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2014年6月3日火曜日

「ドミノ」 恩田陸 2004 ★

貫井徳郎による「乱反射」を思い出させる群像劇。

一見無関係な人々が、些細なことで繋がって、ある事件の一点に収束していくその求心力。無関係な人々がそれぞれが主役として自らの日常を生きている大都市で生活をしていたら、何かのきっかけで横をすれ違うまったく接点のなかった人たちが巻き込まれていく物語を書きたくなる衝動はなんとなく理解できる気がする。

それが都市の魅力でもあるから。まったく接点を持たない人と、ある日突然関係を持つことになる可能性があること。それが良い関係も悪い関係もあるのが都市。

だからこそ多くの作家がこの群像劇に引かれ、それを題材として自らの想像力を駆使し、今まで誰も描かなかった収束点、個として散らばっていた点をつなげ、物語の中に徐々に線を引いていき、最後には広大な面を展開してみたい。その欲求は非常に理解できる。

しかし、群像を関係づけて、バラバラに見ていた事象を物語として昇華させる。その点が主題になってしまい、決して強い物語の背景がある訳ではなく、作家としてテクニックを競う舞台となってしまうのがこの群像劇の難しさ。

そしてこの一作もまた、これだけ多く関係性の無い登場人物を、最初から最後まで頭の中で理解し、使い分けで読み進めろと読者に共用するのはあまりにも自分勝手な振る舞いなのではと思わずにいられない。

そりゃ自分はそのアイデアに興奮し、妄想し、何ヶ月もかけて登場人物を作り上げ、それぞれを結ぶ線を作り出し、徐々にそれらの線を編みこんで面にしていく作業を繰り返しているからこそ、各登場人物を把握することが可能だが、それを真っ白なところからいきなり理解してついて来いというスタンスはやはり好きにはなれないと理解する一作である。

2014年4月24日木曜日

「ジェノサイド」 高野和明 2011 ★★★★

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第145回直木三十五賞候補
第33回吉川英治文学新人賞候補
第2回山田風太郎賞受賞
第65回日本推理作家協会賞受賞
このミステリーがすごい(2012年)1位
週刊文春ミステリー・ベスト10(2011年)1位
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ネット上ではいろいろと賛否はあるようであるが、それでもやはり近年稀に見る大ヒットした小説であり、いたるところでその宣伝を見ることになった話題の一冊。

日本、アメリカ、コンゴ、南アフリカ、そして太平洋と様々な場所で起こる一連の事件。様々な関係者が徐々に一つの点に収束していくスピード感。

日本で進行する新薬の開発と、アフリカで進行する進化した人類ヌースの確保。

圧倒的な知性を持った一人の超人類が人類最強の国家であるアメリカをいとも簡単に手玉に取ってしまう。複雑な事象を理解するということはこんなことができるということかと目から鱗の展開を何度も描き出す。

地球上に存在する他の動物を見ていても、そこは人類がその知性のお陰で逆肉教職のピラミッドの頂点に君臨するという安心感を後ろに抱えている。

それがある一人の超人類の誕生により一気に崩壊する恐怖。どんなに手を尽くしても圧倒的にかなうことの無い他者。そしてその他者が人類になんら自愛を感じることが無かったと想像したときの恐怖。

まるで皮膚に纏わりつく蚊を何の思いも感じずに叩き殺す自分の姿の様に。姿は似ているが、その本質はまったく違う。そんなコペルニクス的転換を迫られながら様々な判断を下していく登場人物。

そこにあるのは個人でありながら、共通な人類という意識。様々な批判はあると知りながらもそれでもやはりこれだけの世界観とそれを成立させる細やかなディテールの作りこみはやはり並大抵の作家ではないと思わされる一冊である。



2013年10月20日日曜日

「夜は短し歩けよ乙女」 森見登美彦 角川文庫 2008 ★★

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第20回(2007年)山本周五郎賞受賞・2007年本屋大賞2位
第137回(2007年上期)直木賞候補
第3回(2010)大学読書人大賞
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「命短し恋せよ乙女 紅き唇 褪せぬ間に 
赤き血潮の冷えぬ間に 明日の月日の無ひものを」

黒沢明の「生きる」の中で、主人公が歌うシーンが印象的なこの歌。
佐川満男の「ゴンドラの唄」の一節である。

何ともゴロの良いその歌にインスピレーションの源泉があるのがいやがおうにも感じられるタイトルから、如何にも昭和の匂いが漂ってくるような物語を想像する。

その中心にあるのは、「乙女」と「夜」。

太陽の光に晒されて、見せたくないものまでも見えてしまう昼間の世界。その世界が反転し、闇の中に潜り始め、艶かしい月の光に照らされて、全てを見ることができなくなる事で、想像力をより刺激しだす夜の世界。その世界では「乙女」がより妖艶に映りだす。

そんな「夜」をいまでに持ち合わせている街が、蛍光灯で隅の隅まで照らされた現代日本の中で一体どこに存在するだろう?

その答えは恐らく片手の指で折れるくらいの数になるだろう。そしてその筆頭に挙げられるのが「京都」。高瀬川の流れに沿った石畳の街路はかつての古都のスケール感は、まるで行きかう女性を平安の世からタイムスリップしてきたかのように照らし出す。狭い街路の上を見上げれば、怨霊達が飛び交い、その後ろからは陰陽師たちが印を切りながら飛んでいく。幕末の志士が走り去り、叡山から坊主達で駆け下りてくる。毎晩夜の闇に紛れて、街のあちこちで歴史の亡霊が顔を出す。そんな夜の街。

京大出身というだけあって、非常に細やかさ街の描写がされている。恐らく長らく京都に居を構えた人間でなければなかなか出来ないような断片的な街の描写。決して俯瞰的で、地図を上から眺めたような描写ではなく、スポットごとの断片をつなげていく事で街を浮かび上がらせようとする。

夜の闇にファンタジーを織り交ぜようとする為に、その舞台となる街はより正確であるべきだということなのだろうが、たまにグルグル巻き上げられたり、プカプカ浮かび上がっていく視線から街をどうとらえるのか?そこにも一つ何か欲しかった気がしてならない。

どうもその語り口調と断片化の手法、そしてファンタジーの織り交ぜ方が「パプリカ」を思い起こしてしまうなと、最後までその思いを払拭できずに読み終えてしまい、なんとも消化不良となった一冊。

2013年8月25日日曜日

「オリンピックの身代金 上・下」 奥田英朗 2011 ★★

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第43回(2009年) 吉川英治文学賞受賞
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夜、家に帰ろうと駐車場から自転車に乗り込んでオフィスの前を曲がって胡同に入っていく。東京の様に夜も昼間の様な明るさを持つ街ではない北京の更に毛細血管の様な胡同の中は夜になればすっかり闇に包まれる。

そして最初の角を曲がるところで、暗闇の中にうずくまり、道に面した扉を開けばすぐにベッドが置いてあるという、なんともシンプルな家の中から伸ばされたホースの口を側溝のグレーチングに向けて、流れ出る水を使って気持ち良さそうに豪快に歯を磨いているおじさんがいる。もちろん上半身は裸。

周りを気にする様子も無く、あかたもここで歯を磨くのが、朝に太陽が昇ってくるのと同じくらい当たり前かの様にゴシゴシと音が聞こえてくるくらいに磨いている。恐らく日が昇るのと同じくして目を覚まし、この胡同内部なのか外なのかは分からないが、肉体労働と呼ばれる仕事場で身体を動かし、家に戻って夕食を食べ、日が沈んだこの時間には当たり前の様に一日を終えようとしているのだろうと勝手に想像する。

日が沈んで暗くなったら寝る。21世紀のメトロポリスとなった北京のど真ん中に置いてもその当たり前は変わらない。とてもシンプル。恐らくそういう生活なのだろう。起きて、働き、食べて、身体を動かし、一日を終えるために寝る。まさに人夫(にんぷ)と呼ばれる力仕事に従事する労働者。

プロレタリアと呼ばれることも意識せずに、不満はありながらもそれなりに楽しく一日を終えていくのだろうと勝手に想像する。マルクス主義に煽られるようなブルジョワジーとの争いを経ることなく開催された2008年の北京オリンピック。恐らく東京の時とは比べ物にならないほどの人海戦術で整備が進められ、遅れてきた大国はここぞとばかりに近代化を一気に進め国際社会の表舞台へと進み出る。

スポットライトが強烈であればあるほど、床に描かれる影もまた漆黒の闇の様に深く、多くの人夫達の献身の上にその虚構が積み上げられたのだろうというのは想像に難くない。オリンピックと言う舞台が、その時の主人公である国が何を目標に掲げているのかを照らし出す。国民が同じ夢を持つことがまだ可能かの様に「同一个世界同一个梦想」と掲げられたスローガン。

「一つの世界、一つの夢」

2020年のオリンピックが二回目の東京に決まりそうなそんな時期に、東京中が埃にまみれながらも、戦時中とは違った意味での「お国の為に」という国民共通の夢の中で時間が進んでいた時期の話を読む。

50年前の1964年の東京オリンピックは、戦後から復興を遂げ、国際社会に復帰する宣言の様に行われ、持てる才能を適材適所に登用しながら、東京を世界の大都市へと変貌させた国家事業。

オリンピックという、国家が大手を振って税金を湯水の様に投下できる大義名分。その流れ落ちる金の先には、数多の利権に群がる企業群。オリンピックと言う一ヶ月の祭典の為に、それまでの何年にも渡って麻薬の様にある種の思考停止に陥りながら、近代以前には決して行われることの無かった都市改造を可能にする。

その光のど真ん中に立つ東京。それは同時に、東京と地方との格差を拡大する。と同時に、東京の中でも上部構造に所属する人間が享受する利益に対し、それを支える下部構造に所属する労働者との格差を助長することにもなる。

そんな成長する国家の中での摩擦に、労働階級の兄の死を契機に葛藤しだす主人公。その怒りの矛先は、シンボルとなるオリンピック開会式。

犯人も分かっていて、手口も明らかにされている。その為に最初は「何を読まされているのだろう?」と訝しみながら読みすすむ。時間が前後するので、筋を掴みながらついて行きのに苦労するが、「もう犯人は分かってるんだろう?どうやって最終的な犯行に及ぶかをドキドキさせながら引っ張るのか?」なんて心配してしまうが、そこはさすがベストセラー作家の腕の見せ所。結局飽きることなく、その上犯罪者である主人公に感情移入までさせられながら最後まで読みきってしまう一冊。

さぁ、次のオリンピックに向けて、東京にはどんな光と影が現れるのだろうか楽しみだ。

2012年12月19日水曜日

「エクサバイト」 服部真澄 2011 ★★★★

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目次
プロローグ 2033年
第1章 2025年
第2章 2025年
第3章 2031年
第4章 2119年
解説 池上彰
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今年度読んだ中でも強烈な印象を残した一冊に選べる一冊。

エクサバイトはデータの量やコンピュータの記憶装置の大きさを表す単位。 EBと略記される。

キロ
メガ
ギガ
テラ
ペタ
エクサ
ゼタ
ヨタ

多くのデータを扱う建築設計という世界に身をおいていても今はテラの時代。10数年前、学生時代にメガバイト時代に増えるデータ容量と、バックアップのためのHDの費用とで四苦八苦していたのが嘘の様に、ギガを超えて既にテラの時代。

もちろんオプティマイゼーションが日常業務の一つとなるのと同時に、来年はひょっとして「ペタ」と口にしているかもしれないと思わずにいられない。

かつては印刷した写真をアルバムに入れていたのがいつのことか懐かしいように、今では日常の中で写真は撮り放題で、見返すかも分からないがとにかくデータとして保存する。それどころか静止画のコマ送りである動画までデータとして保存し、個人がストックする記憶のデータは加速度的に増えていく。

現代の日常においても、「あの時みたあの建物のあの扉のディテール良かった気がするな・・・」と記憶の片隅に残っているイメージを元にして、「あそこに行ったのは何年だったっけ。何月くらいだったから・・・」とフォルダーを掘り起こし、該当する日付の写真を見つけ出す。

もしくは、保存する時にうまい事フォルダー名をつけておいたならば、「建築家の名前、建物の名前、都市の名前」など「タグ」から該当写真を見つけることが出来る。

では、今後この流れはどうなっていくだろうか?

そんな刺激的な問いに自分が知る中では一番現実性を持ち、かつ想像力豊かに答えたのがこの作品。

時は2033年。「ヴェジブル・ユニット」とよばれる極限まで小型化されたカメラを両目の間に埋め込んだ人類は、その15テラバイトのメモリ容量に支えられ、自らが見聞きしたものすべてを一生にわたって記憶し続けける。

「あなたの見てきたことが、映像となって残ります。生涯の記憶、見える日記、見える自伝」

そんな広告に誘われるように、様々な人が「ヴェジブル・ユニット」を装着し、人類の生きた映像データを増加させていく。

そうなると、そのデータを集めて、より多視点の記憶。総体的な記憶を構築しようと試みるものが現れる。まさに現代で言えばグーグルのようなIT巨人。同時間に生きるさまざまな人の見たもの、記憶をトラックできれば、例えばある殺人事件が起こったときに、その時にどういう状況だったのか?当該者達が過去にどのような問題を抱えていたのか?それがどのように発展して事件が発生したのか?などという、「マイノリティ・リポート」に近いことが可能になる。

そしてそれは、次の事件の発生を防ぐ事になる。つまりより多くの人間の記憶を手に入れたものが、より多くの力を手に入れることになる。その時に発生が予想される問題。現代の「グーグル・ストリート」で起こっている問題のより未来版。如何にプライバシーに関する問題をクリアするかまでよく考え込まれており、それがうまく物語りに入り込んでいる。

データが膨大になる時に起こるもう一つの問題。それをどうフィルタリングして、重要なものを選り分けていくか?写真でも何百と言う枚数から重要な一枚を探し出すのはとても大きな労力を使うことになる。しかも「何をポイントとして重要とするか?」というパラメーターが変わってしまえばそのフィルタリングの結果も大きく変わってしまう。

それが今度は一人の人生すべてといえる映像。そしてそのほとんどはなんとも退屈な日常風景。その中からどうやって、その人物の人生を決定付ける重要な瞬間を検索するのか?という「検索」の問題が大きくクローズアップしてくるだろうというのは、流石といえる作者の視線。

何度も何度も映像に表れてくる人物はその記憶の持ち主にとって重要な意味を持つ人物であったに違いない。

というような「タグ」のつけ方。そのタグのプログラミングを行う「検索システムデザイナー」という鋭い視点。移動や冠婚葬祭という人生の大きなターニングポイント。それらを検索し、見たいところだけをすばやく選り分け、頭だしして再生していく。

そんな時代に現れるのは、自分が生きた証を人類の歴史として提供しようとする自尊心をくすぐる巨大なビジネス。歴史に名を残したい普通の人々。通常なら死亡時にデータが消滅するべくセットされているが、本人が望めば百年後に指名した人物に記憶のデータを譲渡することが出来る。それを使って、人類の共通のデータを作って新たなる歴史を編纂しようとする意図。

一人ひとりの一生は何の変哲も無いかもしれない。しかしとある出来事が、世界を動かしているかもしれない。

まさに全人類検索。

なんとも恐ろしいが、実現しないと誰が言えるのだろうか?ではその先に待つのは何だろうか?人類の記憶を手にした一企業が次にあけるパンドラの箱とは?

それこそ歴史の捏造。

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つまり、ものを突き詰めて考えている者だけだよ。一般的には自分の理想像を残したがるからね。個々の人間が記録を美化してしまう。

古代の人間は、現代のような文明の利器や情報手段を持たなかった。けれども、だからといって不幸だったのだろうか?
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過去に何度も行われてきたように、勝者によって都合のよいように塗り替えられる歴史。誰もが懸命に自らの過去を飾り立てようとする。

引用されるのは美術修復や鑑定の技術。進歩した技術は立体画像の修復すら可能にする。しかしそこでも使われるのは修復理論の三原則と呼ばれるブランディの三原則。

1 修復に際して加える処置 その後に見たとき、明確に修復だと確認できるものでなくてはならない。
2 作品の見かけ上の仕上がりを変えてはならない
3 修復処置は容易に元に戻せるものでなくてはならない

修復というのはオリジナルに戻すことではない。あくまでも時間を経た現在の美術品の状態を修復する。

しかし悪意を持ったものが現れ、目の前にある実態を持った作品を偽装するのではなく、その物体をパソコン上に取り込んだスキャンされたデータのほうを加工したらどうなるか。柄は相変わらず偽者。ところがスキャンデータは脚色されたもの。
 
過去や現在をありのまま持ってゆくことはできない。それが現実だ、未来に残された記録データが真なのか偽なのか、誰に確かめることができるというのかね。

何が本物で何が偽者か。その質問すら何を意味するのだろうか。


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病人を献身的に介護するのは、遠隔操作でそれらの位置や角度を調整することができる介護ロボット。家族は病室に足を運ぶ必要が無く、お互いの立体映像を介し言葉を交わし、デリバリー業者によって施設に届けらる花を選ぶような世界。ツールにより距離を一足飛びに縮めていく。

オッジは今日
ドマーニは明日
イエリは昨日

組織を病ませるのは、いつだって個人
一人の野心家の存在が、いつでもすべての無にする

都合の悪いことは忘れ去る、あるいは隠す。そうしなければ、生きてゆけないんだ。人も、組織も。誰にもどうすることのできない定めなのだ。
時と記憶とは相容れないんだ。記憶された事実にこだわりすぎれば、命が危うくなる

ありがたいことに、辛い記憶や苦しい思いでは日ごとに薄らぐ。最愛の肉親を失っても、いつかは涙が涸れる。時折、感情が強く掻き立てられることはあっても。誰しも、苦しい記憶をそのままの形で恒常的に抱え続けてはやりきれない。

心の苦しみは、人をじりじりと死に導いていく。強いストレスは身体を蝕んでいく。激しい憎しみを生み、爆発的なエネルギーとなる。

誰にも、人には知られたくないことがある 万人がごまかし、自分を飾り立てる。

人間の生活は、すべて自己保存につながる行動だ。大部分はエゴの塊なのだ。

幸い記憶では、我々はそれをなかったことにできる。いともやすやすと、人は他人の知らない自分の過去を偽り、飾る。そればかりか、事実を美しい包装紙でくるみ、あたかも一場の夢であったかのように思いなしてしまう。記憶の中で、不意打ちもだまし討ちも英雄の手柄に変わる。自分に関心を持ってくれた何のとりえも無いみすぼらしい女は、歳月の中で薄倖の美女になり、くだらない切手やコインを少しばかり集めただけだったのに、失ったアルバムに備えられていた蒐集品は、どれも選りすぐりの逸品ぞろいだったと思えてくる。昔はそれだけのことができる人間だったのだ、と思い直す。自分には生きる価値があると自身に暗示をかけ、思い込み、あるいはそう振舞う事で初めて、日々、新しく生きてゆくことができる。過去に闇を持たぬ人間など居ないのだ。それでいながら、現実には、皆、そのことをものともせずに生きている・・・
それこそ記憶の効用なのだ。それゆえ・・・真実のみが織り成してきたことなど、この世には存在しなかった。これまでは。絶対にだ。嘘の糸がとめどなく吐かれ、綴られ、なかにほんの数本、真実がごく僅かに混じる、それが我々の織り成してきた世界だ。君達も同じだろう。忘れることができるからこそ、この仕事を続けながら、生き続けられる。そう思わないか。

人間の生活は、ずっと見てゆけば、いずれも似たり寄ったりなのだ。誰もが何より大切にしているのは、自身のイメージの保持だ。滑稽なくらいにね。それも、地位や持っている金の高さに比例して、それらの保持や見栄のためにあくせくして、費やす時間が増えてゆく。死んだ時間が。自分が生まれつき与えられている持ち時間が、何かによって、いつのまにか侵蝕されてゆくんだ。私は、そんな生活はごめんだと思い始めた。君達に、自身の時間はあるのかね?世間対も何も気にせずに、好きなことにかまかけて過ごせる時間が。もし、生きた時間があるのだとしたら、それを心ゆくまで楽しみ、大切にすることだ・・・
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パソコンの進化と共に、人の「記憶と記録」の役割が徐々に意味を変えてきている現代。このまま無意識に技術の進歩に身体を預けていればいったいどんな未来がやってくるのか?その時に我々の「記憶」とは何を意味するのだろうか?

作者が必死に感が抜いた末に人類に慣らした警鐘のような美しい作品。今後の人生で何度も何度もこの本を思い出す瞬間が訪れるだろうと確信しながらページを閉じることにする。