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2016年1月23日土曜日

起きた事故の先にあるもの

1月15日に起きた軽井沢スキーバス転落事故。乗客のほとんどがスキー旅行に向かう大学生ということと、低予算でツアーを請け負っていた旅行代理店、ずさんな管理のバス運行会社の実情が相まって、世間の注目を浴びる事件となっている。

その後徐々に様々な情報が出てきて、当日運転を担当していた従業員の経歴や、大型トラックの運転に関する経験と技能が十分であったのかどうか、うねるような峠道が続く上り坂を上りきったあとの比較的見通しのよいゆるい下り坂における、大型バスの制御の難しさなど、具体的に事故の原因も見え始めてきている。

と同時に、メディアでは様々な角度から規制緩和による過当競争による下請けのバス運営会社が低予算にて仕事を請けなければいけないこと、それで多発したバス事故によって最低価格が設定されたりと行政側による様々な対処が行われたが、それでも現場ではやはりできるだけ安く下請けに出すことで格安を売りにして客を集めるシステムは変わるはずがなく、今回も定められた価格よりも低い値段で発注され、それを受けざるをえないバス会社の事情もあり、それが結局は現場で働く運転手などの人々の労働環境や、人材の確保へとしわ寄せが来るという図式が見えてくるだけ。

そのほとんどが大学生だったというツアー客で、いかにも大学生だから少しでも安いツアーに参加してしまうのはしょうがないという報じ方が多く見えるが、おそらく今の時代、年齢に関係なくどの世代でも同じように少しでも「コスパ」を比較し、少しでも安い方にいってしまう、それは時代の流れであろう。

問題なのはその「コスパ」という言葉が、ただ単にどこからどこにいくか、どこから出発か、どんな宿か、そして幾らか、ということに終始し、主催するツアー会社がいったいどんな会社なのか、今までの実績がどうなのか、そして実際にバスを運行する運営会社がどのような会社で、どのような技能を持った運転手が、どのような安全体制のもと運営が行われているのか、などの安全面などに関する様々な要素は知ることができないし、また顧客側もそれを知ろうともしないし、いちいちそれに時間を費やすほど現代の社会はのんびりと過ごしていけない。

とにかく効率とスピードとコスパを追求する現代社会では、「それらの安全面などは市場に出す商品として最低限の基準としてクリアしていてくれよ」という暗黙の願いとなっているが、今回それがやはり守られていないし、守られるようなシステムになっていないのが分かった訳である。

そうなると少し値段が高くても、やはり大手企業が企画するツアーに参加して、安心を買うということに回帰する動きもでるのだろうが、そこで上記の内容をどう知ることができ、どう担保できるのか?

おそらく少なからぬ人が体験があるだろうが、大手レンタカーではない、新規参入のレンタカー業者で借りたレンタカーが何年も型落ちの車で、バックモニターがついてない、カーナビの地図が古くてナビがうまく機能しない、ましてやカーナビがうまく設置されておらず、運転中ゴロゴロと外れて危うく事故りそうになるなんて経験があったりと、結局やっぱり名の知れたところに戻ることになる。

引越し業者も同様で、ネットで比較し少しでもお得なところにと頼んだ中小の業者で、当日やってきたのはいかにも経験のなさそうな中高年の派遣作業員。現場で誰が指示を出すのかもはっきりせず、家具や壁への養生もずさんで、かつ運び方も慣れておらず、家具を角にガンガンぶつける始末。これでは大変なことになると自分で指示をし、最後に業者にクレームを入れると、「正社員の担当者が急に現場にいけなくなり、大変ご迷惑おかけしました・・・」と。

こうなると想定したサービスを受けられる金額はいったい幾らなのか?それを判断する能力が今後はより求められることになる。

と同時に、今回のバスの事故は、「即日配達します」など売りにする、さまざまなネットショッピングのために、数年前に比べ比較にならないほど多くの配送の需要があり、トラックとその運転手が必要とされるようになっている。

そこに押し寄せたのが、近年の「爆買い」に代表されるようなインバウンドの外国人旅行者。個人でくる若者に対し、ほとんどの外国人はツアーに参加し、大型バスであちらこちらへと送り届けられる。そこでも大量に確保されるトラックと運転手。

そんな時代の要請を正面から受けるようになったのがこのバス業界。人材確保と、車体確保が非常に難しくなり、そのためにできるだけ仕事を回していかなければいけないし、その為にできるだけ低価格でも仕事を請けることにつながり、大手で競争にも勝ち抜け通常価格で仕事を請け、従業員の労働環境を担保できる企業に対し、安い価格で受注することがダイレクトに従業員の労働環境の質低下に直結する企業に二極化していく。

この図式は、他に目を向ければ様々なところで同じ様相が見えてくる。たとえば航空業界。こちらも数年前に比べれば恐ろしいほどの人が、都市を越え、国を超えて移動するようになった現代。今まで飛行機に乗ることもなかった人々が、当然のようにして空の交通を利用する。

その需要にこたえるために、大手だけでなく、様々な新規参入の企業が航空機と、それを運行するためのパイロットの確保に躍起になる。路線を確保するためには、客が集まらなくても飛ばし続けなければいけないだろうし、その為に質の悪い労働条件で働かなくなる人もでるような二極化が起こるのは容易に想像つく。昨年から世界の各地で頻発する飛行機事故もこの流れの一環なのだろうと想像すると、LCCをどう選んでいくかも今後の世界では重要な能力となっていくのであろう。

こうして想像を膨らませていくと、起こるべくして起きた事故はこの世の中に多くあふれており、その先にあるのは、規制を強化するだけでは簡単には変わりそうもない構造的な問題。今のところ自分たちでできるのは、どこに危険性が潜んでいるかと想いを馳せる想像力を強化して、その選択には効率やコスパだけでない視点を盛り込んでいくことだろうか。

2015年12月16日水曜日

「長い散歩」 奥田瑛二 2006 ★★★★

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スタッフ
監督 奥田瑛二
原案 奥田瑛二
脚本 山室有紀子
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安田松太郎:緒形拳
横山真由美:高岡早紀
横山幸(サチ):杉浦花菜
ワタル:松田翔太
安田節子:木内みどり
安田亜希子:原田貴和子
水口浩司:大橋智和
アパートの管理人:山田昌
医師:津川雅彦
刑事:奥田瑛二
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最近はその娘二人の活躍が非常に目立っている監督で俳優の奥田瑛二。決して派手な物語ではないが、主演の緒形拳の演技同様、ゆったりとしているが、じっくり染み込むような味のある時間を描く名作である。

東海地方を舞台とし主に岐阜県の多治見市、郡上市、美濃市、中津川市などでロケが行われたと言う作品は、全編に渡ってとても美しい自然が常に画面の中にあるつくりになっている。

名古屋の高校で校長として勤め上げ、定年退職した主人公の松太郎(緒形拳)は、亡くなった妻の葬式を済ませ、関係性のうまくいっていない娘と喧嘩別れするかのように家をでて、一人小さなアパートでささやかに新しい生活を開始する。

そのアパートで隣の部屋に住むシングルマザーの真由美(高岡早紀)に虐待を受けつづける小さな女の子幸(杉浦花菜)と出会う。居た堪れなくなり、彼女を守るために連れ出し、結果小さな女の子と二人、かつて見た風景を探す旅に出かけることになる。

小さな女の子を誘拐犯として警察から追われながら、今まで省みることの無かった妻や娘と言った家族に対しての懺悔の意味を持った旅であり、どうしても途中で終えることはできない松太郎。そしてその途中、ふらふらと放浪する大学生のワタル(松田翔太)と出会い、海外で生まれ育ち、生と死の考え方がどうも今の日本の社会ではしっくりこず、うまく歩調を合わせて生きられない悩みをもつワタルも加わり、三人は山の奥へと旅を続ける。

虐待によって感情や表現を失っていた幸が、徐々に松太郎に見せる歳相応の振る舞い。最後は笑顔で拳銃の引き金を引くワタル。旅を終え、警察に出頭する際に幸を抱きながら泣き崩れる松太郎の心の中の風景。

とても映画らしい時間の流れる映画であり、キャスティングもロケ地選びも非常に素晴らしい。タイトルの通り、全編に渡って非常に多く「歩く」シーンが描かれる。なんでも「効率」と「スピード」の求められる忙しない現代。その中に目的を持って、方向を失わず、自分のペースを理解して、決してそれを乱さず、一歩一歩進むことは、目的地に少しずつ近づくことであるのだと、改めて認識することになる名作であろう。
奥田瑛二







2015年4月18日土曜日

「「悩み」の正体」 香山リカ 2007 ★★

大人になるほど、
仕事の責任が大きくなるほど、
家庭を持ち、家族が増えるほど、
日々の「悩み」は右肩上がりに増えていく。

人と接するから摩擦は起こり、仕事を頑張るからできないことで悩み、そんなことならいっそ、社会から離れ、上昇志向を待たず、できるだけ人との関係を絶って生きていく。そんな日常のほうがどれほど楽か。

なんて考えることも少ない無いが、それでもこの世の中で生きていくためにはどうしても、社会の中でストレスに晒されながらも生きるために、生活するために働いてお金を得ていかなければいけない。

自分一人がこの社会の中で生きていくだけでも、相当なお金がかかるのに、ましてや家族を養っていくとなるとどれだけ頑張って外で働かなければいけなくなるのかは想像に難くない。

そんな社会と、自分の感情との葛藤で生まれるのが悩み。複雑に絡み合い、様々な人たちの参加によって運営される社会であるからこそ、自分一人の思いのままに物事は運ばず、嫌な思いをしながら、不条理なことだと思いながらも、ぐっと心の中に溜め込み顔は笑顔を保たなければいけない。

そんな「悩み」だらけの現代社会。余裕があれば、それを「悩み」と取れることなく、うまく消化できるのかもしれないが、そんな時間的余裕を与えられるわけでもなく、ひたすら「悩み」に負けそうになりながらも、なんとか心を定常状態に保って今日も生きていく。

現代に生きるものとしてその状況から逃げ出すことができないならば、せめてその「悩み」に立ち向かい、分析し理解して消化を良くすること。そんな思いで手に取るが、中には出るわ出るわ、身の回りにもなんだか会ったことがありそうな人たちが。それぞれがそれぞれの「悩み」を抱えて生きている今、どこかの暗い路地裏で喪黒福造に「ドーン!」とされて悩みをリセットしたいと悶々としていそうな同志達。

これを読んでも悩みは解決しないのは、そのタイトルを見れば分かるけど、それよりも他の皆が自分と同じように悩み、もがいている姿を第三者の視点で眺めることで、結局は世阿弥の 「離見の見」 の様に自分を距離を置いて捉えることができる。

以下、本文より一部抜粋
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その「悩み」は悩みとして正当なのだろうか
そもそも、「世話になった祖父が恒例になったことに伴う介護」が、個人だけが抱える、「悩み」にならなければならないと言うこと自体が、おかしいのではないか

本書で取り上げる「悩み」の多くは、恐らく10年前、20年前だったら、「悩み」にならなかったようなもの、あるいは「悩み」になったとしても、ちょっとした生活の知恵や工夫、まわりの人の手助けで重症にならずにクリアできたようなもの

嫌われるのがこわい――人間関係編
/場の空気を読めなかったらどうしよう
優先されるのは、自分の意見や考えを主張することではなく、周囲の空気を読み取り、自分に期待されている役割をこなすことなのだ
自分の気持ちよりもまわりの秩序を大切にする

/他人の失敗が許せない
「いじめ」に加担する子供たちは、「次は自分が標的になるのではないか」という不安やおびえを抱え、「とりあえずこの子をいじめているうちは、自分はいじめられることはない」と目の前の「いけにえ」を激しく攻撃することで、その不安などを隠蔽している場合が多い

/若い人の要領のよさについていけない
自分自身が何かに真剣に取り組み、はっきり評価を下されるのを恐れている場合が多い

/暴力にどう対処したらよいか
日本社会が全体的に他人への寛容な気持ちが薄れ、他者への攻撃的あるいは暴力的態度を強める方向に向かいつつある

「自分がやられるかもしれない」とうい不安にかられ、プライドも恥も捨てて、生き残るために「社内いじめ」に象徴されるような他者への攻撃、さらには暴力に走る人が増え続ければ、この先、社会はどうなるのだろうか

/家族どうしなのに気持ちが通じない
子供にとって、人生の早い時期に一度は、「親は自分の命よりも僕を大切だと思ってくれているんだ」などと実感することが大切だ

/働いても生活できない
廃棄処分になる「無料バーガー」を求めて、夜のファストフード店の前に集合する若者たち
自分も富裕層の一部かもしれないと錯覚するようになる
自己イメージはセレブ、実質下流

/効率がすべてなのか
素直で優秀な人材が見つかるまで、何度でも交換することができます
モノ以下 堂々と「何度でも交換可能」などとうたう
効率や生産性がすべて

/地方にいても展望がない
「どこでもできる」はずのIT産業が振興すればするほど東京への一極集中が進む、という皮肉な現象
/恋愛したいけれど出会いがない
失望されたり軽蔑されたりして傷つくよりも、何も起こらないほうがまだいい。そういう無自覚の計算が、彼の心の中で働いているのだと思う。
恋愛もまた、心の境界を超えて相手が侵入してくる体験に他ならない

/結婚は失敗だったのだろうか
いったん結婚してしまうと、シングル時代に「どんな人でもいいから、誰か私を選んでくれないだろうか」と思ったことなどはすっかり忘れてしまい、「こんな人と結婚するんじゃなかった」と今の状況の不遇にばかり目が行く

人間には、いったんある状況に置かれると、比較する対象が同じ状況の中の人ーそれも自分より幸福そうな人ーだけに限れれ、自分が前にいた状況、他の状況の人たちのことはきれいさっぱり忘れてしまう

/病気になっても医者に診てもらえない
なぜ医学部が人気なのか
「医師免許」と言う資格を取れるから
医学部を卒業することが必須 医学部さえ卒業していれば、合格率は約9割と高い
意思志望者が増加しているのに、地方の医療は衰退し、小児科医や産婦人科医のなり手がいない
小児かも産婦人科 重労働の割りに収入が低い
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■目次  
まえがき
嫌われるのがこわい――人間関係編
/場の空気を読めなかったらどうしよう
/他人の失敗が許せない
/若い人の要領のよさについていけない
/暴力にどう対処したらよいか
/家族どうしなのに気持ちが通じない

無駄が許せない――仕事・経済編  
/忙しく働いていないと不安だ
/働いても生活できない
/効率がすべてなのか
/やりがいを感じられない
/地方にいても展望がない

このままで幸せなのだろうか――恋愛・結婚・子育て編  
/恋愛したいけれど出会いがない
/結婚できないかもしれない
/子どもがいないと不幸せなのか
/親になったが自信がない
/結婚は失敗だったのだろうか

老いたくない、きれいでいたい――身体・健康編  
/自分の顔、からだを変えたい
/健康のために何かしないと不安だ
/老いたくない、病気になりたくない
/病気になっても医者に診てもらえない
/現代の医療に信頼がもてない
 
いつも不安が消えない――こころ編
/自信が持てない
/前向きな気持ちになれない
/気分に浮き沈みがある
/「ありがとう」が息苦しい
/自分は誰にも大切にされていない

 
まじめに生きてきたのに――社会・人生編  
/まじめに生きて損をした
/「便利な世の中」についていけない
/自分は何の役にも立っていない
/おとなになりたくない
/この先、楽しいことはない
 
/あとがき
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2015年3月6日金曜日

サービス先進国の日本と日本人

世界中どこにいっても、日本のサービスはいつも先回りして、こちらが何か不便を感じる前にサービスを提供してくれる。それがすでに対価として要求されようとも、不便や不満を感じるということを日常の中から消し去っている。

如何にドイツやフランスといえども、その点に関しては遠く及ばない。ましてや中国などでは、基本的に日常の中は不満や不便で満ち溢れている。

サービスの内容やその効率では明らかに日本は世界のどの国よりも先に行っていると、様々な場所に行けば行くほど感じることになる。

これは旅行者として感じる「不慣れな土地にやってきた人にとっての親切なサービス」というレベルのものではなく、「その土地に住まい日常を生きる人にとってのサービス」のレベルでも圧倒的に日本のサービスは質が深い。

それは常に相手のことに気を遣い、何が相手の為になるか、何をされたら心地よいと感じるのかという「おもてなし」に代表される日本文化とそれを体現する日本人の思慮の深さの成せる業であることは間違いない。

しかし、そんな世界最高水準のサービスに日常的にひたされて慣れきってしまっている日本人の身体。それが一度その水準を知りをしない人々であふれている海外に行くと、そこで待つのは「なんでこんなことも気がつかないんだ?」という苛立ち。今まで当たり前だと思って享受してきたことが、当たり前の様に提供されない世界。

逆にサービスの行き渡っていない国からより充実した国へと向かう人にとっては、そこで過ごす一分一秒がなんとも心地よい、なんとも親切で丁寧なサービスを楽しみ、こんな素晴らしい世界があるものあと感動すら感じることになる。

「水は高きより低きに流れ」

経済でも文化でも万物の法則としてすべてに当てはまるこの格言。

車の交通マナーから、レストランでのオーダーの取り方、お店での接客の仕方、館内案内の分かりやすさ、空港で待機させるときに状況をできるだけ説明して背景を知らせようとすること、予定不順の事態への対応の仕方、買ったものの梱包の丁寧さ、公共空間で大声を出さないことなど挙げ出したらきりが無い。

「快適さ」や「便利さ」という見方で見てしまうと、海外に出る日本人はあるところでただただ苦しむことになる。それならば、今流行の「内向き」とういことで、安寧として国内に留まりマイルドヤンキー化するのが正しいのか。

それとも、それ以外に物事の見方の軸を自分の中に確立し、苛立ちを吸収する緩衝材を手に入れる、それができるかできないかが、ひいては自らをストレスから守ることに繋がるのだと、半ば諦めを持って物事を見ていくことにするしかないのであろう。

2014年6月2日月曜日

脳の偉大さ

朝、電動スクーターに乗って出勤する。その間にこういうブログに書くような他愛のないことに思いを巡らす。スクーターに乗っている時間はせいぜい10分から15分。それでも頭の中で巡る考えは圧倒的に多くのことが瞬時に展開していく。

同じことは頭の中で考えたことを言葉にして誰かに伝えようとする時にも実感する。自分一人、頭の中で考えていればどんなに複雑なことも、どんなに込み入ったことも、どんなに言葉というメディアに乗せにくいことも、一瞬でしかも同時並行で様々なことがスパークするように頭の中で展開する。

脳の中では一々言葉にしなくてよいので、曖昧な抽象的なイメージを持って考えが展開していく。しかし一度その思考の工程を誰か別の人に伝えるためには、曖昧なイメージからどうしても具体的な言語の力を借りなければいけない。

まずは自分の曖昧なイメージを具体的な言語に対応させる作業に時間がかかり、その時点ですでにかなり失われたしまった意味を何とか補充しようと、様々な言葉を駆使して意味の流れを、つまり文脈を作っていかなければいけない。自分ひとりの脳の中でなら、イメージからイメージへ、最終的な結論すら言葉にすることなくとも、自分で納得できてしまう。

その為に誰かに何かを伝えようとすることは大きなストレスを感じる作業であるのは間違いない。頭の中で考えたことはほんの一瞬の出来事。しかしそれを言葉で説明するには数十分かかってしまう。なんと非効率な作業なのであろうか。

つまりはそれだけ人間の脳というものが、複雑な事象を瞬時に捉えることができる非常に優れたデバイスであるということ。多様な事象を抽象的なイメージでしかも同時にいくつものことを平行して進めながら、ポイントごとにつなぎ合わせて新たなる意味を紡いでいく。

そうして世の中を眺めて見る。他の人を眺めて見ると、まったく違った世界が見えてくる。ぼーっとしているような人でも、ひょっとしたら頭の中でも自分が取りうる行動に対し、数多の可能性を検討し、それぞれにどのような結果が起こるかをシュミレーションし、その結果何もしないことを選択しているのかもしれない。

道端で一日中座っているおばさんも、ひょっとしたらその頭の中では現代社会の問題点に思いを馳せ、その原因と解決法に対し様々な思いを馳せているのかもしれない。その横のおじさんは、この世の始まりに対して終わることない思考を巡らせているのかも知れない。

それは外から見えない。だからこそ、頭の中でどれだけ思考を行っているか、その差はその人の一生として相当に大きな差となって現れてくるだろう。

本当に何も考えずにただただ動物的に日常をお腹が減っただとか、眠くなった、心地がいいなどと欲望に突き動かされて生きている人と、脳の中で様々な思考を巡らせて時間の過ごし方、人生のあり方、自らの生き方、社会の在り方に思いを馳せている人とでは、行動一つとっても大きな違いが現れるに違いない。

そう思いながら、できるだけ能動的にそして効率的に与えられた脳を活用し、思慮深い行動を行いながら少しでも実りの多い人生へとつながるようにしなければと、オフィスに到着してスクーターを駐車しながら思考を一度停止させることにする。

2013年12月20日金曜日

ごちそうさんの時代から


「あまちゃん」にどっぷりはまり、すっかり「あまロス」になっている妻を横目に、高視聴率をたたき出しているという「ごちそうさん」もやはり何かしら多くの人の心を打つメッセージが込められており、「食わず嫌い」だけはよくないと思いついに見てみることにする。

最初の1週だけはなかなかストーリに入り込めなかったが、その後はなんとも面白い。どちらかというと、女子的要素が多い身にとっては、女学校でキャピキャピしているシーンなど見るとなんとも、「分かるわぁ」となってしまう。

さてこの「ごちそうさん」の時代。明治後期から大正時代の様であるが、何とものんびりした感じの時代描写。女学校で花嫁修業のような学科を受けては、授業後に学友と「かふぇ」でおしゃべりに明け暮れながら甘味を味わう。帰宅しても家事を手伝うわけでもなく、女中さんがあれやこれやと手伝いをしてくれる。

恐らく現代に生きる多くの女性、「中流の夢」の果てに大量生産された自分は「お嬢さん」ととんでもない勘違いをしている女性がまさに夢見る日常。ストレスも無く、ただ毎日欲望と共に生き、決して辛い事はやらず、いつまでも子供のままで、独立した女性として果たすべきことも学ばないままに、このモラトリアム状態を持続させてくれる経済力と包容力を持ち合わせた男性との出会いだけを求める受身の日常。

そんなことが許される何とも贅沢な時代であると思わずにいられない。テレビも無いので、ランプを灯して本でも読むが、基本的には暗くなったら寝るという何とも健康的な生活。

そんな何とも暇そうな主人公に比べて大変そうなお母さん。ご飯を炊くのも、洗濯するのも、それを取り込むのも、掃除をするのも全て人の手でやらなければならない。それに比べて現代は、何でもボタン一つ「ピッ」とすればできてしまう。何とも楽になったものである。

本来、人が生きていく。家族が生活をしていくというのは大変手間がかかり、それを役割分担で負担しながら、誰かが家族の生活がうまく回っていくようにサポートをしてくれていた時代。その為に大変手間のかかる様々な家事があった時代。

それを理解せずに生まれたときからボタン一つで何でも済ませてしまい、本来の「手間」を忘れて生きる現代人。何でもかんでも「楽」をしようとし、「効率」だけを追い求め、果てない自らの「欲望」に押しつぶされそうに生きている。

本来大変手間のかかる家事から、ボタン一つで解放されたはずの現代の人類。かつてに比べて恐ろしいほど自由な時間が出来、余裕のある日常を過ごすはずが、どうにもそうならず、どう考えても当時の方が精神的に余裕を持って日常を過ごしているように描写される。

現代人は、朝起きた時から真夜中に寝るまで、当時の人の何倍ものことをこなさなければならくなってしまった。やる事もストレスとも人間関係も増えてしまい、精神的余裕を感じることなくただただ日々は過ぎていく。それほど現代社会で生きていくのは大変なことである。

人という生物が一日に処理しきれる事象やストレスというものがあれば、恐らく人類史上を考えても、現代人ほどそのリミットに近づいている人はいないのではないだろうか。恐らくある一定の人にとっては、これ以上負荷が高まると、一気に爆発してしまう。そんな臨界点の現代社会。

「手間」から解放する為に発展した技術のはずが、果てなく人を追い詰める。それは人の欲望が同じく果てしなく膨らむからであるに違いないが、毎日ご飯を食べたくなる朝ドラを見ながら思うのは、「手間」の大切さということか。

2013年7月26日金曜日

今宮神社(いまみやじんじゃ) 994 ★★


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所在地 京都府京都市北区紫野今宮町
主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめ)
通称  玉の輿神社
社格  旧府社
創建  994
機能  寺社
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予定にはなかったが、ひょんな出会いで教えたもらった「玉の輿」の物語。これはぜひとも足を運ばないとばちが当たるということで妻と一緒に向かったのは大覚寺からすぐの今宮神社(いまみやじんじゃ)。

朱色の鮮やかな鳥居をくぐると、比較的広い境内。別名「玉の輿神社」とも言われているように、なんといっても女性だけでなく、「逆玉」と多くの男性にも羨ましがられる現状の生みの親である「お玉」さんに縁が深い神社。

なんでもこの付近の西陣の八百屋に生まれた「お玉」が徳川家光の側室となり、子供を授かりその子が「生類憐れみの令」で有名な5代将軍綱吉となる。その生母である「お玉」も桂昌院(けいしょういん)と位を得たために「玉の輿」と言うことわざが出来たという。

桂昌院は氏神であった今宮神社の復興にも力を入れ社殿を修復したりしたと言われ、その功績を称える為にか境内には桂昌院の碑が建てられている。

朝一番の聖域ということもあり、手水で身を清め、本殿に参拝を済ませてふと気がつくと、一人の巫女さんが黙々と手を使って白砂の中に生える雑草を抜いている。一本一本丁寧に、大地と対話するかのように抜いている。その姿は現代が大きな価値として据える「効率」という概念とは対極に位置するもの。

効率だけを追い求め、潤いを削ぎ落とし、一方向の価値だけで他のものを振り分けていく現代社会。その中でも荒波に流されずしっかりと大地に根をはっている大樹のようなその姿。朝から美しいものを見せてもらったとなんだか心が軽くなる。












2013年7月17日水曜日

記憶の整理

読書をする時は、読みながら気になる部分に蛍光ペンで線を引く。
読み終えた後に、再度1ページ目から捲っては、線を引かれた文章をパソコンに打ち込む。
箇条書きになったそれらの文章を元に、自分の言葉でその一冊の読書体験を纏める。

3度その本と向き合うことで、なんとか消化していく。読んだだけでは、ほとんどのものが数週間もすれば忘れてしまい、読んだかどうかもあやふやに。しかしこうして消化しておくと、少なくとも海馬に痕跡を残すのと同時に、ブログとグーグル・カレンダー上に検索できるアーカイブとして残っていく。

恐らく人間の脳なんでそんなものだと思う。

見たものや経験したもの。その時は強烈な印象として記憶するが、その色彩を持ちながら記憶の中に留まるのはせいぜい数週間。如何にそれらを血として肉としていくか。

まずは、気になるところをマッピングする。城や神社、名勝や建築。自分の興味にひっかかるかで、随分フィルターをかけることになる。

そして旅程を決めた時に、マッピングの中の選択。事前に余計な偏見を入れないようにしつつも、ある程度の背景をしるためにざっくり調べる。そのリサーチと選択の過程で再度海馬に叩き込まれる。

実際現地で目の前にして感じ、体験し、写真に撮る。

撮った写真を選別し、水平をそろえたり、センターを出したりと編集する。

再度詳しく訪れた場所の来歴などを調べる。

その内容と写真を元に、記憶を辿りながら自らの言葉で体験を纏めアップする。

この6段構成。正直言って手間が掛かるし、しんどい。しかし効率の先に近代を超えるヒントがるのもまた事実。

読み散らかしの子供じゃあるまいし、建築を生業とするものとして体験を言語化し、記憶の中に整理しておくことの重要さは身に沁みて分かっているつもりなので、こんなことを書いては自らを納得させようとし、再度纏めの作業に戻ることにする。

2013年5月4日土曜日

消えた時間

ふと思う。

20年、30年前に比べて圧倒的に進歩したのは情報技術。

かつてなら仕事が終わって会社からでれば、なかなか連絡を入れるのは難しかったのに、今ではメール、携帯、チャット、SNSなどで365日24時間、どこにいても繋がることができる。

やり方によっては一時もオフの無い生活になってしまうということだ。

仕事の効率を上げるために革新されていった情報技術。人は格段に上がった能率で処理するスピードも速くなったに違いないが、そのおかげで仕事が早く終わってゆとりが出来るというわけではなく、「なぜか」やるべき仕事、処理すべき事項は増える一方のようだ。

単純な疑問が湧いてくる。なぜだろうと。

以前なら3日間かかっていた仕事が、パソコンや情報技術の発展によって今では数時間で片付けることが出来る。当時は同じ仕事を三日間かけていても「生きていく」のに困らないだけの給料が発生していたにも関わらず、現在同じ内容を数時間でやって後は余暇に費やしても同じ給料が発生するかといったらそんな訳は無い。

能率を上げる技術によって仕事の能率が上がったはずなのに、決して豊かになっていないのはなぜだろうと。

職業別にみていく。例えば建築家。かつてなら一つの住宅を設計するのに必要だった図面は手描きという時間がかかる手順を踏んでいたこともあり、数枚の平面図に必要な断面図と立面図、展開図に部分的な詳細図と、設計の意図が伝わるような必要十分な図面数をじっくりと描いていた。

どんなに所員が徹夜をしたといっても、現在のCADのスピード感には適うはずが無く、必然的にかけられた時間から割り出される上限の図面数があったはずである。その図面数で表現しうる内容が、その事務所の手がけられる建築内容の限界であったはずであり、空間的にもシンプルな形状のものが多く作られたのも必然であった。

それが今では情報量を圧倒的に増やしてしまう3次元での設計が主流になり、単純な矩形の「四角」の建築から、3次元で確認していかないと把握できない複雑形状の空間へと移行し、それに伴って設計者以外の関係者に意図を伝達するための図面やダイアグラム、3次元模型などの製作量も飛躍的に増加する。描画速度を圧倒的に上げてくれたコンピューターの力を借りても、追いつかない量の資料の数。

かつてなら、数枚の平面図を持っていって、「建築とはこういうものです」というような先生顔をして、「ここがこうなって・・・」とお客さんに「理解しろ」と言わんばかりの打ち合わせの方式から、誰でも直感的に分かるようなビジュアルのプレゼンテーションから、平面・断面・立面にも素材感があわり、機能分布の分かるような着色をして、懇切丁寧に製本までしていかなければいけない現代の建築家の仕事。

かつては経験のある建築家でしか想像しきれなかった空間の構想が、今では学生でも3次元ソフトを使い忠実に再現でき、さらにその中を自由に歩き回れてしまう。そういう時代には「経験」や「知識」の質も、前時代のものとは変わってこなければいけないという話はまた別のことになるが、兎に角建築家の仕事はパソコンと情報技術の発展と伴って飛躍的に増えてしまったことは間違いない。

他の職業を見てみる。

例えば医者。恐らく以前は学会などで集めた知識や経験を元に、自分の患者の診療カルテを丁寧につけていって、自分なりの診療方法を確立していくのだろうが、情報技術の進歩によって、参照すべき症例も桁違いに増えてしまい、どれだけ過去の症例が頭に入っているかがある種の「優秀さ」を示すバロメーターとなるのは避けがたく、足りない時間を削ってはデータベースで受け持つ患者と同様のケースを探し出しつつ、日進月歩の医療技術をメーカーや製薬会社からも仕入れていかなければいけなく、恐らく「なんでこんなに情報技術が進歩しちゃったんだよ・・・」となげいている真面目な医者は多くいることだろうと想像する。

恐らく他の職業を想像するまでもなく、ほとんどの職業について「できることが増えた」為に、より広く、より深く知っていること、調べていることがその時々の「優秀さ」として反映してくるのはある種の常識であり、真面目であればあるほど、仕事に真摯であればあるほど、「もっと、もっと」と時間を使わなければいけないことになる。それが「グローバル社会」の本質で、見えない相手との競争に常に晒されているこのストレス。

そこで考える。20年、30年前と比べても、一職業人、一プロフェッショナルとしては格段に処理している仕事は多くなっているはずである。個人レベルでそうであるように、その所属する会社全体としても、少し前の同じ規模の会社に比べたら飛躍的に処理している仕事量は多くなっているはずである。同じように、国や地球全体としてもそれは同様のはずである。

単純に考えてその「差異」は膨大なはずである。なのに、なぜその分、個人が、社会が、国が、豊かになっていないのはなぜだろう。

少し遡って江戸時代。一日に人々が行っていた労働や仕事を現代と比べたら圧倒的にその量は少なかったはずである。それでも人は飢えることなく暮らしていけていたはずである。比べて現代。少しでも労働をやめれば、少しでも立ち止まれば、あっという間に「生きていく」ことが出来ない「貧困」に陥ってしまう。

明らかに何かがおかしくなってしまった近代社会。我々の消えていった時間はどこへいったのだろうか?その時間の報酬はなぜ消えてしまったのだろうか?

資本主義という名のもとに、見えないシステムの中に張り巡らされた「労働無き富」のネットワーク。「生きていく」だけで搾取されるように植えつけられた資本の根。真面目に生きれば生きるほど向き合うことになるこの事実。

ならばいっそと、そっち側に生き方をシフトさせてみるかといえば、そんな時間を費やすくらいならそれでもこちら側にしがみつこうと根っからの貧乏性に向き合うことにある。そしてまた明日も生き辛い時代の消えた時間を抱えて生きていくことになる。

2013年1月5日土曜日

構造改革

パートナーと今年の一年について話をする。

今年は竣工を向かえるプロジェクトは一つも無く、その代わりに現場が始まるプロジェクトがいくつかあるので、

オフィスも9年目に入り、世界で活躍する他のオフィスを参考にして、自分達で改善できるところはどこかを探す。

オフィスの構造改革。

我々3人のパートナーと、デザインや実務など得意分野に責任を持ってもらうスタッフ。彼らを専門的にサポートするチーム。プロジェクトをいくつか掛け持ってマネージメントするマネージャーとしてのスタッフと、その下でプロジェクト・アーキテクトとしてチームを纏めるスタッフ。プロジェクトを発展させていくプロジェクト・チームとそのサポートをしてくれるアドミニのスタッフ。そしてインターンのメンバー。

限られて毎日の時間を過ごす職場。ここに残ろうと思えるような環境にすることと、その為にできるだけ効率的に仕事が進み、クライアントにも満足してもらえ、スタッフにも達成感やここで働く喜びを与えられるような場を作ることが、オフィスとしての成長の何よりの課題。

口だけの「仕分け」ではなく、本気で自ら脱皮するための「仕分け」。

異なる文化圏と異なる考え方を持つ国から来ているスタッフの多くは、コロンビアやイェールといった、建築業界でトップと言ってよいような教育のバックグランドを持つ人材ばかりである。

そんな一人一人の良さを引き出し、チームとして科学反応を起こさせ、一つの有機体としてオフィスが毎日活動することを目指し、毎日の時間を過ごすことにする。