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2016年2月4日木曜日

湊川神社(みなとがわじんじゃ) 1872 ★★


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所在地  兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目
主祭神 楠木正成
社格  別格官幣社・別表神社
本殿の様式 八棟造り
別名   楠公さん
創建  1872
機能  寺社
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建武中興十五社
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本来なら神戸の東から竹中大工道具館、相楽園と回って徐々に西に向かって巡っていくはずであったが、電話番号をナビに入れて向かった先には閉館したらしき建物が。その前にある案内を見ると、「竹中大工道具館は下記の住所に移転しました」と・・・。

レンタカーということでナビが更新されておらず、住所移転に対応しきれていなかったということか・・・とがっくり肩を落としながら次の相楽園へ。しかしこちらも周辺は恐ろしいほどの一方通行。なんとか入り口周辺まで到着するが、どうも駐車場の入り口が見つからない。そうこうしているうちに後ろに車が使えて圧力を加えられ、泣く泣く先に進むことに。もう一度チャレンジとぐるりと迂回して再度入り口に到着してみてみると、こちらは本日休園日の案内・・・。なぜか事前リサーチで間違えがあったようだと、がっくりしながら向かった先がこの湊川神社(みなとがわじんじゃ) 。

この神社は建武中興十五社の一つに数えられており、静岡の井伊谷宮社同様明治維新の際に鎌倉時代末期に後醍醐天皇が自ら政治を行う「親政」を開始した「建武中興(建武の新政)」において、尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神として新たに創建された神社郡の一つだという。

ではどの南朝側の皇族・武将が祀られているのかというと、言わずと知れた楠木正成である。その為に別称として「楠公(なんこう)さん」と親しまれているという。というわけで、創建は明治5年の1872年で、敷地も建物も真新しい雰囲気であり、なんともすがすがしい境内である。

境内では節分の豆まきの準備が進められており、「どのお相撲さんがくるのだろう?」と楽しみにしながら、ぐるりと回って本殿へとお参りをする。

楠木正成については別のサイトを見てもらえれば分かると思うが、その名誉が回復されたのは江戸幕府が始まったばかりの元禄年代に、大日本史の編纂を始め歴史に埋もれた数々の志士の威信を取り戻さんとした水戸徳川家二代藩主・徳川光圀が楠木正成を評価したことによって、その後の歴史において、特に水戸学者らによって理想の勤皇家として崇敬されることとなったという。その為に境内には楠木正成公戦没地としてその墓所と、徳川光圀の銅像も見られる神社である。

その楠木正成が光圀から時代を下って再度スポットライトを浴びることになるのが、徳川の世に終止符を打ち、天皇に統治権を返さんと画策した幕末の維新志士たちによって、かつて同じように武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣の筆頭とし祭り上げられた江戸末期。

明治維新の実現後に確固たるものとして神格化する作業の中で上記の建武中興十五社が建立されていく訳であり、ここに楠木正成が新たに神となっていく。そんな日本史の中の激動期に想いを馳せて、日本人として恥ずかしくない生き方をと願いながら境内を後にすることにする。















2014年2月4日火曜日

名和神社(なわじんじゃ) 1652 ★★★


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所在地 鳥取県西伯郡大山町名和
主祭神 名和長年
様式  流造
社格  別格官幣社
創建  1652年-1658年
機能  寺社
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「楠木正成」を読んだばかりなので、なおさらこの伯耆国(ほうきのくに)に思い入れが強くなる。

暗く厳しい目の前の日本海。その先に浮かぶのは隠岐島。鎌倉時代末期。長きにわたる武士の支配から天皇へと権限を取り戻そうと、1331年の元弘の乱で鎌倉幕府を討幕しようと企て、その罪の為に天皇でありながら隠岐島に流された後醍醐天皇。

それでもその意志を継ぐもの達と新たな時代に頭角を現した楠正成を代表とする悪党達によって時代の針は進められ、1333年に隠岐島を脱出した後醍醐天皇を迎えたのはこの地の英雄である名和長年(なわながとし)。

楠木正成が河内国の悪党であるならば、この名和長年は伯耆国の悪党。正成らが南から京に向かい、天皇を迎えた長年は西から京へとのぼり、南北分裂後には南朝について戦うことになる。

その名和長年と一族郎党42人の英魂を祀るのがこの名和神社(なわじんじゃ) 。そのまっすぐと伸びた参道は、あたかも隠岐の島へと視線を送るかのようである。山陰有数の花の名所と言われるのが納得の整った参道。その参道を覆いつくすかのように枝を伸ばす両脇の大木。その枝のスクリーンの先に見えてくる本殿。

境内を巡って戻ってくるときには先ほど歩いてきた自分の足跡さえも雪に覆われてしまうほどの強さになってきた天候。厳しいこの地の天気の下で、コツコツと商業にて蓄財をし、一緒に一度の来るべきに備えていた名和一族の心意気が伝わってくるような参拝である。















2014年1月13日月曜日

「楠木正成 上・下」 北方謙三 2003 ★★


日本人であるならば、どこかの段階で修学旅行などで東京に立ち寄っているはずである。その時に必ず立ち寄るのが皇居。そして説明を受けるのは勇ましい姿を見せる楠木正成像。

戦国時代の武将でない為に、テレビなどで何度も何度も繰り返して刷り込まれるイメージも薄く、確かにメジャークラスの人物にも関わらず、それほど詳しく知っている人物でもない。

そもそもどの時代の人なのか?
武将なのかどうなのかすら怪しい・・・

とにかく御所の前に銅像が飾られているだけあって、さぞや歴史の中で天皇家に対しての忠誠心を見せた立派な忠臣だったのであろうというイメージばかりが残っている。

そんな訳で手にしたこの一冊。そういえば北方謙三自体、それほど手にすることなく生きてきてしまい、それゆえに余り南北朝辺りのインプットが足りてないのかと思いながら読み進めることにする。

そもそも南北朝という言葉自体がかなり怪しい。つまりはそれぞれに天皇を担ぎ上げ、北と南に分かれて争ったということで、かなり荒れた時代背景ということになる。その年代も、鎌倉時代の終わりから、この南北朝時代を経て、再度一つの皇族に落ち着きを取り戻し室町時代が始まるという流れでややこしい・・・

そういわれても、もともとなんで皇室が分裂しなければいけなかったのか?

という事を説明してくれないと分からないじゃないかと突っ込みたくなるが、つまりは鎌倉時代の幕開けと共に、国を統べる力が朝廷から実質的に武士の手に映り、それが数百年を続いてくるとそれを面白く思わない天皇も度々現れる。

「権力は自らの手にあるべきだ」。という思いから、鎌倉幕府の実験を握った北条氏に不満を持つ武士にたきつけたり、何かと手を売って鎌倉幕府の転覆を企てるが、その度に握りつぶされて、企てを行った周囲のものだけ処分され、また天皇は暫く静かにしているという事の繰り返し。

そんな流れのなかで、1331年に後醍醐天皇が再度鎌倉幕府の倒幕運動を企てる。最終的には今度こそそれが成就して、鎌倉幕府は倒されて、南北朝という二つの天皇がたつ混乱の時代を経て、最終的には足利尊氏による室町幕府の時代へと移っていく。そんな時代背景の中に放り込まれたのが主人公の楠木正成。

物語のなかでは、武士でもなく、農民でもなく、公家でもなく、「悪党」として扱われる当時の楠木正成。後醍醐天皇の皇子である護良親王と連携しながら、なんとか「倒幕」という火種に火をつける動きを河内でとりおこなう正成。

その動きが功を精して隠岐に流されていた後醍醐天皇が京に戻り、倒幕の動きは次第に巨大化し、最初は「なんとか武士の力を借りずに倒幕を成し遂げる」という正成の思いは叶うことはなく、当初のシナリオから徐々に外れながらも倒幕という大きな時代の1ページを刻む事になる。

その後、執政に戻った天皇への失望と、徐々に大きくなる足利尊氏の存在感。そこに起こる南北朝二つの天皇の擁立。時代に翻弄されて、それでも錦の旗を掲げて戦う正成。

室町時代後期に訪れるもう一つの混乱時期である戦国時代の武将達とはまた一味違った、ごつごつとした男らしさを感じさせてくれる正成の生き様。時代を読み、先を見据えるからこそ苦しみながらも、それでも「忠臣」として何百年もの後世で語り継がれるブレない生き様はやはりある種のすがすがしさを感じさせてくれる。

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目次
第一章 悪党の秋
第二章 風と虹
第三章 前夜

第四章 遠き曙光
第五章 雷鳴
第六章 陰翳
第七章 光の匂い
第八章 茫漠
第九章 人の死すべき時
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