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2017年7月13日木曜日

那覇


今後数年、幾度も足を運ぶことになりそうな沖縄。今回は那覇市、沖縄市、南風原町と南部でいくつかの打ち合わせをするということで、折角なので前回回りきれなかった名は周辺の建築を見てまわるのとともに、那覇の中で少し土地勘を養うために街中を夏真っ盛りとなったキツイ日差しの中、できるだけ歩いてまわることとする。

沖縄市というのは、那覇の北だと思っていたが、その間に浦添市、更に北に宜野湾市があって、その北に位置するのが沖縄市だというのをやっと理解し、逆に那覇市の南を東西に走る国場川(漫湖)を渡って南には豊見城市(とみぐすくし)、更にその南に糸満市。東に向かうと、首里城や識名園までが那覇市でその東に島尻郡南風原町(はえばるちょう)。更に東に向かうと南城市(なんじょうし)と、大雑把に沖縄南部の地理を理解する。

前回訪れたのは二月。南部をぐるりと巡ったつもりであったが、やはり沖縄は暑い夏の日差しで体験してこそだと改めて実感。三連休前ということもあり、中心の国際通りは勧告客でごった返し、乗りこむタクシーでは何度も「公務員はいいですよねぇ。あんだけ休んでも高い給料もらえるんですからねぇ」との恨み節。その中でも全国で一番早い代表校が決定する高校野球で名・興南が決勝に残ったということで、球場まで見に行くんだと息巻く運転手の姿に夏の訪れを感じながら、今回も少しだけ沖縄の現在を感じるようにと思いを馳せる。










2016年2月12日金曜日

春日神社(かすがじんじゃ) 860 ★★


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所在地  大分県大分市勢家町
主祭神  武甕槌命、経津主命、天津児屋根命、姫大神
社格   旧県社・別表神社
本殿の様式 流造
創建  伝貞観2年(860年)
機能  寺社
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「まだ神社に行くの?」という妻の機嫌をとるために、港沿いで焼き牡蠣を食べられるお店を探し、軍手をはめて好きなだけ牡蠣を食べおなかを満たし、大分市の市内に向かい最初に立ち寄ったのがこの春日神社(かすがじんじゃ)。

県庁所在地の中心部の住宅街ということだから、恐らく地元では相当な高級住宅街なのだろうと想像される落ち着いた雰囲気の街並みに、ぽっかりと広がる緑ですぐにそこに聖域があると見て取れる。

境内は非常に整った雰囲気で、朱色が広い空によく映える。入り口の神門の脇にはご神木となっている楠の大木が二本、まるで語り合うかのように立っており、その巨大さからもこの場所の歴史の長さを感じ取ることができる。

境内のどこから見ても横の拡がりを持つ拝殿とその奥の本殿に対し、空白の境内を間にもって対峙する二本の巨木が、なんとも絵になる風景を作り出しており、こんな場所が日常空間の一部としてある周辺住民はなんて幸せな日常を過ごしているのだろうと思いながら手を合わして参拝を終える。















ご神木(楠)

2015年10月6日火曜日

水戸 ★★


久々に日本で時間を過ごせるならばやはり気持ちのよい神社に出会いたいと、東京から日帰りでアクセスできる距離で、建築、神社、城、庭園、景勝地などと食事などのプラスアルファに鑑みて、迷った挙句に選んだのがこの水戸方面。

「水戸」と言えば思い浮かぶのが「水戸黄門」。その印籠が威光を放つのはそこに葵の紋が掘り込まれているから。そしてその葵の紋に将軍家である徳川家の姿を見るからである。

水戸黄門として愛され水戸藩の二代目藩主となった徳川光圀。江戸時代が始まり30年近く。やっと徳川家の世として泰平の感が世に広まりつつあった1628年に、この常陸水戸藩に生まれ、その生い立ちから様々なすったもんだを経ながら藩主へと持ち上げられ、ナンと言ってもその隠居後の活躍によって「水戸黄門」として現代でも愛される人物として語り継がれる。

その光圀が時に江戸に上り、徳川宗家に諫言するするなど活躍できたのも、この「水戸」がもう一つ纏うイメージである「徳川御三家」であったからでもある。「御三家」と言われて昭和のスターの顔で浮かんでくる世代もそろそろリタイアが見え始めているのだろうが、それに比べてこちらの「御三家」はいつになっても色あせることは無い。

江戸時代において、将軍家である徳川宗家に次いで高い地位を確保していた3家をいい、何故それだけ高い地位を持ちえたかと言えば、その血筋の良さの為であり、宗家の後嗣が絶えた時に備えて家康がその血を残すために遺した制度と言われているという。

何々徳川家とは良く耳にするが、その中でも圧倒的にしっくりくるのがやはりこの御三家であり、それぞれの藩と石高、及びその居城は下記の様になる。

尾張徳川家 尾張藩 62万石 名古屋城
紀州徳川家 紀州藩 56万石 和歌山城
水戸徳川家 水戸藩 35万石 水戸城

しかし「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」と言われるように、水戸は他の二家に比べやや家柄が落ちるとされており、それを示すかのように8代将軍吉宗から14代将軍家茂までの将軍派全て紀州家から輩出されている。

この御三家の人間は、将軍家やその下に位置する御三卿(ごさんきょう)とともに、徳川姓を名乗ることができ、また葵の家紋の使用も許されていたという。そこで冒頭の「水戸黄門の印籠」となる訳である。

それでは「御三卿」は?となると、江戸も時代が進み中期に差し掛かってくると、後継者の問題はより複雑になってくる。様々な思惑も交錯するのだろうが、それでも泰平の世を続けるためには正当な後継者がいることが何よりも大切ということで、将軍家と御三家からも後嗣となるものが出なかった場合に備えて準備されたのが「御三卿」という訳であり、下記の三家となる。

田安徳川家(田安家) 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家) 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家) 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)

こららの三家は藩主として藩を納めたのではなく、あくまでも江戸城下にて屋敷を構えて家を興し、その時期も8代9代将軍時代に集中している。一橋徳川家と聞けば、最後の将軍となった15代将軍・徳川慶喜が水戸家出身でありながらも、一橋徳川家へと養子に出され、後に将軍になったことでもよく知られる。

そんな訳で、家康の血を絶やさないことが何よりも重要視された江戸時代。江戸や京から離れた地に、しっかりとその血筋を遺し、どこかで何かがあった場合にも正統の血を後世に残せるようにした制度である。

それほど重要視され、徳川の威光を燦燦と浴び、徳川家の世を安泰にする為、宗家徳川家をサポートするためにと、様々な学問が盛んになり、その渦の中から儒教を中心にした水戸学が生みだされる。この水戸学がその後の明治維新の大きな推進力になっていくのはなんとも歴史の綾と言うべきか。

その水戸学の基礎をつくったのは、上記の徳川光圀がこの国の正しい歴史を集めようと始めた「大日本史」編纂の大事業。その事業の為にこの地に集められた様々な分野の学者達。そしてその光圀から7代後、江戸時代も後期に入った時代に、9代水戸藩主となった徳川斉昭によって作られた藩校である弘道館が、水戸学をより高みへを押し上げ、そこで徳川慶喜が学び、明治維新の重要な舞台の一つとなったのも、また歴史の紡ぎだす不思議な縁と言うことであろう。

そんな今の日本の姿の基礎となる江戸時代および近代の歴史において、非常に重要な意味を持った場所・水戸が、現代においてどんな都市として住まう場所となっているのか。あれほどの豊かな文化を生み出したその面影が現代の街並みにも残っているのか、それほどの重要な意味を持つようになったのは、その場所が持っている力が強かったからなのか。

新しい時代の礎となる学問を生み出した街の現在の姿には、その遺伝子を感じるような整った風景、文化レベルの高さを感じされる街並みに出会えるのか、そんな期待を膨らませてまだ暗い空のした、車を東へと走らせることにする。




2014年2月1日土曜日

松江 ★

すっかり暗くなった街中を、既に何度も通ったので見覚えのある景色を見ながら橋を渡り宍道湖の北岸に経つ宿泊先のビジネスホテルへチェックインする。周囲の食事処の情報を教えてもらい、荷物を整理しさっさと外へ食事に出かける。

この松江市。言わずと知れた島根県の県庁所在地であり、江戸時代の松江藩の藩庁地として栄えた城下町を基としている。人工は20万人でお隣の米子市と共に、山陰地方の経済の中心地でもある。

市街地は西の宍道湖から東の中海へと流れる大橋川によって南北に分割され、北を橋北(きょうほく)、南を橋南(きょうなん)というらしい。湖からの穏やかな水面が街のどこからでも感じられる水を中心とした街であり、その両岸に繁華街が展開している。

戦国時代には京極家分家である尼子家によって支配され、その家臣であった山中鹿介(やまなかしかのすけ)幸盛(ゆきもり)はこの地で随分と英雄視されているようであり、何度か「鹿介を大河ドラマに!」というポスターを見かけることができる。

昼間とは違った表情を見るのを楽しみに、せっかくだからと夜の松江がどのような構成になっているかを知る為に、ホテルを出て橋北地区から大橋川を渡り、橋南地区を廻って駅前地方を散策してみることにする。

東茶町を抜けて旧中心街近くにある飲み屋街の東本町を見ていくと、左右にちらほら飲食店の看板が見えてくる。道にもカップルなどの姿が少し見かけられるようであるが、ここが中心というような場所は無いようである。

飲み屋街も終わったようなので南に向かい大橋川を渡る。これが結構長い。そして南岸に到着し、元・遊廓という伊勢宮町近辺を細い路地を抜けながら散策する。何件かのキャバクラなどの飲み屋があり、派手な格好をした女の子の姿もチラホラ。しかし、歯抜け的に立体駐車場があり、その脇には怪しく光る「代行」の文字。その為に飲み屋が集中して活気があるという感じは無く、暗い中にポツンポツンと飲食店が見えてくる。

道を行き来する人もそれほど多くは無く、賑やかで流行っているなと思える雰囲気が外まで届いてくるような店はなかなか見つからない。外に出ているメニューを物色しながら、何件か見てみるが、どうもこれという決め手にかける。想像していたほど、海の幸が安く提供されている訳でもなさそうで、料金設定はかなり高めの様子。

そんなこんなで伊勢宮町近辺の路地をすべて歩ききり、駅前方面まで今宵の夕食を求めて彷徨うが結局決定打にかけ、最終的に一度足が止まったおばあさんがやっている居酒屋の暖簾を潜ることに。

一人なのでカウンターに座り、ビールを頼んでお通しとてんぷら定食を頼むが、暫くするとチラホラお客さんが入ってきて店内もそれなりに埋まっていく。二人のおばあさんのうちの一人に聞いてみると、やはり昔は伊勢宮町近辺に飲み屋が密集していて活気があったが、最近はチェーン店などが客を確保しようとして駅前に展開し始め、車で移動する人が多くなったのと、間違いない賃貸料が入る駐車場として土地を利用する地主が増えた為に街が歯抜けになってしまって、かつての活気がなくなってしまったと嘆いている。

恐らく日本中の地方都市のかつての中心地で起こっていることとまったく同じ現象であろうと思いながら箸を進めるが、これがあまり美味しくない・・・その後おばさんたちとの話が盛り上がる訳でもなく、さっさと食事を切り上げて、明日の立ち寄り地の予習と本日の撮影データを整理することにし、近くのコンビニで軽いつまみとお酒を買い込んで再度長い道のりを歩きながらホテルへ戻ることにする。

20分ほどしてホテルが見えてくるが、その頂部についているホテルの名前の一部の電飾が切れて、「ジー、ジー」と音がしている。なんだか最近見た映画のモーテルのようだなと思いながら、これもまたこの町の現在を象徴しているのかなとしみじみと日本の地方の今を感じることになる。

2013年7月21日日曜日

津城跡(つじょう) 1570 ★★


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所在地 三重県津市丸之内
城郭構造  輪郭式平城
別名 安濃津城(あのつじょう)
築城  1570
築城主 細野藤敦
機能  城郭
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Discover Japan「いま、見ておくべき城 100」
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山奥の北畠神社からの帰り道。川沿いの道を走っていると外も徐々に暗くなってくる。それにしても三重は本当に縦に長い県だと実感する。朝から随分走ってきたと思うが、それでもまだ真ん中あたり。夜には北部の桑名に住む友人宅まで行く予定になっているので、やや気持ちが焦りながら辿りつく県庁所在地・津の中心部。

津城跡地横に位置する駐車場に車を入れて、友人に現在地と到着予定時刻を伝え、一息入れてから本日最後の見学地に向けて出発。関川原の合戦後の江戸時代初期に伊予今治藩より築城の名手・藤堂高虎が入城。城の大改修を行い輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備、以後明治維新まで藤堂氏の居城となった城である。城の北には安濃川、南は岩田川が流れ天然の外堀となっており、その為に別名安濃津城(あのつじょう)と呼ばれたと言う。

そしてこの津。江戸時代の伊勢神宮参拝の宿場町として賑わい「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭に謡われ、明治以降は県庁所在地としてその名を知られている街である。

城跡は「お城公園」として整備されているが、やはり特徴的なのは西日を浴びて綺麗に反射するその石垣。横から射すようなその西日から逃げるように石垣の中へ。日曜の夕方の公園では、地元の少年達がバイクをアクロバットに乗りこなす練習をしている様子。

藤堂高虎の銅像を眺め、逆の入口から再度外にでて、ぐるりと時計回りに回っていく。如何にも「頑丈にしました」的な何処でも見る風景と化した耐震補強された市役所を苦笑いしながら通り過ぎ、ぐるっと回って広い堀越しに見る石垣はやはり見事。

石垣の高さと堀の幅の関係性がいいのかもと思うが、部分部分に高さを変えた石垣が凹凸を繰り返し絶妙な場所を作り出す。変化に富み、美しいプロポーションの石垣。下を見ると足音を聞きつけて、濃い緑色の水の中から水面に顔を出した大量の鯉と亀。

恐らく地元の人が夕方に餌でもあげにやってきているのだろうと想像し、石垣のある良い街の風景に入り込んだ気分に浸る。これで本日の立ち寄り予定は全て終了と、背伸びをして北部の桑名まで最後の運転に気合を入れる。

すっかり暗くなった伊勢自動車道を北に走り、やっと辿りつく桑名出口。友人宅に到着しメーターを調べると、今朝の8497キロから現在は8902キロ。脅威の400キロ越えだと理解すると、身体中の疲れも倍増する。友人が良く行くという近くのレストランでやっとリラックスして食事を取り、今日一日の行程に思いを馳せる。