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2021年9月22日水曜日

2 Willow Road_Erno Goldfinger エルノ・ゴールドフィンガー_1939 ★★★ ★

 


Erno Goldfinger エルノ・ゴールドフィンガー

印象的だった建築家の自邸を考えていくと、やはりこれは外せないと思うのがゴールドフィンガー(Erno Goldfinger)2 Willow Roadかつて一度スケッチし纏めてみたが、今回改めてじっくりと考えてみることにする。

改めてこの住宅を考えてみると、記憶に残るのは、ダイニングから横長の窓で切り取られた敷地の北に位置するハムステッド・ヒース(Hampstead Heath)への眺望。ピクチャー・フレームとして機能するこの横長窓は、図面をよく見ると、一階にある柱が2階では無くなっているのに気が付く。逆の南側では一階の柱がそのまま2階を貫通し、3階まで到達していることから、構造的にはこの北側の柱もあった方が合理的だったにも関わらず、ダイニングからスタディまでの一続きの空間がこの住宅の中心となる空間であり、そこからこの住宅を決定づけるハムステッド・ヒースへの眺望には風景を三つに切ってしまう2本の柱はどうしても取り除きたかったのだという執念を感じる。
 
同様に、建物の顔をなる北側のファサードを見てみると、Willow Roadに面したこの建物は住所で気には1から3までの3つの住宅が一つになったテラスハウスであり、中央の2 Willow Roadだけが、スパンを広くとられている。1から3までを貫くようにして2階に設けられた水平窓を横長のフレームとして立面の中で現代性を表現するために、各住戸を分ける場所の柱は2階部分でも残されるが、それ以外の柱はどうしてもこのフレームを貫かないようにしたかっという意図だろうと推測する。
 
更に北面立面を詳しく見ると、2階部分の解放できる窓は中央と両端に設けられ、他の部分はサッシすらない横長の一枚ガラス。13は縦のサッシが見受けられるから、自身が住まうこの中央住戸の2階からの眺望をどうしてもサッシレスのフレームに収めたいというゴールドフィンガーの執念が染み出しているようである。


その他にこの住居を印象深くしていたのは、なんといってもこれだけ北と南に眺望を確保できるとともに、開放的な窓を設けて生活をできる周辺環境であろう。片側に公園を持つだけでなく、南にも自らの庭を十分なプライバシーを確保して設けられるとは、なんとも羨ましい限りである。



そして、二階部分の書斎側の壁を一面占める本棚と、その前にこの空間の主人として君臨するかの雰囲気を醸し出しているデスク。これもゴールドフィンガーのデザインであるのだが、そのデスクの上においてある、ゴールドフィンガーが愛用していた文具などが、これまた素晴らしいデザインのものばかり。どれだけモノに愛着を持ち、デザインに向き合っていたか、そしてこのデスクでスケッチなどをして時間を過ごしていたかが分かる素晴らしい家具達である。
 

次に北側と南側の間に設けられた30センチほどの段差。部分的に収納をして使われているが、中央の円形階段が矩形の部屋に有機的な場所性を加えているのと同様に、この段差がとても良い形で北と南に違う場所を作りながら繋げている。ギャラリーと呼ばれる空間はさらに天井高を下げられて、少しニッチの様な空間として落ち着ける溜まりの空間になっており、そこだけ温かみのある木で仕上げられており、イームズハウスのソファの空間を彷彿させる。

もう一つは三階の寝室レベルにおいて、様々な場所に設けられた天窓とそこから降り注ぐ自然光。円形の階段室やその壁の後ろの浴室など、曲線の壁と円形の天窓からの光がとてもよく融合し、空間に彩を添えている。

毎日の生活の中で、視線を向ける風景があること。

窓を開放しても、プライバシーに支障のない周辺環境との距離感。

この二つさえ得られれば、複雑なことはせずに、じっくりと地に足の着いた設計でこれだけ豊かな日常生活のための空間が得られるのだと改めて勇気をもらえる秀作である。

2017年6月22日木曜日

2 Willow Road エルノ・ゴールドフィンガー(Erno Goldfinger) 1939 ★★★★



今日ハムステッド(Hampstead) まで足を伸ばした理由は、ハムステッド・ヒース(Hampstead Heath) と街の散策とは別に、こちらもぜひと友人に勧められた住宅を見学するため。

その住宅はイギリスのモダニズム建築を牽引した建築家エルノ・ゴールドフィンガー(Erno Goldfinger)が自分が住まうために作ったテラスハウス。3軒で一つの建物となった建物の中心、一番広い住居にゴールドフィンガーは家族とともに住まい、スタジオとしても使っていたようである。

そのゴールドフィンガー。なかなかインパクトのある名前であるが、元々はハンガリーのブタペスト出身のユダヤ人。ちなみに生まれは1902年の9月11日。誕生日までインパクトのある人物である。

1914年から1918年にかけて引き起こった第一次世界大戦終了後の1921年、敗戦国のハンガリー帝国から戦勝国のフランスへ、建築を学びに留学する。そこで第一線で活躍し、モダニズム建築を牽引するル・コルビュジエ(Le Corbusier,1887年生まれ)から強烈な影響を受け、さらにそのコルビュジエの師に当たるオーギュスト・ペレ(Auguste Perret,1874年生まれ)からの影響を強く受けることとなる。

因みにこのオーギュスト・ペレも実は隣国のベルギーのブリュッセル出身というから、その当時のパリが如何に国際都市であり、ヨーロッパ全域から様々なタレントを集める魅力ある場所であったかが伺える。

そして1934年。ゴールドフィンガー32歳のときにイギリス・ロンドンへと移住し、1939年に勃発し1945年まで世界を巻き込むことになる第二次世界大戦までに何件かの住宅を設計し、そのうちの一つであるこの2 Willow Road に家族とともに住まうことになる。

1939 2 Willow Road
1963 Alexander Fleming House (Metro Central Heights)
1967 Balfron Tower
1967 Carradale House 
1972 Trellick Tower

主な仕事としては、戦後の復興住宅としてロンドンで建てられた高層住宅の設計でよく知られる建築家でもあるが、その中でも特に有名なのが1972年に完成したトレリック・タワー(Trellick Tower)。そのタワーを思い出すときに、連想されるのがこの夏ロンドンを襲った悲劇、高層住宅での火災事故。多くの死傷者を出したこの高層住宅もまた同時期である1974年に設計された同種の建築である。

話を戻しこの2 Willow Road。現在はナショナル・トラスト (National Trust)によって保護・運営されている。このナショナル・トラストとはイギリス国内において、歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体とその運動。日本でも耳にするDOCOMOMO Japan。その本部であるDocomomo Internationalがオランダで発足したのは1988年であるが、それに比べこのナショナル・トラストは1895年発足というから、さすがはイギリス。文化への意識の高さがこの部分からもよく感じられる。

そんな訳で内部を見学するには、このナショナル・トラストの係員によるツアーに参加する訳になるので、それなりの入場料を支払うことになる。上に上がれるのかと思うが、まずは横の暗いガレージスペースに入れられて、ゴールドフィンガーとこの住宅に関するビデオを見させられることに。もちろん空調など聞いていないので、汗が噴出してくるのをタオルで拭きながら観終わってロビーに戻ると、「じゃあ上へ」と、印象的なディテールをまとった螺旋階段を上っていく。

住宅の前面と後部に数段の段差が設けられており、それが空間をつなげるのと仕切るのに非常に良い役割を果たしている。また螺旋階段が作り出す特徴的な曲面が、浴室やなどによいアクセントを作ってくれる。その流動的空間はヘルシンキのアルヴァ・アールト(Alvar Aalto)の自宅を思い出させるが、調べてみるとあちらは1936年に完成。こちらは1939年だから、互いにヨーロッパを覆うモダニズム建築の流れの中で、模索しながらも近しい空間を追いかけていたことが見て取れる。

内部での写真撮影は禁止ということで、実際にスタジオとしてつかっていたという作業机など、細かい気くばりのされた棚がついていたり、何とも美しい抜けがある壁つきの本棚など、とても品の良い内装に、今でも多くのことを学べることができると、じっくり見てまわる。

3階部分は最上階ということもあり、螺旋階段の上部に気持ちの良い円窓が取られ光を落とし、その裏側に当たる浴室にも同じように天窓からの光を取り入れ、前と後ろの間になる中間部にも、外部とのつながりをしっかりと取り入れているのに関心しながら、「毎日の生活を営む住まい」、それは時間を過ごすことで徐々に成長し、同時に徐々に家族の生活のリズムにぴったりと寄り添うようになるのだろうということが感じられるとても身の丈にあった、そしてとても品の良い空間が体験できる。

家具から器や雑貨、すべてにそこに住まう人の美意識、生活のリズム、そして過ごしてきた時間が漂う。そんな空間に住まうことの喜びを感じられる「住まい」を自分たちもいつか手に入れたいと思いを新たにしてこの住宅を後にすることにする。









待合室


2013年7月24日水曜日

東福寺(とうふくじ) 1236 ★★★★


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所在地 京都府京都市東山区本町
別称  お西さん
山号  慧日山(えにちさん)
宗派  臨済宗東福寺派
寺格  大本山、京都五山四位
創建  1236
開基  九条道家
機能  寺社
文化財 三門(国宝)
作庭年代 1939
作庭  重森三玲
庭園形式 枯山水庭園
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百寺巡礼
日本の建築空間掲載 (龍吟庵方丈)(りょうぎんあん)
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お腹を満たし、カメラの予備の電池を持って、気持ちに余裕を取り返して向かう先は長らく行きたくてそれでも行けてなかった東福寺。観光スポットからやや離れたところにあるので、どうしてもメインどころ中心の行程からは外れがちになってしまうが、京都でも間違いなくトップ5に数えられる名庭園が待っている。

朝方に相談したホテルのコンシェルジェに再度相談すると、東福寺は閉まってしまうのが早いはずなので電話して聞いてみると。「なんて、気が利くんだ・・・」と、気を利かせることの対極の国で生活をしているので、なおさら心に沁みる。ついでといってはあれだが、南禅寺の参拝時間も確認してもらい、なかなか時間が厳しいことに気がついて、「この時間からだとバスで行っていたら東福寺すら怪しくなります」というので急いでタクシーに乗り込む。

東山区というわりに、結構南に下り、「これはバスで来ていたら確実にアウトだったな」と思いながらやっと到着。やはりあまり多くはない観光客の姿。

この東福寺(とうふくじ)。臨済宗東福寺派の大本山。という臨済宗。言わずと知れた禅宗の一つで本家中国では、唐に始まり北宋時代にピークを迎える大乗仏教の一派。鎌倉時代に宋時代である中国に渡り、その教えを持ち帰った栄西によって広められた。

鎌倉時代に日本に入った臨済宗は時の鎌倉幕府、その後の室町幕府など武家によって重んじられて発展を遂げ多くの寺院が作られるようになる。それによって天竜寺派・相国寺派・建仁寺派・南禅寺派・妙心寺派・建長寺派・東福寺派・大徳寺派・円覚寺派・永源寺派・方広寺派・国泰寺派・仏通寺派・向嶽寺派の14寺派が生まれることになる。

そういう訳で、臨済宗○○派というお寺が沢山あることになるのだが、それらを管理する意味でも、五山十刹が作られる。どんな時代でも人はランキングが好きなもので、数多あるものの中から、その道のプロに「これはいいんです」と順位をつけてもらえると安心感を持って選ぶことが出来る。そういう訳ではないだろうが、

臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。とくに室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれた。寺の格付けの制度である五山制度(ござんせいど)とは、日本にてはこの臨済宗の寺に適応される制度で、上から、五山・十刹・諸山・林下と区分されている。

時は鎌倉幕府(1192ー1333)なので、まずは北条氏が鎌倉の寺を格付けするのに使用された。そのランキングは以下の通り。

鎌倉五山
建長寺 - 第一位 臨済宗建長寺派の大本山
円覚寺 - 第二位 臨済宗円覚寺派の大本山
寿福寺 - 第三位 臨済宗建長寺派
浄智寺 - 第四位 臨済宗円覚寺派
浄妙寺 - 第五位 臨済宗建長寺派

その後、室町時代(1338ー1573)に入り、政治の中心が鎌倉から京都に移るにつれて、京都にも多くの臨済宗の寺院が作られる。数多くなった寺院を整理するために、今度は京都五山が制定される。紆余曲折を経た後に安定するのは以下の通り。

南禅寺 - 別格  臨済宗南禅寺派大本山
天龍寺 - 第一位 臨済宗天龍寺派大本山
相国寺 - 第二位 臨済宗相国寺派大本山
建仁寺 - 第三位 臨済宗建仁寺派大本山
東福寺 - 第四位 臨済宗東福寺派大本山
万寿寺 - 第五位 東福寺の塔頭

「別格・・・?」と思ってしまうが、とにもかくもこの京都五山の四位に位置づけられるのがこの東福寺。その寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とされた寺院であり、25か塔頭(山内寺院)を有する巨大寺院である。

その様に前置きの長くなってしまうデカイ境内。とりあえず閉まってしまうまでに参拝だけでも確定させておこうと受付っぽい所に向かうことにする。受付のおばさんに聞くと、やはり16:00に閉まると言う。「この通天橋・開山堂も閉まってしまうが、後ろの方丈の方が早く見て回れるので、まずあちらに行って入場券を買って見てきて貰った方がいい」というので、とりあえず、通天橋・開山堂の入園料400円を支払い、中に入る前に方丈に向かって方丈庭園入園料400円を支払い中へ向かう。

この方丈は1890年の再建された建物で、なんと言っても見所はその庭園。日本の庭園の歴史に名を刻む近代の名匠・重森三玲(しげもりみれい)により1938年に作庭され、東西南北の四周にそれぞれ違った趣の庭園が配されている。

鎌倉時代に建立された寺院だが、今見られる庭園は昭和の作庭。これが様々な時代を超えて存在する京都の歴史。4つの庭合わせて八相の庭と命名される、水を使わず石や砂などを使って山水を表現する枯山水庭園である。

まずは南庭。方丈に入って一番最小に目に飛び込んでくるのがこの庭園。「これぞ京都」そう思わずにいられない素晴らしい世界観。細長い敷地に対し、手前に石を使って表現される島々。そして奥に進むにつれて現れる緑の島々。まさに大海原。

その次に巡るのが西庭。比較的こじんまりとした庭であるが、緑のカーペットと白砂の海原の上に綺麗に刈り込まれたさつきが浮かび上がる。

その次の角を曲がると見えてくるのが北庭。敷石が市松模様に配され、その間に苔がこんもりと盛り上がって、とても不思議な立体感を作りだす。

そして最後の東庭。この庭の前の縁側空間では、浴衣に身を包んだ地元の人と思われる何人かが、ゆったりと流れ時間を過ごしている姿が印象的。我々の様に閉館時間を気にしながら駆け足で見ていくのではなく、「今日はこの庭」と決めて、その前で何をするでもなく、ただただ微妙に変化していくその色合いをぼぅーと眺めるような贅沢な時間の使い方。

それが本当の贅沢なんだろうと理解しながらも、今の自分にはまだまだその粋には到着していないと後ろ髪を引かれながらも先に進む。ちなみにこの東庭は、柱石の余材を利用し北斗七星を表す北斗の庭。

どれも味わい深いが、やはり何といっても南庭が一番作者が時間をかけ、魂をかけて設計した庭であるのが良く伝わってくる。塀により世界を仕切り、その中に無限の世界を作り出す。ミニチュアではないノンスケールの世界。必要最低限まで削ぎ落とされたなかの豊饒さ。そのコンセプトを混沌とした自然という外部空間の中で維持していくという、効率という近代の概念を超えたところで成立するこの庭空間。それが時代を超えて人の心をうつ。

「凄いものを見させてもらったな」と思いながらも、先ほど購入したチケットを無駄にしないためにも、もう一つの見所である通天橋へと足を向かわせる。

ちなみにこの方丈の裏手に位置する東福寺の塔頭の一つである龍吟庵(りょうぎんあん)。この建物が日本の建築空間に掲載されているものであるが、前年ながら毎年11月に一般公開ということで中には入ることが出来ない。

方丈は国宝に指定されている建物であり、室町時代初期に建造された現存最古の方丈建築という。そしてその方丈を囲むのは東・西・南の三つの庭園。こちらも先ほど同様、1964年に重森三玲の手によって作庭された枯山水の庭である。

「無の庭」と呼ばれる南庭はいわゆる方丈の前庭で、白砂を敷いただけのシンプルな庭。「龍門の庭」と呼ばれる西庭は特に有名で龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現している。「不離の庭」と呼ばれる東庭は龍吟庵の主人である大明国師の幼少時代の故事を石組みで表現している。

いつかは是非とも実際に見てみたいものだと思いを残しながら向かった通天橋(つうてんきょう)。仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた屋根付きの橋は何といっても紅葉の名所として有名で、二千本とも言われる楓は「通天紅葉」と呼ばれ四季折々に多くの観光客を楽しませている。

「紅葉のイメージが強いが、青葉の楓もまた素晴らしいじゃない」と妻と二人で静かな橋の上からの景色にしばし見惚れる。はるか下より聞こえてくる小川のせせらぎも手伝って、自然の中に浮かんで、その中に建築によって作られたフレーム越しに景色を見ている。そんな気分にさせてくれる。

こういう雄大な自然と建築の幸福なる融合した空間を体験すると、やはり建築とは美しい自然と人に意識させるフレームとしての装置という一面を持つことに改めて気がつかされる。日本建築の大きな特徴として、四季折々の外部を如何に「フレーミング」し、室内より眺めるか?そしてその特等席こそ床の間の前であったということを感じる。

その日本建築の空間の中でも最上級に位置するこの「雄大な自然の中に包まれる」空間体験。前後左右だけでなく、上下からも自然の様々な要素が身体に刺激を与えてくれる。そんな至極の空間。ため息が出るほど素晴らしい。

そんな通天橋を渡って至るのは開山堂。別名常楽庵(じょうらくあん)。1826年に再建された建物であるが、中央部分の伝衣閣(でんねかく)と呼ばれるのは、中央部分が飛び出した形のなんとも特徴的なのは楼閣建築。

「楼閣?」と引っかかるがやはり先ほどの飛雲閣と同じく、金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並び「京の五閣」に数えられているという。

その開山堂への参道を中ほどまで進むと、バッと左手に広がるのが枯山水の開山堂庭園。なんとも広い庭のほとんどは市松状に砂紋をつけられた白砂。なんともいさぎの良いその配置計画の片すみに追いやられるように石組が配され、参道の反対には対照的に緑が生い茂る池泉式庭園。鶴島、亀島に蓬莢山。禅院式と武家書院式の二つの庭が参道をはさんで退治しているある種の緊張感が味わえる江戸中期の名園。

その後洗玉澗(せんぎょくかん)を徒歩で巡り、今度は苔むす林の中を通り抜け、じっくり時間をかけて戻ってくる本堂。この本堂は1934年に再建された建物であるが、間口41mという巨大なお堂で、昭和の木造建築としても最大級のものになるという。

その本堂の前に立つのが、1425年に足利義持が再建したといわれる三門。ちなみに三門とは寺院の正面に配置される門のことであり、空門(くうもん)・無相門(むそうもん)・無願門(むがんもん)の三境地を経て仏国土に至る門である三解脱門(さんげだつもん)の略という。現存最古の三門として国宝に指定されている。

そんな訳で、見所満載で、それぞれが全て最高級ばかりの東福寺。ここは間違いなくいつかまた訪れることになるだろうと確信して、参拝時間が終了する前になんとか南禅寺に辿りつこうとタクシーに乗り込むことにする。