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2016年2月12日金曜日

宿のクオリティ

数日間、違う温泉地で、異なるタイプの宿泊施設に泊まってみると、それぞれの宿が何に重きを置いているのか、どこまで細かく気を配って接客をしているのか、もしくは商売っ気たっぷりにできるだけコストカットをし、それがサービスの質として出てしまっているのかが見えていないのかなどなど、様々なところを比較することができ、それぞれのサービスが価格に適しているのかどうか判断できることになる。

例えば、昨今の隣国から押し寄せる空気汚染に対応してのことだと思うが、旅館の各部屋に設置された空気洗浄機。もちろんこれもある意味現代における宿側の気配りであり、ありがたいことは間違いなのだが、その音がゴゥゴゥ鳴り響き、静かな宿での時間は見事に壊されることになる。

またこの空気洗浄機。ピカピカと青色に光ったり赤色に光ったりと、吸い込んでいる汚染物質の量によって自らのパフォーマンスを知らせてくれようとしているのだろうが、日常のリビングにあるならまだしも、こうして非日常の旅館に来て、夜寝ようと思っても視界の端でチカチカと光り続けるのはなんとしたものか。

恐らくこうしたことは宿側にとっては、日常の風景であるから気がつくのは難しく、そうなると客側の視点を踏まえて選ぶ機器を選択していくかというところまで気を回すのは、そうとうなレベルということになってしまう。宿のメンバーが客としてどこかで宿泊し、そのときにどんなサービスが心地よく、どんなサービスが過剰であり、どのようにして自らの宿泊施設に取り入れることができるか?そんな不断の努力を積み重ねていくしか、変化の激しい現代社会においては「サービスの質」を向上ではなく維持していくことすら難しい。そしてそこにどれだけ投資をすることができるか。

本日宿泊するのは阿蘇に向かい奥まったところにある温泉街、湯平温泉。その中でも随分おくに位置する旅館に宿泊したのだが、部屋数もスタッフで無理の無いように対処できるだけに留めておいて、自分たちが思う心地よいサービスを提供することができるようなシステムをどうやって作ることができるか。それをじっくりと考え込んだということがひしひしと感じることができる非常に気持ちの良い宿である。

それに比べ昨日宿泊したのは中津市の八面山金色温泉の宿。こちらはコストカットの影響なのか、全体的な商業主義の雰囲気は漂うにもかかわらず、全体的に手と視線が届ききっていないのが見てとれ、数度受付にいっても誰もおらず、頼んだものも部屋には届かず、食堂に食事にいっても係りの人はバックヤードから出てこず、食事の説明を頼むと厨房まで聞きに戻る始末。恐らく地元のパートのおばさん中心に運営が賄われており、正社員でないから宿泊客に快適な時間を過ごすためのサービスを教え込むための教育にも時間がかけられていないのが感じ取れる。

それならばこの二つの宿の価格が違うはずであるのだろうが、そういう訳ではない。そう考えると、湯平温泉の宿の経営努力は素晴らしいものだと思わずにいられないし、また何かの機会で宿泊する機会があるのなら間違いなく湯平温泉を選ぶであろう。

これは高級だからとか、大衆向けだからとか、働く人の質の問題だとかそういうことなのかと、そんなことを思いながらこれは建築の設計の現場でも同じであり、例えば、アマンや星野やの様な快適なサービスを提供することに対して高額な対価を貰うような宿があり、そういう場所で、客の要望を深く考え、一挙手一投足まで考えてサービスを提供し、それに対して喜びを感じるような若者が多くこぞってその様な高級志向のホテル産業へと就職をしていく。もちろん彼らは熱意を持っているから向上心も高く、学ぶことを繰り返して元々高い意識を持っていたのを更に高めていくことになる。

それに対して、最低限のサービスを提供し、安い宿泊料を売りにする施設では、ただただ給料の為に働き、そこでの喜びや自らの向上などはまったく気にせず、与えられた仕事を与えられた時間だけ行い、クビにならないようにこなして毎日を繰り返す。そんなスタッフが集まってくる。

これは異なるニーズをもつ宿泊客がいる限り、それに対応するバラエティをハード側が持つために必然なのであるが、今回のポイントはどの宿もいわゆる同じ価格帯であるにも関わらず、その実は酷い差があるということ。そしてその差はネットで見た限りでは見破ることはできず、そして恐らく一見の客が満足してリピーターとなるよりも、地元の客が気楽にこられるような場所にしていたほうがビジネス的にも都合がいいということなのだろう。

外からの見てくれは非常に良いが、クオリティという意味では大きな差があり、快適さという部分では比べ物にならない。そしてその質というのは、いくら一人ががんばったところで保てるものや達することのできるものではなく、そこで働く一人ひとりの意識の奥まで何を求めるのかが浸透して、付け焼刃ではなく長い時間の末ににじみ出てくるのものであろう。

2014年5月6日火曜日

50年後に人口1億人程度を維持する


日経新聞に出た記事。

「50年後の日本の人口1億人維持」

先日のクローズアップ現代「極点社会」からの流れを見ていると、一体人口1億という数字に何の根拠があるのだろうかと思わずにいられない。

今後は加速度的に都市間での格差が広がっていくのは間違いない。

新たな流入人口を引き付けられる都市。
若い世代を引き止めておくことがある将来への希望を与えられる都市。
教育や職場などより良い機会を提供することができる都市。

そんな都市に人口がより集中するということは、その他の多くの地方都市が人口をどんどん失っていくということで、それは全世代的に同時に行われるのではなく、若い世代がどんどん都市へと流れて高齢者が地方に取り残される。

その状況を考えると、一体50年後の東京にはどれだけの人間が住んでいるのが適正なのか。

各地方の中核都市にどれだけの人間が集中し、どのような年齢分布となっているのか。

地方にはどんな産業を中心にして、どのような風景がつくられ、どんなコミュニティと暮らしを人々が享受しているのか。

そんな国の形。この国の近い未来の風景を想定しない限り、そこに与えられた「人口1億」という数字があまりにも空虚に思えて仕方がない。

この作業は簡単ではない。厳しい現実を踏まえてでも、誰かが自信を持って描かなければいけない。そうして枠組みを与えてこそ初めて数字が意味を持ち始める。

人口が8000万人でも幸せな日本の未来は描けるのかもしれない。
世界に誇れるような国の姿を提示することができるのかもしれない。

その為には利権を握って離そうとしないその手を緩め、将来の子供達のために必死にどんな国、どんな風景を残してあげることができるのかを考えることがどの分野にも必要になってきているのだと思わずにいられない。

2014年3月24日月曜日

希少性を薄める

テレビを見ていると相変わらず、「格差」「貧困」という内容で世間の不安を煽るような内容が流されている。「熟年離婚」や「介護」といった新しいものとくっつけての、新しい貧困のあり方を紹介し、誰でも貧困に陥ることはありうると警鐘を鳴らす。

その中で一点だけ気になったのが、親の貧困状態が子供の教育の機会の不公平を作り出していること。これは常識的に考えて、どの時代でも起こっていたことである。生活レベルの高い親は十分に子供へのケアを与えられ、また教育やスポーツなど様々な機会をも与えてあげることができる。得てしてそれらは時間と経済性という二つの余裕がないとできないことである。

しかし問題なのは、現在の教育システム。受験がある種テクニックの習得になっている状況では、如何にそのテクニックを身に付けることができるか、学校では教わらない内容が受験の現場で試され、その対策として塾に通って受験用に技術、テクニックを学ぶことができた子供のみ、優秀な学校に入学できる。

優秀な学校に入ることは、学歴を手に入れることと同時に、優秀なクラスメイト達と過ごす時間をも手に入れる。これが子供の生き方、時間の過ごし方に大きな影響を与えてしまう。どんなに素地が悪くても、一度そこに入ってしまえば、長年揉まれていくうえでそれなりに優秀な子どもになっていくシステム。

そう考えれば、塾に高い学費を払い、自分の子供だけには特別なテクニックを身に付けさせようと投資する親の気持ちも分からないではない。しかし、いくら子供や親がより高いレベルの学校に行きたいと望んでも、塾に通う経済性を持ちえない限り、自分ではそれを学ぶことができない。つまり親の経済性が大きなハードルとして子供の人生を決めてしまっている。

これは大きな問題である。酷い不公平な事態である。

経済性を持つ親は、できるだけ競争を楽にするために、より高い学費でより優れた内容の塾があればあるほど喜ぶはずである。愚かな自らの子供でも、お金さえ払ってその塾に通わせれば、そこに通うことができない一般の子ととの差を開けることができるから。

つまりは希少性をお金で買うことで格差の上への新路を進む現状。これでは同じ膠着した社会構造を保つだけで、何のイノベーションも起こらない。子供の能力とやる気にそって学ぶ可能性を与えてあげることができるのが健全な社会であろう。

ではどうするか?

それは価値を生んでいる希少性を薄めてやればいい。つまりは塾で高い学費を払ってでしか学ぶことができない知識、技術、テクニックを無料で公開し、誰でもそれを学ぶことができるようにしてあげればいい。なんともまっすぐな回答である。

それを実践しているのが東京大学の学生が立ち上げたNPO法人「manavee(マナビー)」。「地理的・経済的な教育格差の是正」を目標に、誰でも行きたい大学に行ける学習環境をウェブで無料にて提供するサービスを、ボランティアの大学生が教師を務めることで運営している団体だという。

社会の中ですでに「持つ者」となっている人々はその地位、利権を保持するために、できるだけ流動性のない社会を望む。硬直した社会が全体の利益になっている時代はそれでもいいか、変化が必要な現代のような時代には、さまざまな階層から新しい才能を持った若者が出てくる必要がある。

お金を払うことで、特権階級に居続けようとするお金持ち。その欲望をビジネスに転嫁する塾。ガチガチにビジネス化された教育制度の中ではじき出されて学ぶ機会すら得られない子供たち。

それを変える可能性のある大きな試みだろうと思われる。

そう考えると、ほかに希少性を薄めることで格差を解消することにつながることは多くある。本来誰もが発信者になることを可能にしたネットというのは、本来こういう目的につながるべきことであると思う。

このブログも、自分が若く建築を学び始めたばかりの時に、少しでも上の世代が何を考え、実際にどういう具合に設計実務の日々を送っているのか、その過程の中で何を見て、何を学び、どう職業的能力の向上につなげるのか。そんなことを知りたいと思っていたということは、今もどこかで同じように悩んでいる若者がいるはずで、ひょんな機会にその彼がこんなブログに目をとめて、少しでも建築家としての将来に明るい見通しを持つことができるようにと思っている。

百科事典が高価で特権階級しかある一定の知識にアクセスできなかった時代から、誰もが望めばどんなことでも知りうる時代に入った我々。覆い隠すことでは希少性を担保できなくなった時代には、新しい希少性によって価値を作り出していかなければいけない。

何を破壊し、何を新しい価値とするか。そしてその価値に自分がどう貢献できるかを考えながらテレビを消すことにする。

2014年2月13日木曜日

Complex Geometry & Optimization


北京で進行中のプロジェクトの為にフランスのファサード・コンサルがワークショップにやってきている。

曲面を含んだファサードをどうやってオプティマイゼーション出来るか?どうすれば、一番経済的で、施工性の高い方式で、コンセプトを崩すことなくバーチャルな世界での設計をリアルな現実世界の建材という生々しい物質に落とし込めるかを検討する為である。

3次元曲面を持った建築を扱う時代に入った現代の建築設計の現場においては、設計を行う建築家と共同する形で、ファサードと呼ばれる建築の外形面のエンジニアリングに特化したファサード・コンサルタントとの協同が必須になる。

もちろんこれらの作業は下記のいくつかの条件が当てはまってこそ発生する。

複雑形態を持つプロジェクトであること
複雑形態を可能にできるプロジェクトの規模と予算があること
ファサード・コンサルタントの参加の重要性をクライアントとが理解していること
ファサード・コンサルタントとの仕事の進め方と建築事務所が理解していること

そう考えると、一定規模を超えるプロジェクトであり、ファサードにもスケール・メリットが発生し、さらに少なくないコンサルタントへの設計料を支払ってでも、全体としてプロジェクトにメリットがあり、そのプロセスとデザインを共有できるクライアントの存在が必須となる。

そしてこのようなファサード・コンサルタントと呼ばれるエンジニア集団が世界中で多く増えてきたのは、もちろん複雑形態を扱う建築プロジェクトが世界中で増えてきた事もあるが、その背景にはその建築を可能にしてきた様々な建築技術、施工技術のイノベーションと、アルゴリズムを使った3次元ジオメトリーに対する解析とアプローチの発展があるのは間違いない。

どこの国でもそうであるが、上記の条件の中でどれか一つでも揃わないとなかなかこのコンサルタントと協同する機会は得られず、特に個人住宅などを行っている設計事務所では恐らくこのような機会は一生必要ないといえるであろう。

つまり、どんなプロジェクトに従事しているかで、「建築家」と言えどもまったく違う業務に従事して日常を過ごすことになる。しかし、この複雑幾何学とその適正化、つまりオプティマイゼーションの行程は現在の建築の世界でかなり重要な位置を占めてきているのは間違いない。

昨年話題になった新国立競技場。かつて勤めていた事務所がその設計に当たるということで、友人が担当者として東京でザハ事務所と日本側の設計組織とのやり取りを担当しているのだが、彼からも「日本で複雑形状を扱えて、BIMを理解し、英語と日本語が使えて、日本側の組織とやり取りができる人材を探しているのだけど誰か紹介してくれれないか?」と頼まれているのだが、恐らく今の日本にはその様な建築家はかなり少ないと思われる。

第一にその様な設計プロセスを教育の中で教わってこない。恐らく多くの大学は、原理原則でコルビュジェやカーンといったモダニズムの建築をベースに、プロポーションやレイアウトを重要視する設計課題を行っているはずである。それに対して海外のいくつかの大学では教育の場でアルゴリズムや新しいプラグインを開発するくらい、新しい技術を積極的に取り込んでいく流れがある。逆に言えば、日本の建築教育の場で、これらの流れを正確に意味を把握し、その重要性を理解し、そして技術を理解し、設計の現場でどの様なやり取りがなされているのか?建築家がその時に何を理解していなければならず、何をコントロールしなければいけないのか?そしてこれらの流れが今後の建築の世界にどのような影響を及ぼしていくのか?

これらの事を実感として感じ、真剣に考えて、何が学生に必要かを議論している建築教育の場は恐らく今の日本には皆無であろう。それがもたらす教育課程においての無菌環境。

それに続いて、日本では世界で見られるような複雑形態を持ったプロジェクトがほとんど行われないことにより、必然的にそのような設計プロセスに触れる機会も、そのような施工技術の向上の機会も少なくなってしまっている。デコンやポスト・モダニズムへの反省という面もあるのであろうが、代々木体育館や香川県体育館といった高度成長期にあれだけ国をあげて、世界的にもトップクラスの建築表現を試み、挑戦し、成し遂げていた日本の建築界が、いつの頃からか新しい建築空間の可能性を追い求める事を経済性の問題から出来なくなってきたことが原因となっているのは否めない。

それは同時に、そんなリスクをとってでも、世界的に誇れるような建築プロジェクトを成し遂げようとするクライアント、ディベロッパーや行政がいなくなってしまったということでもある。いなくなったというよりは、「ハコモノ」のトラウマから脱却できない行政にはその様なことを考える事すら出来なくなってしまったのだろうし、ディベロッパーには土地から逆算できる市場を睨んだ想定される売値という安全な方程式だけを求め、建築的価値や世界に誇る新しい空間を作る事の意味は何も必要が無いという、海外の以下に他と差異化できるかを追い求め、自らの価値を高めようとするディベロッパーとは見ているところが大きく違ってしまっている事も大きい。

そんな訳でできるだけこれから建築の実務の世界に入っていく建築を学ぶ若い学生などには、一体どんな事が現行の建築設計の現場で行われているのかを知識として得ておく事はとても重要な事だと思うので、誰かがどこかでこのページに辿りつき、それがその後の進む道の何からしらのガイドになればと思う。

そんな訳で話を戻すと、現在この分野で世界的に名が知られているファサード・コンサルタントを挙げてみると、

Gehry Technologies (GT)

Arup

Front

Inhabit

など様々な会社がそれぞれの強みを武器に世界中を舞台にプロジェクトを進行させている。そして今回のプロジェクトで協同することになるのは、ピーター・ライス(Peter Rice)という建築を学ぶものなら必ずその名を聞いた事のあるアイルランドの構造家が立ち上げたRFR(Rice Francis Ritchie)。

RFR

ピーター・ライスはシドニー・オペラハウスやポンピドゥー・センターなどを手がけた世界的構造エンジニアであり、その芳醇な経験は新しいエンジニアのあり方としてRFRへと受け継がれていく。

さてオフィス内でも元GTで働いていたスタッフを雇い入れ、「Digital Project」を使いながら、それぞれの曲面をロジックに沿いながら最適化していく作業を繰り返し、最初がどの様な形状で、どのような目的でどのような方法を採用して最適化したかと各ステップごとにまとめ、その行程を何度も繰り返し最終的にたどり着いた形状を資料としてまとめ、3次元データと共に渡しておく。

フランスからやってきたRFRのエンジニアが彼らの上海オフィスからやって来た上司と共に、北京に1週間滞在し、まずはプロジェクトの把握と、彼らが進めてきた最適化の方向性を理解し、それをまずは建築事務所と議論しながら、方向性を探っていきながら、最後の二日間はクラインとも交えてどの方式を採用するかを決定してというワークショップである。

最適化はあくまでもコスト、施工性、素材の加工性、建材の大きさ、建築のコンセプトなどとバランスをとりながら、不安定な道の上をうまく進んでいくような感覚である。もちろん、関係してくる雨水排水や通気溝との納まりやメンテナンスの容易さなども考慮しながら、局所的な目的と、大局的な目的を視界の端々に捕らえながら、ローカルの最適化とグローバルな最適化を共に頭の中に知れながら進めていくことになる。

クライアントの要望としては、もちろんコストカットが一番な訳であるが、そのために美しい曲面の外装をすべて一枚一枚平坦な直線のガラス面で置き換えることは、いくら納まりを工夫したところ、反射や透過で直線の集合体で曲線を表現したことが見え見えとなり、それは建築事務所として求めるところでも、クライアントの求めるところでもなくなってしまう。

それらのことを防ぐ為に、まずは建築のコンセプトを説明し、どこをキープするのがこのプロジェクトにとって一番の肝かを理解してもらう。それに続き、プロジェクト・アーキテクトと一緒になって彼らがフランスで進めてきた最適化の方向性について説明を受ける。

上記したように、様々なパラメーターを同時にコントロールしていく。同じ目的地にたどり着くにも、まったく違う道を通っていく事もある。それにはすべてロジックがあり、数学と物理を駆使した数値の後押しがある。

この時に、エンジニアが何を目的として、どんな方法を考え、各ステップでの個別の目標は何かを正確でなくても、ある程度理解しつつも、それが建築事務所の求める結果に向かっているかを判断する能力が建築家にも求められる。ここで話されるのはディテールやフレーム、構造などの通常の建築用語に加えて、サイン・コサイン・タンジェントにローカルとグローバルのでの参照面に対しての法線や角度、xyzのどの軸を対象とし、どのパラメーターを操作するか。

パネル化のサイズをどれだけに抑える事で、各パネル間のギャップがどれだけになるのか。その隙間はブラケットで吸収できる程度のものなのか、それともシステム的に吸収しなければいけないのか。参照面の4つの頂点からの距離がどれくらいに抑えられるのか。角度と回転を制御し、排水や、防水、汚れの流れをイメージし、捻りとシリンダーの精製方法の違いがどうコストに跳ね返るかを理解していく。

こういう話は聞いていればいいのではない。会議室に座って、なんだか最先端の技術の話を勉強になるなとレクチャーの様に聴いていることは誰にでもできる。そうではなく、いつか中学か高校の教室でならったあの知識と脳の奥から引っ張り出し、彼らが何を見ているのか、何を目指しているのか、何を話しているのかを真の意味で理解し、それを使いこなす。彼らの視点からは見えない、建築家の視点で意見やアイデアを出し、プロジェクトにとって生産的な方向に議論を進めていくこと。

ガラスを工場で曲げるためには、オーブン装置に入れて熱してやらなければいけない。その機械のサイズを知らなければどのように最適化できるかも分からない訳である。そしてその機械のサイズに対して、どの角度でガラス版を入れるかにより、それぞれのガラス板の最大サイズが求められる。その数値から再度建築に戻り最適化と分割化を行っていく。

デジタルから生々しいモノのレベルを何度も何度も往復し、数学と物理という自然界を支配する学問の知識を総動員させながら、グラスホッパーの複雑なアルゴリズムを駆使して最適化を進めていく。

普段のデザインの時間とはまったくことなった脳の部分を使用しているのを理解しながら、こちらの意見を出し、一定の方向性を決めて、これから一週間、毎日こんな時間を過ごすのかとどっと疲れを感じて会議を終えることになる。

ちなみに上記上げた他のファサード・コンサルタントとも、別のプロジェクトで協同しているのだが、それぞれの会社に違った特徴や仕事へのアプローチがあり、やはり技術といっても単純に何が優れ何が劣っているとは言えず、結局はそれを使う人間の資質に関わってくるものだと改めて思う事になる。

2014年2月4日火曜日

「青い鳥」中西健二 2008 ★★★

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スタッフ
監督 中西健二
原作 重松清
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阿部寛 村内先生
本郷奏多 園部真一
太賀
荒井萌
篠原愛美
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作品データ
製作年 2008年
製作国 日本
配給 日活、アニープラネット
上映時間 105分
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ほんの数年前、大津市のいじめ自殺の問題がきっかけとなり日本中があれだけ注目し、加害者の少年達の非道な仕打ちや、教育委員会の対応の悪さ、保身ばかりが目立つ学校の対応など、現在進行形の学校における「いじめ」の問題が再度スポットライトを当てられるようになったのは記憶に新しい。

「少年一人が自ら命を絶った」という事実そっちのけで、誰もが自らの保身の為に責任の擦り付け合い、原因を曖昧化させようとするその姿に世間の誰もが思ったはずである。

本当に必要なのは犯人探しではなく、子供を追い詰めてしまう現行の学校というシステムに対して何かしらの有効な方法を見つけ出すことであるということ。

若者が命を絶たなければいけないほど思いつめ、それを友人も大人も誰もが止めることができず、そして今この時にも、同じように思いつめている若者が日本のどこかにいること。それにも関わらず、ただただ無駄に公共の電波で自分のことだけを考える大人の姿を垂れ流しする。

平成23年の小・中・高校生の自殺者数は353人であり、その内訳は、小学生:13人、中学生:71人、高校生:269人だという。そして学年別で見た時にいじめが一番多く報告されているのは、中学1年生であり、17,063件のいじめが認知されているという。


もちろん、学生が自殺する理由が単純に「いじめ」であるという訳ではないだろうが、逆に言えば、自殺に至らなくとも、「いじめ」によって本当に自殺してしまわないが、してしまおうかと思いつめている少年も多くいるはずで、その数は決して統計には表れない。

ただし、「自殺」という収束点を迎えると、それまで積極的にも消極的にも「いじめ」参加、もしくは関与していた他の生徒にも明らかに、一人の少年に対してどれだけのテンションがかかっていたかを目の前に提示することになる。明らかな「悪」の行為に自らも参加していたか、もしくは都合のよい不参加を装っていたかの違いはあれど、そのテンションのかかった時間を見ていたことに違いは無いと目の前に突きつける。「パン」と音を立ててはじけるビック・バンの様に。

日本の社会の中では恐らく多かれ少なかれ、誰もが学校生活の中で、何かしらの形で「いじめ」に遭遇してきているはずである。残念ながら小さな社会の中で、自らの存在意義を意識する為に誰かを相対的に陥れるのは一番手っ取り早く自らの優越感を成し遂げる手段として有効であるのだろう。

この映画は、重松清による小説の映画化。いじめにより、自殺未遂を起こした少年が引っ越していった後の中学校。学校も生徒も、誰もがひとしきり反省を口にし、終わったこととして蓋をしていたはずのその事件。そこに吃音…つまり、どもり口調の臨時教師がやってくる。彼はそこで行われたいじめを過去のこととすることを許さず、生徒が自らの心でその事実に向き合うことをそのゆっくりとした口調で求めていく。

この物語が描くのは、決して生徒が自殺をして死んでしまった教室ではない。自殺未遂を起こすが命を取りとめ、家族揃って別の街へと引っ越していった後の街と中学校の物語。つまりは、どこかのホームページに掲載されているような統計という数字には決して現われない物語。しかし、大切なのは、この少年を始め、自殺を本当にしなくても、同じくらい苦しみ、悩み、自らの将来をまったく違ったものにしてしまう、いじめを受けている少年や少女が日本中にはきっと星の数ほどいるということ。

そしてそれと同じように、どんな形であれその光景を日常の中で目にし、いつまでたってもその時に罪悪感に苛まれるその他の生徒達がいるということ。いじめに直接的に関わっている生徒だけではなく、その周囲にいるすべての生徒達にとって深い傷となってその後も残っていくことを教育関係者は深く理解する必要がある。

学校においての尊厳が失われ、毎日どこかの報道で「教職関係者による犯罪」が報道され、肥大した個人のエゴを満足させる為に他人を引き落とそうとする学生と、自らの責任を放棄し、刹那的な優越感を得ようとする両親に監視され、余計なことはせずに、マイナスポイントを重ねないように業務を全うすることだけに執心する教師達。

そんな現代だからこそ、けっして流暢に喋ることはできないが、どもりながらも発せられる言葉には、その人の意思と生き方が込められており、だからこそ徐々に皆の心に響いていく教師;青島の語りが印象的に聞こえるのだろう。「まきちゃんぐ」の印象的なテーマソングと共に、是非とも多くの中学生に見て、聞いてもらいたいと思える一作である。

2014年1月19日日曜日

「下流大学が日本を滅ぼす!――ひよわな”お客様”世代の増殖」 三浦展 2008 ★★★

数年前まで大学で若い学生相手に建築の設計を教える機会をいただいていた。

「人に何かを教える」ということについて、随分悩み、教育とは何だろうと今まで手にしない様な本を手にし、と同時に専門の内容も古典から現代までできるだけアップデートしながら毎年新学期に望む、そんな生活を数年に渡って過ごしていた。

そんな訳で学生の質の変容だけでなく、学校の体制や他の教師の面々など、様々なことを感じながら過ごした数年間の後だからこそ、この一冊が随分実感を伴って読み進めることが出来る。

恐らく現代においては、多くの学生が目的意識などなく、学習意欲など無いにも関わらず、取り合えず大学くらい行っておかないと、大学くらい出てないと就職にも不利だから、などという消極的な理由にて大学受験を行っているのだろう。


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今や大学を選ばなければ誰でも大学生になれる時代なのだ。

バカが多い大学はイヤだという噂が広まると、受験生が減って、学生が減って、大学がつぶれて、自分が失業するからである。

大学によるバカの大量生産
大学自らの保身の為にバカを大量生産している
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という導入部分に見られるように、全入時代を迎える前からも、一部のトップ大学以外においては、定員数の学生を得続ける為に、ある種の客商売のようなことが横行し、大学がその教育の質ではなく、他のサービスで学生とその親に媚び始めていたのは間違いないのであろう。

大学というのは、特別な専門知識を身につけるための場所であり、そこに通うのは贅沢であるのと同時に、ある種の選ばれたものでしか与えられなかった権利という時代のイメージだけが残りながらも、とうの昔に実体は大きく変わってしまった現代の日本。

「大学が商売になる」ということを嗅ぎつけ大学を増やし、本来なら若者に専門知識を教えるような立場に付けるようなレベルでない人々にも教授と言う安定した収入と立場を与え、本来なら大学に通うことなく、高校卒業と共に、社会に出てそれぞれの技能を身につけていくべき立場の人間も、親が援助してくれ、対して勉強もできないけどなぜだか入れる大学があるから、何とはなしに大学になって4年間を無為に過ごす。

一般的な社会を構成する為に、その何%に当たる人が大学という専門的知識を巳に付けていなければ社会が成立しえないか?といったら、恐らく20%にも満たないのではと思わずにいられない。

つまりは、高校卒業くらいの知識があれば、十分に幸福な職業人としての人生が送れるべきであり、大学へ進学するのは国や地域の為に役に立つべく高度な専門知識を得るために、大変な努力をし、その権利をつかんだ人間だけに与えられる時間であるべきであろう。

社会が成熟するにつれて、大学への進学率が上がるのは止められない。経済が成長するにつれて、それぞれの親が子供により高い学歴を得させたいと思うのが、競争社会においては避けられない。

しかしそれを放置することが本当に社会にとって良いことであろうかどうかは、政府なり誰かがしっかりと議論をするべきであることもまた事実。


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・私立大学では一般入試での合格者が半数以下
こどもの数が減ったから
進学率を上げないと学生の数が足りなくなる 学生が足りないと大学がつぶれちゃう
AO入試 アドミッションズ・オフィス入試

・AO入試組はウソつきばかり?
辛い受験勉強をしないAO入試組は一般入試組と学力において大きな差
大学が完全に大衆化
精神力は体力に比例する

・生き残りをかけた値引き合戦
大学側の生き残り戦略以外の何者でもない
・若者の人気スポットに大学集中

・学歴社会はより強固になっている
・酒の飲み方くらい大学時代に覚えるべきだ
・大学の先生自体が下流だ
・高校は職業に結びつかない
自分の会社の中でだけ通用する人間では生き残れない

・大学を出たけど何をしていいのかわからない
・大学も甘ければ、親も甘い
家族の問題
子供をペット化している
愛情と言うものを誤解しているのではないか
本来は自立するためにしつけとか教育をしていかなきゃいけないはずなのに、それは全部学校に任せている。いい大学、いい会社に入れることが親の役割と錯覚している人が圧倒的に多いのではないだろうか。
・授業料欲しさに高学歴ニートを量産

・教育費に圧殺される家計
・大学全入は大学貧乏と下流を増やす

・大学進学率は20%に
・職業大学をつくる
・若者を早く社会に出す
・大学では教養が必須
・履修ではなく習得を重視する
・大学の数を減らせる
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上記の様に本書の中で展開されるのは、大学の自己保身、大学教授の利権確保の為に、本来大学に進学する必要の無い水準の学生達が、親の経済的裕福さのお陰と、授業料さえもらえればいいという意識の低い大学サイドの思惑に乗せられて大学に入学し、結局何も身につけることなく卒業していき、どうしようもないレベルの低い社会人を大量生産しており、この現象は国に何の利益ももたらさないどころか、この利権構造はこの国の将来すら蝕むので、この際教育制度の改革をしたらどうかという内容。

恐らくどんなレベルの高いといわれる大学でも、本当に学問に喜びを感じ、自らの将来の為に日々ストイックに学ぶ学生と言うのは1割ほどというところだろう。8割ほどが可も無く不可もなく、ほどほどで単位を取得し、1割ほどが落ちこぼれる。そんなところか。

どんなに理想を掲げても、それでも社会は確固たる学歴社会がまかり通る。自分の子には苦労をかけたくなかったら、少しでもよい大学にいって学歴的優位性を手に入れさせたいのが親心。

しかし人口が減っていき、人口構成のバランスも変わっていくこれからの日本。今までの様な形では国が持たなくなるのは目に見えている中で、歪な構造はどうにかして修正していかなければいけない問題のど真ん中に位置するであろう教育の問題。

「こんな聞いたこともない学校で一体何を学んでいるのだろう?」と思うような大学にも、そこで教壇にたって学生の相手をしている教授がいる事実。一体その教授はどんな背景を持ってその場にたどり着いたのだろうかと勝手な想像を働かせたくなるものである。

専門的向上心の無い人物の昔取った杵柄とかなんやらで、ただただ安定した生活の糧として授業を受けることになることほど青春の浪費に違いない。と同時に、何の為に授業に出ているのかも考えることも、自分の将来がどういう風に進むのかも考えることも無く、ただただ惰性で単位の為に出席する学生相手の授業も同じくらい無為であろう。

若者が減り、生活水準が上がり、国の形が変わろうとする現代。今こそ教育、そして大学の在り方を再度考え、定義しなおす時期に違いない。大学が努力をし、学問を望むものだけの特別な場所であり、その難関を突破した学生にはドイツの様に、無料ほどの授業費で学問をさせてあげ、若くて活力に溢れ、まさに職業的向上を求める教授達の熱のある儒教を与えてあげるべきであろう。

その為には基準に満たない大学にはあっという間に消えてもらい、基準を満たした大学にも同じく、内部で既得権益となっている部門や学部にはメスをいれ、大いにスリム化と若返りを図ってもらいたいものである。

地域格差などと言うかもしれないが、やはり高度の学問を得るためには中心に出て行くことは避けられないであろう。中心までの距離が大きければ大きいほど、その人々の決意も強くなるであろう。

大学ほど既得権益の温床になりやすいところはないと本書でもあるが、国の根底を支える学問と、国の将来を担う人材を育成する大切な機関だからこそ、あるべき姿に少しでも早く戻って欲しいと願わずにいられない。

そうでなければこの世界的競争時代。誰がそんなデメリットの多い日本の大学に子供を通わせようというのだろうか?という時代がやってきてしまうと思わずにいられない。

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目次
第1章 大学がバカ学生を大量生産する
・偏差値48の高校からでも上智大学に推薦入学できる
・私立大学では一般入試での合格者が半数以下
・AO入試組はウソつきばかり?
・AO入試は見直しの方向
・証言①AO入試がバカを生む
・菓子パンの食べ残しが教室に散乱する女子大
・バカも大切なお客様
・証言②こんなバカ学生がいる
・泡を吹いて倒れる学生
・打たれ弱い、うつ気味の学生が増加
・メールで同期に「おはよう!」
・仕事のトラブルも同期に相談
・証言③打たれ弱い、すぐ泣く学生たち
・体力がない
・証言④いじめ世代の若者達
・時間のゆとりのない、ゆとり教育
・妙にまじめ
・証言⑤冗談が通じない学生たち
・証言⑥ゆとり世代の大学生
・大学こそが学力低下の原因
・教養の崩壊
・大学に学力低下を批判される筋合いは無い
・参考資料①学生の56%は基礎学力が無い
・参考資料②新しい学習指導要領の主なポイント

第2章 お客様化する学生とモンスター・ペアレンツ
・今の大学教師はファミリーレストランの店員みたいなもの
・クレーマー化する親
・宿題を出すとパワハラだと言う、バカ親
・モンスター・ペアレンツ急増
・消費者の歪んだ、サド的快感
・ファミレス、回転寿司化する大学
・証言⑦モンスター・ペアレンツ
・幼児化する学生
・ビデオカメラを持った親が、武道館に溢れる入学式
・低階層の親ほど、大学に文句を言うのか?
・子離れしない親
・証言⑧なぜ、モンスター・ペアレンツが生まれたのか?
・授業評価制度で、ますます増徴する学生
・証言⑨増長するバカ学生
・タレント教授花盛り
・忙しい有名人の為の新たな役職「特任教授」
・大学は吉本に運営してもらえ
・生き残りをかけた値引き合戦
・若者の人気スポットに大学集中

第3章 バカ学生は社会では通用しない
・今の新入社員は大人免疫力がない
・お客様大学生からお客様社員へ
・証言⑩新人教育で疲れ果てる
・同期同士がほめあうのはいじめの影響?
・証言⑪ゆとり社員に四苦八苦
・学歴社会はより強固になっている
・証言⑫企業人事部が重視する学歴
・大学が入学させるべき人間の基準は何なのか?
・酒の飲み方くらい大学時代に覚えるべきだ
・大学の先生自体が下流だ
・大卒者の72%が「友達づくり」に大学の意義を見出している
・社会科学系の大学生ほど何も得ていない
・経済学なんてわからない
・高校は職業に結びつかない
・高校にきてから教えても遅い
・大学を出たけど何をしていいのかわからない
・大学も甘ければ、親も甘い
・証言⑬子離れしない親達
・友達が作れない大学生、国立大の休学率は約20年で3倍
・授業料欲しさに高学歴ニートを量産
・大学院まで行って社会不適応者

第4章 「大学貧乏」の登場
・大学生のいる家庭の平均年収は低下
・教育費に圧殺される家計
・ケース1 通勤を車から自転車に変えて学費捻出
・ケース2 年収750万円の半分が娘の為に飛んでいく
・ケース3 両親の思いと裏腹に遊びまくる息子
・ケース4 大学進学のため、マイホームの頭金を切り崩す
・ケース5 無理やり大学に入れたが、バイトのほうがためになるという息子
・ケース6 ホステスをクビにして学費を捻出
・東大がタダの時代
・大学生の4割が奨学金制度を利用しているが
・ケース1 飲み大に消える奨学金
・ケース2 車を基準に大学を選ぶ
・ケース3 入学と同時に水商売を始める
・ケース4 入学金が払えずに二浪して授業料を貯める
・ケース5 奨学金をパチンコで使い果たすギャンブル狂女子
・大学全入は大学貧乏と下流を増やす

提言 オンライン大学で下流脱出を
・教育制度改革の提案
・大学進学率は20%に
・職業大学をつくる
・若者を早く社会に出す
・大学では教養が必須
・履修ではなく習得を重視する
・オンライン大学の提案
・地域格差、教育格差が縮小する
・時間に縛られずに学習できる
・学歴主義の解消
・教授の負担が軽減
・大学の数を減らせる
・地域拠点を作って交流の場に
・心の弱い若者はどうする?
・生活の知恵を学べる総合学習なら意味がある
・生活能力の格差を縮める
・携帯電話で大学に通う

あとがき
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2013年12月3日火曜日

音楽家の作り方

コンサートに足を運ぶことが少しだけ日常の中に入ってきた2013年の秋。

いくつかのコンサートを体験して思わずにいられないのは、音楽家の作り方。こんな現代を代表する大国の首都にあるオペラハウスで演奏するくらいの音楽家というのは、それはそれは業界では大成功。天才と呼ばれながらも努力を辞めなかった人たちばかりだと想像する。

様々なドキュメンタリーや映画で見るように、そんな世界的音楽家になるには、まさに「ファースト・ポジション」のような生活を幼少期から送っているのだろうと想像する。小さい頃から英才教育を受けて、学校教育では受けられない特別なレッスンを受け、地域レベルから国レベル、そして国際レベルへと指導者も変えながら成長していく。

世界がフラットになり、競争者が増えたことは、その競争をより厳しくさせ、開始時点をより小さな頃にさせる。音楽や踊りだけに関わらず、体操や水泳、様々な芸術とスポーツに同じ事が言えるであろう。そして競争が激しくなればなるほど、一流と呼ばれる教育には差異化の為に膨大なお金が必要になる。

つまりその経済的余裕がなければ競争に参加できないか、良い指導者というスペシャル・アイテムを手にする事ができない。「それが不公平か?」と言われると、おそらく人類の歴史上、このような特別なポジションを手に入れるには、多かれ少なかれ同じ事が繰り返されて、ある種の特権者だけがその競争に参加できたのだろうと想像する。

かつてはそれが階級や家柄などで守られていたかもしれないが、それが徐々に取り払われたこの資本主義の世界では、新しい差異化の手段として経済性を採用するのは一番安易な方法であるが、一番効率的なものであるといえるのだろう。

それがいいかどうかは別にして、こうしてステージの真ん中に一人立ち、小さなころから慣れ親しんできたその楽器から、「どうやったらこんな人を感動させる調べが奏でられるのか?」と思うような演奏を聴いていると、やはりこういう芸術的才能は小さい時から特別な教育を施さないと獲得できないものなんだろうと納得してしまう。

その身体を使い、楽器から創り出された音が空間を充満していき、徐々に人々を酔わせていく。その過程を見ていると、それこそ時代によってはある種の魔術師だと思われていたに違いないと思ってしまう。

恐らく芸術家についても同じような事が言えるのではと思う。芸大に入るような人というのは、油絵にしても彫刻にしても、やはり小さいころから親の影響などで特殊な教育を施されてきたという人が多いのではないだろうか。

そこで思わずにいられないのが建築家。果たして建築という極めて理性的でありながら芸術的感覚を必要とする職業においては、上記の音楽家、芸術家、運動選手のような幼少期からの特別な教育が必要、もしくは幼少期からの特別な教育を受けていればその分だけ能力が高くなることは可能であるか?

その答えのヒントになるのが、有名建築家の息子として育った人物で、同じく建築を職業としている人たちが父親同様、もしくはそれ以上の才能を発揮しているかを見ることがいいのかもしれない。少なくとも普通に生活していたらなかなか接する事のない建築家という職業。そのために父親という存在を近くで見ながら育つ事は、必然的により深い理解を身体の中に入れながら成長する事と同義であろう。

世界中を眺めてみても、どうも二世で成功した建築家は少ないように思われる。もしくは建築家としての生活を見ながら育つと、それと同じ道に進むのは嫌だと別の世界に行く人が多いのだろうと思うし、親もまたそう願う事が多いのだろう。

そもそも根本的な前提が違っていて、芸術家や音楽家の様に、親がなって欲しいと期待する職業に建築家が入っていないために、その様な特殊教育を受けさせるシステムが発展していないとも考えられる。それはイコールで、音楽家や芸術家のように社会的ステータスと経済的成功を獲得できる位置に建築家がいなく、成功や名声を求める親達にとっても魅力がないということか。

それとも違い、建築という社会に深く関わる職業であるからこそ、小さいころから将来を定め、ある一つの目的の為に盲目的に突き進む事は返ってその職業的視点を狭めてしまうことになるということかもしれない。

まぁとにかく世界的な音楽家を作るには、幼少期からそれなりの育て方が必要であるように、もし感性の豊かな建築家を育てるのなら小さな時にどんな事が必要であろうかと考えてみる。プリツカー賞受賞建築家である伊東豊雄が主宰するようなものがそれにあたるのだろうか?

恐らくそれよりも、日本全国に散らばる長い歴史を持った寺社仏閣を丁寧に見て周り、そこで何かを感じる事を育む事の方がよっぽど建築家として場所を読み解く力に繋がると思う。

まぁとにかく、建築家なんて育てられてなっても恐らく長続きはしない職業であって、自ら覚悟をもってでしか長い建築家人生を全うできないんだととりあえず納得する事にする。

2013年11月30日土曜日

「反貧困―「すべり台社会」からの脱出」 湯浅誠 2008 ★★

現行の報道などを見ていると、不正受給や若くて健康なのに働こうとしない人など生活保護の問題を刷り込まれ、精神的に弱い人間が甘いシステムに依存して、楽をして生活していることで真面目に働いている人間に皺寄せが来ている。なんて風に考えてしまいがちだが、それの考えがミクロな視点であり、本質的には貧困というマクロな視点を持って眺めないと近視眼的になってしまうとよくよく理解できる一冊。

それにしても、派遣村の村長で、労働問題を主に取り扱っている社会活動家であり、近頃は政府に請われて参与などをやっている人という認識だったが、改めて東大で博士課程まで進んだエリートなのだと知ると、その活動内容もまた違って見えてくる。

本書でも出てくるように、貧困を自己責任だとして攻めてしまう奥谷禮子の「弱い人が増えています。まさに自己管理の問題」という発言の様に、確かに様々な能力が足りなかったり、努力が足りなかったりするために貧困に陥っている人がいることは確かであろう。

しかしそれが同時に、こちら側にいる自分の幸福の再確認作業になってしまったり、ましてや自分は努力したから当然だと思ってしまうことも多々あるだろう。しかしその正当性を改めて考えてみる必要があるのだと思わずにいられない。

本書の中に出てくるように、大学受験に合格した人が、「それができたのは、高い教育費をかけてくれた親がいたからだ」と考えることは少ないだろう。という言葉の様に、自分の努力で手に入れたと思っている今の居場所は、実は親を始め多くの援助のもとで可能になった選択肢があったからだと思う必要があるのだと実感する。

「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」でも描かれるように、外からの視点を手に入れるには、外にでるチケットを手に入れる必要があるし、外から冷静に自分がいた場所を見返せるようになるには、心に余裕を持って時間が過ごせるような生活を得る必要がある。

そこに辿りつく為には、学を修め、職業的にもキャリアを積んでいく必要があるが、そのためには自分の努力ももちろんであるが、そこにチャレンジする様々な援助が必要となり、それは家族を始め育っていく中で多くの人から与えられてきたことになる。

それが如何に恵まれていることか。当たり前だと思ってきた時間が、どれだけ恵まれていたのかを良く知ることができる一冊であり、「オリンピックの身代金」で描かれたような人夫の様な日常を送る人々が今の現代でも多くいるんだと理解する。

親の貧困のせいで十分な教育と愛情を得ることが出来ない幼少時代を過ごし、精神も健康も蝕むようなネットカフェ難民に陥り、何とか手にした仕事で日雇い派遣会社に経済的にも精神的にも搾取されていく。ダメだと思いながらも止めることができない負の連鎖。

雇用のセーフティネットからも、社会保険のセーフティネットからも、公的扶助のセーフティネットからも抜け落ち、作者が「五重の排除」と言うように教育過程、企業福祉、廉価な社員寮・住宅手当・住宅ローン等々、家族福祉、公的福祉、そして自分自身からの排除を受けてたどり着くのは唯一頼ることができる生活保護の制度。

外界からの衝撃を吸収してくれるクッションの役割である、「溜め」であるお金や頼れる家族を持たない人間は、なんら防護服を着ることなく厳しい野生の世界に放り込まれる。そんな人々が「できることなら自立したいがどうしようもなく・・・」と最後にたどり着くのが生活保護。

それを悪用したり不正受給するものたちのせいで、まったく違う側面ばかりが注目されてしまう現行の生活保護。「需給規定を厳しくすればいい!」「現物支給にすればいい!」などという声が高まれば高まるほど、本来そのシステムを必要とする人たちの姿はより見えなくなっていく。

そういう人たちを「弱い人間だ。自堕落な人間だ」と切り捨てるのは簡単だが、それでは根本的な解決には至らず、根本的に解決していなければ、社会自体がより負担を被り、じわじわと傷を広げていくばかりである。

そこにたどり着いているような人たちが、もっと早くに何かしらの手を打てるような社会にすること。そういう人が貧困に陥ることなく生きることが出来る社会に変えていくこと。親の貧困が連鎖することで子供も同じく貧困に陥るのではなく、どんな状況下でも同等の教育が受けられるようなシステム、努力すれば同じ機会が得られるような社会にしていくこと。

格差だと叫びながらも、他の国の様に貧しければ貧しいなりに楽しい生活ができるような、生活費にもっと幅を持たせることができる多様性を受け入れた社会に変えていくこと。持つものだけが更に富んでいく社会ではなく、月々10万円でも十分に満ち足りた生活ができるような場所を持つ社会にしていくこと。

「下には下がいる」「やりたいヤツはいくらでもいる」「おまえの代わりはいくらでもいる」と現在の地位を維持するためにも高い労働付加価値が要求されるようになり、労務管理・人事考査が厳しくなって、全体の労働条件が切り刻まれた現在の社会を少しでも変え、低収入の人たちも人間らしく生活の営める幅の広い社会の在り方を模索していく必要がある。

どんな人達でも安心して老後を迎えられるような現代に適応した新しい年金制度への移行を進めるなど、縮小社会に向かう今後の日本においては、国が担う役割が非常に大きいと思うが、それと同時に貧困が個人の問題ではなく、社会の問題であり、それは結局のところ自分の問題であるという認識の変換も迫られているのだと実感する一冊。
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目次
/まえがき

第I部
/貧困問題の現場から

第1章
/ある夫婦の暮らし  
/ゲストハウスの新田夫妻
/貧困の中で
/工場派遣で働く
/ネットカフェ暮らし
/生活相談に<もやい>へ
/貧困は自己責任なのか

第2章
/すべり台社会・日本
/1 三層のセーフティネット
/雇用のセーフティネット
/社会保険のセーフティネット
/公的扶助のセーフティネット
/滑り台社会
/日本社会に広がる貧困

/2 皺寄せを受ける人々 
/食うための犯罪
/「愛する母をあやめた」理由
/実家に住みながら飢える
/児童虐待の原因
/親と引き離される子・子と引き離される親
/貧困の世代間連鎖

第3章
/貧困は自己責任なのか
/1 五重の排除
/五重の排除とは
/自分に地震からの排除と自殺
/「福祉が人を殺す時」

/2 自己責任論批判
/奥谷禮子発言
/自己責任論の前庭
/センの貧困論
/「溜め」とは何か
/貧困は自己責任ではない

/3 見えない“溜め”を見る
/見えない貧困
/「今のままでいいんスよ」
/見えない「溜め」を見る
/「溜め」を見ようとしない人たち

/4 貧困問題のスタートラインに
/日本に絶対的貧困はあるか
/品kのんを認めたがらない政府
/貧困問題をスタートラインに

第II部
/「反貧困」の現場から

第4章
/「すべり台社会」に歯止めを

1 「市民活動」「社会領域」の復権を目指す
/セーフティネットの「修繕屋」になる
/最初の「ネットカフェ難民」相談
/大作が打たれるまで
/ホームレスはホームレスではない?
/生活保護制度の下方修正?
/「反貧困」の活動分類

/2 起点としての〈もやい〉 
/「パンドラの箱」を開ける
/人間関係の貧困
/自己責任の内面化
/申請同行と「水際作戦」
/居場所作り
/居場所と「反貧困」
 
第5章
/つながり始めた「反貧困」
1 「貧困ビジネス」に抗して―エム・クルーユニオン
/日雇い派遣で働く
/低賃金・偽装天引き
/貧困から脱却させない「貧困ビジネス」
/労働運動と「反貧困」
/日雇い派遣の構造

2 互助のしくみを作る―反貧困たすけあいネットワーク
/労働と貧困
/自助努力の過剰
/社会保険のセーフティネットに対応する試み

3 動き出した法律家たち
/北九州市への告発状
/大阪・浜松・貝塚
/法律家と「反貧困」
/日弁連人権擁護大会
/個別対応と社会的問題提起

4 ナショナル・ミニマムはどこに?―最低生活費と最低賃金 
/「生活保護基準に関する検討会」
/最低賃金と最低生活費
/最低生活費としての生活保護基準
/知らない・知らされない最低生活費
/検討会と「もう一つの検討会」
/「一年先送り」と今後の課題

終 章
強い社会を目指して
/新田さんの願い
/炭鉱のカナリヤ
/強い社会を
/人々と社会の免疫力
/反貧困のネットワークを
/貧困問題をスタートラインに

/あとがき
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2013年5月7日火曜日

若気の至りとかっこいいと思うこと

昨日の田村先生との話の中で、

なぜ今の若者が海外に行きたいと思わないのか?
なぜ日本よりも進んだ場所で、進んで学問を学んで経験を積みたいと思わないのか?
なぜよりより生活ができる場所があるのかと想像しないのか?

そんな内容が多くでた。
それについて考える。
なぜだろう?

まずはよく言われる言葉の壁。こんなものは真剣に勉強すれば半年ほどでどうにか生活できるレベルに到達し、あとは苦しみながら生活をし、仕事をしていく中でより見につけれるものであるのでなんの言い訳にもならない。

ではその異なる環境に飛び込むことに伴う苦しみ。言葉もそうだが、生活慣習の違う世界での生活は何かとスムースには進まない。しかも日本の様にサービスが過剰に行き届いているところでは、何もしないうちに誰かがやってくれたりしているから、そのギャップといったらとても大きくなってしまう。しかし人間は慣れる生き物であり、常に日本に視線を送り、比較することで時間を過ごさなければ、こんなのは数ヶ月もするうちに慣れてくる。素晴らしきかな人間の本能。

その次に、別に海外に行かなくても、日本に留まりながらそこそこの生活がおくれてしまうという事実。仕事を見つけるといっても、それは済んでいる都市、もしくは近くの大都市と日本という国が世界の全てになってしまう。また日本に居る限り、外国人よりも日本人であるだけで仕事の上でメリットがある。なぜなら日本語が喋れて、読めて、書けて、日本の慣習も分かっているから。

しかしこれもそう長くは続かない。生産労働力が減ってきて、労働も無しに株などの金融資産によって国内の資産の大半を所有しながらも、社会に支えられて貯金に回るだけの年金を給付され続ける大量の高齢者を抱えていくのにも拘らず、消費税を上げるという目先の目標だけを見据え、20年後の国の姿はあっちのけで、その金融資産を所有する人だけが喜ぶ「気」だけの景気を推し進めるアベノミクス。

国際競争力が本当の意味で強化される訳でもなく、世界で戦える人材が育つ訳でもなく、新しい価値観が生み出されるわけでもない問題先延ばしで、貯金の食いつぶし状態。どう考えても寿命を縮めるだけである。そうして訪れる外からと内からのガスのような圧力によって爆発するかの様に起きるであろうパラダイム・シフト。

その時に純粋培養された多様性を許容できない同一染色体を持つかのような人材は、獰猛でしたたかな世界の波にあっという間に飲み込まれることは目に見える。それでもあくまでもお人よしに、世界をテレビの先の世界と捉える人々。そんな中から少しずつでも出てこなければいけない、多様性を発現する若者達。


そんな風に考えると、世間で言われることは本質的な答えになっていない様に思われる。では、何が決定的な原因をなしているのか?

そう思いながら自分が海外に渡ったときのことを考える。別にそれが正しいとか間違っていると言うわけでもないが、何が違っているのかを考える。

そう考えると圧倒的に情報量が少なくて、分からないことが多いからこそ踏み出せる若気の至りが大きくあげられる。今では何か行動を起こそうと思ったときに、まずはネットで調べて見る。そうすれば、前例がいくらでも見れるし、ブログや何やらで良い例から悪い例までいくつでも見つけることができる。そうすれば、どうしてもポジティブなことよりも、ネガティブなことに目が行ってしまう。

通常考える国内での生活を捨てて渡ることで、実はどんな大きな保障を捨てることになるのか?普通20そこそこの若者は、そんなことは考えなくていいはずなのに、ネットという無尽蔵の情報の箱のせいで、若気の至りの一歩を止めてしまう可能性が大きくなったことは否めないのではないだろうか。

そしてもう一つは「かっこいい」と思えることが減ってきたこと。間違いないが、当時の自分は、海外で色んな国の友人と建築を学ぶことが、純粋に「かっこいい」と思っていたし、その後のことやそれ以上のことはまったくといって考えていなかった。恐らくこの「かっこいい」と思う感情が、現代の若者では働き方が違うのだろうと想像する。

小さい頃から無尽蔵の刺激を与えてくれるネットとメディア。外国人や外国の映像や動画も腐るほどにあふれており、クリック一つでいくらでも刺激を得られる。まるで自分がそこに立っているかのように錯覚させるような様々な技術も発達し、色んな場所で色んなものを見ること、色んな人と交流することよりも、もっと個人的、もっと細分化されたことの方が彼らにとっての「かっこいい」の向かう先である可能性。

この二つ、つまりはメディアの問題であるということ。そして教育の問題でもあるということ。このまま放置していくのか、それともまた新しい形で若者達がかっこいいものに後先考えずに若気の至りでつっぱしっていく時代が来るのか。それは新しいメディアと教育にかかっているんだろう。

2013年5月6日月曜日

結局は教育


以前よりETB研究会などでお世話になっている東京工芸大学の田村幸雄先生が、名誉教授を務められる北京交通大学にいらっしゃっているとのことで、せっかくの機会だからということもあり、オフィスの見学にいらしていただいた。

田村先生は、耐風工学という建築における風の研究の世界的権威で、国際風工学会 IAWE(International Association for Wind. Engineering)という世界的組織の会長を務められている、世界でも一線のエンジニアでいらっしゃる。

海外の大学でも客員教授を務められたり、国連や政府関係のプロジェクトにも参加され忙しく世界を飛び回られている様子だが、覚えていてくれて、わざわざ連絡を下さっての今回の訪問。なんともありがたいものである。

交通大学の博士号だという二人の付き添いの中国人学生と一緒に来られ、一時間ほどオフィスで進行中のプロジェクトなどについてご説明させていただく。

その後学生達は先に大学に戻るということで、先生と一緒に近くの中庭のあるレストランでランチをご一緒させていただき、昨日コンペも終了したということで、私も久々ののんびりしたランチを過ごせるということもあり、いろいろとお話を伺わせていただいた。

「教育者は太陽の様に常にさんさんと学生に日を見返り無しに与え続けるくらいの人物で無いといけない。」

そんな言葉を何かの本でかつて読んだが、まさに「こんな先生の下で勉強することのできる学生は幸せだろうな」と思えるお話ばかり。

話は我々のオフィスに世界中から来ているインターンの話から、日本人のインターンが一人もいないこと、それには日本の教育のシステムがそれを許容しないこと、また今の日本では日本国内で全てが完結するようなシステムになっているので、教授の顔色を伺っているのに忙しい学生はとてもではないが外に視線が向かないことや、その教授もまたなんとなく国内でそれらしく振舞っているが、国際舞台で注目されるような実績や論文を残している人物は本当に減ってきてしまい、全体の教育のレベルも随分下がってきてしまっていること。

中国やアメリカの学生は本当に熱心で、ホテルまで質問に追っかけてくるという話から、日本は昔からだが勉強に対して本当に熱心ではなく、学ぶことでスキルアップをして、更に高みの世界に自分を持ち上げるという意欲が無くなって久しいのではという話まで。

日本は効率的などといわれているが、本当はかつてからどの時代でも、どの年代でも、切り取って一個人でみたら決して世界で戦える能力のある国ではなく、ただ膨大な量の残業と戦後の幸運ににも助けられて経済が上昇していっただけであり、砂の上を自転車で漕ぐかのように、一度でも止まったら倒れてしまうという状況を認識しておかなければいけないという話。

日本という国をがんじがらめにしている「システム」。震災でも変わったのは津波に対しての考え方だけであり、あれだけの社会的インパクトを持ってしても、硬直したシステムが更新されることはなく、その奥底に潜む既得権益はしっかりと守られること。

世界の中での自分の立ち位置と世界との距離をしっかり把握し、日々更新される知識と技術の中で緊張感を持って過ごす10年と、システムの中で生活を保障されて、それなりの地位で安穏とする10年。その時間の後に歴然として現れている差。

世界でプロフェッショナルとして立つ上で最も必要なのは個人力であり、職能やスキルを伸ばすべき時間に、社内政治や人間関係など他のことに時間を費やなければいけない現代の日本のシステムでは、その個人力が養われる土壌が無いということ。

それらの全ては教育が変わらないといけないという同じ根っこを持つこと。大学も国も高校も小学校も、全てが教育を変えないといけないという危機感を持つこと。そこから新しい世界で生きていく人間が育っていくこと。

「ほどほど」の厳しさの教育環境の中で、「ほどほど」の内容を教える教授の下で、「ほどほど」の学生生活を送り、「ほどほど」の会社に就職し、「ほどほど」の社会人生活を送っていく。国に期待するのも「ほどほど」で、「ほどほど」の今の暮らしが維持できればいいという考え方。

その惰性で成り立つ時代はとうに終え、日本は労働力という貯金を使い果たしてしまった今、「ほどほど」から先に進む人間を育てていかなければいけないという危機感。そうでなければあっという間に訪れるであろうパラダイム・シフト。

などなど、久しぶりに「この時間が終わってほしくないな」と思えるようなとても有意義なランチタイム。

今の自分にできることは、やりたいとかつて願ったことができているこの場所で、無駄なことに目を向けず、ただ一心に前を向き、手を動かし、頭を働かせ、目を見開いて、どこに行きたいかの目的地を曖昧でも視界の片隅に捕らえながら、緊張感の中で毎日を過ごすこと。

そして、「システム」で守られることで得られる様々な甘い蜜。それは「システム」の中で真面目に生きている限り手に入れることができるであろう、厚生年金や様々な社会保障、そして大企業の福利厚生と安定した収入と安心の老後など。それらを秤にかけても決して見劣りしない生き方ができることが若者の目にも届くようにならないと、この閉塞感というモヤはなかなか晴れないのかと想いを馳せる。

2013年4月25日木曜日

立ち位置


たった1mだけども、その立ち位置が違うと、それから進む道がまったく異なったものになってしまう。

重要なのはその違いを理解していることと、自分の立ち位置を理解すること。

20代。やりたいことや夢を追いかけて、色んな場所に足を運び、色んな人に出会い、色んな挫折を味わいながら学び、次第に自分の能力を研いてゆく。

それと同時に、今まで分からなかったり理解できなかった自分が目指していることが、一体どれだけの知識や経験、能力を必要とするかを理解すること。

やればやるほど、学べば学ぶほど、経験すれば経験するほど、その距離感を実感する。雑誌や本で見ていた憧れていた作品を作るためには、どれほど長い行程を歩いていかなければいけないか。

たった一つの図面を作成するにも、一つの線、一つの曲線、その一つ一つに意味された建材、施工方法、コストなど様々な事柄を理解し、コントロールしつつ、誰かに意図を伝える伝達メディアとして美しい図面を描けること。

社会的存在である建築が、社会の中のルールに従うための法規的要求。その把握とその条件の中でよりよい設計を仕上る能力。

建築家は建てる人ではなく、描く人であるならば、構想したものを如何に建ててくれる人に伝達できるか。そのコミュニケーション能力。

一つ一つの素材が社会で売買される商品としての側面をもつならば、その総体としての建築がどうしても背負ってしまうコストの問題。それを如何に把握し、設計の中でのバランスをとっていくのか。

その中に身をおく時間が長くなればなるほど、自分が知らないこと、できないことの多さに圧倒されつつ、それでもできるのは、一段一段階段を登り、足を前に進め続けるだけである。

その世界に身をおいた時間が少なければ少ないほど、この見えない部分が多くなり、自分の立ち位置も当然つかみづらいものである。それは当然である。

人は皆、目にしたものが世界の全てになってしまう。ということは、自分の立ち位置を相対的に測る到達点までの長さがその行程の全てとなってしまう。その時に、本当に素晴らしいもの、本当に価値のあるもの、世界でもトップのものに触れながら自分の位置を相対化し、その能力を伸ばしていくのが幸せな職能人としての時間の使い方であるだろう。

そうでなく、つまらないものに出会ってその位置を相対化してしまえばしまうほど、簡単に得られる達成感と満足感に酔いしれ、浅はかな能力にも拘らず、自分が一人前だと勘違いすることになる。

そんな訳で、見据える到達点とそこから相対される現在の自分の職能人としての立ち位置について考えをめぐらせる。

その到達点へと辿り着く為には様々な道があるだろう。その道には決して近道などというものは存在しないだろうが、その道のりの困難さは様々である。自分の人生に何を求めるかによってその選ぶ道も違ってくる。楽な道をいくものもいれば、先の見えない厳しい道を選ぶものもいるだろう。

自分自身、設計の能力があまり無いと感じながらそれを受け入れることができず、それとなく流行のものを取り入れつつ、論点をデザインに持ってこないように言葉で濁し、自らのデザイン能力に干渉されることを避けるような緩衝地を設けて世間と接する。

そういう人たちは恐らく本当の意味での自分の意見はないからだろうが、あれやこれやといかにもそこらへんに落ちていそうな言葉を拾い集め、流行の本を読み漁り、必死に理論武装することになる。問題はそこに留まらず、そういう人間が大学などに入り込み、あれやこれやと学生を洗脳するので事態はもっと酷くなる。

本当に良いものを作り続け、本人が何も語らずとも、その建築自体が雄弁に語ってくれる。それが本来あるべき姿であり、それを体験した人々が様々な意味を発見していく。

その自信が無いからこそ、自分を権威の側において何の疑問を受け付けず、「これは評価されるべきものなんですよ」と言わんばかりに世の中に「作品」を発表する。情けないことに、メディアもまたそっち側にべったりなもんで、次々と「いかにも価値のあるもの」として流布されるこれらの作品群。

大きな会社や大きな組織という、日本を支えるシステムの中で自らに対して保障される範囲を大きくとりながら、「世間に対しては社会が変わらないと!」と声を上げながら、自分達はそれでも将来が安泰の年功序列システムが変わることは望まず、その為に職能を磨く時間よりも、そのシステムを安泰させることに心血を注ぐことになる。

そこそこの大学を出て、そこそこの会社に就職し、そこそこの生活を保障される。それが一番安心の時間の過ごし方。その過程でやっぱり人から「凄い」と褒め称える機会があれば、それに越したことは無い。

システムの中に身をおき、システムに守られる。守られ続けることで今度は失うことの恐怖を知る。どんなことがあっても、保障される給料、地位、生活レベル。それが無くなることへの恐怖。

少しだけ立ち位置が違うだけでも、少しだけその線を跨いだところで生きているだけで、何かあった場合には全て自らの責任で生き残っていくことになる。誰も守ってはくれない。大きな病気などしたものなら、あっという間に生活が吹っ飛ぶ。甲冑も着けずに弓矢の飛び交う戦場を駆けるかのように。

その恐怖。そしてその緊張感。

誰もができることなら避けて生きるべきその道。近代国家はその様な不安定な人々をできるだけ少なくすることを目的とし、様々な社会保障を成し遂げてきた。

現行のシステムはその線の向こう側で動いている。良い大学を卒業しても、設計の良し悪しという曖昧模糊な基準で勝負しなくて良い世界。それでいて世間に対して高い地位と大きな保障が得られる官庁へ行くのが一番。

その次は、どれだけやってもデザインというセンスが関わる世界では、その高い学歴だけでは特急切符にはならず、長い下積みと努力をし続けなければいけないということで、デザインで勝負したいと言いながらアトリエ事務所には足を運ばずに、様々言い訳を見つけて自分を納得させる手続きを踏み、エンジニアというどちらかというと時間がそのまま経験に転化され、その経験が能力に適切に反映され、問題と解法、そして解答が比較的一直線に並びやすい世界に足を踏み入れことになる。

組織設計事務所やゼネコンなどの大きな組織の中で大きな保障を得て、何年後の自分の姿をおぼろげに見据えられ、収入面でも安心して生活ができ、人生設計も同級生に劣ることなく計画しながら、アトリエではできないアプローチでデザインに取り組んでいるという風に自らのプライドも満足させる。

システムのど真ん中に位置する組織なだけに、どこかの大学で講師などをするツテも多かったりし、大きな仕事に関わっているという体で学生にも話をし、雑誌社などにも組織のつてなどから執筆する機会も出てくる。

誰かがシステムを保持する役割を持つことは必要である。これは決して悪いことではない。自覚的に自らを手厚い保障の中に身をおきながら、自分の心のどこかに引っかかる部分を残しつつ、それを必死に押さえつけ、あくまでも自分の努力で手に入れた地位だとし、職能を問われるような場局面には足を踏み入れずも、危険を冒しているかのようなそんなジェスチャーをすること。声だけ大きくなりつつも、足元を見るとしっかりとその線の向こうへとは踏み出そうとしない。

社会が成熟すればするほどその線のあっち側で物事は決まり回っていく。しかしその時間が長くなればなるほど、そのシステムは硬直し、前に進む力を失う。その時に必要なのが線のこっち側で何か分からないが、多様性の中で新しいことをやりだしている人々。そのエネルギー。

切れ目のこちら側とそちら側では、似た風景を見ているようでも、その過ごす意味はまったく違うこと。それを忘れずに、自分の立ち位置を再度確認しながら時間を過ごしていこうと心に思う。

2013年4月21日日曜日

リーダーの国民性

かつてパートナーから言われた言葉。

「チームというのは、自分の手が沢山あるのと一緒なんだ。それを如何にスムースに動かしてより効率的に仕事をこなしていくかは、頭となるべき自分たちにかかっているんだ」

様々な国から来ている人間と一緒に仕事をしていると、それぞれの国柄というか、国民性によって適した仕事の役割というのが見えてくる。

その中でも圧倒的に人を使うのがうまいという印象を受けるのが、アメリカ人と中国人。人を使うのがうまいというか、人に指示をすること、チームをまとめて一人では出来ないことを成し遂げていくという、リーダーとしての役割を自然と意識して仕事をする姿勢を感じる。全員が全員という訳ではないが、明らかに何人かの人たちはそういうリーダーとしての役割をこなして成長してきたのだろうと感じずにいられない。

恐らく両国共に、教育システムの中、もしくは育ってくる環境の中で、優秀な人であれば、同い年、同じ地位の中でも、チームとして目的を把握し、各メンバーの特徴や適正を理解し、適切なタイミングでやることを指示をして、締め切りを与えて進み具合をチェックし、全体のバランスをとっていく。そんなことを誰かがやらなければ組織として成り立たないし、それをやれる人間が上に立っていくんだと身体で理解しているかのようである。

そういう意味でいったら日本人はまったくダメだと思わずにいられない。

同じ立場であるのに、でしゃばるように自分が前にでて、指示をして、決断をしていく、ということは、集団の和を乱すことだし、まずなによりも自分にその権利があるなんて誰も言ってくれない。その代わり、上の立場の誰かが「お前がこの集団をまとめていけ」と皆の前で立場の違いをはっきりさせてくれればやりますよ的な態度に留まる。

またその国民性からも来るのだろうが、大きな絵を掲げるよりも、自分の世界をできるだけ閉じて人からの干渉をできるだけ小さくしたなかで、職人の様に細かい仕上げにひたすら神経を研ぎ澄ましその精度を上げていく。言われたことはまじめに、正確に、そして時間通りにやり遂げる。それがどんなに困難であっても、我慢して、ストレスに耐え切って、文句も言わずにやり遂げる。もっと評価されたいと願っても、決して言葉には出さずに、「見てくれている人は見ているはずだ」とどこまでも謙虚。

恐らくドイツ人も同じような傾向をもっており、正確な指示を出してあげるとそれに比例するように正確な仕事をやり、報告をあげてくる。仕事を処理していく段階ではこれほど嬉しい「手」は無いわけである。

それぞれの立ち位置から見える風景は違って、その風景によって見据える目的地も変わってくる訳であり、集団を率いるならば、集団の中にいて同じ風景を見ていては旗を振れない訳であり、少しでも先を見渡せるような高い位置を探して首を伸ばし、どこに行けばいいのかを必死に見つけること。そんなことを訓練をすることなく自然に身につけていく国民性。

誰にどんなことを思われようとも関係ない。自分で考え、その考えをいろんな場所でいろんな人に伝え、相手の話を聞き、意気投合し相手の信頼を勝ち取り仕事に発展させる。自分で手を動かすのではなく、その仕事をやり遂げるチームを組織し、やるべきことを明確にし、チームを動かし、プレッシャーとモチベーションを与えながら、仕事を仕上げさせてそれをお客さんに届ける。

そういう能力はある年齢になった自然に身につくものではなく、生きてくるうえで、成長していく過程で徐々に身体の一部になっていくものであり、大人になって急に「学ぼう」としても本当の意味では身につかないものだと実感する。

国際人や国際化が叫ばれる現代日本だが、国際舞台で仕事をするだけなら、英語や中国語などのツールとプロフェッショナルとしての技能をしっかりと見につけていれば十分に活躍できる人材は多く出てくるだろうが、国際社会の中でリーダーとして突出していくためには、今の日本の社会の中からは相当な突然変異体で無い限り厳しいのもまた事実であり、今度の日本はこの問題をどう解決していくのだろうかと想いを馳せることになる。

2012年12月13日木曜日

レファレンス・レター

10年以上前に、ヨーロッパで建築を学ぶためにと、大学院への応募に必要な推薦状を書いて頂けるようにと恩師にお願いをさせていただいた。

若かりし頃の自分にとっては、その大学院へ入れるかどうかはとても大きな違いをもたらす為に、書いて頂いた推薦状を大切に保管しながらヨーロッパに渡った記憶は今でもハッキリと覚えている。

一年の終わりである12月。

様々な人にとっても区切りであることは間違いなく、これまでとこれからに想いを馳せて、そして準備をする時間でもある。

そんな訳で、オフィスに在籍するスタッフやインターンからレファレンス・レターをお願いされることも多くなるのがこの師走。20代中ごろのアメリカ人スタッフは、30歳になるまでに修士号を取っておきたいので、何とか来年の9月からの大学院に入学したいと、希望校へ提出する推薦状をお願いしてくる。

MITやプリンストンといった建築でも良く名の挙がる大学に加えて、不況の時には高等教育に戻って自らの能力を高める人が増えるので、更に競争率も激しくなっているだろうということで、できるだけ彼の特徴を描き、その大学の教育方針とどういう適合性があるのかを明文化するように心がけ、書き上げたデータをそれぞれの大学院の指定サイトにアップデートする。

フォーマットや一字一句まで気を配るその彼の姿を見ていると、この入学が当時の自分と同じくどれだけ大きな意味を後になって持ってくるのか、そんなことを想像しながら、過ごした時間に想いを馳せながら、希望通りの大学院に入って、思いっきり自分の情熱を向けて学んできてほしいと思わずにはいられない。

2012年8月23日木曜日

インターン文化

インターンシップで我々の事務所に来ている学生が常に10人以上いる。

その国籍はと言うと、今在籍中のインターンだけでも、中国はもちろんのこと、タイ、スペイン、イタリア、レバノン、スウェーデン、香港、アイルランドと多国籍に渡る。

夏休みの期間だけに、毎週の様に新しいインターンとして誰かが入ってきては、3.4ヶ月ほど、事務所で建築設計事務所の生活とはどのようなものか、MADではどのように設計を進めていくのか、を実際に仕事を通して学んでそれぞれの国に帰っていく。

そんな訳で、毎月一度は金曜の夕方からハッピー・アワーと銘打ってオフィス内でビールを飲みながらカジュアルな会を催して、その中で新しく来た所員やインターンが挨拶をし、また去っていく人も同じように挨拶をする。

まだ二十歳そこそこの若さだと思うが、皆恥ずかしがったりしながらも、ちゃんと30人からの人の前でしっかりと英語で挨拶をしていくのを見ると、自分がその年頃にできていたかな?と思わずにいられない。

そんなインターン達を見ていると、来たばかりのときは英語もたどたどしかった子でも、インターンが終わる頃になるとかなり会話も上達してるし、CADや3Dも使えるようになっていく姿を見ると、こういう経験は学校ではなかなかできないだろうと感じ、なによりも、これだけ多国籍の同世代で同じく建築を目指す友人を作って、その後の勉強を続けると言うのは、何にも変えられない経験だろうと思う。

それぞれのプロジェクトに配置されるインターンなので、会話を交わす機会は人によってバラバラになってしまうが、できるだけ様々なステージのプロジェクトを体験できる様に考慮してあげて、何か一つでもいいので、より建築を好きになれるものをここから持ち帰って欲しいと伝える。

インターンにはインターンのコミュニティがあるようで、昼時はインターン同士でテーブルを囲み、その後はインターン同士で散歩に出て行く。そんな姿を目にすると、自分もそんなインターンを経験していたら、また違う道を歩んでいたのかと想像する。

そんなインターン達を見ていても、その中に日本からのインターンの姿が一人もいないことに少しの悲しみを覚える。

大学生時代に、長い人では半年間、違う国に行き建築の実務を学ぶ。

恐らく日本の大学のカリキュラムではそれだけの長い時間を研究室や大学から離れることは、日本の建築村の中での大学という更に小さな村の中ではマイナスの要素でしかないのだろうか。担当教授の覚えよろしくして、常に彼の視界の中に姿を置いておけば、安定した就職先への推薦ももらえやすいだろう。

この不況下で不安定極まりないアトリエ系設計事務所に就職を望む生徒も数少ない中、皆が競って目指す先は安定した大手設計組織。日本の優良企業として一般的な採用活動をするそれらの企業を目指す学生は、必然的な長期に渡る無用ともいえる就職活動を強いられる。その就職戦線から半年近く脱落するのはある意味彼らにとってはドロップアウトを意味するのだろうか。

そしてもう一つの大きな理由は英語という言語の壁。しかし公平にこれからの建築の流れを見ていくと、学生のときにその壁を取っ払ってしまうほうが、よっぽどその後の人生における「就職活動」になるのだと思わずにいられない。

とにもかくにも、なんだか楽しそうなインターン達の中に、当たり前のように日本からの学生がいて、当たり前の様にその学生とも英語か中国語かで会話をしているようになる日が来れば、日本も真の意味での国際化に近づけたということか。

2009年10月26日月曜日

「教育力」 齋藤孝 2007 ★★★

学生相手に建築を教えることが日常として時間を過ごすようになると、出来るだけ多くのことを伝えようと良い本を探し、自分なりに理解した内容や、今まで自ら経験してきた様々なことをできるだけ分かりやすく、それでいて彼らの知的好奇心を刺激できるようにと毎週緊張感を持って生徒に対峙することになる。

しかしある時にそれが、自分がいろんなところで吸収してきた栄養素を大きな巨木が吸い上げていくように、「はい、次は何?」と自分が枯れ果てるまで無限にしゃぶりつくされれてしまうのではないだろうかという恐怖にかられる。

そんな時に「人に何かを教える」とは一体どんなことなのか?と真剣に悩んで手にした一冊。そして読み終えたときに、目から鱗の様な思いを持ち、なんて恥ずかしい考えをしてしまっていたのだろうと猛省させられた。

そんな思いを持つ人間はすぐさま教壇から降りるべきで、教師であるならば、永遠にエネルギーを大地に向かって降り注ぐ太陽の様な明るい存在であるべきで、そこには何からの見返りなどを求めたりはしてはならないということ。エネルギーを取ってくれという人間しか教えるなという。

膝から崩れ落ちるほどのショック。

先生曰く、「教育の根底には憧れを伝染させる力があり、何ものかを目指して飛ぶ、何々がしたい、という願望から学ぶ意欲を掻き立てること」だという。それには教師自身が常に学び続けることが必要であり、学びとはある種の祝祭的瞬間 だという。

小さな頃、全ての授業が好きな本の新しい一ページをめくる様なワクワクした気持ちをもたらしてくれた記憶。夢中だったあの時間の様に生徒にどれだけの影響力をもてるか。専門的力量と人間的魅力をバランスよく運転しながら生徒に対峙する。

「これを知らないと恥ずかしい」という気持ち。それがもたらす更なる向上心と向学心。他人の視線が自己コントロールとして作用する社会性。

「学ぶ」ということをしっかり考えること。闇雲に学ぶよりも、まずは上手い人を「真似る」から始める。では、何が上手いのか?、自分に何が足りてないのか?を分析する。そしてそれらのやるべきことを整理する。その段取り力。スポーツで言う監督やコーチと選手の関係が、教師と生徒でもあるように。

仕事でもそうだが、重要なポイントはメモを取ることが基本。メモができないということは、必要だということが見えていないということ。

「天才」とは上達の達人である。それは意識できるとこまで自分を追い込む。イチロー選手が全てのヒットの理由を言えるように、その準備ができていること。自分が向上する為の段取り力が備わっていること。

全体が見えているということは安心感を与えてくれる。この部屋がどれだけ広いかを知っていると、自分がどこに居たら心地よいかが把握できる。このコースがどれだけ長いかを知らずに走り続けるのは、精神的にもとてもきつい。その為に学び続けること。それは科学的な精神を身に着けること。「失敗」ではなく、「ダメだということが分かったという成功」として次に向かう精神。

世阿弥の 「離見の見(りけんのけん)」の様に、「見所は観客席のことなので客席で見ている観客の目で自分をみよ」ということ。つまり演じる自分とそれを見る自分の二つの時間を同時に生きることの必要性。

こんなにもあっけらかんと、そして圧倒的な知性を持ってなおかつストイックに向上心を忘れない。心臓が脈打つのを終えるときまできっと学ぼうとするのだろうと思えるその姿勢。昨日までの自分の姿勢が恥ずかしくなるのと同時に、すぐにでもアマゾンで紹介された本の大量購入に走らせる一冊。

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本文中で紹介される本や映画など
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谷崎潤一郎「春琴抄」
世阿弥「風姿花伝」「花鏡」
ルース・ベネディクト「菊と刀」
宮沢賢治「学者アラムハラドに見た着物」
中島敦「名人伝」
音楽 吉田秀和
ピーター・アトキンス 「ガリレオの指」
ウェンディ・ベケット「シスター・ウェンディの名画物語―はじめて出会う西洋絵画史」
ファン・エイク「アルノルフィニ夫妻」
イグナシオ・アグェーロ『100人の子供たちが列車を待っている』
リュミエール 『列車の到着』
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■目次
まえがき
序章
教えること、学ぶこと
1教育力の基本とは
2真似る力と段取り力
3研究者性、関係の力、テキストさがし
4試験について考え直す
5見抜く力、見守る力
6文化遺産を継承する力
7応答できる体
8アイデンティティを育てる教育
9ノートの本質、プリントの役割
10呼吸、身体、学ぶ構え
あとがき
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