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第136回(平成18年度下半期) 芥川賞受賞
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こういう女性と言うのは、比較的短いスパンの時間で生きているのだと思わされる。それは生活と言うものに根源的な責任を負わないからこそ可能なんだと思う。
自分がどう生きていくかを考えることも無く、ただただ「東京で住みたい」という思いだけで始める遠縁のおばあちゃんとの同居生活。家賃や食費がかからなければ人が生きていくにはそんなにお金がかからないのかもしれないが、それは誰かがその部分を負担してくれているのと、将来や生活を変えるために必要となる資金を貯めることが無いから可能なのだろう。
暇を持て余すように始めるバイト。時給がいいのと、家から近いから。そこでできる「気になる男の子」。好きな人によって見える風景が変わり、関係がうまくいかなくなると、その日を生きる気力も無くなる。すぐに「死にたい」と口にし、同居人にも当たり始める。
彼と別れてしまうと、それまで続けていたバイトも辞めてしまう。男なら流石に出来ないことが女ということで可能になる。一つながりではなく、ぶつ切りにされる時間と季節。そして違う職場で、まったく違う仕事を始め、そしてそこでもまた「気になる人」ができて、気分が華やぐ。新しい時間の始まり。
長いスパンで物事を捉えることが出来ず、生きる気力が弱く、その場その場でふわふわと周りの流れを受けて受動的に漂う様に生きていく主人公。「スープ・オペラ」を思い出させる設定だが、主人公の生き様はまったく違う。
これと言って好きなことも、やりたいことも無い。「こういう子って、沢山いるだろうな・・・」と思わずにいられない。女性だからと言うわけではなく、人生をぶつ切りで生きていく若者。今自分にあるものの中で、なんとか生きて、それなりに満足できる。
生活が半径1キロ圏内で完結してしまうから、東京という大きな海を端から端まで使いきることなく、大海原に浮かぶ小さな島のようなところで生きていく。その子にとっては、東京とは総体ではなく、その生活圏の世界。
平凡な日常が、平凡な登場人物によって繰り返される。だた淡々と。
渋谷などに足を運ぶと、その日の楽しみを得るためだけに刹那的に生きているような若者の姿を見る。そういう姿を見ると、「この子達はどうやって生活が成立しているのだろうか?」と思わずにいられない。それでもそれなりに何とか生きていけるのが現代の日本なんだろう。渋谷でたむろする子達も、この小説の主人公も、結局は同じ生き方なんだと思う。
結局のところ生きていくことがどれだけ大変なことかを理解せず、甘え、叫び、それでも決して自分では現状を変えようと努力はしない。それでもなんとかなっていってしまう。それが今の日本か。
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