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2014年2月1日土曜日

由志園(ゆうしえん) 門脇榮 1975 ★★



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年代 1975年
作庭 門脇榮
形式 池泉回遊式庭園
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昨晩終電を逃し、なんとか乗り継いでいけるとこまで行こうと辿りついた北千住。そこから妻の実家のある草加市までタクシーで帰るしかないと肩を落としながら向かったタクシー乗り場。そこにはおよそ30人の列・・・

「やはり日本は景気良さそうだな・・・」と寒空の下30分ほど待ち乗り込んだタクシー。そして3000円もの無駄な出費を払いながら、20分ほどで自宅に到着したのは、既に深夜の1時半・・・

明日の朝08:45成田発のスカイマークで米子に向かい巡礼の旅をスタートさせる段取りをしていたので、この時間からトランクにパッキングをしないといけない。それを横で見ている妻が、「何で毎回そんなキツキツのスケジュールにしちゃうかな・・・」と言っているが、とにかく6時前には家を出ないといけないので、朝起きてパッキングを済ませることとして床に就く。

朝5時起床。先日同様、仕事場に向かう序に途中の駅まで乗せてってくれるという義父は既に起きているので挨拶をし、さっさとパッキングと身支度を済ませて京成線のアクセス特急の止まる最寄り駅まで送ってもらい、この時間にも関わらず成田空港に向かうと思われる大きなトランクを抱えた他の乗客同様に、ウツラウツラとしながらのどかな景色の中をいく。

国際線しか利用したことのなかった成田空港だが、スカイマークなどの国内線も出ているらしく、いつもとは勝手の違った搭乗ゲートに向かい、なんとか時間通りに機内へと。流石に機内はガラガラだったので、席に着くなり眠りに落ちて、着陸の衝撃で目を覚ます。

米子鬼太郎空港に到着し、到着ゲートすぐにあるレンタカー窓口に向かうと、地方空港にありがちないくつものレンタカーの出張窓口が並列してある様子に、新しい場所に来たんだと少しだけ眠気が冷める。

予約してあったとおりに手続きをし、いつも通りに小回りの良いタイプから、今回はマーチを借りることにする。しかし案内されて連れて行かれた駐車場ではなぜか札幌ナンバー。「いやー、回りまわって」という店員だが、このナンバープレートのお陰で行く先々で「遠方からはるばる・・・」と随分好奇の混じった歓迎を受ける事になる。

荷物を片付け、シートを調整し、シガーソケットにUSBの充電キットを挿し込み、まずは最初の目的地の電話番号を入力する。そして表示されるルートと時間にやっと旅が始まったんだと感じながらアクセルを踏みしめる。

山陰地方という何とも馴染みの無いが、それだけに独特の風景と文化が残っているのだろうと勝手に想像していたので、起伏の少ない海岸沿いの風景に期待を膨らませながら、徐々に目の前に広がる広大な湖である中海(なかうみ)の中心に浮かぶ島へと続く巨大な橋・江島大橋(全長1446m)を渡っていく。

松江市といえば、宍道湖(しんじこ)であるが、松江と米子の間に広がるのがこちらの中海。そしてその真ん中にどっしりと浮かぶのが大根島(だいこんじま)と江島(えしま)の二つの島。そしてその大根島の真ん中にあるのがこの由志園(ゆうしえん)。

山陰地方随一の規模を誇る回遊式庭園ということで、日本の庭園100選にも選ばれているこの地方有数の観光地ということで、土曜日の早朝にもかかわらず、広大な駐車場には既に何台もの車が並ぶ。

内部も高齢者の観光客でごった返しており、観光日和の日差しを浴びた牡丹の花を観賞している様である。傘をかけられた寒牡丹が並ぶ姿はなんとも可愛らしく、目を奪われながら綺麗に手入れをされた庭園を進んでいく。

1975年の作庭なので、既に40年の月日を経たことになる庭園らしく、しっかりと根付いた苔のカーペットもところどころ見られ、広大な敷地の中で様々な景観スポットが用意され、四季の花々が楽しめる間違いの無い日本庭園といった感じ。昨年夏に廻った京の禅寺の極小の美とはまったく異なる、この地方らしい大らかな庭園の美を楽しんで次の目的地へと足を進める。





































2010年11月9日火曜日

「空海の風景 上・下」 司馬遼太郎 中公文庫 1975 ★★★

流石に平安時代の物語だと、事実を追うための資料が足りないのであろうか、随分と作者が語るくだりが多く目に付くのが他の司馬作品との大きな違い。流石に1000年以上の時間の隔たりは、そうそう簡単には埋められないということか。

どの分野でもそうであるが、新しいものが生まれる混沌とした時代。それから幾つかの勢力が力を持ち始め、徐々に安定化していく時代。その後安定勢力が既得権益を獲得し、当初の目的よりも利権の確保が意味を持ち、変化を阻もうとする時代。

6世紀半ばの仏教伝来以後、200年となる空海が生きた平安時代。奈良仏教と呼ばれる、仏教における6つの思想部門が奈良に成立した華厳(けごん)、法相(ほっそう)、三輪(さんろん)、倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、律(りつ)の南部六宗。

それらの釈迦仏教は煩悩からの解脱のみを唱えることに疑問を持ち、「過去のどの宗も真言密教にははるかに及ばない。ただ華厳経のみが、いま一歩のところで密教に近づいている」と華厳学の部門の大学として機能していた東大寺だけを評価する若き空海。

華厳経をとことん学び、釈迦を教祖としない非釈迦的である密教世界を知るために、当時のインターナショナルなアカデミズムの中心地であった唐への遊学を様々な手を使って画策する。そして手に入れた入唐(にっとう)のチケット。命がけとなる唐行きの船の上にあるのは、生涯のライバルとなる最澄の姿。

大日という宇宙原理に人間の形与えたものを教祖とする新しいインドの密教の教え。能動の世界である金剛、変容の世界である胎蔵界。密教の行法である護摩の行い方。当時の最先端の学問を全て身体の取り込み、その全ての日本に持ちかえる空海。

曼荼羅という宇宙の本質の姿を立体・平面で現したものを幾つも持ち帰り、釈迦没後56億7千万年経って地上に生まれ、人類を救う仏である弥勒(みろく)を持ち帰る。

儒教は世俗の作法に過ぎないとし、中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であったとする。重要なのは史伝と事実であり、誰がいつ、どこで、何をしたか。もともと人生における事実など水面にうかぶ泡よりもはかなく無意味であるとする立場からすれば、ばかばかしくてやる気がでない。

それに対してインド人は対極に位置し、時間がない。「生命とは何か?」ということを普遍性の上に立ってのみ考えるがために、誰という固有名詞の歴史もない。いつという歴史時間もなかった。すべて轟轟とそて旋回する抽象的思考のみであり、その抽象的思考によってのみ宇宙を捉え、その原理をひきだし、生命をその原理の回転のなかで考える。

人生の悦楽の一つは自分とおなじ知的水準の人々と常時交わりを持ちうることであり、稀な才能な人物であればはるほど、喜びを分かち合える仲間は少なくなる。その人物が集まる場所が時代の中心であり、周縁では出会うことが無かった人物と出遭い自らを高めることが出来る。

京に戻り、朝廷から「国を護る寺を作る」様に国家プロジェクトを任されるまでになった空海。東寺を密教の中心機関へとすべく、講堂を建立し大日如来を中心とする五体の如来像(五仏)、金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)、それに加え梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像をあわせ、全部で21体の彫像により、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)をつくりだす。

天空に理想の仏教世界を作ろうと高野山に戻る空海。その眼に映った風景はどれだけ先の日本を捉えていたのだろうと想像する。