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2020年5月25日月曜日

「螢川・泥の河」 宮本輝 1978 ★★★★


家の近くに流れる川沿いを夕方になると走っていると、川の表面が日によって微妙に違う表情を見せることに気が付く。昨日は清んで日を反射していたのに、今日は淀んでいるなと。

そんなことを思いながらのそのそと走っていると、突然「バシャッ」と大きな音がして、目を向けると大きな波紋が広がっていく。川の主のような顔をして、普段はゆっくりと大きな灰色の身体をうねらせながら、水面近くを行き来するあの鯉が、水面近くを飛ぶ昆虫に飛びつき、びっくりするような跳躍力を発揮したところだろう。

波紋が落ち着いてくると、悠々と身体をうねらすあの鯉の姿も捉えられ、これこそ泥の河の「お化け鯉」だなと思いながら、重い足をなんとか前に進める。

宮本輝の名前はよく聞くので、読んで気になっていたけど、久々に手に取り、じっくりと考えるとやはり読んでないようであり、せっかくの機会だからと読んでみたが、流石作家デビュー作で、太宰治賞も受賞した「泥の河」。そして翌年に芥川賞を受賞した「蛍川」。後の「道頓堀川」と併せて、川三部作と呼ばれているらしいが、どちらもとても素晴らしく、読み応えのある作品であった。

夜のポンポン船の上で、サワガニに油を飲ませて火をつけ、カニが水面に落ちていく姿を眺める様子や、やっと辿り着いた蛍の繁殖地で目にした、雪が巻き上がるような蛍の嵐の様子は、鮮やかな色で目の前に広がるようななんとも不思議な体験を呼び起こす描写は圧巻。

どちらの作品にも漂う背徳感やエロス。そして子供の中で育成される、ドロドロとした社会への眼差し。

「鬱金色のさざめきが川面で煌めいていた」という言葉など、生々しい主題にも関わらず、全体的に品を感じさせるのは、作家が過ごしてきた時間の濃度がさせるのだろうかと思いながら、川の近くに住んでみるのもまた悪くないだろうなと思いながら、三部作の残りの一冊である道頓堀川を楽しみにする。

2020年5月17日日曜日

「くっすん大黒」 町田康 1997 ★★★


町田康と辻仁成。どうもこの二人のイメージがいつまでたってもごっちゃになってしまう。

バンドをやっていることや、作家として活動していること、そして同じ年に 芥川賞の候補に挙がり、受賞時期は違えど二人とも芥川賞作家となったことも。これだけ揃えばごっちゃになるのもしょうがないと諦め、楽しみながら読めそうだと手に取った町田康のデビュー作。読み始めると、ダメ男だけども、どこか人の好さと正直さで、なんとも憎めないアラサー男の周囲で起こるドタバタ劇が何とも愛嬌があって、楽しみながらページを捲る。

「くっすん大黒」では、突然毎日ダラダラして生活したいなと思い仕事を辞めてしまい、言葉通り毎日酒を飲んではダラダラと生活する男が、安物の大黒様の人形が気に食わず、捨てようと思うが、捨て場所やそのシチュエーションに拘りながら、街をさまよう。

「河原のアパラ」ではレジに並ぶ時はフォーク並びをするべきと拘りの強めの男が、癖の強い女性と一緒に働くうどん屋で問題が発生し、転がり混んだ居候先で紹介される遺骨搬送の仕事を一緒に手伝うことになる。

共通してるのは、アラサーと思われる少々拘りの強い男が、少し年下であるが、ちょっと抜けていながら一緒に何かを共有して楽しめる連れがいること。

「くっすん大黒」 の菊池と夜の浜辺ではしゃいでいる様子は、なんだか時間を持て余した大学生感満載で、なんとも微笑ましい。

「河原のアパラ」の淀川とすったもんだの末にたどり着く歓楽街を経て、河原に座ってボッーとしている姿などは、楽しいことも無茶も一緒に共有してくれる連れが何人かいれば、人生はそれほど思い悩むことなく進めるものなんだと、そんな気分にしてくれる若々しい一冊であろう。

2017年8月8日火曜日

「さようなら、オレンジ」 岩城けい 2015 ★★★


第29回(2013年)太宰治賞受賞
第150回(2013年下半期)芥川賞候補作 (受賞小山田浩子「穴」)

ということで数年前に随分メディアで紹介されていた一冊。オーストラリア在住の専業主婦である著者の私小説的な物語の様であったが気になって購入し、少しずつ読み進めた一冊をやっと読みきる。

オーストリアの田舎町に住むアフリカからの難民である女性と、夫とともに移住してきた日本人女性を中心に、「母国語ではない言葉で生活が行われる場所で生きるとは」というテーマを主題に淡々と物語りは進んでいく。

恐らく、様々な理由で海外で生活をする日本人は現在世界中に数えられないほどいるだろう。望んでなのか、それともそうでなくとも、自分がその言葉以外で思考し教育を受けてきたことが、言葉という大きな壁のせいで自らのアイデンティティーを揺さぶるような経験は、誰もが必ず通ってくる道であろう。

外国に旅行に行った際に不自由なくやりとりができればいい。
語学留学などで、同じように第三国から来た人々と会話ができればいい。
仕事でやりとりができるくらい喋りたい。

求めるレベルと、そこに達するまでの厳しさは、人によってそれぞれだ。しかし、その言葉の環境で生活していれば、時間とともに上達するというのはまったくの希望的観測で、レベルを上げるためにはどうしても、学習と実践が必要だということも、外に出たすべての人が、どこかでぶち当たる事実。

それが「英語」という、どこの国でも外国語として真っ先に習い、そして成長とともに教育課程の中で触れてきた言語ではなく、それ以外の言語であるならなおさらのこと。

恐らく、オーストラリアに移り住み、20年近い時間をそこで過ごしたという著者は、きっと外国語と母国語、いつになってもネイティブの様には言葉を使いこなせない現実、その国の言葉でその国の人と交流しても、母国語で思考する自分の感情との間で必ず発生するギャップなど、「言葉」に派生する様々な葛藤に丁寧に向き合って生きてきたのだろうと想像する。

村上春樹の「遠い太鼓」や「やがて哀しき外国語」もまた、日本語で育った人々が、海外で生活する上でどこまでいっても付き纏うどうしようもない感情をうまく表現した本であったが、グローバル化を終え、国境を越えて生活することが人類史上かつて無いほど活発に行われる現代。その中でオーストラリア、日本人、アフリカ難民を「言葉」で紡ぎ、人が生きるとはどういうことか、人と交流するために言葉は何を助けるのかを丁寧に描いた一冊ではないかと思う。

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第29回(2013年)太宰治賞受賞
第150回(2013年下半期)芥川賞候補作
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岩城けい

2016年10月30日日曜日

「コンビニ人間」 村田沙耶香 2016 ★★★


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第155回(2016年) 芥川賞
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毎年「芥川賞」と「直木賞」の発表があると、「ああ、今年ももう半分終わったんだな」などと6ヶ月という時間の流れを感じることになる。しかし、それも毎日留まることなく押し寄せるニュースの波の中に埋もれ、あっという間に「そういえば、今年の受賞作はあれだったな・・・」と、話題になる受賞作関連のニュースに触れては思い出すことになる。


今年はどちらかといえば、「コンビニ人間」の方がややスポットライトを浴びている印象があり、そのタイトルは耳に残りながら、「そのうち文庫化されてからブックオフで見つければ・・・」と思っていたくらいであっという間にコートが必要なほどの深い秋に差し掛かってしまっていた。

父親が定期購読をしている文藝春秋を帰国のたびに貰ってきては読み込んで、会うたびに読み終わった号をくれる親友が、「コンビに人間も載ってるよ」と渡してくれた最新号。こうして誰かの手を巡ってきた物理的重さを持った「本」というメディアのありがたさを再認識しながら、「ポン」と久々に時間ができた週末に、先日の産経新聞で書かれていたように、「いざ、読書。」と覚悟を持って手にしてみると、思いのほかするすると引き込まれてあっという間に読み終えてしまった一冊。

今年の受賞作なので、少しネットで検索すれば、それほど星の数ほど感想や批評が書かれているのであろうが、現代社会の中でほぼインフラとしてなくてはならなくなったその都市機能の中で、利用者からは当たり前の風景として視界に入ってこないそこで働く人々の日常を、小さなころから当たり前の人間としての感覚を持つことができなかった欠陥品として自分を捉える主人公の視線から描き出すことで、現代日本の持つ同調圧力と、無意識の中で人々がそれに併せて振る舞い、それぞれの役割をこなしていくこと。どんな場所でも、どんな立場でも人は自分を肯定しなければ生きていけず、どんな形でも自尊心を保つことが必要で、そのために時に周りの人を下に見ることによって、安易な自己肯定感を得ていく人々。「あなたのためを思っているのよ」とか「社会で生きていくためには」などと、価値観の強制が振りかざされ、「世間で言う全うな人」ではない人々がドンドンと切り落とされていく姿が徐々に鮮明に描き出されていく。

「マウンティング」や「「格差」。「底辺」といった様々なキーワードが、見え隠れしながら物語の背骨を支え、それでいながら、しっかりと生身の人間としての温もりを感じさせながら物語が展開していく。非常に限られたセッティングの中の、限られた人間関係の中で展開し完結する物語であるだけに、小説というメディアの素晴らしさを改めて感じさせてくれる一冊である。

2013年10月3日木曜日

「乙女の密告」 赤染晶子 2010 ★

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143回(2010年上半期)芥川賞受賞
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飛行機で移動する用事があるとパッキングの段階で一番頭を悩ませるのがどの本を持っていくか?自分がこの世の中で一番嫌うものの一つに、読書くらいしか出来ないような状態で、読むべき本が手元に無いということだから、いつも文庫、新書、建築本とバランスを取りながら計4-6冊ほどを広げて「うーん・・」と悩む。

そういう時に、薄めの本だとひょっとしてあっという間に読み終えてしまうのではとなかなか時間を読みにくい。そんな悩ましい時間は、同時になんとも楽しい時間でもある訳である。

そんな訳で考慮した結果持っていたこの一冊は、思ったとおりに北京から日本への飛行機の中であっという間に読み終えてしまう。

冒頭のシーン。関西の語学大学。シーンとした教室の中で、丈の長いスカートに身を包んだ「乙女」達が、静かにノートを取り、辞書を引きながら勉強をしている。教室の窓から吹き込んだ風は、ひらりと桜の花びらを運んできて、一緒に吹き込んだ花の香りにふと顔を上げる何人かの乙女達。

そんな具体的な臭いまで香ってきそうな想像力を刺激する書き出し。やはり日本の女性はこういう理知的で清楚な乙女であってほしいという世の男性の願いも同時に刺激される。

物語はドイツ語を学ぶ乙女達が、先生であるバッハマン教授の厳しい指導のもと、スピーチ・コンテストに向けて努力をしながら、乙女らしい悩みを抱え、群集の心の葛藤が、ナチスに追われ身を隠しながら、自らのアイデンティティーに苦しんだアンネの日記に重ねられて物語が進行する。

ユダヤ人だから密告されたアンネは、ユダヤ人であることから解放されようとしつつも、自らをユダヤ人たらしめる自分の名前を決して忘れることは無かったように、スピーチに立つ乙女に必ず訪れる「忘れる」ことの恐怖を重ね合わせ、物語の緊張感を高めていく。

恐らくこのような手法は、文学の中でも随分確立されている手法なのだと思うし、この物語の中でも効果的に使われているのだろうと感じ取ることが出来る。それが芥川賞にも相応しい作品としているのだろうが、冒頭のシーンがなんとも心地の良い描写の仕方だっただけに、その若き乙女たちのいる教室の華やいだ明るい春のリズムをもって全体を描いたほうが自分好みだったなと思わずにいられない。

2013年9月30日月曜日

「時が滲む朝」 楊逸 2011 ★★

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第139回(2008年度上半期) 芥川賞受賞
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12回9(2003年上半期) ハリガネムシ 吉村萬壱(男性)
130回(2003年下半期) 蛇にピアス 金原ひとみ(女性)
130回(2003年下半期) 蹴りたい背中 綿矢りさ(女性)
131回(2004年上半期) 介護入門 モブ・ノリオ(男性)
132回(2004年下半期) グランド・フィナーレ 阿部和重 (女性)
133回(2005年上半期) 土の中の子供 中村文則(男性)
134回(2005年下半期) 沖で待つ 絲山秋子(女性)
135回(2006年上半期) 八月の路上に捨てる 伊藤たかみ(男性)
136回(2006年下半期) ひとり日和 青山七恵(女性)
137回(2007年上半期) アサッテの人 諏訪哲史(男性)
138回(2007年下半期) 乳と卵 川上未映子(女性)
139回(2008年上半期) 時が滲む朝 楊逸(女性)
140回(2008年下半期) ポトスライムの舟 津村記久子(女性)
141回(2009年上半期) 終の住処 磯崎憲一郎(男性)
142回(2009年下半期) なし
143回(2010年上半期) 乙女の密告 赤染晶子(女性)
144回(2010年下半期) きことわ 朝吹真理子(女性)
144回(2010年下半期) 苦役列車 西村賢太(男性)
145回(2011年上半期) なし 
146回(2011年下半期) 道化師の蝶 円城塔(男性)
146回(2011年下半期) 共喰い 田中慎弥(男性)
147回(2012年上半期) 冥土めぐり 鹿島田真希(女性)
148回(2012年下半期) abさんご 黒田夏子(女性)
149回(2013年上半期) 爪と目 藤野可織(女性)

過去10年、つまり2003年からの芥川賞受賞作家22人のうち、13人が女性作家。半数以上というのはまさに女性の強い時代を代弁するかのようであるが、その中にたった一人外国籍の作家の名前が。それがこの2008年度上半期芥川賞受賞作家である楊逸。

中国語のピンイン表記ではyáng yìとなり、ヤン・イーと呼ぶ。我々夫婦の中国語の先生も同じくハルビン出身で楊さんというので、ハルビンには楊姓が多いのだろうか?と思ってしまう。

中国で生まれ、中国で育ち、大学の途中で日本に渡り、日本語を学び、大学を卒業し、就職をし、そして小説を書き始め、芥川賞まで上り詰める。なんといっても帰国子女などではなく、大人になってから学んだ外国語で物語を綴ることまでに費やした多くの時間と努力に頭が下がる。

青春を中国と日本で過ごし、民主化の動きを高めた天安門事件とその後の経済発展を中国内部からと、中国の外から見た視点で描き、なんと言ってもスポットライトを浴びる有名な民主化活動家ではなく、群集の群れの中でひっそりと燃えるような情熱を心の中にともしていた名も無き学生に焦点を当てて、激動の時代の中国を描きだす。

同じ時代をいきながら、まったく違う時間を過ごす二つの国。その両方に生身で生きた作者だからこそ描けるリアルな視点。そしてその二つを繋ぐ尾崎豊の「I Lover You」。

生の篭った物語を書くためには、社会にどっぷりと根を張って生きる時間を過ごさないとならない。その為には、その社会の共通認識を理解し、自分なりに消化していないといけない。その理解を得るための語学力を身につけるには並大抵の努力では辿りつけない。

今も日々感じるストレスや向き合う困難の多くは、自分が外国人であることから派生する。語彙力を向上させても埋めることの出来ないギャップは、その社会で生まれ育ってこなかったことからくる生身の視点。教科書では決して身につけることの出来ない時代の雰囲気や、社会の常識。それを他言語において、二つの国をこれほどにリアルに描けるというのは、よっぽどの取材力があるか、自らの生きた経験によるものだろうと思わずにいれらない。

主人公の様に、どんな場所にいようとも、どんな仕事をしながら生きようとも、まっすぐに必死に生きている人間には、誰もがこんな自分だけの熱い物語を持って生きているんだと思わせてくれる一冊。

2013年9月21日土曜日

「沖で待つ」 絲山秋子 2009 ★

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第134回(平成17年度下半期) 芥川賞受賞
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分からないものは怖がることなく分からないという。それが知的生活における知的正直さだというので、はっきり言い切れるが分からなかったこの一冊。

平成17年度の芥川賞受賞作品ということで手に取ったのだが、男と女の友情はそんな簡単には生まれないが、それが「同期」という枠組みの中に入れられれば、同志的な友情が生まれ、その当人がたまたま女性総合職として社会に組み込まれただけであり、「女性」という存在よりも「同期である」という事実が先にくる。

恐らく、そういうことを書きたかったのだとは理解できる。

そして女性として男女雇用機会均等法の時代の流れを受け、様々なやっかみや慣習が交差する環境のなかで、時にさらし者にされているような感情を持ち、それでも戦場を闊歩するように強く生きていく。その中でいつの間にか男女を越えた同志としての絆が育まれる。

それは分かる。

家族でも、親友でもなく、同期だからこその信頼感。日々の半分以上の時間を過ごし、自らのアイデンティティーをかけて向き合う仕事の場。それを共に過ごし、苦しみを分かち合い、一緒になって成長していく同期だからこそ共有しあえる何かがある。

それも分かる。

そしてその同期という枠組みは、時に男女と言う枠組みよりも大きく、そして強くなり、絶対的な所属意識と自らのアイデンティティーを植え付ける。「こいつは絶対裏切らない」と。

「仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。 同期ってそんなものじゃないかと思ってました。」

そんな表現に現れるのは、自らが存在意義を欠けて過ごしてきた会社人としての時間。それが価値のあるものだと証明するためには、それを共有している同期が価値のある人間であると照明するのと同義であるようなもの。同期は鏡に映った自分であり、同期の一生はいわば自分の一生でもある。

現代の会社人の世界にどっぷり染まって生きていく女性の日常と感情のリアリティ。それが良く描かれているのも分かるし、その物語が共感を呼ぶ読者層がいるというのも理解できる。

しかしこの話が現代を代弁し、時代を超えて何かを残していくのかと思うと、どうにも分からない。文学賞なんでそんなものかも知れないが、どうして芥川賞受賞につながったのか・・・と返って悩むことになってしまう一冊かもしれない。

2013年8月10日土曜日

「ひとり日和」 青山七恵 2010 ★★★

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第136回(平成18年度下半期) 芥川賞受賞
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こういう女性と言うのは、比較的短いスパンの時間で生きているのだと思わされる。それは生活と言うものに根源的な責任を負わないからこそ可能なんだと思う。

自分がどう生きていくかを考えることも無く、ただただ「東京で住みたい」という思いだけで始める遠縁のおばあちゃんとの同居生活。家賃や食費がかからなければ人が生きていくにはそんなにお金がかからないのかもしれないが、それは誰かがその部分を負担してくれているのと、将来や生活を変えるために必要となる資金を貯めることが無いから可能なのだろう。

暇を持て余すように始めるバイト。時給がいいのと、家から近いから。そこでできる「気になる男の子」。好きな人によって見える風景が変わり、関係がうまくいかなくなると、その日を生きる気力も無くなる。すぐに「死にたい」と口にし、同居人にも当たり始める。

彼と別れてしまうと、それまで続けていたバイトも辞めてしまう。男なら流石に出来ないことが女ということで可能になる。一つながりではなく、ぶつ切りにされる時間と季節。そして違う職場で、まったく違う仕事を始め、そしてそこでもまた「気になる人」ができて、気分が華やぐ。新しい時間の始まり。

長いスパンで物事を捉えることが出来ず、生きる気力が弱く、その場その場でふわふわと周りの流れを受けて受動的に漂う様に生きていく主人公。「スープ・オペラ」を思い出させる設定だが、主人公の生き様はまったく違う。

これと言って好きなことも、やりたいことも無い。「こういう子って、沢山いるだろうな・・・」と思わずにいられない。女性だからと言うわけではなく、人生をぶつ切りで生きていく若者。今自分にあるものの中で、なんとか生きて、それなりに満足できる。

生活が半径1キロ圏内で完結してしまうから、東京という大きな海を端から端まで使いきることなく、大海原に浮かぶ小さな島のようなところで生きていく。その子にとっては、東京とは総体ではなく、その生活圏の世界。

平凡な日常が、平凡な登場人物によって繰り返される。だた淡々と。

渋谷などに足を運ぶと、その日の楽しみを得るためだけに刹那的に生きているような若者の姿を見る。そういう姿を見ると、「この子達はどうやって生活が成立しているのだろうか?」と思わずにいられない。それでもそれなりに何とか生きていけるのが現代の日本なんだろう。渋谷でたむろする子達も、この小説の主人公も、結局は同じ生き方なんだと思う。

結局のところ生きていくことがどれだけ大変なことかを理解せず、甘え、叫び、それでも決して自分では現状を変えようと努力はしない。それでもなんとかなっていってしまう。それが今の日本か。

2013年6月24日月曜日

「苦役列車」 西村賢太 2012 ★


平成22年度下半期の部門だから昨年の前半に受賞のニュースが流れていたことになる。受賞作家の経歴が変わっていて、その振る舞いも変わっているかなんかで、随分メディアに登場していたイメージがあった一冊。

直木賞、芥川賞受賞作品の一環としてそろそろ手に取ってみようと思い開いた一冊だが、中卒という作家の私小説というだけあって、なかなか毒気のある内容になっている。

安部公房の「他人の顔」のような、肉塊と化した人間の姿。それが蠢き、床を這う時のおぞましい「ヌメリ」としたなんとも嫌な感覚。

父親が性犯罪者という劣等感と、やり場のない怒りを抱え、中学卒業と同時に埠頭での日雇い仕事で稼ぐその日暮らしの5500円。食事、酒、タバコと風俗への積立金。その生活から抜け出すために稼ぐ金ではなく、目の前の欲望を解消するために費やし、金が無くなればいやいやまた家を出て5500円を得るためだけに埠頭に向かう。

欲深き生物である人間が、何を持って他の動物を区別されるかと問われたら、それはその理性によってと答えるのが限りなく正しい答えだろうと思わずにいられない。しかし自分を律し、社会の一員として必要な知識を得て、まともな大人として仕事をし、生活を成り立たせるのは誰もができることと想像する。

テレビで繰り返し放送される、「生活保護から抜け出せない人々」などの特集。それらの番組をテレビのこちら側から眺めて簡単に心に浮かぶのは、「なんて駄目な人たちなんだ」という安易な感想。それによって感じるまだ自分はこちら側にいるんだという安心感。

しかし、現代社会において堕ちるのは非常に簡単である。
しかも、一度堕ちたらなかなか這い上がれない。

恐らく身の回りにいる今まで知り合ってきた人達の多くは、相当恵まれた環境で育ってき、まともに社会人としてやっていける人ばかり。

しかしその誰にでも、こうして堕ちていく可能性はあるのが現代。
日常が一気にその風景を変えてしまう。

人間はその環境に時間の過ごし方を影響されるものであり、自分自身で本当に自分に起こっている変化を外から見るよりもはるかに小さく捕らえてしまうものである。つまり、堕ちていくことはなかなか自ら気がつかない。

理性に包まれること無く、剥き出しにされた人間の欲望。それがいかに醜いものであり、社会にとって異質なものか。そしてそれが人間の本来持っているものであるという事実。そしてそれらは社会の中にいるために、また社会の中にいることで押さえつけ、塗り固められているだけのものだという紛れも無い事実。

読み終わったときに「一体、こういう気分の悪い欲望剥き出しの内容で、何を感じろというのか?」と少々憤っていたが、暫く時間が経ってみると、どの時代にもこうして社会の周縁で生きる人は必ずいて、現代においてのその姿を見事に描いたのがこの作品であり、こうして「まっとうな社会人」を演じている側からはなかなか見えにくい側にいる人は、恐らくかつての社会よりも、はるかに大きい割合になっているのだろうと想像する。

それがグローバル化した資本主義の獰猛な姿であり、その経済活動のなかで強者と弱者をはっきり「仕分け」し、その格差を限りなく大きくしていく現代社会の必然の姿であるからであろう。


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第144回(平成22年度下半期) 芥川賞受賞
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2013年6月22日土曜日

「アサッテの人」 諏訪哲史 2010★


ギアが合ってない。そんな時がある。

スタッフにあるプロジェクトについて説明していたら、引きつるような顔をしているので「どうした?」と聞いてみると。

「ヨウスケ。中国語で話していますよ・・・」と。

彼女は韓国人でまだ中国語が出来ないので、通常は英語でコミュニケーションをするのだが、オフィス内での中国語でのコミュニケーションが60%近くになってきたこと、また自分の中国語のレベルがある程度自由が利くようになってきたことから、時間が無いときなどはこういうことが起こる。

そういう時は頭のギアが合ってなく、空回りしてしまっている。「申し訳ない」といいながら、英語で再度同じ内容の説明をする。

「吃音」では無いが、母国語を含まない多言語環境にいると、頭の中で想起したイメージや内容を意識を持って引っ張ってくる学習した言語に乗せて身体の外に出さないといけない。それは時にうまくイメージと単語の選択がうまくかみ合わず、非常にもどかしい時間を過ごすことになる。喉の奥まで言いたい内容は上がってきているのに、どうしてもうまく言葉とマッチングしない。そんな感覚。

吃音(きつおん)や吃り(どもり)。

「ポンパッ!」や「チリパッハ」と言った、理解不能な響きを発し、アサッテの世界に入り込まずにいられなかった叔父への回想。叔父の書きとめていた日記から、最愛の妻を亡くし、ならに自らのアサッテの世界に閉じこもることになり、最後は突然消えてしまった叔父の頭の中ではどんな世界が広がっていたのかを追っていく主人公。

「ピンイン」という表音記号で表される中国語を学んでいると、「あー、なんとなくこんな感じのピンインだったんだけどなぁ・・・」と手探りの感じで音にしてみて、それを耳で確認しながら、「なんか違うなぁ・・・」と一人でやることが多々ある。

そんなことを繰り返していると、ミーティングで理解できなかった単語などが出てくると、無意識のうちに、「チュイジィ、チュイジー・・・」などとブツブツしてしまうことがある。それと共に、意味は分からないけど非常に耳にしっくり言葉などに出会ったときに、それを何度も繰り返したりしてしまう。

そんなことを思い出してみると、現在の環境はある種の吃音環境でもあるのかとハッとする。小説の中でも様々な国の辞書から見つけてきた響きから、その意味を剥ぎ取り、そして表象するものを無くし、ただ虚空に漂うだけの存在にされてしまったその言葉を、泉から溢れる水のように、身体の中から溢れてくる感情と共にアサッテの世界に投げ入れる。

音がまだ意味を持つ前の瞬間の戯れ。
音が言語としてこの世に定着する前の瞬間。

そんな風に理解しながら、なかなか面白く読み進めた前半部。できればその方向性で物語を発展させてくれればより好感触だったが、後半は作者の高尚なる文学的知識をどうにも物語の中に入れ込まなければ気がすまなかったのかは知らないが、どうにも様相が変わってくる。

小さな頃から本に囲まれたという叔父の言葉を借りることによって、なかなか周囲に理解し会える友を見つけられず、自ら身体の中に溜め込みすぎた文化的芳醇が一種のフラストレーションとなって噴出するかのように、物語の芯とは違ったいわゆる文学的戯れ感が顔を覗かせるのはやや残念。


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第137回(2007年度上半期) 芥川賞受賞
第50回(2007年) 群像新人文学賞受賞
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2013年3月12日火曜日

「共喰い」 田中慎弥 2012 ★★★


ネットリするような「粘性」とここまで届きそうな「匂い」。

「釣り」も「川」も「女」も「血」も、形を変えども前編を通して共通するのは「時間」を「生きる」上で避けては通れない、「粘性」と「匂い」。


「川と違ってどこにでも流れていて、もしいやなら遠回りしたり追い越したり、場合によっては止めたり殺したりもできそうな、時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった。」


むっとするような匂いに包まれた、こんなリアリティのある街の物語。都市化とは生活から「匂い」をとり、限りなく「透明」にしていくことだとしたら、現代都市とはまったく正反対の不条理に囲まれた街。現代都市で見えないフィルムに囲まれて生きていく人々の価値観から見ると、決して良いとは言えないその環境。一体このリアリティはどこから来るのかと見てみると、作者は下関出身だという。これはぜひとも一度足を運んでみないといけない都市のリストに追加しないとほくそ笑む。


「何もかもが遠ざかって消えてゆく感じがする。なのに、昔からこの川辺にあって何も変わらない全てのものが、いまのまま残り続けてゆきそうでもあった。」


世間一般で言われるような負のスパイラル。遺伝する格差によって生まれたときから決まっている「当たり前」。そこにいれば、それはそれで日常になり、抜け出したいとは頭の隅で思いながらも、それなりに楽しいことも悲しいこともあって時間が過ぎていく、その圧倒的なリアリティ。

生理の時は鳥居をくぐってはいけないだとか、川が女の割れ目だとか、セックスの時に殴りつけるとか、後頭部を鈍器で殴られたときのような苦い味が口の中で広がっていくその感じ。まさに「重みだけでどこまでも沈んでいゆくという感じ」。

そんな中で生きているのに、登場する女性の誰一人すら悲壮感を感じさせない。どこでも適応するのはまずは女性ということか。まさに女の強さ。芥川賞受賞が納得の現代らしい一冊であろう。
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第146回芥川賞受賞
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2010年6月8日火曜日

「パーク・ライフ」 吉田修一 文春文庫 2004 ★★★★
















イタロ・カルヴィーノ が書き遺した保存すべき文学的価値、「軽さ」、「速さ」、「正確さ」、「視覚性」、「多様性」、「一貫性」 。

その一つ、「正確さ」。

これが吉田修一の文章の最も特徴的な部分なんだと改めて思わされる。

小説を読むことは、ついつい分かりやすい筋道、物語を期待してしまう。通常、始めの数十ページで段々と形を見せ始める物語の大枠を掴めると、すっと話に入っていくことが出来るが、「パーク・ライフ」ではその道筋がはっきりと示されない。決して大きなドラマが起こる訳ではなく、淡々と、しかし驚くほどの洞察力で描かれる正確性をもってある男の日常を書き連ねる。

日比谷公園という都市の大きな空虚を俯瞰の視点と、思いっきりズーム・インした身体の視点を切り替えながら、人生ですれ違うくらいの人々との距離感を描く。

名前さえ知らない男の女が織り成す、現代の物語。

さすがは第127回芥川賞受賞。