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2016年2月9日火曜日

一橋大学空手道場 KINO architects 2012 ★★


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所在地  東京都国立市
設計   大出産業
施工   大成建設
竣工   2012
機能   空手道場
規模   地上1階
建築面積 240.00㎡
延床面積 240.00㎡
構造   S造一部木造
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2014年 日本建築学会作品選集新人賞
グッドデザイン賞  受賞
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建築学会賞が発表されると、「今年はどんな流れなのか?」と楽しみに早速マッピングして目的地を増やしていく。2015年の作品賞である「上州富岡駅」と「工学院大学弓道場・ボクシング場」は国の政策が見え隠れするかのように、木造構造の新しい可能性を見事に作品に仕上げた二作であり、これはぜひとも近いうちに見に行きたいと思う。

そんな中に新人賞としてこの「一橋大学空手道場」の入選しており、調べてみるとグッドデザイン賞など他にもいろんなところで評価されているようである。そんな訳で少し見てみると、大学の空手部の道場ということで限られた予算である中で、切妻という方向性の強い形態が必然として盛ってしまう採光の問題。そして室内の運動空間であり、なおかつ武道というかなりの声を出す競技ゆえに周囲の住宅地への騒音とならぬように窓を開けはたつことができないという条件から、できるだけ内部に環境負荷を低減した温熱環境を作り出すか、そのためにどうにか自然換気の道を作り出してあげるか。

そんなことから切妻をいくつかに分割し、内側のところで屋根を折り曲げてのこぎり屋根とすることで北側採光を確保し、南側にガラリと通して空気を取り込み、床下に通して層状に空気を上昇させることで、室内に一定の空気の流れを作り出すということらしい。

非常にシンプルな方法で、かつ高度な技術も、高価な素材も、アクロバティックな形状も使うことなく、「住宅街に囲まれた大学施設内の空手道場」という特殊な機能要求に充分に答えていることがその評価に繋がっているようである。

ある種のポリティカル・コレクトネス。誰に説明しても、何の反対意見も出ないであろう、非常に正当な解答であり、環境建築の授業で挙げられるパッシブ・ハウスの設計手法をうまく組み合わせた作品であり、それが住宅でなく特殊な機能を持った建物であったから成り立ったということであろう。

そういう現代におけるある種の正しい解答に沿っている建物が評価されるのは当然であろうが、そこに建築としてどのような魅力があるのか、それを感じられるのか。実際にその中で空手というかなり激しい運動を学生と一緒になって動いてみるのが、この建物を理解するのに一番なのであろうが、流石にそれは無理なので、一応周囲の環境とどういう風に向き合って建っているかと確認しに行くことにする。

という理由付けはしつつ、やはり歴史のある大学のキャンパスに足を踏み入れるというのはやはりなんとも言えないものである。東京であれば東大、早稲田、慶応、立教、上智、青山、明治などなど。地方から思いをもって上京してきて、様々な出会いと成長をしていく4年間を過ごす大学の空間は、やはり若さの熱気に溢れ、かつそれぞれの大学の特徴をもった建物に見守られ、そして独特の空間が漂っているものである。なので、できるだけこれらの大学を訪れて、どんな建築郡がその大学を作り上げているのか、一時期熱心にキャンパス周りをしたものであるが、それでもこの国立の一橋大学までは足を伸ばすことが無かったので、これはいい機会とキャンパス内を少々歩いてみることにする。

それよりもまずは、この国立という特殊なエリア。「国立マンション訴訟」でも有名なように、日本でも有数のコミュニティを持ち、景観という非常に文化レベルの高い意識を共有している場所であり、周囲を駐車場を探しながらぐるぐるしていても、道のあちこちに子供達の登下校の見守りをする高齢者や保護者の集団がみかけられ、それと同時に狭いエリアに異常なほどの学校があることが分かる。よそ者からすると、少々怖い気もするが、その中心地に鎮座するのが道を挟んで西と東にキャンパスを抱える一橋大学。

各大学くらいの創始者とその歴史くらいはざっと理解しておいたほうが今後の人生においてみ有意義だろうと少し見てみると、薩摩藩士で初代文部大臣を努めた政治家の森有礼(もりありのり)が1875年に開いた商法講習所を元としており、1920年に一橋大学として設置されたという。

東京大学 1877年設置
早稲田大学 1920年設置 創立者・大隈重信
慶應義塾大学 1920年設置 創立者・福澤諭吉
一橋大学 1920年設置 創立者・森有礼
上智大学 1928年設置
東京工業大学 1929年設置

こうしてみても、歴史の長い大学であるのが見て取れる。建築の分野で有名なのは、大学内の多くの建築がかの伊東忠太の手によって設計されており、それぞれの建物を詳しく見ていくと、様々なところに不思議なものが発見できて非常に楽しめる場所でもある。

大学本部 伊東忠太 1930
付属図書館 伊東忠太 1930
兼松講堂 伊東忠太 1927

そんな訳で時間も限られているので西キャンパスにしぼって、シンボルである兼松講堂の前を抜けてのどかな運動グラウンドで練習に励む野球部の様子を見ながら先に進み、さっとのことで目的の空手道場を見つける。

大学のキャンパスというだけで、すでに満足度はかなり高くなってしまっているが、練習は行われておらず、閉まっている空手道場をぐるりと見渡しながら、恐らく建築学部の無いこのキャンパスにいる学生および教員の95%以上が、この建物が建築の賞を受賞するような建物であるということは知らないであろうし、建築なんていうものは本来そういうものであるのだろう。それでも、新入生としてこのキャンパスに足を踏み入れ、空手の道に進む若者が、気がつかないうちに「この道場はなんとなく気持ちがいいな」と思うような場所。そういうあくまでも謙虚でかつ技術の後押しのある控えめな建築。

東日本大震災を経験した現在の日本。建築家であるならば、「建築とは何か。社会に対して建築家は何ができるのか。今までの建築の作り方は正しかったのか。もっと謙虚に、人々に耳を向けて、派手さはなくとも、誰もそのデザインに気がつくことが無くとも、少しでもより良い環境を、生活を、一日を提供することができる。なおかつ地域に根ざし、一般的な素材と工法を採用し、それで建築が可能になれば、それに越したことは無いのではないか」。そんな時代の要請にも見事に応えた作品であろう。

そう理解できればできるほど、その何も語らぬ静かな、非常にシンプルな装いを纏った建築に、「これがこれからの建築の姿なのだろうか・・・」と考えをめぐらせながらキャンパスを後にする。








兼松講堂 伊東忠太 1927
付属図書館 伊東忠太 1930
大学本部 伊東忠太 1930








2014年2月1日土曜日

佐太神社(さだじんじゃ) 717 ★★★



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所在地 島根県松江市鹿島町佐陀宮内
主祭神 佐太御子大神、天照大神(北殿)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)(南殿)
様式  大社造
社格  式内小社、国幣小社
創建  717
機能  寺社
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大根島から松江側に渡る橋のたもと。
なんとも美しい風景に車を止めざるを得ない。
車を路肩に止め、エンジンを止め、カメラを持って外に出る。

湖らしいフラットで静かな水面。その先に広がるこれまた水平を強調するような風景。ややもやのかかった水面の彼方に小さな浮き島を捉え、そこには優雅に数本の松が生えている。神々の国に足を踏み入れたんだと改めて実感する風景。

橋を渡り、市外に向かうことなく車を走らせ、20分ほどで到着する今回の巡礼の旅の第一となる聖域。のどかな田園風景の中にいきなり一の鳥居が現れて歓迎してくれる。北京での喧騒の日常から、東京での忙しない時間を通り過ぎ、やっと足を踏み入れた静かなる神々の時間。

朝一番ということで、手水舎(ちょうずしゃ)の冷たい水で身体を清め、砂利敷きの境内へと歩を進める。目の前には横に並んだ三殿の大社造り。この地方独特な造りである大社造りを目の前にし、ついに出雲エリアに足を踏み入れたのを身をもって感じる。

残念ながら左の本殿は工事中で見えないが、三殿ともに切妻の妻側をこちらに向けた大社造。これから出雲地方を巡礼していくに当たってはこの「大社造」を避けては通れない。伊勢神宮の神明造(しんめいづくり)や最も数の多い流造(ながれづくり)など、その建築の形態によって様々な様式に分類されるが、その中の一つであるのがこの大社造。

もちろん出雲大社に代表され、その出雲大社の力の及んだ範囲、つまりは山陰地方の神社に多く見られる形式である。ネット上で大社造の神社の分布を地図上で表記したものはまだ無いようであるが、島根県を中心に分布し、明らかに出雲大社の勢力化にあった神社において採用された形式であることが分かる。

つまり独自の文化を形成し、それが古代という交通の便が悪いにも関わらず、かなりの広さを持って展開された、極めて安定した文化圏が存在したことの証。しかもその出雲の地においても、大社造を採用しなかった神社があるとういこと。それはもちろん対抗勢力の参加の神社ということで、かなり激しい勢力争いが繰り広げられていたのだろうと想像する。

では、何を持ってその「大社造」の様式かというと、基本的に山の形をした屋根の形状を持つ「切妻(きりづま)造」の建物であるが、正面がその屋根の傾斜面を見るのか、それともその側面である三角形を見るのかによって変わってくる。傾斜面を見ながらアプローチするタイプを平入り(ひらいり)といい、逆に側面の三角形を見ながらアプローチするのを妻入り(つまいり)という。

神社建築の様式のほとんどは前者の平入りに属し、神明造も流造もこちらのタイプになる。だから神社に行くとなんだか茅葺の大きな屋根面を見た記憶を持って帰ることが多いわけである。

それに対して妻入り、つまり切妻の側面を見ていくものに属するものの一つがこの「大社造」となる。他にも春日大社などの春日造もこちらのグループ。境内に入って目に入ってくるのは、ここに神様がいますよ、と言わんばかりの三角屋根。メインの建物は高床式で6本柱によって正方形を構成された「田の字」形である。

そうなると必然的に正面側は柱3本で2間となるので、真ん中には柱が来てしまい入口としては使えない。なのでしょうがなく入口をどちらかにずらす必要がある。そしてどちらにずらされたかというと、右側である。恐らくこれは神社においては社殿向かって右が上位であるとされることから来るのだろうが、なぜ右が上位かと言えば、出雲大社では向かって右に元々のご神体であったと思われる八雲山があるということに関係してくるのかと勝手に想像する。

そんな訳で正方形の切妻形式の建物の正面右側に入口がずらされたのが基本形となるのが「大社造」。それをもって再度この佐太神社に頭を戻すと、三殿の大社造が横並びになっている。そうするとどうしてもシンメトリーにそろえたくなるのが建築世界に身をおくものの宿命。中心の本殿の入口を強引に真ん中にもってって柱にぶつかることは流石に出来ないが、南殿の入口を反転し、向かって左側に持ってくることは可能だということで、北殿と南殿で左右対称にしてみよう、となったのかどうかは知らないが、そんな何とも珍しい三殿の大社造が見られる神社である。

上記したその造りから、どうしても少し横から見るとその奥行きや高さの変化などが良く分かるのも大社造の特徴。では、どちら側から見たほうが分かりやすいかというと、もちろん左側。2間の右側に入口がよって、奥に高床式に持ち上げられた建物の構成が良く分かる。グーグル画像検索で「大社造」とタイプして出てくる画像を見てもらえばその傾向が良く分かるはずである。

そんな訳で自然と作られる横向きの重力に引っ張られながら南殿をぐるりと回っていくと、南末社とその奥に神明社が。その前にはいかにも物好きそうなおじさんが写真を撮っており、どちらからともなく話をすると、兵庫から来ていてかなりの古墳好きで今回は山陰地方の珍しい古墳を中心に回るという。

今後の行程を説明すると、「ぜひとも出雲で見ておいたほうがいい面白い古墳があるんだ」とおもむろに地面にしゃがみ、砂の上に絵を描きながら説明してくれる。なんでも、西谷墳墓群といい方形古墳の四隅がヒトデの様に飛び出した形をしているらしい。なかなか興味深いと思いながら、「いやー、古墳はまだ手をつけてないんで、時間が空けば見てみます」と返答し、更に奥にある母儀人基社(もぎのひともとしゃ)への参道を二人して上がっていく。

5分くらい上がっていくとポッとひらけた場所に出て、奥には如何にも雰囲気のある磐境(いわさか)が祀られている。

磐境というのは、古代の人が自然信仰の対象として、神の存在を感じ、それを祀る為に作られた非常にプリミティブな石をつんだもので、神社の奥などに明らかに人の手によってつくられたと思われる様に詰まれた石の前に注連縄などが張られている事があると思うが、そこに神が降臨する依代となると信じられた痕跡である。

そうするとそのおじさんが、「いやー、自分磐境(いわさか)が好きでねぇ。こういうのを見て回ってるんだ」と。流石古墳好き。好きなポイントが渋いなと思いながら交代しながらお参り。

そして狭い石階段を下りて再度境内へ。互いによい旅になるようにと願いながら分かれるが、最初の神社でのなかなか興味深い出会いに、「これは面白い旅になりそうだ」と次なる目的地へと向かう事にする。