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2016年11月7日月曜日

フランス学士院(Institut de France) ルイ・ル・ヴォー 1688 ★



フランス学士院(フランスがくしいん,Institut de France)は、フランスの国立アカデミー。と言われてもピンとこないが、つまりフランスで一番権威のある学術団体が入る建物ということらしい。

その威厳を示すように建物は見事な古典主義建築。その設計はヴェルサイユ宮殿を設計したことでも有名な建築家のルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)。ルイ14世時代における筆頭建築家ということから、相当権力に近い場所にいたのだろうが、そのルイ14世の摂政であったマザラン枢機卿(Jules Mazarin)が私費によって大学(Collège des Quatre-Nations)を建設することになり、その設計がこのル・ヴォーに託されたという訳である。

目の前にかかるポンデザールが1804年に完成しているから、それからおよそ80年後にルーヴル宮殿からの軸を受ける立派な建物がセーヌの南に完成したということになる。

では、この建物が建つ前にはここには何が建っていたのかと想像を膨らませる。なぜならたいしたものでないところに、わざわざ当時の国家プロジェクトとも言える橋を架ける事業を行わないだろうし、加えてルーヴル宮殿と向き合うくらいの重要な役割を担わされるのは一体どんな建物が建っていたのか?

と思い調べると、以前はネールの塔(La Tour de Nesle)と呼ばれる、かつてのパリ中心を巡って建てられていた城壁の一部として12世紀に建てられた塔があったという。つまりはこのフランス学士院が建っている場所はかつてのパリの中心から言えば周縁にあたる場所であったということである。

そうなると俄然興味が沸いてきて、パリにおけるアースダイバーの様に今度はパリの古地図を見てみると、なるほど、かつてのパリの中心は現在のシテ島をぐるっと取り囲むようにして城壁で囲われており、この城壁を作ったのがフィリップ・オーギュストであるためにオーギュストの城壁と呼ばれているらしい。

この城壁のほとんどは19世紀のオスマンによるパリ大改造によってほとんど取り壊されて、変わりに近代社会にふさわしい大きな通りへと姿を変えられたが、今でもほんの一部分はまだ見ることが出来るという。そういう歴史の残骸がその意味を失っても姿を残している姿はなんとも言えぬ都市の色気を醸し出すが、次回はぜひともその城壁を巡ってみたいものだと思いながら、やっているはずの写真展への入り口を見つけるために建物の周囲を巡ることにする。

ちなみにセーヌの南のこの地域は6区となり、ここから南に少しいけばサンジェルマン・デ・プレ教会が見えてくるオシャレな雰囲気のエリアとなる。


ネールの塔(La Tour de Nesle)
パリの古地図
パリ6区

ポンデザール(芸術橋,Pont des Arts) 1804 ★★



シテ島を南に渡り、セーヌ川沿いを西に向かっていく。朝のラッシュ時にあわせ、車も人も仕事場へと向かって急いで動いていく姿が、都市の一日のリズムを加速させていくようである。

遥かかなたに頭を雲に隠されたエッフェル塔を見ながらしばらく進むと、左手に半円弧の古典主義であるフランス学士院が見えてくる。その中心軸上にセーヌ川にかかり、向かいのルーヴル宮殿へと繋がるのが、このポンデザール(Pont des Arts)。

1804年にナポレオンの命を受け、初の鋼鉄製の歩道橋として架けられたという。ここで問題なのは、まず歩道橋。つまり馬車や汽車などではなく、純粋に人々が歩いて渡るために架けられたということ。そしてもう一つが鋼鉄製。つまりそれ以前にも石橋や木橋はあったけど、鉄という新しい素材を使い、その特性を表現するように、今までの石や木に比べて格段に「軽い」表情を持った橋が生まれたということ。

都市の中に輸送の手段として大きな川が流れる場合の必然として、両岸を生活の場面から分断してしまうが、それを人類の知恵として橋を架け、つなげることで様々な物流や交流を生み出す。その中で歩行橋として人の移動を主として架けられたということから、19世紀初頭のパリが都市としてどれだけ成熟してきていたかを感じさせる。

それと同時に、「鉄」という近代を象徴する新たなる素材が、様々な研究を積み重ねられ、その耐久性や加工性などを踏まえて今までにできなかったことを土木の世界において実践し始められたということ。こうした鉄に対する技術発展はさまざまな技師によって行われ、それがこれからおよそ100年後、1887年に開始してたった2年という驚異的なスピードで1889年に完成したエッフェル塔の建設へと繋がり、その後様々な建築にも使用され、軽く透明感をもった近代建築が生まれていく流れとなる訳である。

そんな歴史上の重要性よりも、この橋を有名にしたのは、世界中様々な有名観光地の橋で行われる「愛の南京錠」という若いカップルが互いの名前を記して永遠の愛を誓って橋の欄干に取り付けるという儀式。このポンデザールでも2008年ころからその行為が人気となり、あまりの多さに2014年にその大量の南京錠の重さによって一部の欄干が壊れてしまい、そのために南京錠を取り付けられないようにするために、以前の金網を取り外し、現在のガラス板の欄干へとデザインの変更が行われたという。

ちなみに橋の名前がポンデザール(芸術橋) と呼ばれるのは、ルーヴル宮殿がかつて「芸術の宮殿」と呼ばれていたからだといい、観光シーズンには多くの観光客がこの橋を渡り、セーヌ川の北と南を行き来するのだという。

ちなみ北側のルーブル宮殿は1区に属し、南側のフランス学士院は6区となる。すぐ南にはサンジェルマン・デ・プレ教会があり、学生時代によく聴いていたサンジェルマン・デ・プレ・カフェの音楽を思い出しながら、6区を南へと進んでいくことにする。



パリ6区


2015年12月5日土曜日

龍亭公園(龙亭公园,lóng tíng gōng yuán,りゅうていこうえん) 1692 ★★★



宋都御街を北に抜けると大きな湖が広がる風景に出くわす。これがこの開封の北側を形作る二つの湖、杨家湖と潘家湖という二つの湖である、その真ん中の橋でつながれ、北側に位置するのがこの地に居をおいた歴代王朝の宮殿があった場所であり、その歴代王朝は?と眺めていくと最初は明代の1378年にこの地に周王府が建てられ、その後清の時代の1692年にここに万寿亭が作られ後に名称も「龍亭」と改められたという。

南から二つの湖にはさまれた南北に伸びる直線の橋である玉帯橋を渡り切ると見えてくるのがこの龍亭。そしてその前に聳える巨大な石階段。なんでも高さが13mで全部で72段の階段だという。これだけ長い直線の階段を見るとやはり東京の愛宕神社の「出世の石段」を思い出してしまう。あちらは86段だというから、この龍亭のほうがやや短いということだが、山を頂上に位置する愛宕神社に対してこちらは純粋な人工の建造物。周囲に視界を防ぐものが無いだけにその姿はむしろマヤの神殿を思い出させる。

1日移動を続け、歩き続けた挙句にこの長い直線の石畳を歩いてきたのこの気の遠くなるような石階段。せめて夕陽を浴びて輝くこの開封の街の姿を上から眺めおろし、かつて「東京」と呼ばれたこの街に想いを馳せようと心に鞭打って階段を一段一段と上っていくことにする。

頂上に立ち南を振り返ると眼下には汗をかきながら上った石階段とその先にまっすぐと伸びる橋。穏やかな水面の向こうにかすむ街並みの景色はこの石階段を登ってくる価値があるものだと納得。手すりで切り取られた空の風景は恐らく東京と呼ばれた首都として君臨した北宋時代の開封の風景とそれほど変わるものでは無いだろうと想像力をたくましくし、そろそろ日が落ちてきたのを確認して階段を降り宿に向かうことにする。

橋を渡る途中東の空に落ちる太陽が空をなんともいえない美しい色に染め上げ始め、トワイライトの奇跡だとこの瞬間を逃さないようにカメラを構えながら刻一刻と変化するその空の表情を楽しみながら、日常の中では空を見上げる余裕すらない現代人の生活の虚しさに思いを馳せながら歩き回った1日を振り返る。





















2015年1月3日土曜日

ピンとこない西湖十景 

「杭州に行く」と決めてから、色々なサイトで「杭州で何を見るべきか」を調べてみる。そうすると必ず中心となるのがこの西湖。そしてその西湖を語るときに必ずセットして紹介されるのがこの「西湖十景(さいこじゅっけい、Xī Hú Shí Jǐng)」。つまり「西湖周辺の素晴らしき10の風景」ということなのだが、ネットで見ている限りどうもピンと来なかった。

通常ではどこの街に行っても、中心となる歴史地区があり、それを象徴する建物が建っており、そこから幾つかの主要道路が走っていて・・・と街の構成とスケールが何となく理解できるのだか、この西湖十景に関してはどうも掴めないまま現地に到着してしまった。

その理由が、こうして2日間西湖周辺を巡り、実際にそれらの西湖十景を訪れてみて分かった気がする。

それは、「風景」というものの難しさ。

文化の中でも一番高位におかれるという「風景」というものの伝え方の問題である。目に映る世界の中からフレームを美しい絵として切り取る「風景」。それには自分の立ち位置に近いものを見る「近景」から、徐々に距離を持ち出し、建物などを視界に捕らえる「中景」、そしてずっと距離を離して自然の世界を全面に捉える「遠景」から構成される。

「近・中・遠」という距離の問題と、それぞれのスケールに合わせた見るべき対象の問題。この二つが複雑に組み合わされて風景が出来上がる。

そしてその風景を構成するための道具、背景となる自然の山などの起伏、その前にポイントとなる人工物、そして風景の焦点となる建築物など、それらが上手く視界の中に配置されることで美しいバランスを作り出す。

それらを上手く整理しない限り、サイトで簡単に「西湖十景」を説明することは不可能で、それがネットで見ていてもどうも「ピンとこない」ことの正体だと理解し、これを簡易に説明するためには都市的な視点と建築的な視点が同時に必要なのだと妻に熱弁を振るう。

せっかくなので、これから西湖に行く方の参考になればと少し自分なりに纏めてみることにしてみる。

まずは背景となるもともとの西湖周辺の風景を想像してみる。平らに開けた東側は古来より住宅地として利用されていたのが想像される。北、西、東には湖畔まで迫るように美しい山が地形に高さを与える。湖の内部には北側に大きな自然の島である孤山が浮かぶ。

そこに西湖の西で湖を東西に分断する強烈な直線としての蘇堤。
西湖の北に湖をさらに南北に分断する短い直線としての白堤



そして風景の焦点となるタワー。
北の「宝石山」の頂上にそびえる「保俶塔(ほしゅくとう)」
南の「夕照山」の頂上にそびえる「雷峰塔(れいふぉんた)」
南東の「呉山(吴山、ごさん、wú shān)」の頂上にそびえる「城隍閣(じょうこうびょう、chéng huáng miào)」



湖の中心に人口の島である小瀛洲・湖心亭・阮公墩が平面の中に点を作り出す。


直線の蘇堤・白堤にも、船の行き来を可能にするために、石橋がかけられ、植えられた柳の切れ目と少し高く持ち上げられた橋が視線の受け場所として作用する。



これらを踏まえて、再度「西湖十景」を、どこから、何を、「近・中・遠」のどの距離感で切り取る風景なのかを図にしてみると、黄色の遠景、白色の中景、赤色の近景と分類できる。

これらの壮大な風景の創作が、時代を超えて様々な人間の手を経て受け継がれてきたこと、そしてそれを現代も多くの人間が感じ取り、感動する対象としていることに、「風景」の持つ大きな力を感じずにいられない。

2014年12月17日水曜日

ブルジュ・アル・アラブ Burj Al Arab Atkins 1999 ★


恐らく「世界で一番有名なホテル」として名前が挙がるとしたらこのホテルではないだろうかと思われるブルジュ・アル・アラブ(Burj Al Arab)。新興都市ドバイの経済成長のアイコンとして1999年の以降何度もメディアを賑わした7つ星ホテル。

一体何の基準で「7つ星」になるのかと調べてもなかなか明確な基準が出てこないが、まぁ兎にも角にも贅を尽くしたホテルだということであろう。

建物はペルシャ湾に面するビーチから300mほど沖合いに作られた人工島に建ち、そこまではホテル専用の橋によってアプローチをする形になっている。ホテルの高さは328mで、当時としては世界最高の高さを誇るホテルとしても有名になったが、周囲に比較する建物が無いので、それほど高い建物だとは思えないのが不思議である。

「設計は誰だっけ?」と同行人と話していると、「フォスターじゃなかった?」と答えが返ってきたので、「確かにありうるな・・・」と納得したが、その日の夜に食事をした協力会社の代表の人から聞くと、イギリスの組織設計のアトキンス(Atkins)だという。

やっと橋の入口に着くと多くの観光客らしき人たちが写真を撮っている。厭な予感がするなと思っていたら案の定セキュリティと思われる人に止められて、「宿泊客じゃなければここから先は入れない」と言う。「中のバーかレストランでお茶をしたいんだ」というと、「それなら予約が無ければ入れられない」というので、「では、ここで予約をとりたい」というと、「一人ミニマル・チャージが250AED」だという。

「何もかもがお金か・・・」とげんなりするが、ここまで来て内部を見ないのも癪なので、それでよいから予約をとりたいというと、「クレジットカードの番号を控えさせてもらう」と。上階のレストランは予約で一杯だから、空いているのは中華レストランだといわれ、しょうがないのでそこでいいから予約を取ってもらうことに。

待つこと暫く、やっと中と確認が取れたというので、ゲートを開けてもらい、ビーチに寝そべる観光客達を眺めながら、ペルシャ湾の水が以外に青いということに驚きながら、到着するロビーは、中に入ると左右にカラフルな魚たちが泳ぐ大きな壁面水槽の脇にエスカレーターが設置され、中央には段々状になったところに人形と噴水が設置されており、「これほど高級ホテルのロビーでこれだけ品疎な空間か?」といぶかしんで上を見上げると、背の高いアトリウムが北側のガラス面から白い布を通して光を取り入れ、三角形の吹き抜けに面した二面に面する各客室へと光を届けている設計になっているようである。

それにしても内部の設計もそして内装も、とても7つ星と銘打つようなクオリティには思えず、ロビーで大声で話しながら記念写真を取っている中国人の客の様に、どこかで見たことのあるデジャブ感は拭えない。

胡散臭さを感じながらエレベーターで上階へ。その先に廊下となっており、中国の地方のホテルに併設されているような安っぽくはあるがうっているものは、ビカビカのアクセサリーという如何にも成金趣味のショップが軒を並べ、その先に小さな受付。そしてその受付の脇からやっと外の海が眺められる構成。

ここまで建築空間としての豊かさは皆無。恐らくロビーや公共空間など、敷地との関係性でどの様な豊かな空間を作り出すのかが目的とされたのではなく、LEEDのプラチナムを取るにはどのような設計が必要かと考えるように、7つ星として認定されるにはどのような設計が必要か、世界の中で贅沢なホテルといわれるためには何が必要か、という視点で設計がされ、全体のないバラバラな局所のみの設計に終始した印象は否めない。

そんな訳で予約したレストランにどの様にたどり着けばいいのかを知るようなサイン計画がされている訳でもなく、建築的にどちらにいけば公共空間があるのかが分かるような明確な空間構成がされている訳でもないので、しょうがなく受付で予約したレストランの名前を告げると、エレベーターで下の階に行けと。

エレベーターホールもなんだかげんなりするような内装で、そこで一緒になった中国人客の話している言葉を聞いていた連れの上海人は、「恐らく福州人だろう」と言う。なるほどと、なんだか納得する。

エレベーターを待つ間に、ホテルのスタッフに「全部で何部屋あるのか?」と聞くと、「部屋じゃなく、全てスイートだ」と答えられ、サービスという概念よりも、ここに泊まるステイタスだけを求めてくるテイストの無い客相手にしているホテルマンらしい対応にまたまたげんなり。

中華レストランに着くと、窓辺の席に通され、「1ドリンクで2ディッシュか、2ドリンクで1ディッシュかを選べ」と言われ、お昼を取ることなく歩きとおしてきたので、喉の渇きを潤すために少々くつろぐことにする。

クライアントからの連絡を待ちながらも携帯の充電が乏しくなってきた連れが、「iPhone5の充電器を貸して欲しい」とリクエストするがそのウエイターは「了解」と言ったっきり全然戻ってこなく、別のスタッフに頼むと携帯をどこかへ持っていってしまい、その後何の報告も無い。こんな感じで様々なところにサービスとして疑問符がつく部分が余りに多く、とてもじゃないがリラックスして雰囲気を楽しむような場所ではないようである。

中国人と思われるスタッフに聞いたところ、今では宿泊客の多くが中国人観光客になっており、それに合わせたレストランなどに仕様を変えているという。

これ以上ここにいても、何かしら得るものは無いだろうとの判断で、そそくさとドリンクと軽食を平らげ、費用対効果をどう考えているのかと思われる金額を支払い外へ。ロビーでタクシーを拾おうとすると、例の高級レクサスタクシーしかないといわれ、「それなら外まで歩いて普通のタクシーを拾うよ」と先ほど歩いた橋を再度歩いていくことにする。

砂漠の中に生まれた蜃気楼のような都市に、世界一のアイコンを何としてでも冠する為に生み出されたキメラの様なホテル。「グランド・ブダペスト・ホテル」の様なホテルマンの愛の感じられるホテルとは対極に位置するホテルであろうと思いながら橋を渡りきる。