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2013年4月3日水曜日

旧国地図



寺社や公園、名湯や昔ながらの風景を残す街並みなどを目的地としてマッピングしていくと、地図の中に密度をもったある種の分布図が見えてくる。

それを見ていると、東京や大阪を筆頭とする現代都市の勢力図と比例しない、明らかに昔に現代と異なる勢力をもった都市や街があったのだと思わずにいられない。それが奈良や京都といったかつての都がおかれ権力の頂点に位置する都市ならまだしも、そうでない高密度な場所に見えてくるある種の共通項。

出雲、伊勢、伊豆、志摩、近江、土佐、佐渡、豊後・・・・

その多くが旧国名が冠された地名であり、かつての日本で各地方において堂々たる地位を確保していた場所である。自動車や鉄道といった高速陸路移動手段をもとに、近代に東京を中心として再編された都市分布。経済効率性ともともとの地勢とのバランスをとりながら、徐々に新たに浮き上がってきた地勢は次第に現代国家の基盤として定着していく。

日本全国にその地方地方の中心が存在し、多中心な地勢を誇っていたかつての日本。資金も労働力も必要とする建築が中心に閉める寺社。その歴史の中でも、権威を誇り、他より立派な建築物を持つに至った寺社には、やはりそれ相応のバックグラウンドが存在するはずである。

アースダイバーとは違うが、そんな寺社たちを一つ一つ訪ねていくことで、現代人の様にみみっちく貯金を貯めて土地を購入し、ささやかな家を建てるというプロセスを踏まなくてよく、気が良さそうだ、と思える場所を探し出し、かなり自由に建築を作ることが出来ていた、古代の日本人達が、この日本という地形にどのような気やゲニウスロキを感じ取ったのか?それが見えてくることになるはずである。

そしてそれは、国家としての統治をより効率的にするために敷かれた都道府県という境界線よりも、多中心の重なりのなかで生き生きとグラデーションを見せていた旧国での地図の方が、より日本人の歴史の中での地形の読み取りに対応しやすいのであろうと考える。

そんな訳で現代の都道府県地図に対応するような、旧国地図をネットで探してみるが、どうにも分かりやすいものがないので、折角だからと自分で作成してみることにする。

変わらない国家という外形線の中、一つ一つ旧国の境界線を引いていき、一つ一つ旧国名を入れていく。始めは東山道がなぜ東北地方と、群馬、長野、岐阜などを一緒くたにしてしまっているのだろうかと頭を悩ませていたが、これは京都が都として君臨していた永きに渡る日本の歴史の中で作り上げられて地図なのだと理解すると、後は比較的すんなりと頭に入るようになる。

都から伸びる数々の道。火山列島である地形の中心に位置する都から、各地に向かうには中央を走る山脈の北側をいくか、南側をいくか、それとも山の中を進んでいくかに分かれていく。

都から東に向かい山の中をいく東山道。
都から東に海を眺めながら進む東海道。
都から北に陸路を進む北陸道。
都から西に陽のあたりやすい南側を行くのが山陽道。
そして北側をいくのが山陰道。
南に向かって海に沿っていくのが南海道。
西に向かって海を行くのが西海道。
そして都を抱え込むのが5つのエリアからなる畿内。
この7つの道と5つのエリアを合わせて「五畿七道」。

こうしてマッピングだけでなく自ら地図を作っていくと、小説などで度々遭遇する近江や摂津、肥後や備前といった旧国表記がいまいちぴんと来てなかったが、ようやく少しながら場所と実態を持った場所として頭の中に浮かび始める。

それぞれ小さな中心として地形を読み解きながら長い時間をかけてつくりあげられてきた旧国は、地形だけでなくその土地の気候や風土をより色濃く反映されたものであり、それは同時にその土地に住まう人々の性格や考え方の基盤をつくっていくものである。

現代に育った自分たちですら気がついてない自らの性格のもとをつくった地域のDNA。それを読み解くためにも、現代を旧国と重ねてかつてあったであろう風景を想像しながら日本を歩くこと。

島根、宮崎、三重といった、経済性が上位に位置せざるを得ない現代日本においては、なかなか一線に躍り出ない場所たちが教えてくれる日本の源泉。一生つきあうことになるこの国に生まれた自分だからこそ、この国で多くの人たちが見守ってきた多くの風景を見ながら少しでも多くの道を歩くことができるようにと、ワクワクしながら自らの地図眺めて想像を膨らませる。




2013年2月25日月曜日

他の場所でも

国土の中で養われてきた自然と建築との関わりをダイレクトに身体に感じるために、寺社仏閣などを回るのがかなり有効的だと思っているが、それと同じくらいに有効なのが時の権力者達の作り出した建築。

その際たるものが古の都・京都に鎮座する御所を筆頭とする天皇家一族に関連した建築郡。ブルーノ・タウトを驚愕させた桂離宮をこの中華新年に訪れたイタリア人スタッフは、「モダニズムよりも遥かにモダニズムだ」と、未だに興奮冷めやらない様子。

それだけに留まらず、日本の様に起伏に飛んだ地形の国で、戦乱の世を勝ち抜くために開発された城郭建築郡。日本のあちこちに散らばるこれらの城こそ日本独特の地形を読み解き、その地形を拡張させて建築化して、戦闘と防御に特化した建築様式を作り出していく過程で、まさにこと細かく地形を読み解き、場所の力を具現化されたものだったに違いない。

日本のあちこちで、戦略的意味だけでなく物流の拠点としても重要な意味を持つ特別な場所を押さえ、現代でいう都市計画の拠点となっていく城郭建築。山城から平城まで防御から領主の屋形、ひいては地域の拠点として役割を変遷していくなかで、寺社仏閣に劣らず地域の良質な場所をその建築場所に選定されたことは想像に難くない。

そう評価していくと、現代でも街の中心に城を構える都市は、かつて栄えた時から拠点を移すことなくそのまま土地の力を活用しながら現代まで発展を続けていることになる。つまりは昔の人々が感じた、そして見つけた土地の力を具現化して立てられた城の様に、力強い土地の力を受けつづけ現代を生きている都市ということになる。現代にとってつけたように、「開発」というかつての人にとっては価値を見出せなかった場所に、無理やり近代のシステムの最たるものである「鉄道」を敷き、価値を植え付け「作り出された」新しい都市とはその成り立ちにおいて確固たる差異があることになる。

そんな訳で百名城だけでなく、各地の名所となっている百景や、山登りのためにと100名山などの場所も含め、自らのGoogle Mapにマッピングしたのは既に6,7年前で、それらのアイコンも徐々に「既に訪れた」赤色へと多くが変わっていっている現在、さて次にマッピングすべきはどんな場所だろうと頭を巡らせる。

そして次にくるのは各地の風景の拠点ともなる「公園」空間。その土地土地に生まれ育った人ならば、遠足や遊びの中で当たり前の様に身体に取り込んでいるその風景は、その土地以外で育ち、移り住んできた人々にとってはなかなか入っていきにくいし、その場所が土地の中で持つ意味を捉えにくい。東京で言えば、大学あたりから移入してきた人々にとっても馴染みが深いものといえば、代々木公園、日比谷公園、井の頭公園程度で、生活レベルに合わせてそこに世田谷公園や砧公園、上野公園、芝公園、青山公園などが入ってくる程度で、水元公園や舎人公園などは何らかのきっかけでその地に住まない限りほとんど知られることのない存在であろう。

しかし城や寺社に負けず劣らず、アースダイバーではないが、川や池、森や丘が作り出し、近代以前の街づくりでも庭園や憩いの場として場所の心地よさを評価され整備された場所があり、近代になりより統計的かつ計画的に整備され、地域のコミュニティを形成する上で大きな意味を込められて作り出された特権的空間であったはずである。そう考えいけばいくほど、これは無視できない存在だということになり、東京中の有名公園をマッピングし、日本中に広げて「日本の都市公園100選」などもマッピング。

そうしてみるとやはりかなり知らないところが多いことに気がつかされる。グローバリゼーションで世界は狭くなったはずが、まだまだ深くなることが可能だということかと、今度は「にほんの里100選」などに手を伸ばし、まだまだ控える100選リストを頭に入れながら、これで次に行くべき場所の再選定が必要だと想いをめぐらせる。

2013年2月24日日曜日

学ぶ場所としての寺社


この歳にもなってくると、見に行く建築や場所と行ってもある程度ネタが尽きてきた感が出てくる。

地方の主要都市や東京近郊のアクセスが比較的良いところは徐々に網羅され、毛細血管の先まで足を伸ばしていくか、訪問先の質を変えていくかになる。

環境建築を学生と一緒に考える時間を持てたのも一つのきっかけかもしれないが、現代に住まう我々はたまたま土地が手に入ったのでその中でどう環境に対応して住むことができるかと、すでにスタートの時点で制約を受けながら住宅を設計しその土地に住まうことになる。

歴史的にみれば、それが如何に貧しい住まい方だったであろうかと考える。

時代を遡れば、その「ここに建てなければいけない」という制約の密度も薄まり、より心地いいという場所を選べる幅が広かったに違いない。森や小河、起伏に富んだ地形と自然の脅威、それらを考慮しながら風が流れ、日の光が差し込む、木漏れ日の下で、清々しいしい空気の中に住まう。そんな場所を選ぶ事を生業とした人がいたに違いない。

そして時代は変われど、その土地の一番良い場所を優先的に占拠してきたのはその土地を守る寺社仏閣であったはず。ヨーロッパの様に街の中心に位置して、風景の中にシンボルとして聳えるカセドラルの様な中心の在り方ではなく、街の外れのどん詰まりに位置し、後ろに聖なる山を控えて街に向き合う寺社。

街からアプローチしていくと徐々に草深くなり、温度も1・2度さがり、現代的に言えばマイナスイオンが溢れる中を、木々の木漏れ日を感じながら辿り着く山門。山の起伏から導かれた勾配の階段で自然の形を感じ取り、山岳信仰と一体化した様々な土地の守り神達にお参りに行く。そんなどの時代でも当たり前の様にあったはずの風景。

自然の力が感じられる場所の森を拓き、自然の恩恵を一番得られる様に配置を決めて、自然と調和して構築されて次第にそれ自体がその場の自然となる。そんな贅沢な土地の選び方。それに比べ以下に貧相な現代の土地の選び方。しかも現代でも利用可能として残っている土地は、歴代の人々が使ってきた土地の残りの部分の中での選択。だから現代では寺社の建つような場所に敵う快適な場所はなかなか見つからないのが自然の摂理。

現代に生きる建築家として、その当時にいたであろうゲニウスロキを感じ、場所を見つけ、配置を決めて、建築を主導していった人物。現代であれば建築家と呼ばれたであろうが、彼らは現代の建築家よりもよりもはるかに自然の要素に対しての洞察力や感受性が強く、建築と自然との関係をより良きものにする能力が優れていたであろうことは容易に想像がつく。何せ現代において、「この街で好きに場所を選んでいい」と言われて設計を始めることもなければ、そういうことに想像を馳せる時間も無い建築家は、設計の条件として与えられるものと思っている自然を読む訓練んど受けていないからであろう。

そんな思いで、古刹と呼ばれ、地域の中で重要な意味を持ち、かつ長い年月地域の人々に愛されてきた寺社仏閣の空間に備わる自然への眼差しや読みときを少しでも自分の体の中に入れるようにと、出来るだけ素晴らしい古刹には足を運ぶことになる。

総本山と言われるような一大事業であった空間に比べて現代の巨匠が設計した美術館を秤にかけたら、間違いなく体験すべきは前者であり、そういう眼差しを持って比較していくと、意外と訪れたいというリストに残る現代建築の少なさに、なんだか建築本質を見る気がする。

そんな訳で古刹名刹と呼ばれるような百寺や名の挙がる古寺というのは対外自らのGoggle Mapに網羅して、その土地に足を運ぶ度に、「こんなとこにも百寺があるのか・・・」と思いながら車を走らせると、やはり古刹と呼ばれるものであればあるほど徐々に期待感を高めるような空間配置をとっており、地形の良さを利用してアプローチを設定していたり、これでもかというくらいに山深いところに配置されており、これだけ豊かな空間体験はなかなか他ではできないだろうと自分で納得することになる。

言ってしまえば寺社仏閣の空間には、日本と言う場所で培われた様々な自然との関係性において建築をするという知恵がふんだんに詰まっており、どんな建築の教科書にも勝る教えを感じ取れるそんな場所が日本には多く残ると言うことを我々現代に生きる建築家はもっと感謝すべきだろうと思いながら、次に訪れる場所に想いを馳せる。

2013年2月12日火曜日

雪国をなめたらあかん


今年の大河ドラマ「八重の桜」に刺激を受けたわけではなく、天地明察にも出てくるような藩祖・保科正之の影響のもと独特の文化を培った雪深き会津の地を前々から見てみたかったが中々機会に恵まれず、やや強行ではあるが決行した会津若松への旅。

リトル東京化し、ゲニウスロキを失い何物でもなくなってしまった数多の地方都市に並ぶことなく、古き良き街並みを残す数少ない街・会津。その土地独特の気候や地形に対して、長き時間をかけて適応され作り上げられて行った風景。その裏に見え隠れするその土地に暮らす人々の自然に対する眼差しと知恵。

歳を重ねれば重ねるほどそういうものに惹かれるようになり、少ない時間を費やして足を運ぶ先として比べても、薄っぺらい現代建築などでは到底及ばない圧倒的な期待感を持ってそこにいてくれる、そんな数少ない魅力ある街の一つ。

「八重の桜」でも描かれるように、幕末に会津では藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が、徳川宗家に対して頑なまでに忠義を尽くすという藩訓を守り通し、時代の流れに抵抗しながら、戊辰戦争の一舞台としてこの地を歴史に名を残させることになる。

期待に胸を膨らませるというのはこういうことだと思いながら、午前で終えた打ち合わせから、予約をいれておいた地域一安いレンタカー屋へと足を運ぶ。

天気予報ではその日の夜半から明日にかけて東北では雪になる可能性があるとのことだったので、レンタカー屋で天気予報と会津地方に向かう予定を伝えるが、まずまったく天気予報を把握ししていないことに驚かされる。

次に万が一ということもあるので、スタッドレスもしくはチェーンの貸し出しについて尋ねるが、「そのような事はしておりません。あくまでも車の貸し出しなのであとはお客様自身で・・・」と、考えられないような返答が。

「誰もそれを望んでないが、もし雪で動けなくなったらどのような対応を取ればいいのか?」と聞くと、まったく分かってないようなバイトのおねーちゃんが「早めに連絡をいただければ、延長という形にできますので・・・」といけしゃーしゃーと言ってくる。空いた口が塞がらないとはこのことだが、嫌な予感は感じつつ、諦めて車へ。

「あれ、カーナビお願いしていたはずなのに・・・」とキョロキョロとしていると、如何にも頼りなさげに吸盤でくっつけられた外付けカーナビがハンドルの前方に設置されていて、「これになってしまうんですよー」と本当に申し訳ないと思っているのかどうかも分からない言い方で説明される。

心配しながらも行き先を設定し車を発信させる。信号で止まって再度発信するときの加速でいきなり「ゴロゴロッ」とカーナビが外れ、足元に落ちていき、コードにハンドルを取られてあわやの状態に。

「なんなんだこれは!」と思いながらも、運転を急に止めることはできないので、手を伸ばしてナビをとりあげ、腿の上においてそこからの指示にそって運転を続ける。赤信号で止まった間に、もう一度吸盤をこれでもかというくらいに押し付けて、これで大丈夫だろうと運転再開。しかし思ったよりも近かった高速の入り口の坂道で、あっさりと吸盤がまた「ポロッ」と外れて、奈落の底に落ちていくナビ。取られそうになるハンドル必死に確保する。

高速に入ってしまったので、止まることもできず、無理な体勢でナビを取り上げ、またもや腿の上からの指示に従い、なんとか一つ目のサービスエリアに車を滑り込ませる。レンタカー屋に電話して、危うく交通事故をおこすところだったと怒りをぶつけるが、「いつもお客さんにお貸ししているものなんですけど・・・すいません。」と、本当に申し訳なく思っているのかどうか、本当に適当な対応に望みも切れて、どうにか対策をと売店に足を運んで事情を説明し、売り子のおばちゃんかにテープを借りる相談をする。

「ガムテープ」は吸着力が弱いから・・・ということで、オススメの両面テープを借りることに。ハサミも一緒に借りて、車に戻って応急手術。ご丁寧にコードまでテープでくくりつけ、術前術後の証拠写真も収めて、これで二度と落ちることは無いだろうとテープとハサミを売店に返しにいくと、「眠気覚ましに」とカリカリ梅をサービスしてもらう。

東北道を飛ばして、郡山を左に折れて、阿武隈高地をいくつかのトンネルで超えると目の前に広がる雪景色。遥かに見えるのは奥羽山脈を形作る磐梯山などの山々。「ドノーマルのタイヤで大丈夫かな・・・」と不安が芽生えながらも、除雪されている高速の道を速度を緩めながら会津若松入り。

高速よりもよっぽど雪の残る下道にややビビリながらも、轍に沿って危なっかしくもなんとか鶴ヶ城に向かうが、轍から外れると雪の山で、スタッドレス仕様で無い車には、ちょっとのターンも一苦労。そんな訳で「市内で郷土料理でも・・・」と思っていた夕食も、狙っていたお店の駐車場に車を入れるのすらかなわず、かえって冷や汗をかくだけだと諦めてコンビニ飯となり、予約していた旅館までちょっとの坂道に完全にビビリながら車をすすめることになる。

この時点で雪国の恐怖は十分味わったので、旅館のフロントで明日の予定地を伝えて、「ノーマルタイヤ」の車で行けるかどうかを尋ねると、「とてもじゃないが無理ですね」というあっさりとした答え。「市内の車が多く通る道なら雪が溶けているからなんとかなるだろうけど、少し街から離れて山のほうにいけば、雪だらけでスタッドレスをはいてても厳しいだろう」という。

「そんなに厳しいのだろうか・・・」とやや疑いながら、天気予報に反してまだ振り出さない空模様を見ながら床につく。

目覚めてカーテンを引いてみると、素人には「積もったのか?」と思うくらいのかすかに降り続ける雪。準備を整えて、再度フロントで聞くと、やはり「市内の主要な道なら普通のタイヤでも行けるだろうけど、高速は規制がかかっているかも・・・」とのことで、雪道での運転のいろはを教えてもらい、車の中へ。

フロントガラスとサイドミラーに降り積もった雪を掃いてもらって、恐る恐る車を進める。旅館の入り口の坂道を一気に上るが、右に行くか左に行くか一瞬迷って止まると、タイヤは完全に雪をかんでしまって空回りし、ズルズルと後ろに下がっていく。焦って踏めば踏むほど下がっていく車を諦めて、平坦なところまでとりあえずコントロールする。

この時点で完全に考えが甘かったことを理解し、とにかく無事にこの土地をでることに目標をシフトして今度は一気に駆け上がり左にハンドルを切る。温泉地なので市内より高い場所にあり、緩やかだが下っている道に積もる雪に乗り上げてはハンドルを取られ、止まろうと思って踏むブレーキも「ガガガ」と滑ってしまってコントロールを失いながら、徐々に状況の深刻さを理解する。

それでも周囲に車がいない状況だから良かったが、市内に入ると、車が通り除雪されている道とそうでないところがあることを理解し、これに行かなければこの地に来た意味をなくしてしまうというさざえ堂にとりあえず向かって車を進める。

やや中心地より離れているので道に積もる雪の量も多くなり、駐車場に入るターンができず、ゆるい坂道で止まることもできずにいるのを、地元民の車は危険を察知し、さっさと迂回して抜いていく。途方にくれながらも、なんとか平坦なところでターンを決めて、強引に駐車場まで車を入れる。戻ってきたときに駐車場から脱出できるかどうか心配しながらも、通気性抜群の靴で靴下をびしゃびしゃにしながらさざえ堂に向かう。

参道も雪に埋もれ、明らかに危険な坂道を眺め途方にくれて、近くのお土産屋のドアを叩いて中のおじさんに事情を説明し、無事にたどり着けるか尋ねてみると、「一本奥の道ならなんとかいけるかもしれないが、今度は桜の季節に来てくなんしょ。」とこんなところで会津弁に遭遇し、意を決して坂道を上がっていく。「上にいっても、まだ誰も来てないから中には入れないよ。」というとおり、外観だけを見るだけに終わり、さっさと車に戻ってこの地を脱出しようと心に決めて坂道を降りていくが、ツルツルとすべって何度も転んで、お尻を濡らすことになる。

駐車場にもどって、なんとか車を脱出させて目指すは会津若松インター。途中の坂道で完全に止まれなくて前の車にあわやぶつかりそうになり、赤信号で止まろうとしても止まりきれずに信号の中に入ってしまっては発進したりと、雪国の運転の厳しさを身をもって体験し、すっかり青くなって高速手前に。

これは何かの規制がかかっているの違いない。というか、この状況ならば高速の入り口の坂道は上がれっこ無いと思い、手前のガソリンスタンドにつっこんで、事情を説明して、高速の規制について聞いてみるが、分からないというのでスマホで問い合わせることに。見事に磐越自動車道は80キロでチェーン規制という。

「チェーンは売っているか?」とスタンドで尋ねても、「いやー、無いですね。」との返答。そりゃそうだろうな・・・と思っていると、付き合いのあるオートバックスに問い合わせてみますよと、なんとも優しい店員さん。「在庫が無いらしいが、信号二つ先のイエローハットにあるようですんで、その車使ってもらっていいですよー。」と徐々にその店員が天使に見えてくるが、「開店が10時だっていうんで、ちょっと待っててください。」とのことで、邪魔にならない場所に車を移動させて店内で待つことに。

素泊まりにしてできるだけ朝早くから寺社を回ろうとしていた予定が裏目に出て、この時点でまだ8時過ぎ・・・コーヒー飲みながら他の仕事の手配の為に、何本か電話をかけ終わってもまだ9時前。「そういえば、チェーンっていくらするんだろう・・・」と思いつき、ネットで検索すると「4万円越えるやつから、2万円前後のものも・・・」なんて出てきて、チェーン規制って駆動輪だけでいいのか、それとも4本全部巻かなきゃいけないのか?などと、雪国生活に慣れてないために完全に焦りだし、例のイエローハットに電話して問い合わせ。

優しい感じの副店長が対応してくれて、事情を説明すると、開店前だけど対応してくれるから今から来ていいとのこと。ガソリンスタンドの店員に事情を伝え、「車使ってください!」といわれるが、先ほどの止まらないブレーキのトラウマが過ぎり、歩いていくことに。

ツルツルすべる氷道を踏みしめ、徒歩で10分ほどのイエローハットに。回転準備中のスタッフの方に事情を説明し、中に入れてもらい、電話で対応してくれた副店長につれられてチェーン売り場の前に。2万3千円のものと、1万3千円のものがあり、機能的にはあまり変わりは無いというので、もちろん安いほうでお願いする。結局駆動輪に巻けばいいということで、ちゃんと箱には2本入っているのを確認して、お会計。とんだ出費になってしまったが、雪国をなめた授業料だと理解して、結構な重量の箱を抱えて先ほど来た道を滑りながら帰っていく。

チェーンをつけるなんて、大学生時代以来のことだなと思いながら、手伝ってほしいオーラを出しつつ一人で始めるが、どうにも給油の客が続くらしく、二人いる店員さんはなかなか気づいてくれず、しょうがないので説明書を片手に車を降りてはチェーンを引っ張ってなどと10分ほどやってみるが、一向にはまる様子のないチェーン。

たまりかねて、一人の店員さんに「申し訳ないですが、手伝ってくれますか?」とお願いすると、客足も止まったようで二人して一緒に必死に手伝ってくれる。「自分達もチェーンなんてはめたこと無いですからねぇ」、と言いながら地面にひざをつきながら手伝ってくれる如何にも昔は悪かったぞという風体の店員さんの姿をみて、この時点で既にココロも満タンししてもらった気になってしまう。3人で汗をかきながら「あと少しなんだけどね」、などと前にだしたり後ろに引いたりとを繰り返すこと20分、やっと一本目がはまる。コツをつかんだ店員さんはその勢いで二本目もはめてくれて、「ガソリン入れてきますよね?」とさわやかに言われると、お礼のタイミングも逃しそうになる。

給油を終えて仕事に戻る彼らを捕まえ、暖かい缶コーヒーを渡しながらお礼を伝え、名前を覚えてスタンドを後にし向かうは高速入り口。そこまでたどり着くまでに、チェーンが無かったら何度事故っていたか・・・と思うような氷道を進み、チェーン購入が間違い出なかったことを確信するが、高速に上ると確かに80キロのチェーン規制がかかって入るが、道自体に雪は残っていない。

それでも外は吹雪なのできっとすべるところも出てくるはずだと、「チェーンつけて普通の道で50キロ以上出すと、チェーンが切れて危険なので必ず50キロを守ってください」とイエローハットの副店長にきつく言われていたので、頑なにその言葉を守り左斜線を走っていくと、スタッドレスをはいた地元の車が明らかに100キロ近く出してビュンビュン抜いていく。その姿を見て、「これは返って危険なのでは・・・」と不安になり、早速一つ目のサービスエリアに車を滑り込ませ、またNexco東日本に電話。

道に雪が無い以上、チェーンは外して通常走行した方が安全なのでは?

チェーン規制がかかっているのは、磐越道から東北道に合流する郡山まで、東北道は規制がかかっていないというが、それなら東北道で走っている車は更に高速で走っていることになり、この50キロ走行だと逆に危険度が増すのでは?

それなら、どのタイミングでチェーンを外すべきか?郡山手前で外したらチェーン規制に引っかかるのか?それとも東北道に入ってすぐに外せる場所はあるのか?

などなど、完全に雪国素人の質問を投げかけ、結局東北道合流口から200mにチェーン着脱場所があるので、そのままで言ってくださいという言葉に従うことにする。

油断して60キロくらいになると「ガクガクブルブル」とハンドルが踊りだし、いかんいかんとスピードを緩めて後続車に抜いてもらい、トンネル内も逆に危ないなと思いながらも、浸すらゆっくりと走行し、通常よりも何倍かけて見えてくる東北道合流口。

200mだからすぐそばだろう、という想いとは裏腹に、結局着脱場所が見つからず、8キロくらい先にやっと見つけるチェーン着脱レーン。生憎やんでいた雪もまた強く振り出し外は吹雪模様。それでも外さないといけないという思いで、膝もびしゃびしゃになりながら、前に出したり、後ろに戻したりとあれこれやるば、どうしてもワンタッチというくせにまったく外れないホックに冷や汗をかきながら奮闘20分。「カチッ」と音と共に、バサッと外れるチェーン。奮闘する間にチェーンのカギに突き刺さられたダウンジャケットから出てくるダウンの白い羽が飛び散る中での一人ガッツポーズ。その勢いにのって、反対側も5分ほどして外れることができ、雪解けのビチャビチャの道に並べて折りたたみ、二度と見たくないと思いながらトランク中に詰め込む。

「滑りはしないだろうな・・・」と恐る恐る合流する本線。そしてスピードを80キロへ。しっかりと路面を捕まえている様子のタイヤを感じ、やはり素人が雪国をなめたらとんでもないことになると反省しつつ、転んでただで起きるのは男が廃ると、予定変更で栃木の隈建築へと車を向かわせる雪の東北道。





2013年2月11日月曜日

鉢形城(はちがたじょう) 1476 ★★


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所在地  埼玉県大里郡寄居町鉢形 
城郭構造   平山城
築城   1476
機能   城郭
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日本100名城
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どうも100名城というと、どうしても天守閣がそびえた立派な風景を想像してしまう。

が、別に現存するのが選定の条件でもなんでもなかったようで、それよりも歴史上の重要性や観光性などを考慮した選定だったようである。そんな訳でこの城も現存せず。

最初はやっぱりちょっとがっかりするが、天守閣は無くても城がどのように奥制されていたのか?それがうっすらとだが確実に分かるように、明らかに人の手によって造成された地形が見えてくる。

それはこの城を造ることに関わった人達がどう考えたか?運送や護衛、防御など城郭に求められた役割をどうやって地形に落とし込んでいったのか?その思考の過程。

その打ち合わせの席にに必ず居たと思われる現代の建築家に当たる人が、何を見て、地形の特性を読み解き、その力を最大化するためにどのような関係性を構築し、どのようなボリュームを立ち上げたか?

自分で好きなだけ、好きな場所を選ぶことができていた人たちが、我々にはすでに見ることも出来なくなった土地のゲニウスロキとどう出会い、どのような会話をしたのか?

お父さんに連れられた城好きそうな小学生が、あちこちに行っては写真を撮っている姿を見ながら、かつてあった風景を重ねようとする。