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2015年3月9日月曜日

異なる価値観を認めること

空港のラウンジで、子供連れの中国人が大声で泣き出した子供に対して「シーーッ」と注意をしている姿を見かける。中国国内ではほとんど見かけることのない光景である。

中国国内では、ほとんどの親がたとえ公共の場所で子供が大声で叫んでいたり、泣いていたりしても、「それが周囲に迷惑となっているかも」という気の使い方はほとんどせず、何も気にせずむしろ自分もipadなどで大音量を流しながら映像を見ていたりする姿を良く見かける。

そんな光景に「民度」という言葉がよく心の中に浮かんできたのだが、空港での光景を見ると、そんな「民度」は国という括りよりもやはり「人」によるのだと思わずにいられない。

社会的振る舞いというのは、「自分の価値観とは違う人が世の中にはいる」ということをまずは認識し、次にそれを認め、自分の常識が他の人にとってそうではないかもしれない可能性について想いを馳せ、相手に不快な思いをさせないように気を遣って行動をする。それは相手への敬意でもあり、同時に自分も同じ様に社会的に扱われ同様に気を遣われることを期待することでもある。

つまり世の中には自分とは違った価値観をもち、社会的行動規範を持つ人々が多く存在し、自分も社会の中で生きていく上ではそれを尊重しなければいけない。

そういうことを成長する過程において誰かから教えられるか、もしくは自らの経験としてそれを学んでくるかしかない訳である。

ラウンジで見かけた人は恐らく後者に分類されるのだろうと思う。違う文化圏に足を踏み入れ、ツアー旅行でどこまでも準備された世界を見学してくるのではなく、しっかりと一人の個人として文化や人に触れてくること。その中で自分とは違う文化への敬意を感じて、その社会で求められる振る舞いやマナーが存在することを学ぶ。

そういうことを繰り返すうちに、ある種の共通認識へと到達する。

21世紀の価値観が多様性だと叫ばれるなか、世界中のどこ国においてもこの「自分とは違う価値観を持った人が存在し、それに敬意を払う振る舞いをする」ということが国際舞台での最低限のマナーとなるだろうし、同時に多くの摩擦を軽減する手助けにもなるだろうと思わずにいられない。

2015年3月8日日曜日

「ライジング・ドラゴン」 ジャッキー・チェン 2012 ★


アヘン戦争で北京に侵攻したフランス・イギリス軍により破壊され、その中の貴重な文化財が持ち去られたので有名なのだが、その中でも中心施設の海晏堂に設置されていた十二支像:円明園十二生肖獣首銅像(えんめいえんじゅうにせいしょうじゅうしゅどうぞう、圆明园十二生肖兽首铜像)が略奪され、その多くはヨーロッパに持ち帰れれたという。

その十二支像(十二生肖)に関する物語だというので少々期待してみることにする。

ジャッキー・チェンが監督、製作、脚本、主演全てを務め、上記の様に世界中に散らばる十二支像(十二生肖)を追い求め特殊部隊を率いて様々な敵と遭遇しながらアクションを駆使して像を集めていくという展開。

アクションや物語に新しく見るべきものは無いのだが、中国語、英語、フランス語を自由自在に扱い、気が強くて何のも物怖じしないヒロインの中国人女優の姿は、まさに中国から世界中に出て行って活躍する中国人女性の姿そのものだと、少々辟易しながら画面を閉じることにする。
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スタッフ
監督 ジャッキー・チェン
脚本 ジャッキー・チェン、スタンリー・トン、
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キャスト
ジャッキー・チェン
クォン・サンウ
ジャン・ランシン
ヤオ・シントン
リアオ・ファン
ローラ・ワイスベッカー
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作品データ
原題  十二生肖 (Chinese Zodiac)
製作年  2012年
製作国  香港・中国
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2014年12月1日月曜日

「鉄道員(ぽっぽや)」 降旗康男 1999 ★★

高倉健が亡くなったというニュースが流れ、周囲の中国人が「大変な俳優を失ったね。」と声をかけてくることに驚いた。なんでも海外文化が解禁になった時に初めて持ち込まれた映画が高倉健主演の映画であり、同年代の中国人は殆どが彼の映画を見たことがあるという。世界的な映画監督のジャン・イーモウや中国の新聞各社がコメントを出したように、中国にとっても高倉健と言う俳優は、時代を代表する一人出会ったということが良く理解される。

その割りに、高倉健の映画を何本見たことがあるかと考え直すが、ほとんど見たことがないことに気がつく。亡くなることがきっかけで出演作を見ようと思うのもまた、一つのきっかけだろうということで、何本か高倉映画を観てみることにする。

その一本目となったのがこの映画。当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった広末涼子が高倉健と共演をすることでテレビでも随分プロモーションがされていたので、すっかり観た気になってしまっていたが、よくよく考えると観ていなかったようで、改めて冬の北海道の寒さを想像しながらじっくり「不器用さ」を観ることにする。

何かの本で、南極観察鯛に参加していた人に、「どんな人間が一番強いですか?」という質問に、「アメリカ人の様に屈強な肉体を持っている人間でもなく、ただただ毎日外に嵐が吹いていようが雨で何日も閉じ込められようが、同じ時間に起きて、歯を磨き、顔を洗って食事を取り、同じペースで一日を繰り返すことができる人間。それが一番持ちこたえるのです」という答えが返ってきたという話を見たことがあるが、まさにそんな愚直な男の姿を見せてくれる高倉健。

自分の信念に従い、愚直に真っ直ぐに、決して派手ではないが毎日毎日、同じことを繰り返すことで社会に対して奉仕する、そんな不器用な男の姿。

自由主義経済が闊歩する現代社会においては、採算が取れないならば閉鎖して当然とばっさりと切り捨てられてしまうような地方のローカル線。かつての賑わいを失い、出て行くことも無く取り残されたように暮らす人々。その人たちの生活を支えるために存続するローカル線。そしてそこで職務を全うする男。

雪積もるプラットフォームで赤い旗を振る姿はやはり日本だけでなく、世界が見惚れた名優の絵になる姿だと納得する作品である。
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スタッフ
監督 降旗康男
原作 浅田次郎
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キャスト
佐藤乙松  高倉健
杉浦仙次  小林稔侍
佐藤静枝  大竹しのぶ
佐藤雪子  広末涼子
杉浦明子  田中好子 
吉岡敏行  安藤政信 
吉岡肇   志村けん  
集配人   坂東英二
牛乳配達  きたろう
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2014年1月8日水曜日

総体化

朝、電動スクーターで通勤していると道路脇からいきなり「パッ」と人が飛び出してくる。そんなことは日常茶飯事。今朝はマンションの敷地から出る車止めのところに、配送に来ている郵便会社の三輪車が止めてあり、通路を塞いでしまっている。

恐らくこの三輪車の運転手に文句を言えば、「あぁ、気がつかなかった」とでも言うのだろう。自分の行動がどれだけ他の人に影響を与えるかをどれだけ考えて行動できるかが、その人の社会性の高さだと思わずにいられない。

オフィスに着けば、自転車置き場の入り口に堂々とスクーターが駐車してあり、中まで入れなくなっている。こんな事の繰り返しである。

どうもこの国では「世界には自分一人だけが生きている」と思い込んでいるのか、それとも周りの人は自分の安全の為に、どんなにスピードが出ていて危険でも、自分の為に急ブレーキをかけてくれると思っているのか知らないが、日本に比べたら格段に、左右の安全確認をせずに道を横切る傾向にあると判断せずにいられない。

自転車専用の道をスクーターで走っていたら、道端に駐車してる車のドアがいきなり開いて「ヒヤリ」とすることもしょっちゅうだし、ウインカーを出さずにいきなり車が動き出して「ドキリ」とすることもしょっちゅうである。

まるで交通弱者には人格が無いといわんばかりの振る舞いに、妻は「今度から常にかんしゃく玉を常備して、危ない振る舞いをした奴に投げつけてやろう」と鼻息を荒くしているが、恐らく小さな頃からそういう風にしつけられたり教えられてこなかったからなんだと思わずにいられない。

そんな振る舞いを見ると、どうしてもすぐに「中国人って・・・」と総体化してしまう。そして知り合いの中国人に、「どうして中国人ってこうなんだ?」と質問をしたくなってしまう。

頭の中では、「もちろん育った環境など個人差はあるのだろう・・・」と分かっているのだが、どうしても総体としての○○人として括ってしまう。

そうしてふと思う。

ついこの前もどこかの国の首相が、国際社会の批判を押し切って行った参拝。恐らく自分の信念に沿った行動だと自己肯定して悦に入っているのだろうと想像するが、個人の信条に個人の信条をぶつけても何の生産性もないが、天皇のご配慮も国際情勢もお構いなしに、責任ある立場にも関わらずこの行動はいかがなものかと思わずにいられない。

このような報道を見て、「やはり日本人は・・・」と思ってもらいたくないし、個人で違うとどんなに主張しても、やはり「日本人は・・・」と括られてしまう。

それが総体化して考える人間の性質。
しょうがないと受け入れるしかないのだろうか。

そんな風に思ってみると、スマホに気をとられ、周囲を確認することなく飛び出してくる中国人も、きっと個人的な様々な事情を抱えた家庭で育ち、複雑な人生を送った結果、こうして道に飛び出してきているんだと思うことにして、「かんしゃく玉」で危険を教えてあげたくなるのをぐっと我慢することにする。

2013年6月12日水曜日

「素行調査官」 笹本稜平 2011 ★

ダブル主役かのような小松刑事の視点から物語が始まる。管轄内で発生した殺人事件。その現場に一番に到着し見つけた不審な名刺入れ。その裏に見え隠れする、警察トップの不祥事の臭い。

一方、勤めていた探偵事務所が倒産し、参加したクラス会で再会した警察官僚になっている入江よりリクルートされて警視庁監察係という、警察内部の不祥事を取り締まる部署への就職が決まった本郷。

日本でビジネスを展開する美人中国人経営者。殺されたその妹。中国人経営者と不倫の関係を続ける公安刑事。その裏の見え隠れする蛇頭の姿。そして警察官僚の出世争いと様々な謀略。

ハードボイルドを書かせたら横に出るものがいない大好きな作者だが、警察モノと言う使い古された枠組みの中で、更に期待に応えるような物語になったかといえば疑問符が残るような内容で、大きなトリックを無しにクライマックスを迎える一作。

やはり海か山という、自然の中で苦闘する男を書き続けてほしいと願わずにいれれない。

2013年5月30日木曜日

メルボルン Melbourne Day 1


北京からメルボルンへは直通便が無いので、北京を午後の3時に出て、2時間のフライト後上海到着。1時間半のトランジットを経て同じ機体に再度搭乗し、今度は12時間のフライト。

この世の終わりかの様に泣き叫ぶ赤ん坊がいなかったのが何よりで、妻と二人ともなんとか眠ることができて思ったよりも疲労を感じず朝の8時に到着したメルボルン空港。入国審査で前に並んでいた中国人夫婦がまったく英語が喋れないので、係員から「どうにか伝えてくれ」と言われて、子供の分も入国カードを書かなければいけないんだと中国語で伝えながら、何とか無事にオーストラリア到着。

主催者側が手配してくれて、運転手がカードを持って迎えに行くからというが、簡単に見つかるだろうか?と心配していたが、日本の地方空港くらいのサイズの空港で、あっさりと気の良さそうなでっぷりとしたおじさんがアイパッドに名前を表示して待っていてくれた。

随分とおしゃべり好きな運転手のようで、メルボルンの成り立ちは金の採掘が始まりで、その時から労働力として中国人が雇われていたから、中国人コミュニティーは根付いているんだとか、オーストラリア人はとにかくスポーツが好きで、サッカーは退屈だから人気が無いが、オージー・フットボールというラグビーとサッカーのあいの子みたいなスポーツがとにかくエキサイティングで人気があるとのことや、メルボルンの街はCBDと呼ばれる中心地は便利だが、最近ではディベロッパーが郊外に4つエリアを設定して、それぞれでショッピングモールや学校など生活インフラを整備したので、そんなにCBDまで出てかなくてよくなったということなどなど。

まだちゃんと目覚めていない頭をなんとか働かせながら会話を続けること30分。いかにも街中という感じで風景が変わって高層ビルの立ち並ぶエリアの南に走る川を渡ってホテル到着。

「今日の夜には、オープニング・パーティーでまた迎えに来るから!」

と陽気に帰っていく運転手と別れ、アーリー・チェックインにしてもらっていたホテルの部屋に落ち着き、時間に余裕があるからということで、手足を伸ばして暫しの熟眠。

夕方起きて、すっかり軽くなった身体と頭を感じ、身支度を終えて明日からのカンファレンスが行われるホテルに隣接されている「Melbourne Convention & Exhibition Centre」まで下見をしにいくことにする。

大きなコンベンション・センターの様でそこかしこで様々なイベントをやっていて、明日からのオーストラリア建築家協会のイベント出席者だということで、準備中の関係者部屋へと通してもらい、メールでやり取りをしていてくれた担当者と挨拶を交わす。

本番が行われるメインの会場を案内してもらい、1600人収容の大ホールで明日は1200人が来場予定だという言葉に徐々にプレッシャーを胃に感じながら、夕方にホテルに迎えに車が迎えにいくからというので、それまで会場周辺を散策することにする。

どうにもこの時期は秋の始まりらしく、オーストラリアの印象である青空は見えることができず、ひたすら降ったり止んだりを繰り返す雨空の下、川沿いを少しだけ歩いてみると、やはりロンドン風の建築が人気のようでまるでテムズ川の風景のようだなと思いながらホテルに引き返す。

18時からSean Godsell設計のRMIT DesignHubという建築の学校の屋上で、オープニング・パーティーが開催されるというので、妻と連れ立ってホテルのロビーで待っていると、続々と他のスピーカー達や関係者達が集まってくる。

挨拶もそこそこに、タクシーに乗り込むと、アメリカのMITの建築学部の学長を務めるナダー(Nader Tehrani)と、同じくアメリカのコロンビア大学の建築学部で教鞭をとりながら、建築とアートの間の活動をしているジョージ(Jorge Otero-Pailos)と同乗し、挨拶を交わして目的地に向かうことに。

生憎の雨ということで、屋外テラスが使えずに、建築学部の最上階を使ってのパーティーはすでに現地の建築家でごった返している。今回のイベントのダイレクターの一人で、色々とやり取りをしてくれていたジョン(John de Manincor)は、日本の四日市に高校時代に留学していたということもあり、少しだけ日本語が喋れて、我々の為にと懐かしの学生服を着てきて、妻と二人でなかなか馴染めないなりに、出されるシャンパンと牡蠣を味わいながら、地元の若い建築家と話をしながら楽しい時間を過ごす。

下の階に下りるとそこは建築学校というだけあって、学生達の作品が展示されていたり、まだ作業をしている学生がちらほらしていたりと、なんだかかつてのAAで過ごした自分の学生時代を思い出す。

8時からはWelcome Speaker Dinnerと銘打って、主催者と明日からのイベントに参加するスピーカーのみで特別な場所で夕食だと聞いていたので、流石にこれには妻を帯同するのは気がはばかれるかと思っていたが、主催者側から「来れるならぜひぜひ!」といわれるので、ひょいひょいと妻も一緒に連れて行くことにする。

タクシーの乗せられ揺られること20分。到着したのはいかにも雰囲気の良さそうな住宅街。聞けば、メルボルンの有名な建築家であるロビン・ボイド(Robin Boyd)が1957年に設計したBoyd House IIというもので、今はRobin Boyd Foundationとしてこういうイベントなどに貸し出されるという住宅。

とてもシンプルだが、良質な中庭と特徴的な断面によって空間が構成されて、皆興味深そうに家のあちこちを見学し、一段落したところでディナーが開始。数日前まで建築家協会の会長を務めていたというシェーンを労い、そして明日からのイベントの成功を祈って乾杯。

オーストラリアらしくがっつりとしたラムを、濃厚な赤ワインと一緒に楽しみながら、気さくな雰囲気にも助けられ、すっかり酔いを回らせながらディナーを楽しむ。こういうときに、英語が問題の無い妻で本当に助かると思わずにいられない。

向かいの席のフィリップ(Philippe Block)は構造家らしく予習していた彼のプロフィールに数年前に「坪井賞受賞」と書いてあったのを覚えていてそのことを話したら、とても嬉しそうにいろいろと話をしてくれた。いつか協同できることを楽しみになる人物である。

明日の朝一からレクチャーか・・・

と思うと最終の練習でもしておこうという気になって、同じくボーイフレンドと一緒に来ていたキャサリン(Kathrin Aste)と連れ立って、4人で一緒にタクシーにてホテルに帰る。

あまりに眠いので最終の練習は明日の朝・・・と眠りに落ちるメルボルン一日目。
















2013年5月27日月曜日

ぶち当たるネイティブの壁


海外で働いていると、どうしてもぶち当たる壁がある。

できるだけ自分で情報を正しく得られるようにと学ぶ語学。上達すればある程度打ち合わせでの会話も理解できるので、中国人だけで中国語での打ち合わせにも英語への変換を無しに同席し、なんとか会話の背景から意味を読み解きながら流れを追っていくことになる。

しかし、どんなに勉強しても、中国人がなんの気を遣うことなく激しく話し合う会話を100%理解し、同時に意見も言うことは相当な語学力が必要となる。中国語が理解できない外国人は、まるで自分には関係ないこととして割り切ってしまうが、なまじっか理解できるから、周囲も気を遣うことなく中国語だけで物事が進む。

母国語ならば、問題なく専門家との会話も理解でき、その中から現在の最先端の技術や素材の成り立ち、問題の解決法などを理解して、職業人としての能力もアップしていく。しかし会話を6割の理解で追っかけていれば、その理解もそして自らの成長も遅くなる。まるで高校生がいきなり社会人の打ち合わせに参加しているような、自分がなんて愚かなんだろうと感じることになる。

なんとなく自分が言いたいことを伝え、相手が外国人だと慮って話す中国語を理解するのはそれほど難しいことではない。必死に努力すれば2年近くでそのレベルに達するだろうが、そこでぶち当たる壁。

通訳など語学の習得が目的ではない日常の中で学習を続けるのだから、それほどまとまった時間が確保できるわけでもない。その中で、はじめてあう仕事関係の人との打ち合わせでも、問題がないように意思疎通ができるレベル。自分達の考えを論理的に説明し、相手を説得し、納得した形で仕事をスムースに進めていく。そのレベルまでの圧倒的な距離。会話の中で自分ひとりがおいていかれるような感覚。

そんなことで悩みながら見るニュースで白鳳の優勝インタビューを目にし、この人たちも他の人たちが稽古に励んでいる時間に、同じように稽古をしてなおかつ日本語も勉強して、今ではこうして周りが何の疑問も持たないようなレベルの語学力を身につけているのだと思うと、本当に頭が下がる思いになる。

ストレスを感じるのは問題があるからで、問題があるのは原因があるからで、それが人間関係でも自分の能力不足でも、それはほかっておいても誰かが取り除いてくれるものではなく、自分で取り除くか乗り越えるかでしか解決できないなら、下を向いている時間をできるだけ少なくして、とっとと解決して少しでも楽になることを考えた方がよいかと頭を切り替えることにする。

2013年5月22日水曜日

「レッドゾーン 上・下」 真山仁 2011 ★★★


相変わらずの壮大なる世界観。一体どこまで考えて、一冊の本を書き出しているのか?と思わずにいられない。

クリアしてもまだ続くかつてのRPGゲームの世界の様に、一つの物語の裏では、また別の壮大な物語が進行しており、それらが複雑な糸のように絡み合う。しかし決して破綻はしないその構築された世界の精密さ。

まったく違う地点から開始する、様々な人物の話としての伏線。

他の小説でも登場する魅力的な人物を脇役として登場させる手法は相変わらず見事だが、これもせっかく丹精こめて練り上げた人物像を一つの話だけでなく、大きな世界で存分に活躍させたいという親心か。

アジア屈指の買収者として名が知られるようになった鷲津政彦。かつての盟友、アランの謎の死。その場で目撃されたアジア系の女の姿。

トヨタをモデルとしていると見られる世界的自動車メーカー。気骨のある経営陣と、どうしようもない創業者一族の副社長。そこに現れる中国人の買収者。その裏で意図を引くのは一体だれか。中国の国家ファンドと香港系財閥の若き指導者。そこに現れるアメリカ系投資ファンドの総帥。

この作者の小説を読んでいると、今の自分がどれだけ矮小かを感じざるを得ない。華やかで、膨大な額の金を動かし使う男達。その中で一流のものに触れて、知識と経験を根拠に更なる高みを目指していく世界。

数年アメリカにいたからといっても、どれだけ地元に密着する生活をしていたといっても、こんな風に各地方の方言を交えて流暢に英語を使い分け、中国語を解してビジネスを展開していくのは、やはり小説の世界だとは分かっていても、そんな超人のような才能を持った人もこの世の中にいるんだろうなと想像する。そして自分との距離に思いを馳せる。

金融の世界が、「金が全てだ」という価値観だけではないという人間が多くいるんだというメッセージは強く伝わってくるが、また一冊と読めば読むほど、住まう世界で見える風景の違いがこうまでもとはと思わずにいられなくなるのもまた事実。

国境が溶けてしまった国際金融の世界。これからもっとこのような物語が生まれてくるのだろうと期待せずにいられない。

2013年4月21日日曜日

リーダーの国民性

かつてパートナーから言われた言葉。

「チームというのは、自分の手が沢山あるのと一緒なんだ。それを如何にスムースに動かしてより効率的に仕事をこなしていくかは、頭となるべき自分たちにかかっているんだ」

様々な国から来ている人間と一緒に仕事をしていると、それぞれの国柄というか、国民性によって適した仕事の役割というのが見えてくる。

その中でも圧倒的に人を使うのがうまいという印象を受けるのが、アメリカ人と中国人。人を使うのがうまいというか、人に指示をすること、チームをまとめて一人では出来ないことを成し遂げていくという、リーダーとしての役割を自然と意識して仕事をする姿勢を感じる。全員が全員という訳ではないが、明らかに何人かの人たちはそういうリーダーとしての役割をこなして成長してきたのだろうと感じずにいられない。

恐らく両国共に、教育システムの中、もしくは育ってくる環境の中で、優秀な人であれば、同い年、同じ地位の中でも、チームとして目的を把握し、各メンバーの特徴や適正を理解し、適切なタイミングでやることを指示をして、締め切りを与えて進み具合をチェックし、全体のバランスをとっていく。そんなことを誰かがやらなければ組織として成り立たないし、それをやれる人間が上に立っていくんだと身体で理解しているかのようである。

そういう意味でいったら日本人はまったくダメだと思わずにいられない。

同じ立場であるのに、でしゃばるように自分が前にでて、指示をして、決断をしていく、ということは、集団の和を乱すことだし、まずなによりも自分にその権利があるなんて誰も言ってくれない。その代わり、上の立場の誰かが「お前がこの集団をまとめていけ」と皆の前で立場の違いをはっきりさせてくれればやりますよ的な態度に留まる。

またその国民性からも来るのだろうが、大きな絵を掲げるよりも、自分の世界をできるだけ閉じて人からの干渉をできるだけ小さくしたなかで、職人の様に細かい仕上げにひたすら神経を研ぎ澄ましその精度を上げていく。言われたことはまじめに、正確に、そして時間通りにやり遂げる。それがどんなに困難であっても、我慢して、ストレスに耐え切って、文句も言わずにやり遂げる。もっと評価されたいと願っても、決して言葉には出さずに、「見てくれている人は見ているはずだ」とどこまでも謙虚。

恐らくドイツ人も同じような傾向をもっており、正確な指示を出してあげるとそれに比例するように正確な仕事をやり、報告をあげてくる。仕事を処理していく段階ではこれほど嬉しい「手」は無いわけである。

それぞれの立ち位置から見える風景は違って、その風景によって見据える目的地も変わってくる訳であり、集団を率いるならば、集団の中にいて同じ風景を見ていては旗を振れない訳であり、少しでも先を見渡せるような高い位置を探して首を伸ばし、どこに行けばいいのかを必死に見つけること。そんなことを訓練をすることなく自然に身につけていく国民性。

誰にどんなことを思われようとも関係ない。自分で考え、その考えをいろんな場所でいろんな人に伝え、相手の話を聞き、意気投合し相手の信頼を勝ち取り仕事に発展させる。自分で手を動かすのではなく、その仕事をやり遂げるチームを組織し、やるべきことを明確にし、チームを動かし、プレッシャーとモチベーションを与えながら、仕事を仕上げさせてそれをお客さんに届ける。

そういう能力はある年齢になった自然に身につくものではなく、生きてくるうえで、成長していく過程で徐々に身体の一部になっていくものであり、大人になって急に「学ぼう」としても本当の意味では身につかないものだと実感する。

国際人や国際化が叫ばれる現代日本だが、国際舞台で仕事をするだけなら、英語や中国語などのツールとプロフェッショナルとしての技能をしっかりと見につけていれば十分に活躍できる人材は多く出てくるだろうが、国際社会の中でリーダーとして突出していくためには、今の日本の社会の中からは相当な突然変異体で無い限り厳しいのもまた事実であり、今度の日本はこの問題をどう解決していくのだろうかと想いを馳せることになる。