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2014年8月21日木曜日

「サウスバウンド 上・下」 奥田英朗 2005 ★★★★

丁度いい本というのがある。出張や旅行に出かける時に、かならず持っていくのは、ハードカバーの建築の専門書数冊。そしてブックオフなどで買い求めた数冊の新書。それに少々難しいめの文庫数冊。そこにプラスで持っていくのが、読むのに頭を使わなくてすむ娯楽文庫。読んでいてただただ楽しいこれらの本。ほうっておけばどんどん読み進めてしまうので、自分で「今日はここまで」と決めなければいけないタイプの本である。

そんな本の一つとして最近やたらと気にいっているのがこの奥田英朗。「最悪」「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」「オリンピックの身代金」と最近立て続けに読んでいるが、テンポの良さと時代背景を巧く繁栄したストーリー展開、それにテーマごとに良く取材をしてあるのか、破綻をきたさない人物と物語の設定で、「あるある」と共感をしながらサクサクとページを進めてしまうので、仕事で疲れた脳の疲労回復にももってこいと重宝している。

そんな訳で通りがかった恵比寿の古本屋が閉店セールをしている為に立ち寄って手に取ったのがこの一冊。あまりタイトルを気にして読み始めなかったが、読み終えて始めて「サウスバウンド」が「South Bound」であり、つまりは「南行き」を意味していることが良く理解できる。

恐らく休暇で訪れた沖縄、しかも離島で時間を過ごす中で、驚くような忙しなさで一分一秒が進んでいく都会とはまったくかけ離れた時間が流れているこの場所の在り方、空気を物語りにしたいと思い始めたのが最初だったのではと勝手に空想してしまう。

その対極におかれるのが、東京の中でも下町でも山の手でもない場所として描かれる「中野」。ブロードウェイやサンプラザといった名所が日常の中に溶け込んで、そこで幼少時代を過ごす子供の視点で物語りは描かれる。ビルの屋上から銭湯を覗き、自転車で汗をかきながら到着する山手線の内側。そんな決して都会っ子ではないが田舎育ちでもない普通な東京の子供達の姿が描かれる。

そんな二つの風景を繋ぐのは、かつては過激派として名を馳せた父親。その父親と駆け落ちしてずっと寄り添う母親。過去のことはあまり多くを語らないが、いわゆる普通のサラリーマンのお父さんでは無い父は自分の思想に忠実に毎日を生きていく。その父が都会の中と、沖縄の地ではまったく違って子供の目に映るものまた「南行き」の成せる業であろう。

これといって物語の大きな流れが最初から提示されることも無いので、話についていくのがしんどいかと思えばそんなことはなく、ただただ面白い。「子供時代のことをよくこれだけ生き生きと書けるな」と関心してしまうほど、子供時代の気持ちの動きの描写が優れている。

ちょっとしたことが面白かった毎日。執拗に絡んでくる不良など、どうしようもなく不条理なことがあったこと。決して逃げられなず、自分が生きることのできる世界には範囲があったこと。そしてそれは成長と共に、徒歩から自転車、そしてバスや電車と徐々に広がっていったこと。その中でも大人の存在と言うのは圧倒的であったこと。

子供には大人からは決して見えない世界のルールがあり、その中で嫉妬や羨望が絡まりあり、様々な感情に振り回される。暴力という不条理に物を言わせ、無茶な要求を迫る不良。そこからはどうやっても逃げられない無力さ。年上に助けたもらったとしても、「チクッた」として更に執拗な不条理が襲ってくる。そんな終わりの無い世界。

主人公が住んでいるのは、東京の中にポツンと浮かぶ島。それがたまたま中野周辺にあっただけである。あるきっかけで母親の実家があるという四谷に足を運ぶが、そこは自分達とはまったく違ったお金持ちの生活が待っている。距離だけではない心理的な差も含め、そこはまた別の島が漂っている訳である。

そんな主観的な島が幾つも浮かんでいるので現在の東京であり、それを縦断的、横断的に理解し、使いこなし、楽しむのは、この都市に何十年も住みながら、常に色々なところへと足を運ばない限り無理であろうと思えるほどの規模まで成長したのが現代の東京である。

そんな東京に浮かぶ中野の島から、今度は物理的にも島だと実感できる沖縄の西表へと移住する主人公家族。結局子供は親の決断に巻き込まれる形で人生のスタートを切ることになるという、現代の「貧困の連鎖」を思わせるような展開であるが、そこに待っていたのは広大な自然と、助け合い、支えあうことで生活が成り立つ、資本主義が支配する都会の生活とはまったく違った風景。

そんな島に吹き抜ける風や、真っ白なビーチ、好きなことを好きなだけ喋ることができるゆったりとした生活のリズムが十分に伝わってくる文章を読んだ後には、妻に「来年には沖縄の島に行こう」と提案せずにいられなくなる。

それにしても、これだけふり幅のある人生を体験することは、子供の人生にとって大きな財産になるのだろうと想像する。知っているものからしか判断を下せない人間の宿命。ならば当たり前が少しの角度を変えたら当たり前にならないということをどれだけ体験として蓄積しているのか。それを多く持っている人間のほうが恐らく変化の激しいこれからの世の中で強く逞しく生きていくことが出来るのだろうと想像する。

来年に、そんな沖縄のゆったりとした時間と空間を経験していることを願って本を閉じることにする。

2014年6月3日火曜日

不安症

本日から少々長い出張で家を空けることになる。朝早い便の為に夜が明けきらないうちにタクシーを呼んで、大きなトランクとともに出発することになる。

空港までの道すがら、ふと思う。

「あれ、日本の携帯電話入れたかな?」

トランクに入れたバックの中に入れたはずなのだが、車を止めてもらってトランクを開けるのはかなりの手間だが、空港に到着して万が一入れ忘れているのが発覚したらもう取りに戻る時間は無い。どうしよう・・・

などと少々不安になる。確実に先日読んだ奥田英朗の「イン・ザ・プール」の影響が見て取れる。「いつまでたっても」で描かれる、家のガスを止めたか不安でしょうがなくなる主人公。不安症に悩まされて何もできなくなってしまう。

出る前にリストを元に確認作業をしたから持ってきているに間違いないと自分を言い聞かせ、もう一つはたとえもって無くても誰も死ぬことは無いと開き直る。過剰な確認行為の先にまっているのは、更なる不安症に間違いない。ならばいっそ開き直って生きるしかないと自分を言い聞かせて目をつぶることにする。

2014年4月16日水曜日

「最悪」 奥田英朗 2002 ★★★★★

モスクワから戻ってきて、すぐに日本で進めている保育園のプロジェクトの打ち合わせの為に日本に戻る。国境をまたいでの移動は、空港での待ち時間に、飛行機の中で身体を拘束される時間を合わせ、必然的に読書がはかどる時間でもある。

そんな中で読みきったのが、大藪春彦賞や吉川英治文学新人賞など1999年に様々な文学賞で受賞候補に挙げられた奥田英朗の有名作。そのタイトル通り、読んでいても、「なんでそんな風にしてしまうんだ・・・」と心がムカムカするほどの登場人物の判断力の無さや行動内容。まさに「最悪」としか言いようが無い。

最近読むことが多かった、ある数人の主人公にスポットを当てるのではなく、多種多様の人物を平行して追うことにより物語を進行する群像劇ではなく、あくまでも主役は3人なので、読んでいきながら流れをつかみやすい。そして3人の転換も非常にテンポが良い。

一人目の主人公は鉄工所社長の川谷信次郎。鉄工所の社長といっても、「僕達急行 A列車で行こう」の瑛太の様なのんびりした感じでも、池井戸潤の描くような技術に裏打ちされた職人的な側面を描くでもなく、ただ真面目に、そして愚直に仕事に取り組み、家族を少しでも楽にできるようにと休日返上でも単価の低い仕事でもこなしているいいおっさんである。しかし、かつての田畑に囲まれた中に鉄工所があるという風景から、開発がされ周囲にはマンションが立ち並び、地縁で繋がってはいない新規の住民が周辺に住み着くようになる。

彼らは夕方以降や、週末での騒音は出さないようにと一方的に要求を突きつけてくる。それが如何にも外資系のサラリーマンという形で理論武装をして追い詰めていく。そこに近所付き合いや人情なんてものは入り込む余地は無い。

そんな苦情は区役所にも回っていき、お役所仕事として「形だけでも」なにかしらの結果を欲しがる役人から、どうにか約束を確約しようとされてストレスをかけられる。折りしも取引先の懇意にしてもらっている担当者から進められた設備投資の甘い話。その彼から紹介された通常の取引銀行ではない大手の銀行からの融資の話。その話が済むまでは近隣での騒音問題を抱えている会社とは知られる訳にはいかず、なんとか隠し通そうとする信次郎。

冷静に考えれば、自らの身の丈に合っていない設備投資であり、無理な借金をしてまでも行うことではないと分かるはずなのに、他の幾つものストレスが重なり、ある種の思考停止に陥り、とにかく設備投資さえ出来れば全てが解決すると盲目的に信じてしまう状態。その描写がなんとも素晴らしい。

建築事務所なんていう零細企業を行っていると、つくづく人間は属している組織の大きさによって自らの態度を決め、そして相手の組織の大きさによってとる態度を決めているのだと痛感させられる。決してその人の能力や人間性でではなく、あくまでも最終的にその人を守るであろう組織の大きさでである。

小さい、もしくはその人が知らない組織に属していれば、人はとことん攻め入ってこようとする。人が謙虚に下手に出ていけばいくほど、人は漬け込んでくる。何かこちらに非があると思われることを見つければ、これ見よがしに漬け込んでくる。その目的は最終的には金銭となることが多い。

建築設計を行っていても、時に適正価格というものを考えず、ただただ提示された額からどれだけ値引きさせることができるかが、自らの能力だと考えている人に出くわすことになる。恐らくそれらの人が生きてきた人生と言うのは、そういう中で能力が評価される世界だったのだと想像し、さぞやさもしい時間だったのだと思いを馳せる。

本来はその仕事の業務量がどれほどで、その中で専門的能力がどれほど関与し、手間と時間がどれだけ費やされての報酬額かを理解し、また取引をする企業にとって、この仕事でどれだけの利益が出て、企業活動の継続が可能である範囲かに思いを馳せることがいいのであろう。

しかい多くの人は、他の人はその金額を払っても自分だけは値引きをして欲しい。自分だけは恩恵を被ってもいいはずだ。それでもおたくも問題ないでしょう。という態度となる。この空気が強く現われたのは自由主義経済を進めてきた2000年代の後半。デフレの波が世の中を多い、本質を見ることなくただただ値段の問題へと還元されてしまう専門業務。それは何も残らないイナゴの大群の通った後の風景を思い起こさせる。

そんな思いを抱えながら世の中を眺め、なんとか耐え忍んできた身にとっては、信次郎がどうには現状維持の生活からなんとか上昇のスパイラルへと希望を描き、数多の可能性の中のベストなシナリオしか頭の中に思い描けなくなってしまったかが良く分かる。それほど、社会の下で必死に生きている人の姿をよく理解し描いた作品だと思わずにいられない。

二人目の主人公の藤崎みどりはかもめ銀行の銀行員。職場での淡い恋心や上司からのセクハラ、奔放な妹への心配、自分を目当てに通ってくる少し地方気味の老人顧客への対応など、まさに日常の中の些細なことではあるが、本人にとっては非常に大きな問題を抱えながら生きている。

最後の主人公は、チンピラの野村和也。パチスロで生活費を稼ぎ、水商売の女のヒモとなり、ヤクザの友人とトルエンの強盗を繰り返し、そこからヤクザに追われることにあっていく。

それぞれの状況が徐々に徐々に「最悪」の方向へと沸騰していき、あるとき急に沸点に達したかのように事態が動き出す。そしてバラバラだった三人があるところで運命に引き寄せられる。

三人が三人とも、なんで真面目に生きているのに、何で頑張っているのに、それなのにどうして俺だけ、私だけこんなに悪い方向に進んでしまうのか?どうして俺だけこんなに負担が大きいのか?なんで頑張っているのに人生がよくならないのか?という思いにかられながらも坂を落ちていくようにどんどん「最悪」へと嵌っていく。

まさに読んでいて、気持ちのよいものではない。それだけに描写が素晴らしいということである。恐らく日本人の誰もが、主人公の誰かのどこかに自分の日常を写し合せることができるのだろうと想像する。それだけ日本人は真面目で平凡に毎日をこなしている。それなのに、悪い方向へといってしまう。

あっという間に読み切れてしまうスピード感ある良作である。


2014年3月23日日曜日

「空中ブランコ」 奥田英朗 2008 ★★★★★


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第131回(2004年度上半期) 直木賞受賞
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目次
/空中ブランコ
/ハリネズミ
/義父のヅラ
/ホットコーナー
/女流作家
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久々に読みながら笑ってしまう小説である。「イン・ザ・プール」に引き続き、精神科医伊良部が心の闇を抱えて相談に来る患者の悩みをいかにも痛快な方法で解決していく物語。

そんな患者と伊良部の対比を通して、現代社会の過剰ぶりを描き出すのが本書の目的なのだろうが、それにしても前回にもまして笑えるようになった伊良部の行動。これだけ笑いで現代の閉塞感を吹っ飛ばしてくれるのなら直木賞受賞も納得の一冊。

「空中ブランコ」では、「飛べない豚はただの豚」と20世紀の名言を思い出させるかのように、サーカスの空中ブランコで上手く飛べなくなってしまったサーカス団員の治療をする伊良部。「何々、サーカス、面白そう」と勝手に見学に行き、着実に他の団員の心をつかみ、空中ブランコの練習を始め、終いには実際のショーに出てしまう伊良部。

誰もが、「これはさすがに常識的に考えて失礼だろ。無理だろう」と線を引いてしまうところが、伊良部にはそのラインが存在しない。とにかく自分の興味だけ。その世間とかけ離れた無垢な姿が周りを引き付けていく。

普通の人なら覚える空中ブランコの恐怖心。しかし伊良部にとっては楽しい部分が勝ってしまうから何の躊躇もなく飛び出していく。「ワールド・ウォー Z」の飛び出すゾンビのようなものである。ある種の線がぶちぎれているとしか思えないその行動。

そしてクライマックス。大勢の観客に見つめられながら飛び出す伊良部。その姿に主人公ですら少し期待をしてしまうほど、「デブは映える」。そして「クルリ」とクビをまわす伊良部。そのまま笑顔で落ちていく。なんともいい。

「ハリネズミ」では尖端恐怖症の男。しかもその男の職業は刃物と渡り合わなければいけないヤクザ。ヤクザの高圧的な言動にも一切動じない伊良部。いつもの当たり前が通用しないその診察の様子に、なぜだか知らないが再度足を向けてしまうヤクザ者。互いに相手には言えない弱みを持った者同士のヤクザの対決に立ち会うことになった伊良部。その様子が目の前に浮かぶようで笑いをこらえながら読み進める。

「義父のヅラ」。やってはいけない。と言われると、逆にやりたくてしょうがなくなってしまうその衝動。誰でも経験があると思われるが、例えば高層ビルのベランダで、下を覗けばくらくらするような高さ。そんな足も竦むような風景でも、頭の中ではベランダの手すりを越えていく自分の姿を想像してしまう。確か若い芸人でも、この症状を押しにしている人がいたようなと思い出しながら読み進める。

それにしても、妻の父であり、勤めている大学病院の会長である医師のカツラを取りたくてしょうがないというのは何とも秀逸な設定。その前段で渋谷にある金王八幡宮の「王」に点をつけて「玉」にしてしまおうと、深夜の歩道橋に二人でペンキを持って集合する中年の男たち。それにしても見事なまでに風景が想像できる表現力である。

「ホットコーナー」では、完全に投げるボールのコントロールを失ってしまったプロ野球選手。サードから一塁にどうやってもまっすぐにいかない。イップスなんていう言葉がはやったが、身体の動きというのは、些細な心の機微に何とも左右されるものか。会話でもそのレベルは明らかになるとプロ野球選手と素人とのキャッチボールを例にだしたのは齋藤先生。そのプロ野球選手もふとしたことで、もう戻ることのできないレベルに一気に落ちてしまうのが現代社会の恐ろしさ。

「女流作家」では、締切に追われながら、自分の求める作品が書けないにも関わらず、世間での人気作家としての地位を守るために必死になっている女性作家。マンネリ化に陥っていることを理解しつつも、それをテクニックだと自分を納得させてはいるものの、治療に訪れた先の精神科医がなぜだか自分も小説を書くと言って送ってくるものが、少々新鮮に映る姿に、プロフェッショナルとしてキャリアを積み、その先で壁に当たった時の心の整え方について思いを馳せる。


今回も見事に面白おかしくではあるが、しっかりと現代に生きる人の息苦しさ。そしてそれがすべて一般常識や世間の見方など、自分が勝手に作り上げた怪物の姿におびえることから来ているのだと、横で赤子のように無邪気に楽しむ伊良部の姿を対比させることで描き出す。「人のフリ見て我がフリ直せ」ではないが、患者と伊良部の姿を見て我々は自らの日常を見つめなおすことになる。


2014年3月20日木曜日

「イン・ザ・プール」 奥田英朗 2002 ★★★

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目次
/イン・ザ・プール
/勃ちっ放し
/コンパニオン
/フレンズ
/いつまでたっても
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NIRVANAのNever Mindを思い起こさせるその表紙から、バリバリのロックな話かと想像していたら、なんとも拍子抜けする精神科医のお話。続編にあたる「空中ブランコ」が直木賞を受賞したということで、恐らくセットで手に取った一冊。なんだか流行りものの軽い感じかと思っていたのでなかなかページを開くことがなかったが、齋藤先生も絶賛とういことで読んでみることにする。

極端だけれども、誰でもその気持ちは理解できなくはないという現代に生きる心の闇を抱えた患者がひょんなことから訪れる精神科。そこに現れるのはけっして医者らしくないデブで気が利かない精神科・伊良部。

本人にとっては一大事なのにもかかわらず、その飄々とした態度と言葉で「あれ、悩んでいたことはなんだったんだろう?」と、その悩みの基盤となっていた一般常識、世間の常識が当たり前でないとそこからぶっ壊そうとする伊良部の態度。

表題にもなっている「イン・ザ・プール」では、プールで泳ぐことが習慣になった編集者が、今後ははまりすぎ、逆に禁断症状となってしまい、泳ぐことができなければ生きていけないようになってしまう。しかし、伊良部は一緒になって泳ぎにはまり、編集者よりもどっぷりとその症状に嵌っていく。

周囲から「あなた、そろそろやばいんじゃない?禁断症状になっているんじゃない?」と心配されて、所謂精神病との狭間にいると意識される編集者は、そんな伊良部の姿を見ると、何が常識かを揺さぶられる。


次の「勃ちっ放し」では、勃起がおさまらなくなってしまった会社員。それはいつでも「いい人」を演じてしまい、自分の感情を外に出さないことが原因だと思い込むが、それでもなかなか自分の性格は変えられない。恐らく現代社会に生きる半分ほどの人は、自分だけ周りに気を使って、なんて損な役回りだと思いながらも、同じように明日も過ごしているのだろうと想像する。

「コンパニオン」ではよりわかりやすく、2流モデルが自意識過剰でファンによるストーカー被害にあっていると妄想が止まらない。その自意識過剰のせいで、周囲の友達もいなくなり、仕事もできなくなっていくが、それはすべて美しすぎる自分への嫉妬からくるものだと思ってしまう。周囲との意思疎通の取れるコミュニケーションが取れないまま大人になってしまった自己意識の肥大した大きな子供。そんな人間が街にあふれる現代社会を見事に描き出す。

「フレンズ」では、携帯でメールをし、友達とSNSをすることが、自分の存在意義、イケている、皆に愛されている自分の居場所だと思って過ごす高校生。中学までは全然イケてなかったので、高校デビューばかりに思い切って明るい自分を演じてみて、CDも誰より先に買ってはカラオケの練習をして皆から注目を集めようとする。自分の望む姿と現実の自分の姿のギャップをうまく消化できない思春期を思い出させるような物語。

「いつまでたっても」では、家を出ると、ガスを止めたか?煙草の火は消してあるか?なんて気になってしまい、家から出られなくなってしまうライターの話。これも誰でも一度はそんな不安症に襲われたことがあるはずで、バスに乗ったとたんに、「あれ・・・?」と窓を閉めたか不安になったりするものである。


世間の常識に囚われず、また一般の会社に勤めることで「立派な会社員」として振る舞うことを強いられることのない伊良部。その強みは、実家でもあるがゆくゆくは自分の病院をバックグラウンドにはしているが、精神科医として確かな職業的能力を持ち、誰がなんといっても、間違いなくその道のプロフェッショナルであり、それで自分の生活をさせることができるという誰にも負けない自信。

それがある限り、誰に何を言われても、誰が何を思おうとも、不安になったり、委縮する必要がない。登場する患者は、「こうでなければいけない」、「みんなからこう見られない」という意識が高じて、自分で自分の病気を作り出してしまっている。

日本の建築界で誰もが公の場で、「あいつの作品は酷い。見れたもんじゃない」と非難しないのは、やはりどこかでつながっており、それが自分の利益につながることもあるかという思惑が見え隠れするからであろう。それが一度日本を自らのマーケットとして見なくても、十分に自分の生活を支えることができるようになった時に、より自由に発言ができるようになるというものである。

そんな閉塞感が漂うことすら変な世の中であるが、伊良部から学ぶことは、何よりも自分の職業的能力を高め、それにより自らのマーケットを開拓し、生きていける人間は、どんな時代にもやはり強く朗らかに生きていけるということであろう。




2013年8月25日日曜日

「オリンピックの身代金 上・下」 奥田英朗 2011 ★★

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第43回(2009年) 吉川英治文学賞受賞
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夜、家に帰ろうと駐車場から自転車に乗り込んでオフィスの前を曲がって胡同に入っていく。東京の様に夜も昼間の様な明るさを持つ街ではない北京の更に毛細血管の様な胡同の中は夜になればすっかり闇に包まれる。

そして最初の角を曲がるところで、暗闇の中にうずくまり、道に面した扉を開けばすぐにベッドが置いてあるという、なんともシンプルな家の中から伸ばされたホースの口を側溝のグレーチングに向けて、流れ出る水を使って気持ち良さそうに豪快に歯を磨いているおじさんがいる。もちろん上半身は裸。

周りを気にする様子も無く、あかたもここで歯を磨くのが、朝に太陽が昇ってくるのと同じくらい当たり前かの様にゴシゴシと音が聞こえてくるくらいに磨いている。恐らく日が昇るのと同じくして目を覚まし、この胡同内部なのか外なのかは分からないが、肉体労働と呼ばれる仕事場で身体を動かし、家に戻って夕食を食べ、日が沈んだこの時間には当たり前の様に一日を終えようとしているのだろうと勝手に想像する。

日が沈んで暗くなったら寝る。21世紀のメトロポリスとなった北京のど真ん中に置いてもその当たり前は変わらない。とてもシンプル。恐らくそういう生活なのだろう。起きて、働き、食べて、身体を動かし、一日を終えるために寝る。まさに人夫(にんぷ)と呼ばれる力仕事に従事する労働者。

プロレタリアと呼ばれることも意識せずに、不満はありながらもそれなりに楽しく一日を終えていくのだろうと勝手に想像する。マルクス主義に煽られるようなブルジョワジーとの争いを経ることなく開催された2008年の北京オリンピック。恐らく東京の時とは比べ物にならないほどの人海戦術で整備が進められ、遅れてきた大国はここぞとばかりに近代化を一気に進め国際社会の表舞台へと進み出る。

スポットライトが強烈であればあるほど、床に描かれる影もまた漆黒の闇の様に深く、多くの人夫達の献身の上にその虚構が積み上げられたのだろうというのは想像に難くない。オリンピックと言う舞台が、その時の主人公である国が何を目標に掲げているのかを照らし出す。国民が同じ夢を持つことがまだ可能かの様に「同一个世界同一个梦想」と掲げられたスローガン。

「一つの世界、一つの夢」

2020年のオリンピックが二回目の東京に決まりそうなそんな時期に、東京中が埃にまみれながらも、戦時中とは違った意味での「お国の為に」という国民共通の夢の中で時間が進んでいた時期の話を読む。

50年前の1964年の東京オリンピックは、戦後から復興を遂げ、国際社会に復帰する宣言の様に行われ、持てる才能を適材適所に登用しながら、東京を世界の大都市へと変貌させた国家事業。

オリンピックという、国家が大手を振って税金を湯水の様に投下できる大義名分。その流れ落ちる金の先には、数多の利権に群がる企業群。オリンピックと言う一ヶ月の祭典の為に、それまでの何年にも渡って麻薬の様にある種の思考停止に陥りながら、近代以前には決して行われることの無かった都市改造を可能にする。

その光のど真ん中に立つ東京。それは同時に、東京と地方との格差を拡大する。と同時に、東京の中でも上部構造に所属する人間が享受する利益に対し、それを支える下部構造に所属する労働者との格差を助長することにもなる。

そんな成長する国家の中での摩擦に、労働階級の兄の死を契機に葛藤しだす主人公。その怒りの矛先は、シンボルとなるオリンピック開会式。

犯人も分かっていて、手口も明らかにされている。その為に最初は「何を読まされているのだろう?」と訝しみながら読みすすむ。時間が前後するので、筋を掴みながらついて行きのに苦労するが、「もう犯人は分かってるんだろう?どうやって最終的な犯行に及ぶかをドキドキさせながら引っ張るのか?」なんて心配してしまうが、そこはさすがベストセラー作家の腕の見せ所。結局飽きることなく、その上犯罪者である主人公に感情移入までさせられながら最後まで読みきってしまう一冊。

さぁ、次のオリンピックに向けて、東京にはどんな光と影が現れるのだろうか楽しみだ。