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2014年3月23日日曜日

「空中ブランコ」 奥田英朗 2008 ★★★★★


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第131回(2004年度上半期) 直木賞受賞
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目次
/空中ブランコ
/ハリネズミ
/義父のヅラ
/ホットコーナー
/女流作家
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久々に読みながら笑ってしまう小説である。「イン・ザ・プール」に引き続き、精神科医伊良部が心の闇を抱えて相談に来る患者の悩みをいかにも痛快な方法で解決していく物語。

そんな患者と伊良部の対比を通して、現代社会の過剰ぶりを描き出すのが本書の目的なのだろうが、それにしても前回にもまして笑えるようになった伊良部の行動。これだけ笑いで現代の閉塞感を吹っ飛ばしてくれるのなら直木賞受賞も納得の一冊。

「空中ブランコ」では、「飛べない豚はただの豚」と20世紀の名言を思い出させるかのように、サーカスの空中ブランコで上手く飛べなくなってしまったサーカス団員の治療をする伊良部。「何々、サーカス、面白そう」と勝手に見学に行き、着実に他の団員の心をつかみ、空中ブランコの練習を始め、終いには実際のショーに出てしまう伊良部。

誰もが、「これはさすがに常識的に考えて失礼だろ。無理だろう」と線を引いてしまうところが、伊良部にはそのラインが存在しない。とにかく自分の興味だけ。その世間とかけ離れた無垢な姿が周りを引き付けていく。

普通の人なら覚える空中ブランコの恐怖心。しかし伊良部にとっては楽しい部分が勝ってしまうから何の躊躇もなく飛び出していく。「ワールド・ウォー Z」の飛び出すゾンビのようなものである。ある種の線がぶちぎれているとしか思えないその行動。

そしてクライマックス。大勢の観客に見つめられながら飛び出す伊良部。その姿に主人公ですら少し期待をしてしまうほど、「デブは映える」。そして「クルリ」とクビをまわす伊良部。そのまま笑顔で落ちていく。なんともいい。

「ハリネズミ」では尖端恐怖症の男。しかもその男の職業は刃物と渡り合わなければいけないヤクザ。ヤクザの高圧的な言動にも一切動じない伊良部。いつもの当たり前が通用しないその診察の様子に、なぜだか知らないが再度足を向けてしまうヤクザ者。互いに相手には言えない弱みを持った者同士のヤクザの対決に立ち会うことになった伊良部。その様子が目の前に浮かぶようで笑いをこらえながら読み進める。

「義父のヅラ」。やってはいけない。と言われると、逆にやりたくてしょうがなくなってしまうその衝動。誰でも経験があると思われるが、例えば高層ビルのベランダで、下を覗けばくらくらするような高さ。そんな足も竦むような風景でも、頭の中ではベランダの手すりを越えていく自分の姿を想像してしまう。確か若い芸人でも、この症状を押しにしている人がいたようなと思い出しながら読み進める。

それにしても、妻の父であり、勤めている大学病院の会長である医師のカツラを取りたくてしょうがないというのは何とも秀逸な設定。その前段で渋谷にある金王八幡宮の「王」に点をつけて「玉」にしてしまおうと、深夜の歩道橋に二人でペンキを持って集合する中年の男たち。それにしても見事なまでに風景が想像できる表現力である。

「ホットコーナー」では、完全に投げるボールのコントロールを失ってしまったプロ野球選手。サードから一塁にどうやってもまっすぐにいかない。イップスなんていう言葉がはやったが、身体の動きというのは、些細な心の機微に何とも左右されるものか。会話でもそのレベルは明らかになるとプロ野球選手と素人とのキャッチボールを例にだしたのは齋藤先生。そのプロ野球選手もふとしたことで、もう戻ることのできないレベルに一気に落ちてしまうのが現代社会の恐ろしさ。

「女流作家」では、締切に追われながら、自分の求める作品が書けないにも関わらず、世間での人気作家としての地位を守るために必死になっている女性作家。マンネリ化に陥っていることを理解しつつも、それをテクニックだと自分を納得させてはいるものの、治療に訪れた先の精神科医がなぜだか自分も小説を書くと言って送ってくるものが、少々新鮮に映る姿に、プロフェッショナルとしてキャリアを積み、その先で壁に当たった時の心の整え方について思いを馳せる。


今回も見事に面白おかしくではあるが、しっかりと現代に生きる人の息苦しさ。そしてそれがすべて一般常識や世間の見方など、自分が勝手に作り上げた怪物の姿におびえることから来ているのだと、横で赤子のように無邪気に楽しむ伊良部の姿を対比させることで描き出す。「人のフリ見て我がフリ直せ」ではないが、患者と伊良部の姿を見て我々は自らの日常を見つめなおすことになる。


2014年3月20日木曜日

「イン・ザ・プール」 奥田英朗 2002 ★★★

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目次
/イン・ザ・プール
/勃ちっ放し
/コンパニオン
/フレンズ
/いつまでたっても
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NIRVANAのNever Mindを思い起こさせるその表紙から、バリバリのロックな話かと想像していたら、なんとも拍子抜けする精神科医のお話。続編にあたる「空中ブランコ」が直木賞を受賞したということで、恐らくセットで手に取った一冊。なんだか流行りものの軽い感じかと思っていたのでなかなかページを開くことがなかったが、齋藤先生も絶賛とういことで読んでみることにする。

極端だけれども、誰でもその気持ちは理解できなくはないという現代に生きる心の闇を抱えた患者がひょんなことから訪れる精神科。そこに現れるのはけっして医者らしくないデブで気が利かない精神科・伊良部。

本人にとっては一大事なのにもかかわらず、その飄々とした態度と言葉で「あれ、悩んでいたことはなんだったんだろう?」と、その悩みの基盤となっていた一般常識、世間の常識が当たり前でないとそこからぶっ壊そうとする伊良部の態度。

表題にもなっている「イン・ザ・プール」では、プールで泳ぐことが習慣になった編集者が、今後ははまりすぎ、逆に禁断症状となってしまい、泳ぐことができなければ生きていけないようになってしまう。しかし、伊良部は一緒になって泳ぎにはまり、編集者よりもどっぷりとその症状に嵌っていく。

周囲から「あなた、そろそろやばいんじゃない?禁断症状になっているんじゃない?」と心配されて、所謂精神病との狭間にいると意識される編集者は、そんな伊良部の姿を見ると、何が常識かを揺さぶられる。


次の「勃ちっ放し」では、勃起がおさまらなくなってしまった会社員。それはいつでも「いい人」を演じてしまい、自分の感情を外に出さないことが原因だと思い込むが、それでもなかなか自分の性格は変えられない。恐らく現代社会に生きる半分ほどの人は、自分だけ周りに気を使って、なんて損な役回りだと思いながらも、同じように明日も過ごしているのだろうと想像する。

「コンパニオン」ではよりわかりやすく、2流モデルが自意識過剰でファンによるストーカー被害にあっていると妄想が止まらない。その自意識過剰のせいで、周囲の友達もいなくなり、仕事もできなくなっていくが、それはすべて美しすぎる自分への嫉妬からくるものだと思ってしまう。周囲との意思疎通の取れるコミュニケーションが取れないまま大人になってしまった自己意識の肥大した大きな子供。そんな人間が街にあふれる現代社会を見事に描き出す。

「フレンズ」では、携帯でメールをし、友達とSNSをすることが、自分の存在意義、イケている、皆に愛されている自分の居場所だと思って過ごす高校生。中学までは全然イケてなかったので、高校デビューばかりに思い切って明るい自分を演じてみて、CDも誰より先に買ってはカラオケの練習をして皆から注目を集めようとする。自分の望む姿と現実の自分の姿のギャップをうまく消化できない思春期を思い出させるような物語。

「いつまでたっても」では、家を出ると、ガスを止めたか?煙草の火は消してあるか?なんて気になってしまい、家から出られなくなってしまうライターの話。これも誰でも一度はそんな不安症に襲われたことがあるはずで、バスに乗ったとたんに、「あれ・・・?」と窓を閉めたか不安になったりするものである。


世間の常識に囚われず、また一般の会社に勤めることで「立派な会社員」として振る舞うことを強いられることのない伊良部。その強みは、実家でもあるがゆくゆくは自分の病院をバックグラウンドにはしているが、精神科医として確かな職業的能力を持ち、誰がなんといっても、間違いなくその道のプロフェッショナルであり、それで自分の生活をさせることができるという誰にも負けない自信。

それがある限り、誰に何を言われても、誰が何を思おうとも、不安になったり、委縮する必要がない。登場する患者は、「こうでなければいけない」、「みんなからこう見られない」という意識が高じて、自分で自分の病気を作り出してしまっている。

日本の建築界で誰もが公の場で、「あいつの作品は酷い。見れたもんじゃない」と非難しないのは、やはりどこかでつながっており、それが自分の利益につながることもあるかという思惑が見え隠れするからであろう。それが一度日本を自らのマーケットとして見なくても、十分に自分の生活を支えることができるようになった時に、より自由に発言ができるようになるというものである。

そんな閉塞感が漂うことすら変な世の中であるが、伊良部から学ぶことは、何よりも自分の職業的能力を高め、それにより自らのマーケットを開拓し、生きていける人間は、どんな時代にもやはり強く朗らかに生きていけるということであろう。