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2021年11月10日水曜日

Villa Shodhan(Shodhan House) ショーダン邸 _Le Corbusier ル・コルビュジエ _1951-56 ★ ★ ★


ル・コルビュジエ(Le Corbusier)


ショーダン邸サラバイ邸
同時期に同じ街で設計が進められた二つの住宅。

インドの強い日差しを始めて体験したコルビュジェ。
同じ街で、同じような特徴を持つ敷地に、二つの住宅を同時に設計する。
兄弟のような二つの住宅。
サラバイ邸は低層10スパンのヴォールト屋根を持つモノル住宅とし、
南北に風が通り抜ける横の広がりとして。
ショーダン邸は異なるスパンのグリッドが入れ子になるような5層を持つキューブとして、
これまた同じ時期に同じ街のアーメダバードで設計を進めていた繊維業会館で試された、
強い日差しを遮るためのブリーズ・ソレイユがより複雑な形で現れる。
 
横の広がりの庇の下に広がる影の空間。
縦に延びる壁が作り出す影の空間。

その外部とのバッファー空間の先にはともにプールが設けられ、
水によって空気が冷やされ、柔らかな風を空間へと送り込む。
 
現在の機能の分断された住宅にあまりに慣れてしまった目には 
平面をどれだけ見ても、どこが建築の外形線なのか。
どこがどのように使われて仕切られているのか。
それが全く分からない。

荒々しく直接的に外部の自然と共になりながら生活が成り立つこの地で、
生まれた兄弟のような住宅は、
今の時代でも強烈な魅力を持ち続けている。












2021年9月15日水曜日

Villa Sarabhai サラバイ邸_Le Corbusier ル・コルビュジエ _ 1956 ★ ★ ★




ル・コルビュジエ(Le Corbusier)

アアルト、ロース、イームズ、ライト、ミース、バラガンとモダニズムの巨匠たちの設計した住宅を見てきたが、そろそろだろうと手を伸ばしたがのコルビュジェ。3年前の春、ドーシのプリツカー賞受賞をいい機会だと、弾丸ツアーで訪れたインド。ドーシの師匠であるコルビュジェもいくつか建築を残したアーメダバードで訪れることができたサラバイ邸について書いてみる。

国際連合本部ビルの設計にフランス代表と招待されるほど、世界的知名度を得ていたコルビュジェの建築を、何とかインドにもと画策したドーシの力もあり、チャンディガールとアーメダバードに公共性の高い建物が出現する1955年のその前段階として、まずはインドを訪れたコルビュジェにこのアーメダバードで設計を依頼されたのがこのサラバイ邸。完成したのが1951年なので、同じアーメダバードで1956年に完成したショーダン邸よりも先に、コルビュジェが感じたインドの環境、そしてそれにどう住宅が対応するべきかの考えがより濃く反映されている建築であろう。

そんな訳でなんとか訪問を画策するのであるが、インドという土地柄なかなか情報がアクセスしやすく整理されておらず、またこのサラバイ邸は当時の施主であるサラバイ家の子孫がそのまま住んでいるということもあり、見学へのハードルがかなり高い。どうやって見学を申し込むことができるのか、またどこに連絡をするのかも分らぬままに現地に到着してしまったために、宿泊していたホテルのスタッフや、オフィスのインド人スタッフなどに手伝ってもらうが、どうにも突破口が見えない。

その為に直接現地に行き、入り口脇の門番の人に聞くと、「この番号に電話しろ」 と渡された番号に電話すると、どうやら持ち主の関係者で、見学の差配をしているらしい人に繋がり、国籍と見学の目的などを伝えると、改めて次の日に来てくれと言われる。本当に見学できるのかとよく分からないまま、言われた時刻に次の日に訪れると、入り口で登録を終えて、敷地内に入れてくれる。敷地は広大な森の一部となっており、敷地入り口から建物に到着するまでに、のどかに歩くクジャクなどを見ながら敷地の東の端まで到着し、そこから南に折れて暫くすると建物が森に埋もれるようにして見えてくる。

他にも数人同じような外国人の姿が見え、どうやらこの時間に内部の見学ツアーを開催しているようで、内部は撮影禁止だということを伝えられ、ツアーが開始。コルビュジェが考えていた、戦後の住宅需要に対応すべく、規格を統一することで工場生産により質の高い住宅を大量に供給できるようにと考案されたフラットルーフ型のシロトアン型住宅と、ヴォールト屋根を持つモノル住宅だが、パリの街中に設計された住宅は前者のフラットルーフを持つタイプが多いが、この敷地は周囲に自然たっぷりの環境であるためか、後者のモノル型のヴォールト屋根タイプが採用されたようである。

建物には北側からアプローチしてくるのであるが、ヴォールト屋根が10スパン連続して設けられ、東側んお5スパンがメインの居住スペースで、西側の3スパンがダイニングなどのサブスペースとなっており、その間の2スパンからアプローチするのだが、このスパンでは北から南に遮る東西の要素がないために、風が吹き抜けて、内外の境界線が非常に曖昧に作られている。

インドの強い太陽の日差しの下での生活は、どのように日よけを行い、風を通すかが重要だと考えたコルビュジェは、広大な公園に面した南にプールを設け、長く張り出した庇によって風を作り、冷やされた空気が北に流れるように環境を整えたのであろう。

梁の下で揃えられた空間の高さに、床から天井までの大きな回転扉や、微妙に場所を変える構造壁によって単調にならずに空間の奥行きを感じながら、様々な家具によってシステムの中に場所が程よく作られている。

一階の南を東には日陰になった屋外スペースが設けられており、室内と外部とのよい干渉スペースとして機能しており、ヴォールとの方向性に沿うようにして、壁に対して行ってこいの階段を階段を上がると、二つの寝室が面白い形でヴォールトを分け合って配置されている。

テラスに出ると、南側へのプールへと滑り降りることのできるかなり急な滑り台があったりと、ユニットの組み合わせではあるけれど、とても豊かで異なる空間があちこちに配置されている豊かな住空間となっている。


2014年4月12日土曜日

北京魯迅博物館 1956 ★★★



歴代皇帝廟を見学し、折角だからと近くに位置する魯迅博物館にも足を伸ばすことにする。魯迅(ろじん)。中国ではLǔ Xùn(ルーシュン)と発音される言わずと知れた中国文学の作家である。

1881年に生まれ、1936年にこの世を去った魯迅はその一生の中で何度も住まう場所を変えている。出生の地である中国浙江(zhèjiāng)省の绍兴(紹興 shàoxīng)から、南京、留学に渡った日本での東京、仙台、中国に戻った後の南京、北京、アモイ、光州、そして上海。

この場所が北京魯迅博物館と呼ばれるのは、上海にも魯迅公園内に位置する上海魯迅紀念館(ろじんきねんかん)という博物館があるからである。

本名は周树人(Zhōu Shùrén)といい、ペンネームの魯は母親の姓だという。代表作としては「阿Q正伝」や「狂人日記」など。変革する社会の中で苦しむ若者の胸の内を描写する。

博物館は入場料が無料であり、敷地もかなりゆったりとした中に建物が配置されており、如何にも文学好きそうな中国の若者が数人、熱心に展示に視線を送っているので、北京とは思えないほど非常に静かな時間を過ごすことができる。

この北京魯迅博物館は中国最初の名人博物館といい、魯迅に関する1万3000冊以上の書籍の原稿などにより魯迅の活動を紹介している博物館である。折角異なる文化を持つ都市に住んでいるのだから、こうしたその土地でしか見ることの出来ない文化に振れるのはなんとも贅沢なことだと思いながら展示を回ることにする。











2014年2月4日火曜日

倉吉市庁舎 丹下健三 1956 ★★



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所在地  鳥取県倉吉市葵町
設計   丹下健三
竣工   1956
機能   庁舎
規模   地上3階地下1階
構造   RC造
建築面積 1,576㎡
延床面積 3,225㎡
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日本建築学会賞 (1957年)
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津山で見るべきものをみて、中国山脈を越えて鳥取へと向かう。山を越えたら雪景色、という昨年のトラウマが頭によぎりながら運転をするが、案の定あるトンネルを出たらそこは雪景色・・・

予定としてはこれから長い事見てみたかった三徳山三佛寺(三仏寺)、通称投入堂を見学し、冬季なので投入堂までは登れないがある程度山登りをするだろうから、その帰り際に鳥取にある3つの百名湯の一つである三朝温泉(みささおんせん)で立ち寄り湯を味わってから倉吉市にてモダニズム建築の見学へ。と思っていたので、予定の変更が必要になりそうだ。

先ほど立ち寄った奈義町にて三佛寺に電話すると、昨晩からの大雪のせいでかなりの積雪となっており、とてもじゃないが登って来れないし、参拝もかなり危険になるということで、後ろ髪を引かれながらも三佛寺を諦める。

せめて冷え切った身体を暖める為に温泉だけでもと思いながら、道路に積もった20センチはあると思われる雪とその中に行き交う車が作った轍に頼りにノロノロ運転しながらも、フロントガラスに降り付けるかなり強い雪に徐々に不安は増していく。

温泉街という街中から離れている場所性の為に、必然的に交通網も高速道路が延びていて、出口を降りたらすぐ温泉街。というように便利には行かず、かなり手前で比較的雪はけのよい高速道路を降りて、行き交う車がまだ多い主要道路を走りながらも、慣れていない雪道と、作品のトラウマに苛まれながら無事に倉吉にたどり着けるかと心配しながら先を進む。

ナビに導かれて主要道路から右に折れ、三朝温泉へと進む道に入っていくと、交通量も一気に減り、道路を積もる雪の量も多くなり、轍も綺麗には作られていない。その道を進むといくらスタッドレスを履いたレンタカーであるとは言え、かなり不安定な走行になり、もし道を踏み外したりしたら、交通量が少ない為に助けてもらう事も難しくなる。Uターンをしようにも、道路脇が雪で覆われてしまっているので、どこにスペースがあるか、また踏み積もった雪にタイヤが空回りしないかなどと心配しながら、安全そうな場所まで行き、三朝温泉を諦めてまずは倉吉に到着する事を最優先させることに。

四苦八苦しながらUターンを決めて、先ほど分離した主要道路まで戻り、車を倉吉方面に向けて走らせる。それでも、部分的に山間を走ることになり、部分的に厚く積もり雪の層にツルリと滑らないことを祈りながらなんとか倉吉市内に到着。

少しの斜面も雪国の運転に慣れてない身にはかなりの危険となるので、できるだけ車を停めて歩いてみて回りたいと中心部の倉吉市庁舎の駐車場へ車を入れる。しかしその思いを打ち砕くように、日本海側となったこの地では既に雪は大降りで、外気温はマイナスになってしまっていると思われ、とてもじゃないが外に長く留まる事は出来そうに無い。

そんな訳で余裕を持って建築を楽しめる天候ではなくなり、丹下健三が東大で師事した岸田日出刀と共同設計を行った、初期の代表作の一つでもある倉吉市庁舎を手短に見学することにする。

1913年生まれの丹下健三は東京大学で建築を学び、内田祥三、岸田日出刀らに学び、その後東京大学にて丹下研究室を受け持ち、そこで数々の戦後日本建築界をリードしていく作品を設計すると共に、その後の世代を引っ張っていく多くの建築家を輩出していく。

1952年 広島平和会館原爆記念陳列館
1953年 丹下健三自邸
1957年 旧東京都庁舎
     倉吉市庁舎
1958年 香川県庁舎
     今治市役所庁舎・今治市公会堂
1960年 倉敷市市庁舎
     東京カテドラル聖マリア大聖堂
     東京オリンピック国立屋内総合競技場
1966年 山梨文化会館
1967年 静岡新聞・静岡放送東京支社
1970年 日本万国博覧会会場基幹施設計画・お祭り広場
     駐日クウェート大使館
     横浜美術館
1990年 東京都庁第二本庁舎 
1991年 新東京都庁舎
1992年 国際連合大学
1994年 新宿パークタワー

代表作品だけを見ても、この倉吉市庁舎を設計した同年には、旧東京都庁舎も設計されている。翌年の香川県庁舎に見られるように、鉄筋コンクリートを使ったモダニズムの建築の中に、如何に日本的なる表現を盛り込んでいくのかが模索されていた時期の作品であり、この作品にて日本建築学会賞も受賞している。

竣工から60年近く経った建築であり、耐震指針も変化した事から建築自体には外科手術のような如何にも「補強しましたよ」とサインを貼ってあるように見えてしまう耐震補強のブレースが外部にも、内部の中庭に面した壁面にも現れており、視線をことごとく遮るだけでなく、建築の持つ水平性をも損なってしまっている。

外部階段の手すりのデザインに、如何にも丹下らしいゴツイプロポーションを見つけながらも、余りの寒さと滑りやすい足元の為に、駆け足で車へと戻る事にする。


















2006年10月25日水曜日

Temple of the Right Angle イリノイ工科大学クラウンホール ミース・ファン・デル・ローエ 1956


イリノイ工科大学にミース設計によるオーディトリアムがある。鉄骨とガラスによるシンプルに典型的なインターナショナルスタイルの建物で、「直角の社」といって問題ない近代建築史における名作である。その中で開催された「Thinking Outside of the Box」と題されたシンポジウム。20世紀の巨匠に捧げるレクイエムとしては申し分のないトピックな訳である。

NYアラップのトップが主催しただけあって、世界中の一流建築家や構造設計家、コンサルタントやディヴェロッパーが集まった。アラップ・北京代表のローリーからアラップ・NY代表のデビット、アラップ・ジャパン代表彦根さんを紹介された。ザハのパートナーのパトリックもプレゼンに来てて、「どうも、ひさびさです」と挨拶。昼時にかつてOMAでイリノイ大学の学生センターを手がけたマークが、当時の構造設計を担当していたローリーと共に建物を一通り案内してくれる。構内に通る高架鉄道をコンクリート・チューブで覆い、下層部を複層化し両側を結合するという設計。構内を歩く途中にも「あ、ミース」、「あ、クールハース」、「あ、モーフォー・ヤーン」と飽きることがない。

しかしプレゼンが近づくにつれて、なんかこう久々に緊張してくる。500人近いアメリカ人を舞台から見ていると、「いや、何しゃべろうかな・・・」と軽く凹んだりする。しかし、一度話し出せばベラベラ喋ってあっという間にプレゼン終了したのだが、その後に少なくない人が「いや、よかったよ」と言ってくれるのはやはり励みになる。

一日目のセッション終了後に雑誌の取材を受け、そのままカクテル・パーティーへと流れる。その上のビルにSOMのオフィスが入っているので、そこで働いてる知り合いにオフィスを案内してもらうことにした。NYKPFのオフィスを見学したときもそうだけど、アメリカのコーポレィティブ・建築事務所のオフィスは、どーんと抜けていてスペースにかなりのゆとりを持ったいいレイアウトになっている。そんな中でなぜだかパーティーをしている彼らを見て、こりゃ仕事がはかどるはと、なぜか納得。

明日はただ聞くだけなのでなんのプレッシャーもない。
営業と建築巡礼とハロウィン用のコスチューム探しに奔走しよっと。