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2013年12月16日月曜日

ジャンプはできない


一年の終わりのこの季節。

一年を振り返ると同時に、「来年の今頃はどうなっているだろうか?」と思いを馳せる。

たった一年で仕事内容や、家庭の状況、生活レベルなどがドラマティックに変化するはずも無く、やはり結局は「今」の積み重ねが来年の「今」となって現れてくるのだろうと思う。「今」の延長線上にあるその先の「今」という訳か。

ホップ・ステップ・ジャンプ

と言うように、なんだか分からないがいきなり今までやってきた事が実り、大きく生活スタイルが変化する。大きな仕事のチャンスを手に入れて、望むように日常を過ごせる。そんな漠然とした夢のような変化が起こるのではと思っていた若かりし頃から、さすがにそんなジャンプはできないものだと理解する30代。できる事はひたひたと「今」を確実に前に進めること。

その先の「今」を見る為に、かつて歩いた「今」を見る。一年前、何を考えていたか。何を行っていたか。その時点よりも、現時点の自分がどれだけ進歩していると感じられるか?成長したと思えるか?何かが変わったか?

一年前の「今」に比べて少しでも心も生活も豊かになったと思えているのなら、少しでも職能人として成長していると思えているのなら、それは積み重ねた「今」を肯定してあげて、その先の「今」に希望を抱くことにして今年を終えることにする。

2013年10月4日金曜日

「「人間らしさ」の構造」 渡部昇一 1977 ★★


50を過ぎても「若手」と呼ばれる建築の世界においては、30代半ばなんていうのはまだまだ青二才で、少しだけ建築の事がわかってきたところという位置づけ。問題は50歳になった時に自分が求める建築がはっきりしていて、それをある程度自分でコントロールできるようになっているということ。

だということは分かってはいるが、それでも「今」を過ごす中で毎日様々な困難に出くわす事になる。その困難が、建築家として、職能人として、自分の能力が足りないために発生する類のもので、つまりは自分の能力を上げることで解決が図れるものであれば、それはチャレンジとなる。

こういう経験がない。あれを知らない。だから今目の前の事が難しく感じる。

そうであれば、それを知る事が職能の向上であり、次に同じことで困難だと感じなくなる事である。

そこでこの困難を解消しようとするかどうか?
自らの能力不足を克服しようとするかどうか?

それは個人の生き方に依るのだろうが、全うな人間であればまずは前に進むであろう。

では、それをどうやって克服するか?

まずは、自分で考え、書物やネットで色々調べて自分なりの解決法を見つける。
もしくはオフィスのシニアに尋ね、どうやるのかを教えてもらう。
または同業の先輩に教えてもらう。

などなど色々あるが、キャリアのそれぞれのステージでその方法論も変わってくる。しかしこうして困難を克服していき続けることは、職能人としての自信に繋がり、次に困難に出会った時にどう対応するかを教えてくれる。

そしてこの自らの「職能的向上」を感じる事は、まさに「生きがい」を感じる生き方であろう。

しかし。

どれだけ多くの人間が、このようなポジティブな困難を抱えて生きているのだろうかと思わずにいられない。恐らくほとんどの人が日常で向き合う困難の多くは、ほぼこの前向きな職能的向上に繋がる困難ではなく、もっとネガティブで、できることなら出遭うことを避けていきたい類の困難であろうと想像する。

そんなことを思いながら今の自分の日常を振り返る。こんな国で、こんな建築事務所で、こんな設計をやっていれば、日常のほとんどは困難で塗り固められるのは当然。その中の多くは、自分が外国人であること。そこから派生する、状況を全て理解する事ができない事から困難。

たった一人で地方都市に出張し、30人を超えるプロジェクトの関係者達が、各々問題点を話し合い、それぞれが自分にとってよい方向で決定をしようとする時に、設計事務所としてなんとかデザインを守る為に、押し寄せる波にあがらいながらも構築的な意見を出さなければいけない。その困難とストレスたるや・・・

恐らく多くの人が、多かれ少なかれ、小さな棘を心に感じながら日常を生きているのだろうと想像する。小さなコミュニティの醜い僻みからくるいじめや嫌がらせ。人間関係からくるストレス。能力のない上司の指示による効率の悪い仕事。何の挑戦も何の面白みもないルーティーン。自らのエゴを満足させるためだけに、他人を貶める人間達。ただただ保身を考え、楽をして生きることを模索する人々。

そういうネガティブな困難が生活の半分を占めだした時、人は考える。

人間らしく生きるとは一体どういうことか? 
自分はどうやって生きればいいのか? 
それとも考える事を辞めてただただ思考停止で日常を生きるか。


恐ろしいほどに困難の多い生活の中で、それでもまた「職能的向上」につながる困難が50%以上を占める生活をしていると、こうして「生きがい」について考えざるを得なくなる。そんな訳で手にした一冊。

講義を纏めたというだけあって、短く分かりやすく要点が纏められているので、読むとしてもテンポがいい。さくさく読み進められて、妻に向かって「今回はなかなか面白いよ昇一」と声をかけながら読み終えてしまう。

ドングリの生きがいとは転がることではなく、芽を出すことであると言うように、「生きがい」とは自分の「内なる声」に耳を澄ませて、その声に従ってやっていくことで静かな幸福を得ていく事だとする。

そうかそうか、と目を閉じて静かに自らの内なる声を聴こうとするが、聞こえてくるのは

「どんぐりころころ どんぶりこお池にはまって さあ大変・・・」。

どうせ転がるならば良い方に転がっていきたいものだと思わずにいられない。


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目次
1 「生きがい論」との出合い
2 適応(アジャストメント)と不適応(マルアジャストメント)
3 性悪説からの脱出
4 性善説の再建
5 機能快(フンクチオンス・ルスト)
6 成長の条件
7 成長を促すものと抑止するもの
8 苦痛と成長
9 「生きがい」ある人の姿
10 生きがいとしての小恍惚
11 小恍惚を得る道
12 新しい職業観の建設
13 「人間らしさ」の構造
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2013年9月21日土曜日

動き出す時間

一週間以上もジムに行かないと、どうも身体のあちこちにポツポツとにきびが出来てくる。明らかに通常の生活では新陳代謝が十分に成されておらず、強制的に汗をかいて内部から押し出してやらないと身体の内部にどんどん不純物が溜まっていく。

それと同じく身体の中に溜まる膿。

足を運んだ場所、そこで目にしたもの、そこで感じた空間。それらについて何かしら外部化していかないとどんどん身体の中で腐っていく。本来なら時間をかけてその場でスケッチを描き、見たものを平面化してみて、そこで新たなる発見として日常に持ち帰る。

それが出来れば一番良いのだが、それほど余裕のある生活を送れるほど何かを成し遂げても居ないので、とにかく修行の身として出来るだけ多くのことを目にし、見たものから興味を得、それを少なくとも知識として仕舞っていく

体内で腐敗を起こさないように、出来るだけ自分の言葉で見たものを纏め、簡単でもいいが体系立てて理解をする。その作業の中で自分化を行っていく。その為にとても役立つのがこのブログとういメディア。

そんな訳でやっとまとめ終えた100を超える寺社の訪問記。別に誰かに頼まれているわけでも、誰かが喜んでくれる訳でもないが、それでも自分なりにしっかりと今をこなして行く為にちゃんと時間を消化する一つの基準。

ただし時間は待ってくれないから、「今」はすぐに「この前」に変わり、なんとか「かつて」になる前に定着しようと試みる。その為に、どんどん「今」から偏差しながら「この前」の「今」を言語化することになる。チクタクと進む時間との闘い。その間もどんどん増えていく「今」が更におざなりになっていく。

「この前」の「今」を消化するために、別の膿が身体に溜まっては本末転倒もいい所で、なんとかドォッと吐き出す様にまとめては、やっと「今」に追いつく。

歪んだ時間のイメージが「カチリ」と動き出す。

それと同時にすっかり「かつて」に属するようになってしまった、本や訪れた建築。ほったらかしにされて、すっかり記憶も陳腐化してしまってはいるが、カレンダーから掘り起こしてはその時のメモを見返して、「今」の言葉ではなく、「その時」の言葉で外部化していく。

再度の読書体験と共に、自分の記憶のあちらこちらで「カチリ」「カチリ」と様々な時間が動き出す。

2013年5月18日土曜日

Hikers' Dinner

友人に誘われて参加するようになった在北京の外国人によるハイキング・サークル

その仲間が持ち寄りでパーティーをやるというので、妻と一緒に参加することに。

先日のハイキングで顔見知りになってメンバーや、以前北京に住んでいて長いことメンバーだったが数年前に国に戻り、中国人の奥さんの出産に合わせて戻ってきているという古いメンバーなど、年齢も国籍もなかなかバラエティに富んでいる。

基本的にハイキング好きのメンバーなので、性格もとても気さくで、誰かが連れてきた犬が部屋の持ち主の犬に発情してしまい、追っかけまわしている姿を笑いながら、お国柄の良く出ている様々な品に手を伸ばす。

ドイツ、ウルグアイ、アルゼンチン、ベルギー、イギリス、フランスなどと、皆流れに流れてこの北京に居るのだろうが、とても「今」を楽しんでいる様子。「先」の為に我慢する「今」ではなく、どこに居ようがその場所の一番の「今」を楽しむように。

ウルグアイの友人は、「来年にはエベレストに挑戦するんだ!」と興奮気味に教えてくれて、なんだかこちらまで一緒に行くような気分にさせてくれる。

なんだか身体の中から暖かくなったような帰り道。日本に居ないことでの制限もあるけれど、こうした変わった友人達との楽しい時間を過ごせるのもまた、この場所でなければ得られないもので、それはそれで良いものじゃないか。なんて話をしながら家路を急ぐ。