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2015年2月18日水曜日

パサディナハイツ 菊竹清訓 1974 ★★


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所在地  静岡県沼津市我入道
設計   菊竹清訓
竣工   1970
機能   記念館
規模   地上2階
構造   RC造
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街並みもすっかり夕闇に沈んでいくトワイライトの中を車を飛ばし、本日最後の目的地が待ち受ける山の上へと上っていく。

菊竹清訓が追い求めた建築の「か」「かた」「かたち」。建築の重要なタイポロジーの一つとして、都市住居の「かた」を長年にわたり研究し、それを具現化したといわれるのがこの段球状の集合住宅である「パサディナハイツ」。

その特徴的な名称はどこから来ているかと言えば、前半のパサディナ(Pasadena)はアメリカのロサンゼルス近郊にある高級住宅街の名称で、後半の「ハイツ」は高台にある集合住宅を指すとされている。つまりは日本国内における、高級感を伴った高台に作られた集合住宅として、今までの集合住宅と一線を画そうとする意図が見て取れる。

山に沿った傾斜地に建つことのメリットは古くから語られてきた。

・眼下に広がる低地の良好な眺望を得ることができる
・地形に沿ってセットバックするために地面との関係性が常に数層と抑えられ、高層建築で感じるような地表面との隔離を起こさずに良好な住環境を形成できる
・配置によって多くのユニットがすべて南に面して良好な採光を得ることができる
・地形が作り出す自然の形態に沿った建築物となるために、周辺環境との形態的融和がもたらされる
・地形にそってセットバックすることで下層の住戸の屋根面をプライバシーの問題を起こさずに上層の前庭として利用できる

等々、様々なアドバンテージが考えられる。しかし同時に

・傾斜地での施工となるために施工費の高騰
・良好な地盤が浅い部分に見つからないときの基礎への費用の高騰
・片側が山ということで通風をどう確保するか
・山の近くに建設されるために、市街地からの距離という利便性の問題

等々、多くのデメリットももちろん考えなければいけない。

それでも「名作を生む」といわれる傾斜地の建築はやはり、建築家にとって大きな挑戦の場となり、また「これこそが傾斜地に建つ建築の到達点だ」と言わんばかりの作品が世に生み出されてきた。

斜面という特殊な条件に対応する建築としては大きく二つの方式がある。それは斜面に対して「浮かす」か「すりつける」か。建築的には地面の力に対抗することなく、軽く柱によって浮かす方式とその力を基壇として受け止め、その基壇自体が建築となるすりつける方式。

それを念頭において近代建築以後どのようなチャレンジがなされたかをあげてみる。
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1974年_パサディナハイツ_菊竹清訓_静岡


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このように近代建築以後でも相当多く傾斜地建築の住空間としての可能性が試されてきたのが良くわかる。その年表の中でこの「パサディナハイツ」を見ると、戦後から沸き起こった住建築の探求と、その後にやってくる「より良い住環境として建築のあり方」として世界中でこの傾斜地の可能性が探求され、それぞれの地においてある種の「かた」が提示されているのが見て取れる。


もちろん根源的な意味として空間への可能性をもたらす「かた」であるために、近代建築以前にも世界中の様々な場所で自然発生的に同じタイポロジー見ることができる。


等々、低層なので比較的に建設が容易であること、密集していながら良好な採光が望めるなどの要素から、原初的な建築が作り出す一つの風景として存在する。

これらの前ふりを経て改めてこの「パサディナハイツ」を見てみる。計120戸の集合住宅は下層の住居の屋根が上の住居の庭となり、南に向かって傾斜するためにすべての住戸が南配置となり良好な採光を得ながらも、この傾斜側に階段を設置し南側から各住戸へのアクセスとしている。

通常こうするとプライバシーの問題が起こるが、それをさきほどの前庭によって距離をとるのとともに、スクリーンとして視線をかわす意図となっている。これだけではなく北側、つまり住戸の裏側からもアプローチが設けられているという。

この建築について詳しくは下記のサイトが一番まとまっていると思われるので参照してもらいたい。


日も沈みまわりはすっかり闇に覆われた中、現在も使われている住宅地ということでプライバシーを侵さないようにテラスの階段を上っていく。眼下に広がる景色の広さと、斜面に沿って流れている夕暮れの風の心地よさを感じながらも、この時間にも関わらず照明がついている住戸の少なさに、建設から40年が過ぎた現在もここで住まう人がそれほど多くは無いことを見て取ることができる。

もし自分がこの地に住まう機会があっても、毎日先ほど上ってきた山道を上り下りするという利便性を越えるだけの住空間として魅力を感じられるかどうか。時代を超えて普遍である住空間の魅力と、都市の時代に入った現代における利便性の問題、そして縮小社会に入った日本の社会の在り方など、集合住宅の「かた」と社会との関係性に思いを馳せながら、場所によって形の違う腰壁の紋章を見ながら階段を下りることにする。











芹沢光治良記念館 菊竹清訓 1970 ★★★★


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所在地  静岡県沼津市我入道
設計   菊竹清訓
竣工   1970
機能   記念館
規模   地上2階
構造   RC造
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期待していた富士山周辺巡り。それが予想しなかった雪の為に突然のルート変更を強いられ、気分が落ちていたときに雲間から差し込む陽の光と覗く青空。そして訪れた心地よい神域空間。

それですっかり気分を良くして、できることなら後三つ回りきってしまおうと、予定していた沼津漁港近くでの食事を諦め、夕方の渋滞で込み合う道を脇道にそれて住宅街の中を通り抜けたどり着いたのがこの文学館。

漁港の街というイメージの強い沼津であるが、その中でも我入道(がにゅうどう)というかなり個性の強い海沿いの地域に立つこの文学館は、この地出身の明治の文学者である、芹沢光治良(せりざわこうじろう)の功績を記念して建てられ、彼の作品や生い立ちなどを紹介している。

もちろん作家が好きでこの建物を訪れたいと思った訳ではなく、その設計をしたのが大好きな菊竹清訓という建築家であるからという理由からであるが、こうして建築を見に来ることは必然に、その中身である作家を知ることにつながることでもある。こういう機会が無ければきっと一生この作家がいたことを知ることも無くすごしてしまうかもしれないが、こうして建物を通して知り、そこから興味を持ち一冊でも彼の小説を読んでみる。それが建築が繋いでくれた文化の縁でもあるのだろう。

そんなことを考えながら、徐々に西に沈んでいき、オレンジ色に輝きだす夕日の中、うっそうとした防風林を背にして建つ、なんとも不思議なプロポーションと様相を見せる建物にまずは驚くことになる。

明らかに普通の住宅でも、そして美術館でもないそのプロポーション。やたらと背が高く、まるで何かエネルギー関係の施設なのかと思わせるその概観。来る途中、渋滞にはまってしまい閉館時間に間にあわなそうだと電話をしたら「まだ待っていますから焦らずに来てくださいね」となんとも感じの良い受け答えをしてくださった係りの方が待ち受けてくれており、いろいろと建物について説明してくれる。

「この前もどこかの大学の建築の学生さんが来られて、いろいろと調べてらっしゃいましたよ」と、沼津市の木である松の葉をイメージした天井のパターンが完全な東西南北を指し示しているとか、トイレの男女を分ける壁の上に伸びている梁の特徴的なディテールなどについて教えてくださる。

こうした交流は本当に気持ちの良いもので、互いに良いと思うものを共有しているという文化的な安心感に包まれながら、「ぜひとも上の階も見ていってください」という言葉に甘えて「肥大化した4本のコア」というコンセプトの上下移動を担う一つのコア内部にある階段に向かうことにする。

このコア内に収められた螺旋階段。建築家の魂のこもったディテールの宝庫を言っていい至極の空間となっており、一人階段を上り下りしながら「ほぉぅ」と感嘆の言葉をこぼしてしまう。中央吹き抜け部に上部からつられた照明器具はガラス玉の漁具をモチーフとしているらしく、そこから放たれる暖かい光が階段の手すりの壁を周囲の壁に投げかける何とも幻想的な雰囲気を作り出す。

階段は一段一段浮いているように仕上げられているのはもちろんのこと、コアという垂直性を強調するために踊り場のみが壁と接地して、階段部分は壁から離されているために、下から見ると壁沿いに上からの光がうっすらと落ちているのが見て取れる。

「うーん」と一人唸りながら、今度は中間の踊り場にはめ込まれたガラスのフィックス窓が明らかにおかしな形状をしているなと思って写真に収めておくと、後ほど下におりて先ほどの係りの方に聞くと、それが「光の十字架」を作り出しているのだと教えてもらい、さらに唸り声を上げることになる。

階段をあがり、二階の展示室から外の駿河湾に沈んでいく太陽の光がいっぱいに室内に入り込んでくるのを感じ、さらに階段を上に上っていく。屋上階レベルには中央部の吹き抜けに浮いている照明器具を吊るす為に中央から伸ばされたコンクリートの梁が象徴的に空間に漂っており、ここもまた「建築的」に空間をつくろうとした建築家の執念を感じて唸ることになる。

氏の作品の年表を見てみると

1958年 スカイハウス(30歳時)
1970年 芹沢光治良記念館(42歳時)
1975年 パサディナハイツ(47歳時)

30代後半のもっとも充実した設計時期の後期に属する作品だと見て取れる。

下の階で展示を見ていた妻に、如何に階段がすばらしいかをざっと説明し、再度階段を上り下りし、せっかくだからと建物の後ろに広がる海岸線まで足を伸ばし、水平線を描く駿河湾とそこに沈みゆく太陽の姿を眺めあと少しで一日の終わりが訪れるのだと感じながら次の目的地へと向かうことにする。
























2014年2月5日水曜日

境港マリーナホテル 菊竹清訓 1985 ★


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所在地  鳥取県境港市新屋町
設計   菊竹清訓
竣工   1985
機能   宿泊施設(ホテル)
構造   SRC造
規模   地上8階
敷地面積 4,959㎡
建築面積 1,670㎡
延床面積 6,442㎡
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凍てつける吹雪から逃げるように港境から産業道路を通り、弓ヶ浜の防風林を左手に見ながら米子市内に向かうと、右手前方に明らかに異様な建物が見えてくる。円柱の上に方形のボリュームが載り、大きなキャンティレバーを形成し見晴台の様な形をしているが、その規模があまりに巨大。

これが目的のホテルに違いないと、駐車場に車を入れ様子を伺うが、どうもホテルとして営業をしている様子が見受けられない。しかし閉じている様子も無いので、なぜか金色でピカピカに彩られら、天井は鮮やかな青色という不思議なエントランスを抜け、ロビーに入るがかなり暗く、それこそどこかのロードサイドの怪しげなモーテルの様な雰囲気。

その雰囲気は嫌いじゃないので、奥まで見に行ってみるとやはり営業は行っているらしいので、余り邪魔にならないようにとそそくさと外に出る。

さて、この建物。今回の山陰巡礼で多く見てきた菊竹清訓の作品。再度年表を見てみると

1958年 スカイハウス(30歳時)
1963年 出雲大社庁の舎(35歳時)
1965年 東光園(37歳時)
1965年 徳雲寺納骨堂 菊竹清訓(37歳時)
1968年 島根県立図書館(40歳時)
1975年 パサディナハイツ(47歳時)
1976年 西武大津ショッピングセンター (48歳時)
1976年 松見タワー (48歳時)
1985年 境港マリーナホテル (57歳時)
1999年 島根県立美術館(71歳時)

極めて工期の作品に当たるようである。宿泊している「東光園」からはまさに20年の月日が流れた日に設計が行われた作品。初期のころの作品に見られる、なんとか建築の歴史に新しい一歩をという執念の様なアイデアと、時代を反映し技術を駆使した様々なディテールへの情熱。それらがどこかの段階から作品の中から消えて行ったことが良くわかる。それは同時に建築と言う極めて個人に追う部分が多きな職能で、オフィスの拡大とプロジェクトの規模の拡大、それに建築家自身の社会の中での役割の変化に伴い、設計過程への関わり方が変化したことが最終的な建築にどの様な影響を及ぼすかをよく締めていているのだと勝手に理解しながら建物を後にする。




2014年2月4日火曜日

東光園 菊竹清訓 1964 ★★★★



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所在地  鳥取県米子市皆生温泉
設計   菊竹清訓
竣工   1964
機能   宿泊施設
規模   地上7階地下1階
構造   SRC造
敷地面積 13,071㎡
建築面積 485㎡(本館)、1,396(新館)
延床面積 3,355㎡
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米子の日本海沿いに広がる皆生温泉(かいけおんせん)に建つ老舗旅館。今回の山陰巡礼でずっと追ってきた菊竹清訓の作品であり、間違いなく初期のピークといってよい戦後の日本建築にとって大きな意味を持つ作品。

それが公共建築でも個人住宅でもなく、温泉街の老舗旅館、しかも木造ではなくモダニズム建築を体現するコンクリートをまとって作られているから驚きである。建築を学び、建築を職として過ごすものにとって、人生の中で何度も出くわすその特徴的な立面。

しかし山陰という地理的な制限があり、実際に見ることはなかなかかなわない。そんな訳で今回は出雲大社と双璧する最大の目的地として定められたのがこの東光園。老舗旅館ということで、思い切って奮発し連泊して内部空間もじっくり観察する事にする。

前年に出雲大社庁の舎を完成させている菊竹清訓。この皆生温泉でチャレンジしたのは何といってもその建築の構成。建物は1-3階にボリュームがあり、その上の4階部分は部屋が無く外部空間となっている。つまりはピロティとして中間層が空けられ、上部が浮いている構成になっている。

コルビュジェが提唱したピロティは通常1階部分に採用され、建築を大地から持ち上げることによって1階部分の動線を自由にする。しかしここではそれを発展させ、4階部分にピロティを採用し、ここを屋外庭園として明確な分割を行う。

通常ならその上にも階があるだけのはずだが、この建物ではそれだけでは終わらず、1階から立ち上がった構造は7階部分まで延びていき、その間の5,6階部分は今度はその7階のボリュームから吊り下げられている。そんな訳だから外から見ると分かりやすいが4階部分を境目に構造が大きく変わっているのが見て取れる。

これだけ大げさな構造を可能にするためには相当太い柱が必要になってきてしまう。そうすると室内空間はかなり重苦しい雰囲気になってしまうので、それを解消する為に採用されたのは、SRC造と呼ばれる鉄骨鉄筋コンクリート構造。

通常のコンクリート造では内部に鉄筋という細い鉄の芯を何本か通して、その周囲にコンクリートを流し込み固め、コンクリートと鉄筋でそれぞれに引張りと圧縮に強いという特性を兼ね備えて素材にしてやるのだが、この鉄骨鉄筋コンクリート構造は更に上を行き、まずは鉄骨で柱や梁を組み、その周囲に鉄筋を配筋しそこにコンクリートを流し込む。つまりは鉄筋コンクリート造と鉄骨造の長所を兼ね備えた構造ということになるが、その分コストが高くなるために、一般の建物にはなかなか使用されず、高層建築など、構造にコストをかけても十分に経済性を確保できる特殊な建物などに使用される。

そのSRC造を決して高層建築では無い規模のこの建物に採用し、できるだけ断面積を小さくすることと同時に、もう一つ取られたのが、木造建築などでも良く見られが、強度が足りない柱のそばにもう一本細い柱を足してやるという添え柱のアイデア。

一本の柱だと余りに太くなり不恰好だが、それを添え柱として力を分担してやれば、細い柱の集合体として、一本一本の柱のプロポーションはスリムに保たれる。それぞれの添え柱と中心の柱は貫でつながれ上部からの力を流す役割と果たしてくれるという訳である。

そんな訳でこの二つのアイデアを採用し、4階部分までは4本の添え柱を伴った柱が立ち上がり、上から吊られている5階部分に接触することなく、役割を終えた添え柱は消滅し、後は中心の柱だけが7階まで達していく。その構造の力の流れを明快に見せる為に、4階上部で沿え柱は5階の床面に触れる事が無く、隙間が残されている事が必要であるということ。

5,6階は通常の柱、梁で構成されるラーメン構造ではない訳で、上から吊られている箱の中を自由に間仕切り部屋にできるという利点を利用し、梁が無い為に階高が低くても十分な室内高さが確保でき、繊細な縦線によって壁面が構成できることから水平線を強調したファサードとなる。これが底部のゴツゴツとしたファサードとの対比を見えてくれる。

アクロバティックとも言ってもいいその構造形式をできるだけ建築の外形に素直に表現する。それらの建築は構造表現主義と呼ばれるが、この建築は鉄骨鉄筋コンクリート構造と、添え柱というアイデアによって可能になった構造形式を明確に外形として表現する現代技術を体言する建築として高く評価されたのも頷ける。

くしくも同じ1964年に完成した丹下健三設計による国立代々木競技場もまた、鉄筋コンクリート構造と吊り構造によって空間に描かれる美しい3次曲線の建物として鉄筋コンクリートの構造表現主義として戦後の日本建築の在り方を世界に示す事となる。

世界では1951年にフェリックス・キャンデラがメキシコでHPシェルを用いてコンクリートの新しい可能性を提示し、60年代を通じてHPシェルの持つ美しい双曲線の教会を作り出し、1955年にはヨーン・ウッツォンがシドニー・オペラハウスのデザインにコンクリート・シェル構造を採用し美しいシルエットを描き出し、1962年にはエーロ・サーリネンがTWAターミナルにてコンクリート・シェル構造を用いた流れるような曲面を作り上げていた。

その流れをつぶさに見ていた日本の戦後モダニズム建築家達。丹下健三が第一陣をきり、そして菊竹清訓はどうにかしてその先に行こうと苦悩し、辿りついたのがこの東光園での構造表現主義。時代が可能にした技術を適切な形で翻訳し、世の中の人に美しいと受け入れてもらえるような建物として実現する。

そんな歴史的な建築に宿泊でき、なおかつ日本有数の温泉を堪能できるというのはかなり稀有な体験である。添え柱が堂々と鎮座するロビー空間は内部に広がる広大な日本庭園に開放的に接合され、低くなった床レベルはまるで直接庭園に繋がるかのような気分にさせると共に、ロビーの背の高い空間を意識させるに十分である。

再度温泉で身体を温め、持ってきていた「田崎つくる」を静かなロビーのソファで読み進めると、どうやら隣の席ではテレビの製作会社と思われる若いスタッフが打合せをしているようである。テレビの多局化によって放送するコンテンツ不足に陥ったメディア業界では、恐らく物凄い数の制作会社が短い時間で番組を作る事を求められているのだろうと、なんだか建築と同じだなと思いながら本を読み進める。

そんな東光園。山陰を代表する老舗旅館だけあって、なんと天皇陛下もお泊りになったという。


そんな由緒あり、そして戦後モダニズム建築の代表作の一つである東光園であるが、先ほど立ち寄った市内の居酒屋で大将に話を聞いたところ、なんと一度経営破綻をし倒産を経験しているという。大将によれば、老舗だから天狗になって、殿様商売しているうちに客が来なくなったんだといい、「泊まった事があるがサービスがなってなかった」と言っていた。

調べてみると、確かに経営破綻をしており、2007年には米投資銀行ゴールドマン・サックスグループ系の企業に事業譲渡されたという。その後ゴールドマンと事業提携している星野リゾートが運営を引き継ぎ、新しいコンセプトを打ち出していくというのが2008年。

「おお、ハゲタカに買われた老舗旅館か・・・・」と小説を思い出しながらも、その営業努力が実ってかどうかは知らないが、館内にはお隣韓国からの旅行客と思える団体が大勢いたり、館内にも「平日昼間に○○プラン」などという若い女性向けのプロモーションが多く見られる。


これも確かに経営努力であり、この山陰という地方を考えたらできることは限られているのもまた分かるのだが、モダニズムの傑作建築で現在も素晴らしい内部空間を見せてくれる建築だけに、どうにか大衆化されることなく良い生き残り方を見つけていって欲しいを思わずにいられない。