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2020年5月18日月曜日

「江戸と江戸城」内藤昌 2013 ★★★


人生の中で一番自分にとって「都市」とは何かを考える対象となると、やはり自らが生活をし、関わってきた場所になる。そうなると必然的にその数も限られてくるが、その中でも最も影響を受けて、かつ自分にとっての都市のイメージをつくっているのはやはり東京であろう。自分の中で都市とは何かを考える上で、それは同時に東京とは何かを考えるとこから始め、そしてその地層の深いところで東京を形どっている江戸を考えることであるということで手にした一冊。

あまりに大きすぎて、その中に自分の生活に関係する場所が島としてプカプカ漂っているような捉えどころんないような都市・東京。新宿、池袋、渋谷、六本木、上野など、各拠点駅周辺がそれだけで一つの都市のような規模を持ち、それを抱え込む東京となると、イメージもつかめない巨大な都市。

更にスプロールし、隣接する神奈川や埼玉、千葉などと境目なくダラダラと伸びるアメーバのような、全体像を見せてくれない、そんな印象を与える東京であるが、やはり世界のどの都市とも違った独特のリズムや雰囲気を持っているのもまた事実。

その東京の魅力、東京を東京という都市にしている要素は一体何か?それを考える為に、アースダイバーとは言わないが、都市としての東京の祖先にあたる江戸にフォーカスし、どう江戸が都市として開発され、整備されていったのか?そしてその中でどの部分が現代に繋がっているのかをじっくりと研究し、まとめた江戸・東京に関する一冊。

京都を中心とした江戸以前。機内周辺に設けられた関所のうち、美濃国の不破関、伊勢国の鈴鹿関、越前国の愛発関を総称し三関(さんげん)と呼ばれ、その東に位置するから関の東、「関東」と総称されていたというから、今から考えたら酷くざっくりした認識であった。

江戸湾に流れ込む川によって形作られた大地と谷の繰り返す地形に、中世都市の江戸を作ったのが太田道灌。その道灌の江戸の地政学的な将来性を見抜き、1590年に不利な条件と思われた関東移封を受け入れ1590年8月1日、陰暦の朔日、つまり八朔の吉日に江戸城に家康が入城したところから江戸の未来が東京へと道が繋がり始める。

徳川幕府を開設し、世の中が安定するとともに、諸大名の妻子が江戸住まいをすることと、参勤交代、その二つが全国の諸大名が広大な屋敷を江戸に構え、それに伴い家臣達も江戸に居を構え、その需要を満たすために多くの商人や職人も江戸に移住をしたことで、江戸が都市へと変貌していく。

そして1657年の明暦の大火 (めいれきのたいか)。江戸の6割を焼いたこの火災により、大々的な都市改造、都市開発が始まっていく。それは江戸城周辺に火除け地を設ける為に御三家や大名屋敷を転出させ、同時に寺社地も場所を移すことで、都市の構造を作っていく。

その後半世紀経った7代将軍吉宗時代の享保の改革において、更に瓦屋根や外壁全体を漆喰で塗り、木造の柱などを覆ってしまう 塗屋造などの耐火建築の一般化が行われ、都市全体が火災に対して強化されていく。

京都に習い、鬼門と裏鬼門に重要な寺院である寛永寺と増上寺を配し、徐々にスプロールする都市の範囲を朱引で江戸内外を確定させ、人返しで人口抑制をしたなどとみると、都市を運営する方法は違えと、根本的な問題点は今もあまり変わらないのだと分かる。

江戸城を中心に張り巡らされた水路と、放射状に延びる街道、その交差点に配された各門と計画的に配された寺社。それらによって描かれる右渦巻状の都市構造。それが江戸の骨格となり、それは今も変わることなく、東京の骨格として引き継がれる。

こうしてみると今の東京のあちこちが、少しだけであるが、うっすらとその全貌を見せてくれているような気がする。この右渦巻状の骨格に対し、次は明治の都市開発がどのような変化をつけて、その後の大正・昭和へとつながり、その後の平成・令和においてさらに東京がどのような都市へと変貌したのか、じっくりと観ていくことにする。
三関(さんげん) 

台地と谷地

2015年10月6日火曜日

水戸 ★★


久々に日本で時間を過ごせるならばやはり気持ちのよい神社に出会いたいと、東京から日帰りでアクセスできる距離で、建築、神社、城、庭園、景勝地などと食事などのプラスアルファに鑑みて、迷った挙句に選んだのがこの水戸方面。

「水戸」と言えば思い浮かぶのが「水戸黄門」。その印籠が威光を放つのはそこに葵の紋が掘り込まれているから。そしてその葵の紋に将軍家である徳川家の姿を見るからである。

水戸黄門として愛され水戸藩の二代目藩主となった徳川光圀。江戸時代が始まり30年近く。やっと徳川家の世として泰平の感が世に広まりつつあった1628年に、この常陸水戸藩に生まれ、その生い立ちから様々なすったもんだを経ながら藩主へと持ち上げられ、ナンと言ってもその隠居後の活躍によって「水戸黄門」として現代でも愛される人物として語り継がれる。

その光圀が時に江戸に上り、徳川宗家に諫言するするなど活躍できたのも、この「水戸」がもう一つ纏うイメージである「徳川御三家」であったからでもある。「御三家」と言われて昭和のスターの顔で浮かんでくる世代もそろそろリタイアが見え始めているのだろうが、それに比べてこちらの「御三家」はいつになっても色あせることは無い。

江戸時代において、将軍家である徳川宗家に次いで高い地位を確保していた3家をいい、何故それだけ高い地位を持ちえたかと言えば、その血筋の良さの為であり、宗家の後嗣が絶えた時に備えて家康がその血を残すために遺した制度と言われているという。

何々徳川家とは良く耳にするが、その中でも圧倒的にしっくりくるのがやはりこの御三家であり、それぞれの藩と石高、及びその居城は下記の様になる。

尾張徳川家 尾張藩 62万石 名古屋城
紀州徳川家 紀州藩 56万石 和歌山城
水戸徳川家 水戸藩 35万石 水戸城

しかし「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」と言われるように、水戸は他の二家に比べやや家柄が落ちるとされており、それを示すかのように8代将軍吉宗から14代将軍家茂までの将軍派全て紀州家から輩出されている。

この御三家の人間は、将軍家やその下に位置する御三卿(ごさんきょう)とともに、徳川姓を名乗ることができ、また葵の家紋の使用も許されていたという。そこで冒頭の「水戸黄門の印籠」となる訳である。

それでは「御三卿」は?となると、江戸も時代が進み中期に差し掛かってくると、後継者の問題はより複雑になってくる。様々な思惑も交錯するのだろうが、それでも泰平の世を続けるためには正当な後継者がいることが何よりも大切ということで、将軍家と御三家からも後嗣となるものが出なかった場合に備えて準備されたのが「御三卿」という訳であり、下記の三家となる。

田安徳川家(田安家) 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家) 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家) 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)

こららの三家は藩主として藩を納めたのではなく、あくまでも江戸城下にて屋敷を構えて家を興し、その時期も8代9代将軍時代に集中している。一橋徳川家と聞けば、最後の将軍となった15代将軍・徳川慶喜が水戸家出身でありながらも、一橋徳川家へと養子に出され、後に将軍になったことでもよく知られる。

そんな訳で、家康の血を絶やさないことが何よりも重要視された江戸時代。江戸や京から離れた地に、しっかりとその血筋を遺し、どこかで何かがあった場合にも正統の血を後世に残せるようにした制度である。

それほど重要視され、徳川の威光を燦燦と浴び、徳川家の世を安泰にする為、宗家徳川家をサポートするためにと、様々な学問が盛んになり、その渦の中から儒教を中心にした水戸学が生みだされる。この水戸学がその後の明治維新の大きな推進力になっていくのはなんとも歴史の綾と言うべきか。

その水戸学の基礎をつくったのは、上記の徳川光圀がこの国の正しい歴史を集めようと始めた「大日本史」編纂の大事業。その事業の為にこの地に集められた様々な分野の学者達。そしてその光圀から7代後、江戸時代も後期に入った時代に、9代水戸藩主となった徳川斉昭によって作られた藩校である弘道館が、水戸学をより高みへを押し上げ、そこで徳川慶喜が学び、明治維新の重要な舞台の一つとなったのも、また歴史の紡ぎだす不思議な縁と言うことであろう。

そんな今の日本の姿の基礎となる江戸時代および近代の歴史において、非常に重要な意味を持った場所・水戸が、現代においてどんな都市として住まう場所となっているのか。あれほどの豊かな文化を生み出したその面影が現代の街並みにも残っているのか、それほどの重要な意味を持つようになったのは、その場所が持っている力が強かったからなのか。

新しい時代の礎となる学問を生み出した街の現在の姿には、その遺伝子を感じるような整った風景、文化レベルの高さを感じされる街並みに出会えるのか、そんな期待を膨らませてまだ暗い空のした、車を東へと走らせることにする。