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2016年2月12日金曜日

宿のクオリティ

数日間、違う温泉地で、異なるタイプの宿泊施設に泊まってみると、それぞれの宿が何に重きを置いているのか、どこまで細かく気を配って接客をしているのか、もしくは商売っ気たっぷりにできるだけコストカットをし、それがサービスの質として出てしまっているのかが見えていないのかなどなど、様々なところを比較することができ、それぞれのサービスが価格に適しているのかどうか判断できることになる。

例えば、昨今の隣国から押し寄せる空気汚染に対応してのことだと思うが、旅館の各部屋に設置された空気洗浄機。もちろんこれもある意味現代における宿側の気配りであり、ありがたいことは間違いなのだが、その音がゴゥゴゥ鳴り響き、静かな宿での時間は見事に壊されることになる。

またこの空気洗浄機。ピカピカと青色に光ったり赤色に光ったりと、吸い込んでいる汚染物質の量によって自らのパフォーマンスを知らせてくれようとしているのだろうが、日常のリビングにあるならまだしも、こうして非日常の旅館に来て、夜寝ようと思っても視界の端でチカチカと光り続けるのはなんとしたものか。

恐らくこうしたことは宿側にとっては、日常の風景であるから気がつくのは難しく、そうなると客側の視点を踏まえて選ぶ機器を選択していくかというところまで気を回すのは、そうとうなレベルということになってしまう。宿のメンバーが客としてどこかで宿泊し、そのときにどんなサービスが心地よく、どんなサービスが過剰であり、どのようにして自らの宿泊施設に取り入れることができるか?そんな不断の努力を積み重ねていくしか、変化の激しい現代社会においては「サービスの質」を向上ではなく維持していくことすら難しい。そしてそこにどれだけ投資をすることができるか。

本日宿泊するのは阿蘇に向かい奥まったところにある温泉街、湯平温泉。その中でも随分おくに位置する旅館に宿泊したのだが、部屋数もスタッフで無理の無いように対処できるだけに留めておいて、自分たちが思う心地よいサービスを提供することができるようなシステムをどうやって作ることができるか。それをじっくりと考え込んだということがひしひしと感じることができる非常に気持ちの良い宿である。

それに比べ昨日宿泊したのは中津市の八面山金色温泉の宿。こちらはコストカットの影響なのか、全体的な商業主義の雰囲気は漂うにもかかわらず、全体的に手と視線が届ききっていないのが見てとれ、数度受付にいっても誰もおらず、頼んだものも部屋には届かず、食堂に食事にいっても係りの人はバックヤードから出てこず、食事の説明を頼むと厨房まで聞きに戻る始末。恐らく地元のパートのおばさん中心に運営が賄われており、正社員でないから宿泊客に快適な時間を過ごすためのサービスを教え込むための教育にも時間がかけられていないのが感じ取れる。

それならばこの二つの宿の価格が違うはずであるのだろうが、そういう訳ではない。そう考えると、湯平温泉の宿の経営努力は素晴らしいものだと思わずにいられないし、また何かの機会で宿泊する機会があるのなら間違いなく湯平温泉を選ぶであろう。

これは高級だからとか、大衆向けだからとか、働く人の質の問題だとかそういうことなのかと、そんなことを思いながらこれは建築の設計の現場でも同じであり、例えば、アマンや星野やの様な快適なサービスを提供することに対して高額な対価を貰うような宿があり、そういう場所で、客の要望を深く考え、一挙手一投足まで考えてサービスを提供し、それに対して喜びを感じるような若者が多くこぞってその様な高級志向のホテル産業へと就職をしていく。もちろん彼らは熱意を持っているから向上心も高く、学ぶことを繰り返して元々高い意識を持っていたのを更に高めていくことになる。

それに対して、最低限のサービスを提供し、安い宿泊料を売りにする施設では、ただただ給料の為に働き、そこでの喜びや自らの向上などはまったく気にせず、与えられた仕事を与えられた時間だけ行い、クビにならないようにこなして毎日を繰り返す。そんなスタッフが集まってくる。

これは異なるニーズをもつ宿泊客がいる限り、それに対応するバラエティをハード側が持つために必然なのであるが、今回のポイントはどの宿もいわゆる同じ価格帯であるにも関わらず、その実は酷い差があるということ。そしてその差はネットで見た限りでは見破ることはできず、そして恐らく一見の客が満足してリピーターとなるよりも、地元の客が気楽にこられるような場所にしていたほうがビジネス的にも都合がいいということなのだろう。

外からの見てくれは非常に良いが、クオリティという意味では大きな差があり、快適さという部分では比べ物にならない。そしてその質というのは、いくら一人ががんばったところで保てるものや達することのできるものではなく、そこで働く一人ひとりの意識の奥まで何を求めるのかが浸透して、付け焼刃ではなく長い時間の末ににじみ出てくるのものであろう。

2015年3月6日金曜日

サービス先進国の日本と日本人

世界中どこにいっても、日本のサービスはいつも先回りして、こちらが何か不便を感じる前にサービスを提供してくれる。それがすでに対価として要求されようとも、不便や不満を感じるということを日常の中から消し去っている。

如何にドイツやフランスといえども、その点に関しては遠く及ばない。ましてや中国などでは、基本的に日常の中は不満や不便で満ち溢れている。

サービスの内容やその効率では明らかに日本は世界のどの国よりも先に行っていると、様々な場所に行けば行くほど感じることになる。

これは旅行者として感じる「不慣れな土地にやってきた人にとっての親切なサービス」というレベルのものではなく、「その土地に住まい日常を生きる人にとってのサービス」のレベルでも圧倒的に日本のサービスは質が深い。

それは常に相手のことに気を遣い、何が相手の為になるか、何をされたら心地よいと感じるのかという「おもてなし」に代表される日本文化とそれを体現する日本人の思慮の深さの成せる業であることは間違いない。

しかし、そんな世界最高水準のサービスに日常的にひたされて慣れきってしまっている日本人の身体。それが一度その水準を知りをしない人々であふれている海外に行くと、そこで待つのは「なんでこんなことも気がつかないんだ?」という苛立ち。今まで当たり前だと思って享受してきたことが、当たり前の様に提供されない世界。

逆にサービスの行き渡っていない国からより充実した国へと向かう人にとっては、そこで過ごす一分一秒がなんとも心地よい、なんとも親切で丁寧なサービスを楽しみ、こんな素晴らしい世界があるものあと感動すら感じることになる。

「水は高きより低きに流れ」

経済でも文化でも万物の法則としてすべてに当てはまるこの格言。

車の交通マナーから、レストランでのオーダーの取り方、お店での接客の仕方、館内案内の分かりやすさ、空港で待機させるときに状況をできるだけ説明して背景を知らせようとすること、予定不順の事態への対応の仕方、買ったものの梱包の丁寧さ、公共空間で大声を出さないことなど挙げ出したらきりが無い。

「快適さ」や「便利さ」という見方で見てしまうと、海外に出る日本人はあるところでただただ苦しむことになる。それならば、今流行の「内向き」とういことで、安寧として国内に留まりマイルドヤンキー化するのが正しいのか。

それとも、それ以外に物事の見方の軸を自分の中に確立し、苛立ちを吸収する緩衝材を手に入れる、それができるかできないかが、ひいては自らをストレスから守ることに繋がるのだと、半ば諦めを持って物事を見ていくことにするしかないのであろう。

2014年12月17日水曜日

ブルジュ・アル・アラブ Burj Al Arab Atkins 1999 ★


恐らく「世界で一番有名なホテル」として名前が挙がるとしたらこのホテルではないだろうかと思われるブルジュ・アル・アラブ(Burj Al Arab)。新興都市ドバイの経済成長のアイコンとして1999年の以降何度もメディアを賑わした7つ星ホテル。

一体何の基準で「7つ星」になるのかと調べてもなかなか明確な基準が出てこないが、まぁ兎にも角にも贅を尽くしたホテルだということであろう。

建物はペルシャ湾に面するビーチから300mほど沖合いに作られた人工島に建ち、そこまではホテル専用の橋によってアプローチをする形になっている。ホテルの高さは328mで、当時としては世界最高の高さを誇るホテルとしても有名になったが、周囲に比較する建物が無いので、それほど高い建物だとは思えないのが不思議である。

「設計は誰だっけ?」と同行人と話していると、「フォスターじゃなかった?」と答えが返ってきたので、「確かにありうるな・・・」と納得したが、その日の夜に食事をした協力会社の代表の人から聞くと、イギリスの組織設計のアトキンス(Atkins)だという。

やっと橋の入口に着くと多くの観光客らしき人たちが写真を撮っている。厭な予感がするなと思っていたら案の定セキュリティと思われる人に止められて、「宿泊客じゃなければここから先は入れない」と言う。「中のバーかレストランでお茶をしたいんだ」というと、「それなら予約が無ければ入れられない」というので、「では、ここで予約をとりたい」というと、「一人ミニマル・チャージが250AED」だという。

「何もかもがお金か・・・」とげんなりするが、ここまで来て内部を見ないのも癪なので、それでよいから予約をとりたいというと、「クレジットカードの番号を控えさせてもらう」と。上階のレストランは予約で一杯だから、空いているのは中華レストランだといわれ、しょうがないのでそこでいいから予約を取ってもらうことに。

待つこと暫く、やっと中と確認が取れたというので、ゲートを開けてもらい、ビーチに寝そべる観光客達を眺めながら、ペルシャ湾の水が以外に青いということに驚きながら、到着するロビーは、中に入ると左右にカラフルな魚たちが泳ぐ大きな壁面水槽の脇にエスカレーターが設置され、中央には段々状になったところに人形と噴水が設置されており、「これほど高級ホテルのロビーでこれだけ品疎な空間か?」といぶかしんで上を見上げると、背の高いアトリウムが北側のガラス面から白い布を通して光を取り入れ、三角形の吹き抜けに面した二面に面する各客室へと光を届けている設計になっているようである。

それにしても内部の設計もそして内装も、とても7つ星と銘打つようなクオリティには思えず、ロビーで大声で話しながら記念写真を取っている中国人の客の様に、どこかで見たことのあるデジャブ感は拭えない。

胡散臭さを感じながらエレベーターで上階へ。その先に廊下となっており、中国の地方のホテルに併設されているような安っぽくはあるがうっているものは、ビカビカのアクセサリーという如何にも成金趣味のショップが軒を並べ、その先に小さな受付。そしてその受付の脇からやっと外の海が眺められる構成。

ここまで建築空間としての豊かさは皆無。恐らくロビーや公共空間など、敷地との関係性でどの様な豊かな空間を作り出すのかが目的とされたのではなく、LEEDのプラチナムを取るにはどのような設計が必要かと考えるように、7つ星として認定されるにはどのような設計が必要か、世界の中で贅沢なホテルといわれるためには何が必要か、という視点で設計がされ、全体のないバラバラな局所のみの設計に終始した印象は否めない。

そんな訳で予約したレストランにどの様にたどり着けばいいのかを知るようなサイン計画がされている訳でもなく、建築的にどちらにいけば公共空間があるのかが分かるような明確な空間構成がされている訳でもないので、しょうがなく受付で予約したレストランの名前を告げると、エレベーターで下の階に行けと。

エレベーターホールもなんだかげんなりするような内装で、そこで一緒になった中国人客の話している言葉を聞いていた連れの上海人は、「恐らく福州人だろう」と言う。なるほどと、なんだか納得する。

エレベーターを待つ間に、ホテルのスタッフに「全部で何部屋あるのか?」と聞くと、「部屋じゃなく、全てスイートだ」と答えられ、サービスという概念よりも、ここに泊まるステイタスだけを求めてくるテイストの無い客相手にしているホテルマンらしい対応にまたまたげんなり。

中華レストランに着くと、窓辺の席に通され、「1ドリンクで2ディッシュか、2ドリンクで1ディッシュかを選べ」と言われ、お昼を取ることなく歩きとおしてきたので、喉の渇きを潤すために少々くつろぐことにする。

クライアントからの連絡を待ちながらも携帯の充電が乏しくなってきた連れが、「iPhone5の充電器を貸して欲しい」とリクエストするがそのウエイターは「了解」と言ったっきり全然戻ってこなく、別のスタッフに頼むと携帯をどこかへ持っていってしまい、その後何の報告も無い。こんな感じで様々なところにサービスとして疑問符がつく部分が余りに多く、とてもじゃないがリラックスして雰囲気を楽しむような場所ではないようである。

中国人と思われるスタッフに聞いたところ、今では宿泊客の多くが中国人観光客になっており、それに合わせたレストランなどに仕様を変えているという。

これ以上ここにいても、何かしら得るものは無いだろうとの判断で、そそくさとドリンクと軽食を平らげ、費用対効果をどう考えているのかと思われる金額を支払い外へ。ロビーでタクシーを拾おうとすると、例の高級レクサスタクシーしかないといわれ、「それなら外まで歩いて普通のタクシーを拾うよ」と先ほど歩いた橋を再度歩いていくことにする。

砂漠の中に生まれた蜃気楼のような都市に、世界一のアイコンを何としてでも冠する為に生み出されたキメラの様なホテル。「グランド・ブダペスト・ホテル」の様なホテルマンの愛の感じられるホテルとは対極に位置するホテルであろうと思いながら橋を渡りきる。















2014年2月11日火曜日

少々の不自由さ

北京に戻り、冷蔵庫を開けるが暫く家を空けていたのでこれといった飲み物が無い。そんな時思うのは、深夜にも関わらず、すぐに外にでて近くのコンビニで何十種類の中から好きな飲料を選ぶ。そんな日本の便利さはここにはない。夜には閉まるスーパーが朝に開くのを待つしかない。

こんな些細な事だけと、日本にいると当たり前のことがどれだけ過剰に便利であり、心地よい環境かということを思い知る。

これを企業努力というのだろうが、人は少しでも便利だと思う事、快適だと思う事にお金を払う。それが企業にとって少しでも儲けに繋がる、利益になれば、様々な手段を使って開発される。競合他社よりも一時間遅くまで営業していれば、利益がどれだけ上がる。ほかよりもより近く、高密度で店を展開すればどれだけ売り上げが上がる。

高度なマーケティングのシュミレーションと組み合わされ、住まう人はデータを作り出すパラメーターとして把握される。そこには、快適な調整された環境で育てられた動物が、いきなり厳しい野生の中に放り込まれたら自分を守ることもできずに死に絶えてしまうような、「人はどこまで快適さを与えられたら、厳しい現代社会で生きていくうえでの力を無意識のうちに失っていくか」などという要因は加味されない。

確かに便利になったり、快適さを感じたりすることに流れるのは止める事ができない。ただ、それが世界の他の国と比較して、どれだけ差異化されているのか?多様である他の国では、どれほど日本から見たら低いといわざるを得ないスタンダードで多くの人がそれを当たり前として暮らしているのか。

それを認識せずに、ただただ全てを与えられ、すべてを経済性から捉え、対価を支払う事で進歩したサービス産業の恩恵を受けるんだと開き直ることで、どんどんと楽に慣れた堕落した人間を作り出してしまうのではと思わずにいられない。

コンビニの例だけではなく、様々な場面において一つの事をこなそうとする時のハードルが過度のサービスの発展の為に、非常に低くなっている現代の日本。しかし提供されるサービスが向上するのは、それはあくまでもビジネスの一環であるから。そこに利益があがるというシュミレーションが働くから。

もし、そこが限界集落、極点社会へと針が振れ、利益の見込みがなくなった時には、恐ろしいくらいにあっさりと撤退していくのが競争に晒された企業の本質。日本が人口を失い、国の枠組みが少し外に開き始めれば、外部のスタンダードが大量に流入するのは眼に見ていてる。

そんな時代を見据えると、至れり尽くせりのサービスにどっぷりと精神を浸して過ごすのではなくて、人が健康的に生きていくのに一体どの程度が適切か、自ら判断しながら、世界の標準と距離を測りつつ、しっかりとサービスの中から意識的に選択して付き合っていく必要があるのだろう。

少々の不自由さの中で生きたほうが、人は困難を克服しようとする力が養われる。特に小さな子供には、できるだそんな環境で育っていくのがいいのではと思いながら冷蔵庫を閉めることにする。

2014年1月19日日曜日

「下流大学が日本を滅ぼす!――ひよわな”お客様”世代の増殖」 三浦展 2008 ★★★

数年前まで大学で若い学生相手に建築の設計を教える機会をいただいていた。

「人に何かを教える」ということについて、随分悩み、教育とは何だろうと今まで手にしない様な本を手にし、と同時に専門の内容も古典から現代までできるだけアップデートしながら毎年新学期に望む、そんな生活を数年に渡って過ごしていた。

そんな訳で学生の質の変容だけでなく、学校の体制や他の教師の面々など、様々なことを感じながら過ごした数年間の後だからこそ、この一冊が随分実感を伴って読み進めることが出来る。

恐らく現代においては、多くの学生が目的意識などなく、学習意欲など無いにも関わらず、取り合えず大学くらい行っておかないと、大学くらい出てないと就職にも不利だから、などという消極的な理由にて大学受験を行っているのだろう。


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今や大学を選ばなければ誰でも大学生になれる時代なのだ。

バカが多い大学はイヤだという噂が広まると、受験生が減って、学生が減って、大学がつぶれて、自分が失業するからである。

大学によるバカの大量生産
大学自らの保身の為にバカを大量生産している
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という導入部分に見られるように、全入時代を迎える前からも、一部のトップ大学以外においては、定員数の学生を得続ける為に、ある種の客商売のようなことが横行し、大学がその教育の質ではなく、他のサービスで学生とその親に媚び始めていたのは間違いないのであろう。

大学というのは、特別な専門知識を身につけるための場所であり、そこに通うのは贅沢であるのと同時に、ある種の選ばれたものでしか与えられなかった権利という時代のイメージだけが残りながらも、とうの昔に実体は大きく変わってしまった現代の日本。

「大学が商売になる」ということを嗅ぎつけ大学を増やし、本来なら若者に専門知識を教えるような立場に付けるようなレベルでない人々にも教授と言う安定した収入と立場を与え、本来なら大学に通うことなく、高校卒業と共に、社会に出てそれぞれの技能を身につけていくべき立場の人間も、親が援助してくれ、対して勉強もできないけどなぜだか入れる大学があるから、何とはなしに大学になって4年間を無為に過ごす。

一般的な社会を構成する為に、その何%に当たる人が大学という専門的知識を巳に付けていなければ社会が成立しえないか?といったら、恐らく20%にも満たないのではと思わずにいられない。

つまりは、高校卒業くらいの知識があれば、十分に幸福な職業人としての人生が送れるべきであり、大学へ進学するのは国や地域の為に役に立つべく高度な専門知識を得るために、大変な努力をし、その権利をつかんだ人間だけに与えられる時間であるべきであろう。

社会が成熟するにつれて、大学への進学率が上がるのは止められない。経済が成長するにつれて、それぞれの親が子供により高い学歴を得させたいと思うのが、競争社会においては避けられない。

しかしそれを放置することが本当に社会にとって良いことであろうかどうかは、政府なり誰かがしっかりと議論をするべきであることもまた事実。


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・私立大学では一般入試での合格者が半数以下
こどもの数が減ったから
進学率を上げないと学生の数が足りなくなる 学生が足りないと大学がつぶれちゃう
AO入試 アドミッションズ・オフィス入試

・AO入試組はウソつきばかり?
辛い受験勉強をしないAO入試組は一般入試組と学力において大きな差
大学が完全に大衆化
精神力は体力に比例する

・生き残りをかけた値引き合戦
大学側の生き残り戦略以外の何者でもない
・若者の人気スポットに大学集中

・学歴社会はより強固になっている
・酒の飲み方くらい大学時代に覚えるべきだ
・大学の先生自体が下流だ
・高校は職業に結びつかない
自分の会社の中でだけ通用する人間では生き残れない

・大学を出たけど何をしていいのかわからない
・大学も甘ければ、親も甘い
家族の問題
子供をペット化している
愛情と言うものを誤解しているのではないか
本来は自立するためにしつけとか教育をしていかなきゃいけないはずなのに、それは全部学校に任せている。いい大学、いい会社に入れることが親の役割と錯覚している人が圧倒的に多いのではないだろうか。
・授業料欲しさに高学歴ニートを量産

・教育費に圧殺される家計
・大学全入は大学貧乏と下流を増やす

・大学進学率は20%に
・職業大学をつくる
・若者を早く社会に出す
・大学では教養が必須
・履修ではなく習得を重視する
・大学の数を減らせる
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上記の様に本書の中で展開されるのは、大学の自己保身、大学教授の利権確保の為に、本来大学に進学する必要の無い水準の学生達が、親の経済的裕福さのお陰と、授業料さえもらえればいいという意識の低い大学サイドの思惑に乗せられて大学に入学し、結局何も身につけることなく卒業していき、どうしようもないレベルの低い社会人を大量生産しており、この現象は国に何の利益ももたらさないどころか、この利権構造はこの国の将来すら蝕むので、この際教育制度の改革をしたらどうかという内容。

恐らくどんなレベルの高いといわれる大学でも、本当に学問に喜びを感じ、自らの将来の為に日々ストイックに学ぶ学生と言うのは1割ほどというところだろう。8割ほどが可も無く不可もなく、ほどほどで単位を取得し、1割ほどが落ちこぼれる。そんなところか。

どんなに理想を掲げても、それでも社会は確固たる学歴社会がまかり通る。自分の子には苦労をかけたくなかったら、少しでもよい大学にいって学歴的優位性を手に入れさせたいのが親心。

しかし人口が減っていき、人口構成のバランスも変わっていくこれからの日本。今までの様な形では国が持たなくなるのは目に見えている中で、歪な構造はどうにかして修正していかなければいけない問題のど真ん中に位置するであろう教育の問題。

「こんな聞いたこともない学校で一体何を学んでいるのだろう?」と思うような大学にも、そこで教壇にたって学生の相手をしている教授がいる事実。一体その教授はどんな背景を持ってその場にたどり着いたのだろうかと勝手な想像を働かせたくなるものである。

専門的向上心の無い人物の昔取った杵柄とかなんやらで、ただただ安定した生活の糧として授業を受けることになることほど青春の浪費に違いない。と同時に、何の為に授業に出ているのかも考えることも、自分の将来がどういう風に進むのかも考えることも無く、ただただ惰性で単位の為に出席する学生相手の授業も同じくらい無為であろう。

若者が減り、生活水準が上がり、国の形が変わろうとする現代。今こそ教育、そして大学の在り方を再度考え、定義しなおす時期に違いない。大学が努力をし、学問を望むものだけの特別な場所であり、その難関を突破した学生にはドイツの様に、無料ほどの授業費で学問をさせてあげ、若くて活力に溢れ、まさに職業的向上を求める教授達の熱のある儒教を与えてあげるべきであろう。

その為には基準に満たない大学にはあっという間に消えてもらい、基準を満たした大学にも同じく、内部で既得権益となっている部門や学部にはメスをいれ、大いにスリム化と若返りを図ってもらいたいものである。

地域格差などと言うかもしれないが、やはり高度の学問を得るためには中心に出て行くことは避けられないであろう。中心までの距離が大きければ大きいほど、その人々の決意も強くなるであろう。

大学ほど既得権益の温床になりやすいところはないと本書でもあるが、国の根底を支える学問と、国の将来を担う人材を育成する大切な機関だからこそ、あるべき姿に少しでも早く戻って欲しいと願わずにいられない。

そうでなければこの世界的競争時代。誰がそんなデメリットの多い日本の大学に子供を通わせようというのだろうか?という時代がやってきてしまうと思わずにいられない。

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目次
第1章 大学がバカ学生を大量生産する
・偏差値48の高校からでも上智大学に推薦入学できる
・私立大学では一般入試での合格者が半数以下
・AO入試組はウソつきばかり?
・AO入試は見直しの方向
・証言①AO入試がバカを生む
・菓子パンの食べ残しが教室に散乱する女子大
・バカも大切なお客様
・証言②こんなバカ学生がいる
・泡を吹いて倒れる学生
・打たれ弱い、うつ気味の学生が増加
・メールで同期に「おはよう!」
・仕事のトラブルも同期に相談
・証言③打たれ弱い、すぐ泣く学生たち
・体力がない
・証言④いじめ世代の若者達
・時間のゆとりのない、ゆとり教育
・妙にまじめ
・証言⑤冗談が通じない学生たち
・証言⑥ゆとり世代の大学生
・大学こそが学力低下の原因
・教養の崩壊
・大学に学力低下を批判される筋合いは無い
・参考資料①学生の56%は基礎学力が無い
・参考資料②新しい学習指導要領の主なポイント

第2章 お客様化する学生とモンスター・ペアレンツ
・今の大学教師はファミリーレストランの店員みたいなもの
・クレーマー化する親
・宿題を出すとパワハラだと言う、バカ親
・モンスター・ペアレンツ急増
・消費者の歪んだ、サド的快感
・ファミレス、回転寿司化する大学
・証言⑦モンスター・ペアレンツ
・幼児化する学生
・ビデオカメラを持った親が、武道館に溢れる入学式
・低階層の親ほど、大学に文句を言うのか?
・子離れしない親
・証言⑧なぜ、モンスター・ペアレンツが生まれたのか?
・授業評価制度で、ますます増徴する学生
・証言⑨増長するバカ学生
・タレント教授花盛り
・忙しい有名人の為の新たな役職「特任教授」
・大学は吉本に運営してもらえ
・生き残りをかけた値引き合戦
・若者の人気スポットに大学集中

第3章 バカ学生は社会では通用しない
・今の新入社員は大人免疫力がない
・お客様大学生からお客様社員へ
・証言⑩新人教育で疲れ果てる
・同期同士がほめあうのはいじめの影響?
・証言⑪ゆとり社員に四苦八苦
・学歴社会はより強固になっている
・証言⑫企業人事部が重視する学歴
・大学が入学させるべき人間の基準は何なのか?
・酒の飲み方くらい大学時代に覚えるべきだ
・大学の先生自体が下流だ
・大卒者の72%が「友達づくり」に大学の意義を見出している
・社会科学系の大学生ほど何も得ていない
・経済学なんてわからない
・高校は職業に結びつかない
・高校にきてから教えても遅い
・大学を出たけど何をしていいのかわからない
・大学も甘ければ、親も甘い
・証言⑬子離れしない親達
・友達が作れない大学生、国立大の休学率は約20年で3倍
・授業料欲しさに高学歴ニートを量産
・大学院まで行って社会不適応者

第4章 「大学貧乏」の登場
・大学生のいる家庭の平均年収は低下
・教育費に圧殺される家計
・ケース1 通勤を車から自転車に変えて学費捻出
・ケース2 年収750万円の半分が娘の為に飛んでいく
・ケース3 両親の思いと裏腹に遊びまくる息子
・ケース4 大学進学のため、マイホームの頭金を切り崩す
・ケース5 無理やり大学に入れたが、バイトのほうがためになるという息子
・ケース6 ホステスをクビにして学費を捻出
・東大がタダの時代
・大学生の4割が奨学金制度を利用しているが
・ケース1 飲み大に消える奨学金
・ケース2 車を基準に大学を選ぶ
・ケース3 入学と同時に水商売を始める
・ケース4 入学金が払えずに二浪して授業料を貯める
・ケース5 奨学金をパチンコで使い果たすギャンブル狂女子
・大学全入は大学貧乏と下流を増やす

提言 オンライン大学で下流脱出を
・教育制度改革の提案
・大学進学率は20%に
・職業大学をつくる
・若者を早く社会に出す
・大学では教養が必須
・履修ではなく習得を重視する
・オンライン大学の提案
・地域格差、教育格差が縮小する
・時間に縛られずに学習できる
・学歴主義の解消
・教授の負担が軽減
・大学の数を減らせる
・地域拠点を作って交流の場に
・心の弱い若者はどうする?
・生活の知恵を学べる総合学習なら意味がある
・生活能力の格差を縮める
・携帯電話で大学に通う

あとがき
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2013年6月2日日曜日

シドニー Sydney Day 1


カンファレンスだからといって、ついでに何日も休めるほど世の中甘くは無く、せいぜい今進めているオペラハウスの設計の参考になるようにという大義名分を持って世界遺産にも登録されているシドニーのオペラハウスを見に行くために二日間だけシドニーに足を運ぶくらいがいいところ。

という訳で、少しでも時間を有効活用しようと南半球にまで来て相変わらず忙しなくし、早朝7時の飛行機に乗るために前日から5時半にと頼んでおいたタクシーを待たせながらチェックアウト。

完全に残念な空模様の下、「大きな国だからシドニーあたりまで行けば青空が覗いているかも・・・」などと甘い思いを抱きながら機内に入って即睡眠。

到着したシドニー空港だが、やはり雨模様。タクシーの運転手にも「メルボルンから雨空を連れてきちゃったねぇ」と言われながら、なんとか晴れろと祈りながらホテルに向かう。

オーストラリアに着いてから、その驚愕の物価の高さにつねにビビリながら行動していたが、着々と上がるメーターの数字を横目に捉えながら、カンファレンス出席者に配られたタクシー・チケットがこのシドニーの地でも使えますようにと願うばかり。

そして着いたホテル。アーリーチェックインをお願いしてなかったので荷物を預けて近くで朝食でも・・・と思っていたが「東京好き」とやたらと東京での体験談を話してくるホテルのスタッフがあまりに気さくで、「部屋を空けたので先に入って休んでいいよ」というので、ここまでの疲れもどっとでて、昼の約束までつかの間の睡眠。

半端ない物価の為に値段とグレードのバランスをとって、それでも他の国なら相当高いと思えるが「一晩だから・・・」と予約したこのホテル。良かったのは最初のスタッフの対応のみで、「一体どれだけ古いのか?」と思うような内装で、もちろんそのサービスも褒めれたものではない。

「朝食は後で部屋の冷蔵庫にパンなどいれて置くので、自分で焼いて食べて下さい」。始めての経験でそれなら素泊まりで安くする方が潔いのに、これで「朝食付きだとうたうのか・・・」と唖然とする。

まさかと思うが部屋に歯ブラシが無いので、忘れたのかと思って電話すると「レセプションで売っていると・・・」。唖然とするほかしょうがない。悔しいので、近くのコンビニに買いにいくと4.5ドル。またまた唖然とする。なぜ歯ブラシが450円?ホテルに戻って値段を確認しようとすると、3ドルだと。しかし一つしかないと。がっくりと肩を落としながら購入。歯磨き粉も合わせて購入。計5ドル。日本のデフレが懐かしい・・・。これで今夜は人生でいちばん贅沢な歯磨きになりそうだとがっくりと肩を落とす。

そんなことがありながら、数時間の睡眠で少し体力を回復し、ティムに紹介されたシドニー在住の若手建築家とランチの約束に向けてホテルを出発。なんでも555番のバスは無料で市の中心部を回っていて、それに乗ればオペラハウス近くの駅までいけるという。

「流石は観光都市シドニーじゃないか。」と思いながらバス停に行ってまってみるが、待てども待てどもやってこない555。その間に999でもやってきて、メーテルと一緒に宇宙旅行にいけるんじゃないかと思うくらい待たされ、約束の時間に遅れるわけには行かないので近くの人に聞いてみると、間違いなくそのバス停で合っていると。

と、思っているとやってくるのが世の常。冷たい雨から逃れて乗り込むと、路線図などはまったく無く、どこで降りていいのかもつかめない為に、「なんて観光客フレンドリーでない都市なんだ・・・」と思いながら運転手にオペラハウスに行くにはどこで降りたらいいのかを聞いてスタンバイ。

よくよく聞くとこの555。平日は朝の9時から15時まで。週末はそれが17時までになるのだという。「一体誰が乗るというのだろうか?」。この都市に住み、まともな生活をしている人はその時間は間違いなく仕事をしているだろう。では、観光客用かと思えば、15時に観光を終えるような人がどこにいるだろうか?

それにこの分かりにくいうか、そもそも情報が足りてないし、少ない情報も始めて訪れた人に分かる様に表記されていない。この街に来てくれる観光客がどういう思いでこの街を巡るのか?そういうことにまったく思いを馳せたことが無いのだと容易に想像がつく。

そんなことを思いながら着いたサーキュラー・キー。メルボルンと違って入り江の街だけあって、フェリー乗り場に並ぶ船の姿に少々気分も高まってくる。しかしそれと反比例するように強くなる風と雨を耐え凌ぎながら、岬の先のオペラハウスまで足を進める。

感動的なファースト・コンタクトとは行かなかったが、とにかく時間に遅れることはできないということでエントランスを探しながら中へ入る。レセプションあたりをうろうろしていると、「ヨースケ!」と声をかけられ、昨晩会ったガブリエルの姿が。

明日のコンペの締め切りにも拘らずランチの為に出てきてくれたことを感謝して、とりあえず彼のオススメのレストランへと場所を移動する。1階には床下にシドニー全体の建築模型が設置されていて、街の成り立ちや、今進んでいる再開発の動きなど詳しく説明してくれて、とりあえずシドニーの全体像を頭の中に入れる。

最上階に上がって、雰囲気の良い海鮮レストランでワインを空けてたらふく牡蠣を平らげる。「衛生面を気にせずに生ものが食べれるのもあと一日」だと思うと、一つ一つの牡蠣がよりジューシーに感じるから不思議である。

お酒も手伝って、オーストラリアのカソリックとプロテスタントの決して交わることの無い二つの世界のことや、自らもイタリア系というように、移民がどのようにこの国で受け入れられ社会を構成しているか。また今進めている建築の仕事から将来の夢や、学生時代に言った日本やヨーロッパの建築について、兎に角人が良さそうに喋る姿は非常に、きっとクライアントや年上の建築家にも可愛いがられるのだろうと勝手に想像を膨らませる。

どこに生まれたとか、何をしているかというよりも、こうして世界のどこにいても、同じようなことを楽しいと思い、同じようなことに情熱を傾け、同じような言葉で喋れる人たちがいるのは幸せだと話し合い、結局それは同じような教育を受けてきたかによるんだろうと話が飛ぶ。

そんな話をしてランチを終え、さっきからちらちらと見えている近くの建物がどうにも見覚えのある風貌で、どうしても気になるからと腹ごしらえついでに3人でそちらに歩いていくと、やはり出てきたのは「1 Bligh Street 」。

共同主宰するMAD Architects設計の「Absolute Tower」もノミネートされていたCTBUH2012年最優秀高層建築賞で見事に一等をかっさらっていった少々の因縁のある建物。

そんな経緯を妻とガブリエルに伝え、「なんとかあのロビー空間から上を見上げたいんだ」ということで、以前来た時は普通に中に入れたから、という彼の言葉を頼りに入り口まで行ってみるが週末ということで閉まっている。警備員さんを捕まえて事情を説明すると地下の警備室に連れて行かれ、明日改めて来てくれと言われるので、明日の再訪を誓い、更にコンペの締め切りに戻るというガブリエルと別れてオペラハウスのツアーに申し込みに行くことにする。

丁度雨も上がってきて、やっと青空バックに撮影できるオペラハウスに気分も高まり、本日最終の5時からのツアーに申し込みをして、周辺を撮影しつつ、折角だからとガブリエルからも進められた「ロイヤル植物園」まで足を伸ばすことにする。

入江なので波も高くなく、海面が大きな塊の様に感じながら、雨上がりで日の光に反射する様々な緑を楽しみながら、既に沈んで来た太陽から目を守りながら岬の先の絶景ポイントまで散歩する。

逆光ではあるが、ハーバー・ブリッジとオペラハウスを一緒に撮影できるというスポットで休憩をし、今度は広大な植物園を横断してフェリー・ターミナルを横切って現代美術館へ。こちらサイドからみるオペラハウスもいいなと思いながらも、入り口からいきなり大階段という大胆な現代美術館の拡張施設を横切りながら、そろそろツアーの時間だということで、サイド港をぐるりと回ってオペラハウスへ。

このツアー。大体1時間くらいなものなのだが、大人一人で35ドル。「ディズニーランドに入れるな・・・」と思いながら、総勢30人近いグループに入り、一人のガイドのおじさんの説明を聞きながら建物を巡る。生憎また雨が降り始めるが、日も暮れて、岬の一番端に位置するホワイエ・スペースから美しいハーバー・ブリッジを眺めることができたり、構造的にも意匠的にも時代の先を行っていたウッツォンのデザインが実現され、素晴らしい内部空間を堪能し、一時間で終了。

たまたま開催されていたライティング・フェスティバルの為に、港周辺の建物がライトアップされ、様々なライティング・ショーが繰り広げられるのを目的に、夜のサーキュラー・キーは人だかり。流石に歩きつかれたので、高い値段ではあるがレストランに退避して早めの夕食を楽しむことにする。

少し体力が回復したところで、夜はフェリーに乗って、ライティングされたオペラハウスを見るのがオススメだと、主宰者のジョンから聞かされていたので、せっかくだからとフェリー乗り場へ。

夕食でもその物価の高さにかなりのダメージを与えられたので、何とか良い方法はないかと探していると、ガイドブックを見ていた妻が一日乗り放題券の存在を見つける。近くのキオスクで購入できるというので行ってみると、1日乗り放題チケットが一枚23ドル。やはり高い。しかしバスもフェリーも鉄道も乗れるという。今から買えば、24時間で明日の夜に空港に行く鉄道も乗ると考えるとこれが一番お得とそろばんをはじく。

そして売り場の若者に確認する。「1日は最初に使った時から24時間でカウントするのか、それとも夜中の24時を回ったらもう使えないのか。」

前者だというので次の質問。

「では、空港までこれで行けるか」確認する。

問題ないという。

ならばと二人分購入。そして近くのフェリー乗り場にいき、チケットを使う前に再度確認の為に係員に聞いてみると、「1日券はその日の夜12時を回ったら有効期限が切れる」という。その言葉に愕然・・・どうなっているんだ、この国は。「購入したところで返金してきてもらいな」というので、がっくりと肩を落として戻ることに。

しかし、二人に聞いて半々の意見なら、ひょっとしてフェリー乗り場の人が間違っている可能性もあるかというので、置いてある市の公共交通のパンフレットを手にしてみるが、どこにもその情報は書いてない。そこで別の人を捕まえて聞いてみるとやはりその日の夜で切れてしまうという。どういうシステムなんだ・・・と叫びたくなるがしょうがない。

キオスクまで歩いて戻るのも結構距離があるので、と思っていたら、妻がこのチケットを明日に使えばよくないかというので、既に何を信じていいのかわからなくなり始めていたので、再度フェリー乗り場に行って係員に「今日購入したチケットを明日から使用することは可能か?」と聞くと、それは大丈夫とのこと。

そんなこんなで体力と気力を消耗して、二人ともくたくたになり、今日は早くホテルに戻り、明日早くから行動しようとバス停に。そのバスに乗るためのチケットは、バスでは支払えず、またしてもキヨスク的なところで購入するシステムらしく、どこで購入できるのかを再度探すこと30分・・・「夜の7時を過ぎたらバスでも支払える」との情報を得てバス停に・・・

バス停には路線図も無いので、やってくるバスに乗り込んでは運転手に聞いて、どの番号のバスが行くのか確かめる。次は時刻表がまったく分かりにくい表記になっているので、いったいどれだけ待てばいいのか把握することなくただひたすら待つとやってくる333。ここは銀河鉄道999の世界か・・・と思いながら乗り込んで二人分を払おうとすると、「このバスはプリペイドだからバスでは払えない」との答え。

開いた口が塞がらない。というのはこのことだと思うが、なんのためのプリペイドだ?そんなことを観光客が分かると思うのか?などと頭の中からあふれ出てくる言葉を何とか胸の内に留め、次なるバスを待つことに。

やっとのことで、ホテルに戻ったときには二人ともぐったり。冷蔵庫の中を開けると、食パン2枚とカップのヨーグルトが申し訳無さそうに置かれている。「食べることは無いだろうな・・・」と思いながら、高価な歯ブラシで歯を磨いて床に就くシドニー一日目。