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2016年2月5日金曜日

亀山本徳寺(かめやまほんとくじ) 1515 ★★★


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所在地 兵庫県姫路市亀山
山号  霊亀山
宗派  浄土真宗本願寺派
寺格  由緒寺
創建  1515
開基  蓮如
別称  亀山御坊・亀山御堂
機能  寺社
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姫路を離れる間に、中心地から少し南に下って一つこの地域の重要な寺院に立ち寄っていくことにする。播磨国における本願寺派の根本道場として発展し、江戸時代には傘下に400近い寺院を要するまでに勢力を伸ばしたのがこの亀山本徳寺(かめやまほんとくじ) 。江戸末期には新撰組が屯所として占拠したこともあり、本堂の柱の一部にはその時の刀の痕が残る場所でもある。

やはり市街地から離れたことで、街並みもかなりゆったりとした雰囲気になってくる。駐車場に車を停めて正面の参道からアプローチするが、足元の舗装やその視線を受け止める築地塀、そして道の脇を流れる掘割に使われている素材に、この寺院の歴史と格の高さ、そして地域の中での重要性を読み解くことができるようでとても整った風景の中を通り境内へ。

大門をくぐるとその先には視線を遮るかのように目隠壁が訪問者の動線を左右に誘う。ここらへんも、ちょっとそこらの寺院ではなかなか見ることのできない品の良さを感じさせる。左に流れると屋根の曲線が美しく待ち受ける本堂。これは妻入りのために、その曲線を存分に堪能できる訳である。

整えられた砂利の左右に視線を遮らない程度に植栽が丁寧に整えられており、足元もほとんど落ち葉などの自然の乱れが感じられないくらい、しかしやり過ぎではない程度にしっかりと手を入れ整えられている。本堂への広い階段の脇にはちょこんと花が生けてあり、気持ちよく下足を脱ぐことができる。そこに誰もいないのに、この場の主人と気持ちの良いコミュニケーションを取れている、そんな心地のよさ。

風景を切り取る広縁の先にはこれも綺麗に張られた障子が待ち受けるのだが、少し手をかけてみるがなかなか開かないために、「閉まっているのでは・・・」と心配になり、渡り廊下を渡って母屋に向かう。その途中、渡り廊下を一度曲がったところで、ちょうど昼に差し掛かってきた太陽に光が心地よく時間の経過を感じさえてくれる床にさし込み、しばし一人その場に佇み贅沢な風景を堪能する。

母屋に向かうと待ち受けるのが大玄関。その正面に絶妙なバランスをもって生けられている立派な生け花。背景の余白と相まって、非常に美しい一枚の絵を作り出している。そしてその先の事務所に声をかけると、恐らく住職さんの奥さんであろうか、とても品のよい雰囲気で「どうぞ、開いておりますので、ご自由に見ていってください」と。「ここまで至る所に感じられた品の良さの源泉はこの方か・・・」と何だか納得して先ほど来た渡り廊下を戻って本堂へ。そして今度は両手で障子を開けるとスルスルと開き、南から差し込む光が障子のスクリーンを真っ白に飛ばすなんとも言えない室内空間へ。

最後に、境内の片隅に芽吹き始めた梅のつぼみを見つけても、「これもひょっとしておもてなしの心遣いなのでは・・・?」と思ってしまうほど、細部まで目の届いた本当に素晴らしく整った空間に感謝して境内を後にする。





























2015年3月6日金曜日

サービス先進国の日本と日本人

世界中どこにいっても、日本のサービスはいつも先回りして、こちらが何か不便を感じる前にサービスを提供してくれる。それがすでに対価として要求されようとも、不便や不満を感じるということを日常の中から消し去っている。

如何にドイツやフランスといえども、その点に関しては遠く及ばない。ましてや中国などでは、基本的に日常の中は不満や不便で満ち溢れている。

サービスの内容やその効率では明らかに日本は世界のどの国よりも先に行っていると、様々な場所に行けば行くほど感じることになる。

これは旅行者として感じる「不慣れな土地にやってきた人にとっての親切なサービス」というレベルのものではなく、「その土地に住まい日常を生きる人にとってのサービス」のレベルでも圧倒的に日本のサービスは質が深い。

それは常に相手のことに気を遣い、何が相手の為になるか、何をされたら心地よいと感じるのかという「おもてなし」に代表される日本文化とそれを体現する日本人の思慮の深さの成せる業であることは間違いない。

しかし、そんな世界最高水準のサービスに日常的にひたされて慣れきってしまっている日本人の身体。それが一度その水準を知りをしない人々であふれている海外に行くと、そこで待つのは「なんでこんなことも気がつかないんだ?」という苛立ち。今まで当たり前だと思って享受してきたことが、当たり前の様に提供されない世界。

逆にサービスの行き渡っていない国からより充実した国へと向かう人にとっては、そこで過ごす一分一秒がなんとも心地よい、なんとも親切で丁寧なサービスを楽しみ、こんな素晴らしい世界があるものあと感動すら感じることになる。

「水は高きより低きに流れ」

経済でも文化でも万物の法則としてすべてに当てはまるこの格言。

車の交通マナーから、レストランでのオーダーの取り方、お店での接客の仕方、館内案内の分かりやすさ、空港で待機させるときに状況をできるだけ説明して背景を知らせようとすること、予定不順の事態への対応の仕方、買ったものの梱包の丁寧さ、公共空間で大声を出さないことなど挙げ出したらきりが無い。

「快適さ」や「便利さ」という見方で見てしまうと、海外に出る日本人はあるところでただただ苦しむことになる。それならば、今流行の「内向き」とういことで、安寧として国内に留まりマイルドヤンキー化するのが正しいのか。

それとも、それ以外に物事の見方の軸を自分の中に確立し、苛立ちを吸収する緩衝材を手に入れる、それができるかできないかが、ひいては自らをストレスから守ることに繋がるのだと、半ば諦めを持って物事を見ていくことにするしかないのであろう。