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2018年5月27日日曜日

「「ラクして速い」が一番すごい 」 松本利明 2018 ★★

松本利明 

「生産性と効率化だけを求めると、人はいつか燃え尽きます。」

この本の中でも言われるように、いかに効率を上げて仕事をこなそうとしても、現代のような情報社会の中で、生身の身体で向かっていけば、おのずとそこには限界があり、行き着く先は身体を壊すか、精神をやられるかのどちらかになるのは間違いない。

それが頭で分かっていても、一日に処理しなけばいけない事象は加速度的に増えていき、行わなければいけない判断と、それに伴う指示というコミュニケーションも数年前とは比べ物にならないほどに多くなってきている。

「限界」が訪れるのはそう遠くない未来だなと思うからこそ、根本的に仕事への取り組み方を考え直さなければと考え始めてこの数年。その一環としてふと手にした一冊。

まずは、物事の整理整頓をしっかりし、必要ないものを抱え込まず、残ったものに優先順位をつけて、どうにかなるさと小さな失敗に捉われることなく前に向かうこと、それを繰り返すのみということのようである。
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目次
1章 一発で決める
2章 スパッと割り切る
3章 抱え込まない
4章 組織の「壁」を利用する
5章 自分で「できる」ようになる
おわりに
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2017年4月23日日曜日

「フリーライダー あなたの隣のただのり社員」 河合太介 渡部幹 2010 ★★


河合太介
なんで自分はこんなにまじめに、こんなに沢山仕事をして、こんなに長時間働いているのに報われず、それに対してあの人はまともに仕事などせず、就業時間でも遊んでいて、上司の前だけいい面して、それで仕事をがんばっている、成果をあげたと評価され、昇進していてき、給料もあがっていく。なんて不公平なんだ。

どうせ報われないのなら、自分だってがんばって仕事をする必要は無い。できるだけうまくやって、サボって時間を過ごせばいい。


仕事をせずに周囲の人に「ただのり」する社員を「フリーライダー」と呼び、なぜそういう人が発生するのか、そこにはどんなタイプがいるのか、そしてその対処法は?などを描くもの。

恐らくこういう人は規模がある一定レベルを超えた大きな会社においては、いつの時代でも必ず一定割合存在したのであろうが、かつてはもう少し社会全体、会社全体がおおらかで、そういう人にも存在理由があるんだと、「働かないアリに意義がある」のように許容する余裕があったのが、競争主義が導入され、会社全体に効率化が求められ市場で勝ち抜いていかなければならない現代においては、一人一人がフルで働かなければいけない状況が続く中、余計に「フリーライダー」が目に付くようになったのもまた事実であろう。

ただ組織側としては、どうやって「フリーライダー」の意識を発生させないか、そしてそれが伝染しないようにするのかは非常に重要な生命線であり、やはり最後は給料を得る場所としてではなく、一職業人として自分の将来にとってどのような有益なスキルを身につけることができるか。またその手段が多種多様あると思える場所にすることが、一番の解決法なのだろうと読み終えて改めて思うことになる。

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目次
第1章 ただのり社員に苛立つ職場
第2章 フリーライダーの分類―日本の職場にいる四種類のフリーライダー
第3章 なぜフリーライダーが生まれるのか
第4章 組織としての問題解決―勤勉な社員が夢を見られる会社づくり
第5章 個人として取るべき行動
第6章 新たな課題
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2015年4月14日火曜日

仕事量と仕事の質

世に氾濫する「仕事ができる」とはどういうことなのかと、日々のほとんどの時間を費やす仕事に向き合う上で考えなければならない。

一つはその人がある一定の時間に処理できる「仕事量」の問題。一日に一つしか物事を処理できない人間と、一日に5つの事柄を処理する人間では明らかに後者のほうが優秀となる。

そこに今度は質の問題が加わる。5つ処理しても、4つに問題があり、明日やり直しをするのなら、1日に一つ処理しても完璧に仕上げ、次の日にまた別の一つを処理する人間のほうがある一定の時間の枠内にては優秀となる。さらに後者が正確さを失わずに徐々に手際を高め、処理速度を上げていくことができればなお素晴らしいとなる。

つまりは、量と質を同時に高めていける人間が優秀といえる。
ミスによって重複を起こすのではなく、5つを確実に処理していく。

また仕事内容によっては、質と速度の求められるバランスが違う。できるだけ早く対応すべき内容。それともじっくり確実にミスの無いように対応すべき内容。今自分が向き合う事柄がどちらに属するのか理解して物事に当たる。

そこまでのベースが出来た上で次に向かうのは、一つの時間に何重もの意味を重ねること。つまり複数の事柄を同時進行していくこと。

時間には限界がある。一人の人間が一日に仕事に費やせる時間は、プライベートを犠牲にしてもせいぜい15時間前後。それ以上は持続することが困難となる。ならその時間をフル
につかっていくのだが、それでもたどり着ける限界がある。

では、それ以上を目指すとなると今度は一つの時間の中で何個も仕事を平行してこなしていくしかなくなる。メールを打ちながら次の段取りを考える。会議をしながらSNSで指示をする。移動の時間に資料をチェックする。

量と質を高め、時間を複層化する。

そういう風にどうすれば「効率化」をはかり「プロフェッショナル」として如何に自分の職業人としての技能を高めるかを考えながら日々に向かうものがいる一方、ただただ就労時間が終わるのを待つ人間がいるのも否めない。

効率や自分の能力を高め、少しでも目の前の作業を早く終え次に向かう、と言う意欲は無く、ただただ就業時間を苦痛の時間として捉え、なんとか仕事をしている様に見せかけ、注意を受けないようにやり過ごす。そういう労働者がいることもまた確か。

そういう人間を管理して、ちゃんと仕事をさせていくのは非常に手間と時間がかかり非効率である。なぜなら根本的な意欲と見据える先が違うため。職業人としての人生を生きる訳ではなく、あくまでも給与をもらう為に働いている。これは恐らくどの時代、どの社会においても起こること。

そこでも一番の不幸は、誰かれ構わず、同じ意欲と意識にて仕事に向き合うだろうという前提で人と仕事に向き合うこと。これが不幸を拡大させ、交わることなき平行線にて自らがさらに苦しむことになるだけである。

そんな訳で少なくとも自分の中で一つの結論に達し、次の事柄へと頭を切り替えることにする。

2013年12月28日土曜日

水面ルンバ

タイのプーケット。朝食を取っていると、ホテルのプールに置いた葉っぱを拾うスタッフの姿が目に入る。

それを眺めていると、「恐らく何年後かには、水面をアメンボの様にスイスイ這っては葉っぱを自動的に片付けてくれるような、ルンバの様な機械が生み出されるんだろうな・・・」と想像する。

そうすると、今葉っぱを網ですくっているあのスタッフは仕事を失うことになるのだろう。そうしたら彼はどうするのだろうか?タクシーの運転手などになるのだろうか?しかしそういうある仕事が無くなったから、別の仕事を探して、別の仕事があるうちはいいけれどもそれがいつまで続くのだろうか?と勝手に想像は膨らんでいく。

単純労働であればあるほど、機械などに取って替わられていくのは避けがたい事実。その機会の出現で失われた雇用機会と、その機械の出現によって生み出された新たなる雇用機会を比べても、明らかに失われたものの方が多いであろう。

つまり新たなる発明は間違いなく人間の仕事を少なくしていく。人類に残された仕事量はいったいどれくらいなんだろうと。

Iphoneの登場によって間違いなく人類の時間の過ごし方は変わった。それを思いついたときにジョブスが見た未来は間違いなく輝かしいものだったであろう。そのビジョンへの想像力、それを可能にする実行力、それを支える経済力。様々な要因を持ちえて今世界中の人の手に彼のビジョンが届けられている。

そのビジョンのお陰でどれだけ生活が豊かになり、どれだけ仕事が効率化されたか。

しかし、それと同時に世界の何処かで誰かがそのせいで仕事を失ったこともあったに違いないと想像する。

「風が吹けば桶屋が儲かる」

ではないが、これだけ大きな社会的インパクトを与えた道具は同じくらいの大きな単純労働を無くしてしまったに違いない。その代りにアプリ制作や様々な広告など新しい業態の労働が生まれたのももちろんであるし、歴史なんていうのは多かれ少なかれ同じような事を経験しながら現在に繋がっていると言う事も事実であろう。

しかしこれほどある場所から発せられた事象の影響力が世界の隅々まで届くようになったグローバル世界においては、新しい事の輝かしい面だけを見て進めてしまうことにより、多くの無意識の格差の皺寄せを受ける人々を生み出してしまうのだと改めて感じながら朝食を終えることにする。

2013年11月30日土曜日

「葬式は、要らない」 島田裕巳 2010 ★★

身近な人物の「死」を通して始めて体験する葬式という儀式。

人生に数回しか当事者とならなく、「死」を弔うという特別な状況下の為に、多くの人が慣れておらず、またどのような処置が適切なのかも分からず、何よりも世間体を気にするあまりに専門家に言われるままに物事を執り行う事になりがちなこの葬儀。

その専門家とは誰かというと、葬儀社と寺。

彼らが当然として伝えてくる儀式の内容とその必要経費が果たして適当なものなのかどうか?デフレにどっぷりと浸かっていた現代社会においてはも、「聖域」として守られてきたアンタッチャブルなその部分にメスを入れるかのように出版された、葬式に対する常識を正す様々な書物の先駆けともいえるこの一冊。

今回、近しい親族の葬儀を通して自ら見ることになるその現状。フラットに眺めてみてもやはり「オヤッ?」と首を傾げたくなるような場面に多々遭遇する。両親に聞いても納得できる回答が得られず、いろいろな視点から考えてみてもやはり「ストン」と落ちるような答えは見つからない時にフラッと入ったブックオフで見つけた背表紙に必然の様に手が伸びる。

「葬式が厄介なのは、それが突然に訪れるからである。」

というように、誰もが知識も無く、準備もできていない時に突然当事者にされて、それを日常としてそれでメシを食っている専門家が登場して「あーだこーだ」とお悔やみを申しながら「教えて」くる。非日常に出くわしてある種の思考停止に陥っている状況で、それはある種「これに従えば間違いないんだ」と思わせるマインド・コントロールのようなもの。

しかし本当に必要なのは、世間体を気にする事よりも「葬式はどんな意味を持つか?」を常日頃から自分なりに調べ、考えて、そして次の当事者になるであろう家族としっかり話し合っておくこと。

本書の中で示されるのは

全国平均で葬式費用231万円
その内訳は
葬儀一式費用(葬儀社へ支払うもの)143万3000円
飲食接待費用(料理屋、香典業者)40万1000円
お布施・心づけ 54万9000円

という。これがいつのデータなのかは良く見なかったが、今回の葬儀ではこれほどかかる事はなかったが、自分の日常的な常識から考えても理解できないくらいの高額のお金が必要となっていた。

このような「死」に対する儀式でこういう言葉を使うのは非常に憚れるのだが、葬儀社への支払いではとてもじゃないが、通常のコスト・パフォーマンスの感覚からは遠くかけ離れた食事やサービスが目に余る。

「人類が大昔から葬式を営んできたのも、そこに一定の役割があるから」

というように、確かに葬式という最後にその人とのお別れを、各人が心の中で区切りをつける場として必要としたというのはとても理解できるし、それは時代が変わろうが宗教が違おうが決して変わる事のない人類の本質に関わる事であると思う。

問題は、江戸時代に寺請制度が導入されてから、ある種戸籍管理システムとして脈々と続いてきた日本全国に張り巡らされた檀家制度。そしてその制度導入と同時に一般の庶民も死後に戒名を授かるようになったことによって、それまでは村単位で行われていた葬式とうい儀式が、檀那寺の専売特許となり、それが葬式仏教としての流れを加速さていく。

その流れは寺院に対して安定した収入を確保するのと同時に、新規参入を難しくすることにも働いたのは想像に難くない。地域社会が安定していればいるほど、流出者が少なければ少ないほどに、その寺院の収入は安定するが、近代において檀家制度に属さない家庭が増えたり、地域から流出する家庭の増加などにより、安定収入が不安定になることと同時に、バブル時代にその経済の流れにのってより細かい項目を作り出す事と、単価を吊り上げるなどによってより形骸化へとすすむ葬式仏教。

誰もが学校で習うように、釈迦が悟りを開いたところから始まる仏教。それが中国を経て日本にたどり着いた飛鳥時代。その時代は大陸から伝えられた最先端の学問の一つとして、国の安定化のためのシステムとして採用された。その事実を伝えるように、奈良の古寺である法隆寺、薬師寺などは墓地を持たず檀家がいない。ある種純粋な仏教の姿を見せている。

その後、空海などの平安仏教もまた護国のための仏教であったが、法然や親鸞などの鎌倉仏教を経て徐々に庶民へと広がり、その流れを受けて、仏式の葬式が普及していく。ただしその時には現在のような葬儀に来る導師への「お布施」や、脇導師へのまた別途のお布施。ランク別に値段を決められた「戒名」など、どうしても生臭く感じてしまわずにいられない。

「死」を扱うプロフェッショナルであることは、普段から檀家として寺の存続をサポートする家庭に対して、非常時である葬儀の時には、心から近しい人を失った残された家族の気持ちをいたわり、精一杯の弔いをするのが筋かと思うが、どうも高額のお布施が当然で、一種の特権者として儀式を執り行ってやっているんだという態度で、お布施や戒名料の金額次第で執行態度を豹変させる。そんな僧侶も多々いると聞く。

世間ではグローバル社会の競争に晒され、誰もが一円でも効率化を進め、人員整理や社内仕分けなどを経てなんとか市場で競争できる価格に持っていこうとしている時代。安定した地域社会が崩れ、誰もが少しでも上へ、他の人よりも稼ごうと、容赦のない弱肉強食の日々の中それでもなんとか生き抜いていこうと知恵を絞っている昨今。

その横では変わる必然性を感じずに、ましてお布施という不透明な金の流れと納税の義務を免除されている寺という聖域の中で、それこそあまりにも時代にそぐわないシステムではないだろうかと思ってしまうのもしょうがない。

仏教国は世界に多々有るにも拘らず、戒名というのは日本のみにあるシステムであり、それこそ既存の身分秩序が簡単には崩れないように、成金などがすぐにコミュニティの中で高い地位を得る事ができないように、コミュニティを守ると同時に硬直化させる仕組みであり、同時に寺の安泰を約束する仕組みであると考えてしまいがちである。

しかし、読み進めていくうちに、そうとは一概にも言えずに、兼業などをしない限り現在の仏教寺院の収入はそれこそ葬儀や法事などでの儀式を執り行う事に対して檀家から支払われるお布施が大半を占める事になり、それから計算すると寺院を維持していくには300軒の檀家が必要であるが、都市化によって寺院と檀家との関係が希薄したことと、経済至上主義の影響で葬式にも商用化の波が押し寄せてきた点により、時代と共に300を超える檀家を抱える寺は減ってきているという。

それはイコールで寺院の収入の減少を意味し、それを裏付けるように曹洞宗の寺院での日本全国での平均年収は565万円でだという(平成17年)。封筒の中に包まれた金額がどれだけか分かるのは檀家と寺院のみで、そこに領収書が発行されるでもない非常に不透明な金のやり取りに加え、本山に上納されるという戒名料なども実際のところいくらが渡されているのは決して知りえる事がないやり取りが見え隠れするだけに、この数字がどれほど信憑性を持っているのかは疑問があるが、それでもいわゆる一般サラリーマン家庭と変わらない経済規模だというのは、恐らく大多数の人にとって意外な事実であるであろう。

しかもその約半数は年収300万円未満という注釈付きというのであるから、世間だけではなく寺院もまた厳しい経済の波に同じように飲み込まれていることとなる。

「葬式は贅沢である」

と結論付け、時代にあって、自分にあった色々な形の葬儀のやり方がより普及してくる事。「家族葬」や「直葬」、「樹木葬」など自分自身もいつか自分の番になったら選ぶであろうと思える方法を紹介する。

一般常識的な葬儀を盲目的に執り行う必要は無く、外国などの状況などを説明し、一般的に葬儀に対してのどのような事が行われ、どれくらいの費用が支払われるかを紹介し、如何に現在の日本での葬儀のやり方が過剰であるかを解いていく。

しかし、これでは自分だけは時代に合わせて檀家から抜けて、個人レベルでできる規模の葬儀を行っていきます。というだけでは、それまで脈々とこの土地に根付いてきたゲニウス・ロキや地縁を断ち切るだけであり、日本の風景を支えてきた寺院を崩壊に導くだけであると思わずにいられない。

本当に必要なのは、現在の社会、現在の時代にあった「死」の儀式のあり方を、社会も仏教界も各家族も個人も、皆が改めて考えて、身の丈にあった規模と内容に修正していく、そんな必要があるのだろう。

様々な既得権益が複雑に絡み合い、それでメシを食っている多くの人間がいるからこそ、簡単には変わらないとは思うが、それでも現状のまま放置していけば、間違いなく一世代で葬儀のあり方、檀那寺のあり方、墓のあり方がガラッと変わってしまうのは目に見ていることである。

少なくとも、家族と親と兄妹と親族と、そして現在の檀那寺と時間を取って話し合うことが自分達にもできることだと改めて知る事ができる一冊であろう。

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はじめに

第1章 葬式は贅沢である
/どんなに寿命がのびたとしても
/古代から人間は葬式を営んできた
/葬式費用231万円は世界一
/葬式は法的な義務ではない
/葬式無用の主張
/散骨はいつから認められるようになったか
/葬式をしない例は少ない
/社葬は日本の文化
/何も残らないにも関わらず

第2章 急速に変わりつつある葬式
/「直葬」登場の衝撃
/直葬とはどんな葬式か?
/昔「密葬」、今「家族葬」
/葬式のオールインワン方式、ワンデーセレモニー
/葬式だけでない簡略化の流れ
/家から個人の儀式へ
/墓の無縁化と永代供養墓
/創価学会の友人葬
/樹木葬・宇宙葬・手元供養
/宇宙葬すら100万円しかからない

第3章 日本人の葬式はなぜ贅沢になったのか
/古墳壁画や埴輪から古代の葬式を想像する
/見出せない仏教の影響
/もし仏教がなかったら
/日本仏教を席捲した密教
/葬式仏教の原点としての浄土教
/地上にあらわれた浄土
/易行としての念仏
/仏教を大衆化させる道を開いた親鸞
/禅宗からはじまる仏教式の葬式
/浄土を模した祭壇

第4章 世間体が葬式を贅沢にする
/仏教式だからこそ
/細部へのこだわりが
/世間体が悪いという感覚
/村社会の成立と祖先崇拝
/柳田國男の祖霊信仰
/山村の新盆と「みしらず」
/村のなかでの格と戒名
/世間に対するアピール

第5章 なぜ死後に戒名を授かるのか
/戒名の習慣と戒名料
/戒名料の相場
/戒名のランキング
/日本にしかない戒名
/戒名への納得できない思い
/葬式仏教が生んだ日本の戒名
/出家した僧侶のための戒名
/日本的な名前の文化
/戒名の定着と江戸期の寺請制度

第6章 見栄と名誉
/高度経済成長における院号のインフレ化
/バブル期に平均70万円を超えた戒名料
/仏教界の対応
/戒名はクリスチャン・ネームにあはず
/有名人の戒名に見る、それぞれの宗派の決まりごと
/死後の勲章としての戒名
/生前戒名が広まらない理由
/墓という贅沢

第7章 檀家という贅沢
/介在する葬祭業者
/仏教寺院の経済的背景
/阿修羅像はなぜ傷んでいるのか?
/必要な檀家は最低でも300軒
/減る年忌法要と無住化の危機
/戒名料依存の体質が変わらない訳
/檀家という贅沢

第8章 日本人の葬式はどこへ向かおうとしているのか
/柳田國男が恐れたもの
/核家族化で途絶える家の後継者
/仏壇を祀らせる運動として
/家の葬式から個人の葬式へ
/土葬から火葬へ
/日本人が熱心なお墓参り教
/大往生が一般化した時代
/最後に残るのは墓の問題

第9章 葬式をしないための方法
/葬式をいっさいしないために
/完全自前の葬式は可能か
/僧侶を呼ばなければさらに
/宗派による葬式と墓の自由不自由
/寺檀関係のない僧侶のぼったくり
/作家と戒名
/戒名を自分でつける方法
/火葬するのも贅沢

第10章 葬式の先にある理想的な死のあり方
/死んだ子どもの思い出に創設されたスタンフォード/大学
/裕次郎さえ寺は残せなかった
/PL教団の花火は葬式だった
/葬式で儲ける!?
/派手な葬式と戒名で財産を使いきる
/本当の葬式とは

おわりに
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2013年1月9日水曜日

HR

構造改革にともなって、できる限り組織の効率化を考えることになる。

人事・経理・営業・PR・設計・総務等々、設計事務所が会社という不特定多数の人が集まり、業務をこなしていく場である以上、組織を円滑に運営していくべき必要な環境を整えたほうが、より毎日の仕事がスムースに進むというのはしごく常識的なことであり、数人という個人事業主的な形態から10人を超え、30人を超えていくに連れ、「自分達で全部やる」ということが通用しなく、「組織」としての在り方に変容していかなければならない時がやってくる。

という訳で、我々MADも現在に至るまでに何度も事務所内の構造改革を行ったのだが、今年もまたそれが必要な時期だろうということで、会社を成り立たせるそれぞれの分野において現状分析と仕分け、そしてどうすればより良くできるかを検討する。

設計事務所を成り立たせる設計業務。
その活動を外の社会に向けて発信するPR業務。
自分達の作品がどのような場所に行けばより良いマッチアップが可能になるか、世界の様々な場所で行われるコンペ情報を精査したり、どのようなメディア戦略をもってオフィスの作品を発表していくか、そんなことを行うPRとは別の営業業務。
パソコンが必須となった現代の設計業務なだけに、複雑化するデジタル環境のアップデートや、テラをあっというまに超えていくまで増えていくデータの管理などを行うIT業務。
日常経理や、年間の経費の管理を行う経理業務。
クライアントとの窓口になったり、日常的な業務の雑多なことがらをカバーしたり、外国人スタッフのビザの発給手続き、保険のやり取りなどの総務業務。
そして組織の心臓部とも言える人事業務、つまりHR(Human resource)。

流動する世界を反映するように、現在までに在籍したスタッフとインターンの総数は既に数百を超える。人がいて初めて成り立つのが会社組織なわけで、彼らの存在がなによりもの宝であり、展覧会や出版物などでプロジェクトを発表するときには、必ず担当チームに属した彼らの名前は記してあげたいというのがオフィスの誠意でもある。

しかし、「建築家」という全うな社会からはやや距離を置き、会社という「しっかり」した組織に属することなく、漂うように生きてきた建築家にそれだけで一つの専門領域とも言える人事の仕事の経験がある訳も無く、誰もが独立という時点から自分なり、自分たちなりの会社組織の在り方、そしてHRの在り方を模索していくこととなる。

引き継ぐべきこともなければ、模倣する対象もなく、教えを乞う上司もいないところから出発するので、ひたすら原理原則へと回帰し、自分でどういうことが必要か、何が出来たら会社として良いのか、現状の分析から改善点などを考えることとなる。

考えうる様々なシナリオを考えては、どのようなシステムが適しているかを検証する。何年後でもそのシステムが成立するために、よりシンプルで、よりフレキシブルで、より原則的であるように。何年の何月の時点で、あるプロジェクトに関わっていたある国のスタッフを知るためには、一元的なタグシステムでは成り立たず、ある種のパラメトリック・デザインの要素が必要になる。

そんなことを繰り返し、書き出した20にものぼる検討事項やシナリオと、その対策を踏まえるて導く第一の結論から、手持ちのソフトやウェブベースのシステムでは対応できないとなり、ならばと市場に出回るHRソフトを検索する。基本言語が英語と中国語ということもあり、日本市場のものでは需要にマッチせず、英語ベースのソフト検索をして、最終的にはスタッフとプロジェクトの管理にも使えるHRソフトの購入とその業務だけを専門的に行うスタッフの確保の二つが急務だという結論に達する。

その結論を他のパートナーに伝達し、オフィスのマネージャー・スタッフに伝えて手配をお願いする。そこに費やされた半日以上の時間と労力。

「建築家の仕事って一体何をしているの?」

とよく聞かれることがあるが、これもまた「建築家の仕事」の一つなんだと自分を納得し、またトレーシング・ペーパーに向かうことにする。