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2014年1月5日日曜日

それぞれの役割

「ごちそうさん」のあるシーンにて、関東大震災で被災してきた人が主人公の炊き出しの料理にお礼を言うシーンで言った言葉。

毎日違う味噌汁を作ってくれて、朝食べたら、昼は何かな?と楽しみになり。昼を食べたら夜は何かな?と楽しみとなり。夜を食べたら、明日は何かな?と楽しみになる。そんな風にあっという間に時間が過ぎていった。あなたの料理から明日への希望、生きる喜びを貰った。ごちそうさん。

何とも良いシーンだと思う。

このドラマ。大正の終わりから昭和のはじめ。今の様に便利ではないが、皆実に幸福そうに生活をしている姿が描かれる。もちろん現代の様に「移動」が容易ではなく、「家族」単位が強く残っていた時代だけに、登場人物も決して多くはない。

そういう姿を見ていると、人が幸せで生きていくには何百人もの「知り合い」は必要ないんだと再確認する。本当は深く繋がっている「家族」と「友人」がいればいい。徐々に熱を失い始めたSNSのようなサーフェイスの関係性はその利点があるが、一人の人間が幸福な人生を送る上には、本来はそんなに多くない人間関係の中でできることだと痛感する。

決まりきった「いいね」を期待する表面的な関係よりも、ずけずけと心の中まで入り込んでくるが、しっかり自分の言葉で話しかけてくる人生の登場人物に囲まれて暮らしたいものだと思う。

「ドッグヴィル」の様に、決して自分に都合の良いばかりの関係ばかりではないだろうが、それでも限りなく薄くなり、あるのか無いのか分からないような薄膜の様な人間関係よりかは、こってりと濃厚でどこまでもまとわりついてくるような関係性の方が好ましいと思う。

そんな中で思うのは、その少ない登場人物がそれぞれの特性に合わせてしっかりと役割を分担していると言う事。もちろん女性と男性の役割もしっかりと見えていた時代である。

それで不幸せか?と考えるが、決してそれが不公平とかじゃなく、それぞれがそれぞれの役割を尊敬しあって成立しているかのようである。

今の様に様々な家事がボタン一つで洗濯も掃除も炊飯もあっという間に出来るような時代ではなく、家族が生きていく為に今よりも膨大な手間がかかった時代。その家族がそれぞれの家の外、社会の中でしっかりと役割を果たし、学生は学生らしく学び、一家の大黒柱は家族を養う為に働き社会に奉仕し、年寄りは子供の世話を見ながら元気に暮らす。

そんなことが可能をする為には、生きていく日々の様々なサポートが必要となり、それを下支えする主婦の姿があった時代。毎日毎日、家の誰よりも忙しく家事に追われる彼女達に、薪を割らずに良くしてくれたガスの登場、洗濯板を使って冷たい水に手を入れずにすむ洗濯機の登場、雑巾での床磨きをせずによくなった掃除機の登場、炊き具合をいちいちチェックしなくてよい炊飯器の登場はどれだけ価値を持ったものだったろうか。

その全ての進歩は、家事からの解放をなし、多くの時間を与えてくれたに違いない。当時の主婦が今の時代に現れたら、どれだけ有り余った時間を羨ましがるのだろうかは想像に難くない。

女性の社会進出が進むと同時に、技術の進歩によって家事の意味が大きく変わってきた現代。そういう時代だからこそ、それぞれの人生におけるそれぞれの役割の意味もまた変わってきているのだろうと思わずにいられない。

2013年12月20日金曜日

ごちそうさんの時代から


「あまちゃん」にどっぷりはまり、すっかり「あまロス」になっている妻を横目に、高視聴率をたたき出しているという「ごちそうさん」もやはり何かしら多くの人の心を打つメッセージが込められており、「食わず嫌い」だけはよくないと思いついに見てみることにする。

最初の1週だけはなかなかストーリに入り込めなかったが、その後はなんとも面白い。どちらかというと、女子的要素が多い身にとっては、女学校でキャピキャピしているシーンなど見るとなんとも、「分かるわぁ」となってしまう。

さてこの「ごちそうさん」の時代。明治後期から大正時代の様であるが、何とものんびりした感じの時代描写。女学校で花嫁修業のような学科を受けては、授業後に学友と「かふぇ」でおしゃべりに明け暮れながら甘味を味わう。帰宅しても家事を手伝うわけでもなく、女中さんがあれやこれやと手伝いをしてくれる。

恐らく現代に生きる多くの女性、「中流の夢」の果てに大量生産された自分は「お嬢さん」ととんでもない勘違いをしている女性がまさに夢見る日常。ストレスも無く、ただ毎日欲望と共に生き、決して辛い事はやらず、いつまでも子供のままで、独立した女性として果たすべきことも学ばないままに、このモラトリアム状態を持続させてくれる経済力と包容力を持ち合わせた男性との出会いだけを求める受身の日常。

そんなことが許される何とも贅沢な時代であると思わずにいられない。テレビも無いので、ランプを灯して本でも読むが、基本的には暗くなったら寝るという何とも健康的な生活。

そんな何とも暇そうな主人公に比べて大変そうなお母さん。ご飯を炊くのも、洗濯するのも、それを取り込むのも、掃除をするのも全て人の手でやらなければならない。それに比べて現代は、何でもボタン一つ「ピッ」とすればできてしまう。何とも楽になったものである。

本来、人が生きていく。家族が生活をしていくというのは大変手間がかかり、それを役割分担で負担しながら、誰かが家族の生活がうまく回っていくようにサポートをしてくれていた時代。その為に大変手間のかかる様々な家事があった時代。

それを理解せずに生まれたときからボタン一つで何でも済ませてしまい、本来の「手間」を忘れて生きる現代人。何でもかんでも「楽」をしようとし、「効率」だけを追い求め、果てない自らの「欲望」に押しつぶされそうに生きている。

本来大変手間のかかる家事から、ボタン一つで解放されたはずの現代の人類。かつてに比べて恐ろしいほど自由な時間が出来、余裕のある日常を過ごすはずが、どうにもそうならず、どう考えても当時の方が精神的に余裕を持って日常を過ごしているように描写される。

現代人は、朝起きた時から真夜中に寝るまで、当時の人の何倍ものことをこなさなければならくなってしまった。やる事もストレスとも人間関係も増えてしまい、精神的余裕を感じることなくただただ日々は過ぎていく。それほど現代社会で生きていくのは大変なことである。

人という生物が一日に処理しきれる事象やストレスというものがあれば、恐らく人類史上を考えても、現代人ほどそのリミットに近づいている人はいないのではないだろうか。恐らくある一定の人にとっては、これ以上負荷が高まると、一気に爆発してしまう。そんな臨界点の現代社会。

「手間」から解放する為に発展した技術のはずが、果てなく人を追い詰める。それは人の欲望が同じく果てしなく膨らむからであるに違いないが、毎日ご飯を食べたくなる朝ドラを見ながら思うのは、「手間」の大切さということか。