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2013年9月30日月曜日

「時が滲む朝」 楊逸 2011 ★★

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第139回(2008年度上半期) 芥川賞受賞
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12回9(2003年上半期) ハリガネムシ 吉村萬壱(男性)
130回(2003年下半期) 蛇にピアス 金原ひとみ(女性)
130回(2003年下半期) 蹴りたい背中 綿矢りさ(女性)
131回(2004年上半期) 介護入門 モブ・ノリオ(男性)
132回(2004年下半期) グランド・フィナーレ 阿部和重 (女性)
133回(2005年上半期) 土の中の子供 中村文則(男性)
134回(2005年下半期) 沖で待つ 絲山秋子(女性)
135回(2006年上半期) 八月の路上に捨てる 伊藤たかみ(男性)
136回(2006年下半期) ひとり日和 青山七恵(女性)
137回(2007年上半期) アサッテの人 諏訪哲史(男性)
138回(2007年下半期) 乳と卵 川上未映子(女性)
139回(2008年上半期) 時が滲む朝 楊逸(女性)
140回(2008年下半期) ポトスライムの舟 津村記久子(女性)
141回(2009年上半期) 終の住処 磯崎憲一郎(男性)
142回(2009年下半期) なし
143回(2010年上半期) 乙女の密告 赤染晶子(女性)
144回(2010年下半期) きことわ 朝吹真理子(女性)
144回(2010年下半期) 苦役列車 西村賢太(男性)
145回(2011年上半期) なし 
146回(2011年下半期) 道化師の蝶 円城塔(男性)
146回(2011年下半期) 共喰い 田中慎弥(男性)
147回(2012年上半期) 冥土めぐり 鹿島田真希(女性)
148回(2012年下半期) abさんご 黒田夏子(女性)
149回(2013年上半期) 爪と目 藤野可織(女性)

過去10年、つまり2003年からの芥川賞受賞作家22人のうち、13人が女性作家。半数以上というのはまさに女性の強い時代を代弁するかのようであるが、その中にたった一人外国籍の作家の名前が。それがこの2008年度上半期芥川賞受賞作家である楊逸。

中国語のピンイン表記ではyáng yìとなり、ヤン・イーと呼ぶ。我々夫婦の中国語の先生も同じくハルビン出身で楊さんというので、ハルビンには楊姓が多いのだろうか?と思ってしまう。

中国で生まれ、中国で育ち、大学の途中で日本に渡り、日本語を学び、大学を卒業し、就職をし、そして小説を書き始め、芥川賞まで上り詰める。なんといっても帰国子女などではなく、大人になってから学んだ外国語で物語を綴ることまでに費やした多くの時間と努力に頭が下がる。

青春を中国と日本で過ごし、民主化の動きを高めた天安門事件とその後の経済発展を中国内部からと、中国の外から見た視点で描き、なんと言ってもスポットライトを浴びる有名な民主化活動家ではなく、群集の群れの中でひっそりと燃えるような情熱を心の中にともしていた名も無き学生に焦点を当てて、激動の時代の中国を描きだす。

同じ時代をいきながら、まったく違う時間を過ごす二つの国。その両方に生身で生きた作者だからこそ描けるリアルな視点。そしてその二つを繋ぐ尾崎豊の「I Lover You」。

生の篭った物語を書くためには、社会にどっぷりと根を張って生きる時間を過ごさないとならない。その為には、その社会の共通認識を理解し、自分なりに消化していないといけない。その理解を得るための語学力を身につけるには並大抵の努力では辿りつけない。

今も日々感じるストレスや向き合う困難の多くは、自分が外国人であることから派生する。語彙力を向上させても埋めることの出来ないギャップは、その社会で生まれ育ってこなかったことからくる生身の視点。教科書では決して身につけることの出来ない時代の雰囲気や、社会の常識。それを他言語において、二つの国をこれほどにリアルに描けるというのは、よっぽどの取材力があるか、自らの生きた経験によるものだろうと思わずにいれらない。

主人公の様に、どんな場所にいようとも、どんな仕事をしながら生きようとも、まっすぐに必死に生きている人間には、誰もがこんな自分だけの熱い物語を持って生きているんだと思わせてくれる一冊。

2013年1月17日木曜日

建築とアートの違い


建築という世界に身をおいていると、定期的に向き合うことになる設問。

「建築とアートの違いとは?」

学生などに話をする時にはよく聞く様にしているのだが、これこそ建築の本質をよく現してくれる設問に他ならない。

人によってその答えは違い、その人が何を重要視して建築に取り組んでいるかが良く透けて見えるともいえるが、現在の自分にとっては「クライアントがいるかいないか」にしかないと思われる。

では、それどういう意味だろうか?

建築はあくまでも自分以外の誰かの要望があって作り出す機会を与えられるものであり、つまりはその自分以外の誰かが何を思って、何をイメージして、どんなものを作りたがっているのか?それを知らないといけない。
つまりは建築の存在の前提には、コミュニケーション能力が横たわっているということ。

コミュニケーション力には「語学力」と「コミュニケーション能力」が大きく関与してくるのだが、「語学力」とは一般的に言われるような言語の問題ももちろん含むが、それ以上に大きな枠組みでの「語学力」とする。

ある人が何か建築物を作りたいとして、ある建築家のところにやってくるとする。その誰かが、建築家である自分と同じ言語を介するとはもちろん言えなくなってきたのがこのフラット化した世界。何をどうという機能的なことを理解するための「基本的」な言語能力。英語や中国語が新たなる世界の標準語として成立し始めている現代において、仕事がボーダーレスしていくのを食い止めることができない状況で建築家にも当然その能力は求められてくる。

その上で、多言語を母国語とするその誰かが発した言葉の裏に潜む、文化的慣習まで含んで理解していく意味での「語学力」。これはその地で生まれ育っていない外部からの人間にとっては一番ハードルが高い障害となるのだが、その言語を解する仲間と共に設計をするか、それとも時間をかけて、当地の人間とのコミュニケーションや文献などからの知識によって壁を越えていくしかなくなってくる。

そのような基本的な「語学力」だけではなく、同じ言葉を母国語とする人の間にも存在する言語のギャップ。たとえば、建築を生業としている以上、自分の親のような世代の方からも「先生」と呼んでいただき仕事を行う機会に出くわす。自分よりも遥かに長い時間を生きてきて、自分よりも遥かに良質なモノと空間を体験してきている人たちと、どのような「言語」でコミュニケーションを行うのか?

デザインがどうのとか、形がどうの、性能がどうのとかではなく、それらすべての前提に存在する、違った時間を過ごしてきた人たちとどのように未現在の空間のイメージを共有するインターフェイスを構築できるかの問題としての「語学力」。

80歳のお祖母さんが、冬場の階段の上り下りが膝にきついと言う時、その痛みをその人のものとして理解する能力があるかどうか。

経験してないこと、見たことがないこと。そのギャップをどう埋めるか、その距離をどう縮められるか。

「語学力」というのは、英語や日本語という言語の問題ではなく、その人が長年過ごしてきた時間の中で、自分の中で培ってきた想いが乗せられて発せられたある言葉の意味を、その人が意図した意味として捉えられるかどうか。

その想像力としての「語学力」。

その為に有効な手段として、自らが主人公として数々の世界を、そして時間を体験できる疑似体験として小説を読むこと。文字というものから想像力を駆使し、世界と風景を構築し、自らの身体体験として経験し理解すること。

それと同様に映画という視覚芸術によって、国籍も時間も超えて生活と空間を体験すること、知ること。

そして何よりも、できるだけ自分と異なった年齢、異なった国籍、異なった時間を過ごしてきた人々と交流を持ち、話をし、人間を理解すること。

それをどれだけ積みかさねていくことができるかが、ある建築家が生み出す空間に良い時間を重ねてきた人の肌の様に、どれだけの「皺」が刻まれているかに比例していく。

その時間の積み重ねで養われた「想像力」によって、ある誰かとの会話の中で、その人が何を意味して発しているのか、どんな空間がその欲望を満足させうるのか、それが「コミュニケーション能力」。

「語学力」と「コミュニケーション能力」。その二つがあって初めて設計というスタート地点に立てるのだとやっと分かってきた30代半ば。

今年も出来る限りこの二つの能力を伸ばすことに力を入れようと心に誓うことにし、久々に時間が取れそうな週末に溜まった映画を見ることへの口実とする。