ
この癖がついたままで、友達以外の人と話をする状況になると問題が起こる
相手と自分との間にできるはずの文脈を軽視、ないしは無視する。
深まりのなさ、自己中心、話せる相手の範囲の狭さ
自分の身の回りの情報を伝え合うだけでは、コミュニケーション力は向上しない

/文脈力とは何か
文脈を的確に捕まえる力
思考をつなげて織物のように織りなしていく力
文脈力があるかないかが、文章を書く上で最も重要な分かれ目である

/会話で迷子になる
会話における文脈は二つある
一貫性があるかないか
お互いの発言がきちんと絡み合っているかどうか
話の分岐点には、必ず目印がある。それは当然、言葉だ。
戻るべき主流などはなかったという会話を、おしゃべり
「散らす」と「戻る」

/文脈力のレベル
レベルにははっきりとした差がある
素人でもキャッチボールはできる
プロ野球選手同士

/メモをとりながら会話する
会話の最中にメモをする
文字こそは、文明を加速させた一番の要因である

/人間ジュークボックスにならないために
お互いの会話を絡ませることができているかどうか
独りで話している間はまとまな話をすることのできる人の中にも、相手の発言と自分の発言とを絡めて話すことのできない人は意外に多い
すぐに自分の話をし始める
人の話を途中で遮る
人が使った言葉をうまく使いこなすことがない
相手が変わっても同じエピソードを繰り返し話す人がいる
相手の話したいことと絡んでいない

/誰とでも会話の糸口を見つけられるか
話す相手が幅広い
老若男女と接する機会が多い
誰とでもすぐに世間話ができる。これは重要なコミュニケーション力である

/コミュニケーションするからこそ家族
家族においては、生産性よりも、感情が交流することのほうが重要なのである。
コミュニケーションしたいという欲求


第二章 コミュニケーションの基盤
―響く身体、温かい身体―
コミュニケーション、響きあいである
使わなければ、力は落ちていく

/基本原則その4 相槌を打つ
/『浮世風呂』の身体コミュニケーション
それを反復し、技にする。 これが学習の王道である
世阿弥のいう、「離見の見」は、観客側から見える自分の姿を役者が意識するということ
自分を客観視する力
「演劇的身体」
エネルギーは出せば出すほど湧いてくる

/雰囲気の感知力と積極的受動性
空気を感じ取るだけでは不十分だ。感じ取りつつ、方向性を修正していくことが求められる

/沈黙を感じ分ける
不毛な沈黙 充実した沈黙
モーツァルトのピアノ協奏曲第20番第1楽章
マックス・ピカート つねに第三社が居合わせている 沈黙である。
「沈黙の世界」


第三章 ミュニケーションの技法
―沿いつつずらす―
沿いつつずらす
要約力が武器
自分がそれを再生しなければいけないと思って聞いてはいない
実際にできねば無意味
自分が再生するのだという前提
ほとんどの知識が伝授可能になると考えている
知識の伝授が大きな割合を占めている
人の話を聞いたという証は、その話を再生できるということである

/言い換え力
言い換え力
理解したというレベルと、言い換えることができるレベルは、別である
奥田英朗「空中ブランコ」
精神科医が患者に話を聞きましょうよと言われるのは、読んでいて笑える

/人間理解力
人間理解力のある人は、いろいろなものが見えている。なぜこの人はこういうことを言うのか、なぜこんな言い方をするのか、といったことが分かってくるのだ。

/コミュニケーションは誰とでも可能である
たくさん読まなきゃ、ちゃんとした話はできないんだ
柱は読書によって培われる
----------------------------------------------------------



----------------------------------------------------------
■目次  
第一章 コミュニケーション力とは
―文脈力という基本―  
コミュニケーションとは
/「感情」と「意味」の座標軸
/ディベート乱用の危険性
/クリエイティブな関係性
/インスパイアとインスピレーション
/自分と対話し言葉を探す
/「ていうか」症候群
/文脈力とは何か
/会話で迷子になる
/三色ボールペンのメモ術
/マッピング・コミュニケーション
/人間ジュークボックスにならないために
/誰とでも会話の糸口を見つけられるか
/いきなり本題から入る
/コミュニケーションするからこそ家族
/親子間、きょうだい間での手紙
/和歌のやりとり
/連歌ー座というスタイル
/回しが気で作文をする
/弁証法的な対話
/セックス・コミュニケーション


第二章 コミュニケーションの基盤
―響く身体、温かい身体―
響く身体、響かない身体
/基本原則その1 目を見る
/基本原則その2 微笑む/基本原則その3 頷く
/基本原則その4 相槌を打つ
/『浮世風呂』の身体コミュニケーション
/連座ー自我の溶かし込み
/外国語学習と身体
/ウォーキングの効用
/ハイタッチとスタンディングオベーション
/[fantastic!]と拍手
/体温が伝わる方言
/癖と癖がコミュニケーションする
/練習問題
/演劇的身体でモードチェンジ
/雰囲気の感知力と積極的受動性
/沈黙を感じ分ける


第三章 ミュニケーションの技法
―沿いつつずらす―
沿いつつずらす
/偏愛マップ・コミュニケーション
/要約力と再生方式/言い換え力
/「たとえば」と「つまり」
/会議を運営するコツ
/ブレイン・ストーミングのコツ
/ディスカッションのコツ
/メタ・ディスカッション
/プレゼンテーションのコツ
/コメント力
/質問力
/「ゲーテとの対話」
/相談を持ちかける技
/ズレやギャップをあえて楽しむ
/会話は一対一ではなく多対多
/癖を見切る
/人間理解力
/過去・未来を見通す
/コミュニケーションは誰とでも可能である


あとがき
----------------------------------------------------------

2013年4月25日木曜日

立ち位置


たった1mだけども、その立ち位置が違うと、それから進む道がまったく異なったものになってしまう。

重要なのはその違いを理解していることと、自分の立ち位置を理解すること。

20代。やりたいことや夢を追いかけて、色んな場所に足を運び、色んな人に出会い、色んな挫折を味わいながら学び、次第に自分の能力を研いてゆく。

それと同時に、今まで分からなかったり理解できなかった自分が目指していることが、一体どれだけの知識や経験、能力を必要とするかを理解すること。

やればやるほど、学べば学ぶほど、経験すれば経験するほど、その距離感を実感する。雑誌や本で見ていた憧れていた作品を作るためには、どれほど長い行程を歩いていかなければいけないか。

たった一つの図面を作成するにも、一つの線、一つの曲線、その一つ一つに意味された建材、施工方法、コストなど様々な事柄を理解し、コントロールしつつ、誰かに意図を伝える伝達メディアとして美しい図面を描けること。

社会的存在である建築が、社会の中のルールに従うための法規的要求。その把握とその条件の中でよりよい設計を仕上る能力。

建築家は建てる人ではなく、描く人であるならば、構想したものを如何に建ててくれる人に伝達できるか。そのコミュニケーション能力。

一つ一つの素材が社会で売買される商品としての側面をもつならば、その総体としての建築がどうしても背負ってしまうコストの問題。それを如何に把握し、設計の中でのバランスをとっていくのか。

その中に身をおく時間が長くなればなるほど、自分が知らないこと、できないことの多さに圧倒されつつ、それでもできるのは、一段一段階段を登り、足を前に進め続けるだけである。

その世界に身をおいた時間が少なければ少ないほど、この見えない部分が多くなり、自分の立ち位置も当然つかみづらいものである。それは当然である。

人は皆、目にしたものが世界の全てになってしまう。ということは、自分の立ち位置を相対的に測る到達点までの長さがその行程の全てとなってしまう。その時に、本当に素晴らしいもの、本当に価値のあるもの、世界でもトップのものに触れながら自分の位置を相対化し、その能力を伸ばしていくのが幸せな職能人としての時間の使い方であるだろう。

そうでなく、つまらないものに出会ってその位置を相対化してしまえばしまうほど、簡単に得られる達成感と満足感に酔いしれ、浅はかな能力にも拘らず、自分が一人前だと勘違いすることになる。

そんな訳で、見据える到達点とそこから相対される現在の自分の職能人としての立ち位置について考えをめぐらせる。

その到達点へと辿り着く為には様々な道があるだろう。その道には決して近道などというものは存在しないだろうが、その道のりの困難さは様々である。自分の人生に何を求めるかによってその選ぶ道も違ってくる。楽な道をいくものもいれば、先の見えない厳しい道を選ぶものもいるだろう。

自分自身、設計の能力があまり無いと感じながらそれを受け入れることができず、それとなく流行のものを取り入れつつ、論点をデザインに持ってこないように言葉で濁し、自らのデザイン能力に干渉されることを避けるような緩衝地を設けて世間と接する。

そういう人たちは恐らく本当の意味での自分の意見はないからだろうが、あれやこれやといかにもそこらへんに落ちていそうな言葉を拾い集め、流行の本を読み漁り、必死に理論武装することになる。問題はそこに留まらず、そういう人間が大学などに入り込み、あれやこれやと学生を洗脳するので事態はもっと酷くなる。

本当に良いものを作り続け、本人が何も語らずとも、その建築自体が雄弁に語ってくれる。それが本来あるべき姿であり、それを体験した人々が様々な意味を発見していく。

その自信が無いからこそ、自分を権威の側において何の疑問を受け付けず、「これは評価されるべきものなんですよ」と言わんばかりに世の中に「作品」を発表する。情けないことに、メディアもまたそっち側にべったりなもんで、次々と「いかにも価値のあるもの」として流布されるこれらの作品群。

大きな会社や大きな組織という、日本を支えるシステムの中で自らに対して保障される範囲を大きくとりながら、「世間に対しては社会が変わらないと!」と声を上げながら、自分達はそれでも将来が安泰の年功序列システムが変わることは望まず、その為に職能を磨く時間よりも、そのシステムを安泰させることに心血を注ぐことになる。

そこそこの大学を出て、そこそこの会社に就職し、そこそこの生活を保障される。それが一番安心の時間の過ごし方。その過程でやっぱり人から「凄い」と褒め称える機会があれば、それに越したことは無い。

システムの中に身をおき、システムに守られる。守られ続けることで今度は失うことの恐怖を知る。どんなことがあっても、保障される給料、地位、生活レベル。それが無くなることへの恐怖。

少しだけ立ち位置が違うだけでも、少しだけその線を跨いだところで生きているだけで、何かあった場合には全て自らの責任で生き残っていくことになる。誰も守ってはくれない。大きな病気などしたものなら、あっという間に生活が吹っ飛ぶ。甲冑も着けずに弓矢の飛び交う戦場を駆けるかのように。

その恐怖。そしてその緊張感。

誰もができることなら避けて生きるべきその道。近代国家はその様な不安定な人々をできるだけ少なくすることを目的とし、様々な社会保障を成し遂げてきた。

現行のシステムはその線の向こう側で動いている。良い大学を卒業しても、設計の良し悪しという曖昧模糊な基準で勝負しなくて良い世界。それでいて世間に対して高い地位と大きな保障が得られる官庁へ行くのが一番。

その次は、どれだけやってもデザインというセンスが関わる世界では、その高い学歴だけでは特急切符にはならず、長い下積みと努力をし続けなければいけないということで、デザインで勝負したいと言いながらアトリエ事務所には足を運ばずに、様々言い訳を見つけて自分を納得させる手続きを踏み、エンジニアというどちらかというと時間がそのまま経験に転化され、その経験が能力に適切に反映され、問題と解法、そして解答が比較的一直線に並びやすい世界に足を踏み入れことになる。

組織設計事務所やゼネコンなどの大きな組織の中で大きな保障を得て、何年後の自分の姿をおぼろげに見据えられ、収入面でも安心して生活ができ、人生設計も同級生に劣ることなく計画しながら、アトリエではできないアプローチでデザインに取り組んでいるという風に自らのプライドも満足させる。

システムのど真ん中に位置する組織なだけに、どこかの大学で講師などをするツテも多かったりし、大きな仕事に関わっているという体で学生にも話をし、雑誌社などにも組織のつてなどから執筆する機会も出てくる。

誰かがシステムを保持する役割を持つことは必要である。これは決して悪いことではない。自覚的に自らを手厚い保障の中に身をおきながら、自分の心のどこかに引っかかる部分を残しつつ、それを必死に押さえつけ、あくまでも自分の努力で手に入れた地位だとし、職能を問われるような場局面には足を踏み入れずも、危険を冒しているかのようなそんなジェスチャーをすること。声だけ大きくなりつつも、足元を見るとしっかりとその線の向こうへとは踏み出そうとしない。

社会が成熟すればするほどその線のあっち側で物事は決まり回っていく。しかしその時間が長くなればなるほど、そのシステムは硬直し、前に進む力を失う。その時に必要なのが線のこっち側で何か分からないが、多様性の中で新しいことをやりだしている人々。そのエネルギー。

切れ目のこちら側とそちら側では、似た風景を見ているようでも、その過ごす意味はまったく違うこと。それを忘れずに、自分の立ち位置を再度確認しながら時間を過ごしていこうと心に思う。

2012年10月18日木曜日

メンター

暫く前に仕事で東京のある場所に若者向けの共同生活の場を作る提案を作成していた。

その時にアート・フェア東京のエグゼクティブ・ディレクターでもある金島隆弘氏とかなり細かい内容まで提案書を詰めていたのだが、その時多用していたあるキーワードが先日のクローズアップ現代の中でもこれからのキーワードとして使われていた。

メンター

仕事や人生に効果的なアドバイスをしてくれる相談者のことだが、アートや建築と言ったキャリアを体系立てて考えて人生を過ごしていくのが非常に難しい世界に身をおいていると、その時々に出会う自分よりやや年上、およそ5-10歳ほど上の同業者、つまり先輩にどのような接し方をしてもらったかによって、その後の進み方は大きく変わるということである。

これは年齢よりもキャリアで考えたほうが良いようで、これよりも近いと同年代ということになり差がなくなってしまい、それより上過ぎると一世代違ってしまって、やや価値観や考え方にズレが出てきてしまう。

そう考えると大学などで出会う、比較的若手の先生もこの「メンター」のカテゴリーに入るのだろうが、つまり自分よりも長くその世界に身を置き、楽しいことも苦しいことも少しだけよく知っていて、技術的なことを含めた圧倒的に多くの知識を持っていると思える人。

そういう人がどうやって、自分よりも若くて希望を持って成長していく人たちに、「どのような接し方ができるか?」、「どういう距離感をとれるか?」、それによっては、若い人の才能を大きく伸ばしたり、逆に若い目を摘むことにもなってしまう。

今だから分かるが、幸いなことに自分の場合は20代の中ごろに出会った人が、とても優しい形で接してくれて建築を教えてくれたのだと思う。本当にその時は、「この人は建築のことを何でも知っているな」と思っていたし、とても大きく見えたが、でも「そんなことは大した事ではなくて、もっと自分の好きな様に進めばいいし、こんな知識は誰でもやれば身に付くことなので、心配しなくていいですよ」と励ましてくれもした。

まさに自分にとってのメンターだったと思うし、その無償の付き合いにただただ感謝しかない。

若者なりに必死になってやっている建築を、「お絵かき、楽しそうだね」と、とても心無い言葉をかけていった人もいたように、自分の中で若い人との適切な距離を保てずに、大変みみっちい姿を曝すこともあるだろう。

そうかと思えば日本でお世話になった先輩達は、何の見返りも無いにも関わらず、同じ建築仲間として何でも教えてくれた。そしてそれを一緒に楽しんでくれた。そういう姿を見ると、いつになってもこの人をメンターだと思い続けるのだろうと思うのと共に、自分も同じように若い世代に分け与えていかないとと思わずにいられない。

そうかと言って、すぐに勘違いする若者は、何でも考える前に「楽」をするために年上の人に聞いてしまう傾向があるが、これはとんでもなく失礼に当たることを皆経験で学んでいくのだろうが、まずは、自分で考えて、苦しんで、作り出してから相談するべきだろう。

日本の様にとても狭いニッチな市場で活動をしていると、下手をすれば利益を争うことになるからと本来あるべき同業での良き上下の交流が損なわれるが、一つの学問として建築が存在する以上、全体として進歩を続けていく為には必ず必要なことである。

ふと見渡すと、かつて出会ったメンターの年頃に差し掛かり、オフィスでもその当時の自分の年齢位のスタッフに囲まれていることに気がついて、自分はおおらかに適切な距離を取って構えられているかどうか?自問自答せずにいられない。