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2016年2月16日火曜日

羽島市庁舎 坂倉準三 1958 ★★★


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所在地  岐阜県羽島市竹鼻町55
設計   坂倉準三
竣工   1958
機能   市庁舎
規模   地上3階
構造   RC造
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1960年日本建築学会賞
Docomomo100
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朝一番から気持ちのよい一宮参拝を終えて、向かったのは一宮市から木曽川を渡ったすぐの羽鳥市。木曽川が愛知と岐阜の境界線を描くために、すぐ近くの距離ではあるがこちらは岐阜に属することになる。そのせいか、街並みの雰囲気もかなり変わったなと思いながら到着したのが羽島市庁舎。この土地出身の日本におけるモダニズム建築の立役者である建築家、坂倉準三の設計の建物である。

坂倉準三というと、現在世界遺産に登録が間近に控えている上野の国立西洋美術館。その設計者である、ル・コルビュジェの元に弟子入りした3人の日本人のうちの一人であることでよく知られる建築家であり、コルビュジェの下でモダニズム建築を学び、帰国が日本全国で市庁舎を初め様々な建物を手がけ、それらの建物が日本におけるモダン・ムーブメントの建築としてDocomomo Japanに多く選定されている建築家でもある。

岐阜県羽鳥市で生まれ、東大の文学部美術史学科で学び、その後フランスに渡りパリ工業大学で学ぶ。その流れで、モダニストの旗手であったコルビュジェの事務所に前川國男や吉阪隆正とともに、スタッフとして働きながらその手法を学ぶ。その後日本に帰国し、本格的に建築家としての様々な設計を行っていく。

1937年 パリ万博日本館 (36歳,現存せず) 現地滞在の坂倉によって変更。博覧会の建築競技審査で一等を受賞した。
1941年 飯箸邸 (40歳,現・ドメイヌ・ドゥ・ミクニ、Docomomo Japan)
1949年 大阪スタヂアム (48歳,現存せず)
1951年 神奈川県立近代美術館 鎌倉館本館 (50歳,Docomomo Japan)
     東京日仏学院 (50歳,現・アンスティチュ・フランセ東京)
1953年 岡本太郎邸 (52歳,現・岡本太郎記念館)
1955年 国際文化会館 (54歳,前川國男・吉村順三と共同設計,日本建築学会賞,Docomomo Japan選定)
1959年 羽島市庁舎 (58歳,日本建築学会賞,Docomomo Japan)
     シルクセンター国際貿易観光会館 (54歳,BCS賞)
1962年 呉市庁舎・呉市民会館 (61歳,現存せず)
1963年 羽島市勤労青少年ホーム (62歳)
     佐賀県体育館 (62歳,現・市村記念体育館)
1964年 上野市庁舎 (63歳,現・伊賀市庁舎、南庁舎のみ現存)
     芦屋市民センター 市民会館本館 (63歳)
    ホテル三愛 (63歳,現・札幌パークホテル)
1966年 神奈川県立近代美術館鎌倉館新館 (65歳)
    神奈川県庁新庁舎 (65歳,BCS賞)
    新宿駅西口広場 (65歳,日本建築学会賞,Docomomo Japan)
    名古屋近鉄ビル (65歳)
1967年 小田急電鉄新宿駅西口本屋ビル (66歳,現・小田急百貨店本店)
    岐阜市民会館 (66歳,BCS賞)
    山口県立山口博物館 (66歳)
1968年 羽島市民会館 (67歳)
1969年 芦屋市民センター 市民会館ルナ・ホール
1969年 心筋梗塞のため68歳で没
1970年 大阪万国博覧会電力館 (現存せず)
    奈良近鉄ビル
1971年 宮崎県総合博物館 

キャリアを見ても、生まれ故郷の羽鳥市関連の仕事が多いのが見て取れて、まさに故郷に錦を飾った建築家である。同時に非常に多くの作品が、建築学会賞やDocomomo Japanに選定されており、モダニズムが日本に普及する役割を一身に担った時代を代表する建築家であったのが見て取れる。

そしてこの羽鳥市庁舎はキャリアを20年積み、十分に気力も充実していることに手がけたものであろう。市庁舎としては唯一Docomomo Japanに選定されており、ぜひとも一度訪れてみたかった建物である。

車で待っているという両親と妻を残し、一人駆け足で建物に向かうことにする。道の向かいに立ってみてみると、その独特な構成が良く見て取れる。まずは、現代の多くのホテルに見られるように、エントランスをスロープで二階に持ち上げ、

車寄せとともに二階部分に持ち上げられた玄関に続くスロープを駆け上がるようにして建物にアプローチすると、建物の前に象徴的に立つ構造体にまとわりつくようにして上下する斜路にて玄関を通らずに各階にアプローチして内部機能を利用できるようになっているのが分かる。そのスロープの脇には水平性を強調するデザインに高さを挿入する塔が聳え立つ。これは消防用望楼と呼ばれ、街で火事が発生した際の発生場所を確認する火の見櫓の機能を持つという。50年代という戦後の日本において、都市の防火過程に計画された建物の現代との違いをここにも見て取れる。

つまりは現代においてその機能が必要なくなったこの塔であるが、この塔とスロープに繋がる空中通路にて、市役所で働く人々が喫煙場所として新しい意味を付加している姿を見つけながら、60年近い昔に立てられた建物でも、こうしてしっかりと現代の社会の中で機能を果たしている姿にやはり少なからぬ感動を感じながら斜路を降りていくことにする。



















2015年2月21日土曜日

高知市庁舎 日建設計 1958 ★


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所在地  高知県高知市本町
設計   日建設計
竣工   1958
機能   官庁
構造   RC造
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戦後復興期に各地で立てられた官庁建築。


など、当時の建築設計の流れがコンクリート造を使って地震に強い構造を持ちながらも、日本建築の持っていた何かしらの原理原則をこの新しい構造体に融合しようと言う試み。

そんな流れの中で必然的にこの地に現れたこの高知市庁舎。設計は現在東京にて、2020年に向けて議論の的となっている新国立競技場をザハ・ハディド事務所のローカル事務所として奮闘している大手設計組織。

土曜日と言うこともあり、一部を除いて閉館しているようであるが、建て替え計画が数年前に発表され徐々に機能を移動しているということらしい。

時代の潮流を感じられるようなどっしりとした階段の手すりを眺めながら、ほぼ同じ時期に建てられた倉吉市庁舎では、大雪に見舞われてゆっくり見て回れなかったなと思い出しながら地下の駐車場へと下りて行く。
























2014年2月4日火曜日

米子市公会堂 村野藤吾 1958 ★★



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所在地  鳥取県米子市角盤町
設計   村野藤吾
竣工   1958
機能   公会堂
規模   地上4階、地下1階
構造   RC造一部鉄骨造
延床面積 4,872㎡
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完全に身体が冷え、更に強くなる雪の様子に完全に心が折れ始め、道が走行不能になる前にできるだけ早く宿泊地の皆生温泉に到着できることを祈りながら、振付ける雪道をのろのろと進んでいく。

日本海側を走り、やっと米子市に入った頃に、少しだけ雪の降り方が弱まったので、宿までの途中の住宅地に位置する大神山神社の本社ならいけるのではと甘い考えが頭をもたげ、ナビに住所を入れて車を走らせる。

しかし幹線道路で多くの車が走っているからこそ、轍が出来てなんとか走行できるようになっているが、ほとんど車の往来のない住宅地では道路自体が雪に埋もれてしまって、一歩間違えれば道から脇の田圃に落っこちてしまう。そんな道をなんとか抜けて大神山神社本社に到着するが、Uターンすらままならない道幅が把握できない状況にすっかり気持ちがそげて、車から降りることすら断念し、何とか幹線道路まで引返し宿泊地に向かうことにする。

そんな訳で建築家ならば一度は宿泊してみたいと夢見る戦後モダニズムの傑作である菊竹清訓設計の東光園に泊まるべく、わざわざ米子市中心部から離れたこの皆生温泉に宿を取ったにも関わらず、とてもその建築を楽しめる余裕は無い状態で宿に到着。

通常の建築巡りの旅なら考えられないほど早い夕方の16時にチェックイン。有名なロビー空間を堪能する暇もなく、すっかり冷え切った身体をとにかく温める為にまずは大浴場へと足を運ぶ。

この浴場も菊竹清訓設計だというが、なかなか手の込んだゴツゴツした岩を感じながら一人ゆっくりと冷えた身体を温める。折角だからと寒い外の露天風呂にも足を伸ばし、十分に体温を回復する。新館の部屋で少々休むと気持ちも回復し、明日の天気は更に悪くなるかもしれないので、車で移動できるうちに市内だけでも回ってしまおうと着替えをして再度外に出る。

そして向かったのは市内中心部に位置する米子市公会堂。山陰の文化の殿堂となるべく、当時赤字自治体であった米子市において、「一世帯が毎日一円を貯めて公会堂を」というスローガンの下に、3000万円もの寄付が集まり、総工費1億7600万円で建設されたという。まるでサグラダ・ファミリアを設計さガウディの様な話である。

そしてその設計を担当したのが村野藤吾(むらのとうご)。寄付を集める市民の想いに打たれ、設計費を返上し寄付に回したと言われている。

村野藤吾を抑揚を付けずに発音すると、どうしても最近話題の佐村河内に聞こえてしまうが、そこは音楽つながりということで、この公会堂のデザインを見てみると、実際にロシアに渡り当時のロシア構成主義の建築を多く見て影響を受けてきた村野藤吾らしく、構造を大胆に概観に現す方式がここでも採用されている。

同時に北欧のストックホルムでも古い市庁舎を見学し、その市民に開かれた空間の在り方に、「感銘の極み、只々頭が下がる」を発言したいた建築家だけあり、市民に開かれた場所としての公会堂になるべく設計がなされている。

このプロジェクトを手がける前に訪れた南米で見たグランドピアノとブラジルの教会をイメージしてデザインされたといわれている外観であるが、なんと言っても音楽ホールという客席が段階的に上昇していく形状が、そのまま外形に現われるように使われている点である。

ホールやオペラハウスの設計を行っていると、大人数の観客を受け入れるロビーに背の高い空間を与えてやり、そのロビーが包み込む形で内部のホールが配置されるという形態が現行の多くの建築であるが、そうではなく、突き出すホールの観客席の下に入口を持ってきているのは、音楽ホールという建築的に特殊な機能が持つ形態を、できるだけ外部に正直に現すことでかなり変わったデザインが現われるという意図がある。

こうして配置を行うと、もちろん演技する人たちは建物の裏側からアプローチし、観客は手前側からアプローチするという異なる二つの動線を完全に分離することが出来る。しかし背の高いロビー空間を持たないことで、段上に上がっていく観客席にサイドからアプローチし、段にそって階段をあがって各席に辿りつくようになる。どこにでもあるシネコンの様な動線をイメージしたら分かりやすいだろうか。

そうなると、舞台芸術の一つの醍醐味でもある、幕間の時間にホワイエに出て今までのパフォーマンスを振り返り、そして次の幕への期待を膨らませるという建築的高揚感を最も感じる時間に、全ての人が同じように階段を下りてサイドにある扉に向かわなければいけない。

それに対して背の高いロビーから各フロアに後ろからとサイドからアプローチすることができれば、人の流れも分散でき、なによりも幕間に後ろの背の高いロビー空間にでることでより一層の開放感を与えることが出来る。

これはもちろんホールの収容人数とその規模にもよるが、よれよりも機能が必要とする形態をそのまま外観に表現することを優先させ、その中でどんなことが実現できるかを考えた建築といえるだろう。

建物自身は竣工から50年以上を経ており、耐用年数や耐震強度に問題がある為に存廃を長らく検討されていたが、市の英断により存続が決定され、現在は耐震改修の真っ最中で、もうすぐリニューアル・オープニングを迎えるという。その為に建物の近くには近づくことができず残念であるが、十分に村野藤吾がこの地でどんな公共建築を目指したかは感じることが出来る。

ちなみにこの村野藤吾。1891年生まれの佐賀県唐津市出身。福岡県北九州市で育ち早稲田大学で建築を学ぶ。代表作は以下の通り。

1954年 - 世界平和記念聖堂  (63歳)
1957年 - 読売会館 
1958年 - 新歌舞伎座 
1958年 - 八幡市民会館 
1958年 - 米子市公会堂 (67歳)
1959年 - 横浜市庁舎 
1959年 - 佳水園  (68歳)
1960年 - 都ホテル新館
1963年 - 日本生命日比谷ビル(日生劇場)
1963年 - 梅田換気塔 
1966年 - 千代田生命保険本社ビル (現 目黒区総合庁舎)
1969年 - ルーテル学院大学
1979年 - 都ホテル東京 
1979年 - 八ヶ岳美術館 
1983年 - 谷村美術館  (92歳)

因みにこの公会堂。感性から20年を経た1980年に増築をしており、その増築設計を担当したのもこの村野藤吾という。20年の歳月を隔てて同じ建物を設計するというなんとも珍しい経験は、20年の歳月を隔てる異なったディテールを今に残してくれている。

米子市の駅前から伸びる繁華街でもある角盤町。その入口に立つ山陰の文化の伝統。リニューアルを経て、これからどんな市民に開けた空間を見せてくれるのだろうかと想像しながら日の暮れてきた空を見上げて最後の目的地へと向かうことにする。




2013年10月27日日曜日

北京自然博物館 1958 ★


先週末、スクーターでどこまで行けるのか?をテストした結果、天壇あたりまでなら、なんとか電池が持つことが分かり、これはいいと予てから行こうと思っていた自然博物館と古代建築博物館をマッピングする。

午後からオフィスに出なければいけないので、できるだけ午前中にやる事を済ませ、電池の浪費を控える為に最短ルートを頭に入れていざ出発。

さてこの北京自然博物館。2011年に現在の旧館の南に新しく新館を拡張するというコンペが行われ、我々MAD Architectsも案を提出した経緯があったので、風水都市の南北軸に沿う様にして建つその博物館をいつかゆっくり中を見物しようと思ったいた建築である。

皇帝が天との交信を行う天壇のすぐ隣に位置するなんとも素晴らしい立地。恐らく風水都市・北京を強化する意味でも配置計画がされたに違いないと期待を膨らませてマスク防備しスクーターを飛ばして到着する自然博物館。

横の駐車場にスクーターを停めてチケット売り場に向かうと、書いてあるのは予約がある人はこちらへ」の文字。「何?予約制?」と心配になり聞いてみると、身分照明証があれば当日の予約も可能だという。そういう訳でとなりの3番窓口に並び、こちらの保険証を提示すると引換券を渡してくれる。その券を持って先程の窓口に行くと、チケットらしきものを手渡してくれる。案内には15元と書いてあるので支払おうとすると、「入館は無料で、特別展示だけ有料だけどそれは中で払ってくれ」という。

なんとも分かりにくいシステムだなと思いながらも「それはいい」とゲートを潜って中に向かう。流石に子供を連れた家族の姿が多く見られる。自然博物館といえばナイト・ミュージアムと思ってしまう自分は、入り口には背の高い空間と大きな恐竜の化石を期待してしまうが、なんとも寂しいエントランス空間。

迷わないようにと右回りに巡っていくと早速様々な動物の剥製が壁に飾られ、蝶や昆虫の標本が目に飛び込んでき、少々テンションが上がってしまう。NYで訪れた本物のナイト・ミュージアムは確かに夜中に動き出しそうな迫力とディテールを持っていたが、流石にそれは期待すべくも無いようであるが、ビジュアルだけでもそれなりに楽しめるのが自然博物館。

一番の見所は恐竜パークと呼ばれる3層吹き抜けの展示空間。かつての地球を模した舞台で、等身大の恐竜が首を動かしながら上部で木々の葉っぱを食べている。良く見ると顎の塗装が剥げていたりと粗を探したらきりは無いが、あっちをみてもこっちをみても、恐竜が自らの存在を認識しないように食事に励んでいる姿は迫力満点。

有名なもう一つの見所は敢えて見ることをせずに、地下にいって何とも寂しい水族館のミニチュアを見学し、そこそこ満足をして建物を後にする。それでも無料でこれだけのものが見られれば、子供ができたらまた来てもいいか思える場所であろう。