2012年12月20日木曜日

ドイツ人の作り方

スペイン人とドイツ人の友人達と食事に出かけた席で、「言葉が考え方にどのような影響を与えるか?」という話題になる。

ちょうど前日にオフィスでしていた話を思い出す。

あるアメリカ人スタッフは小さい頃からパソコンに触れてきて、プライベートではマッキントッシュを使い、常にオフィスのWindows環境に文句を言っている。そんな彼と使っているパソコンのプラットフォームがWindowsなのか、アップルなのか、Dosなのか、どれに慣れ親しんでいるかによってどれだけ自分の思考過程が決められているか?と話をする。

そんな事を思い出しながら、如何にドイツ語がロジカルな言語であるかに話が飛び、何かを言おうとした時には、すで頭の中に誰がいつどのように何をどうしたか クリアに描けていて、その一つ一つの言葉がその状況にあうように変形されるから 一つの言葉から逆に全文が予想できるという話を聞き、そのような言語の在り方やその言語が支配する世界で生きることが事態が、ロジカルでキチッとしたドイツ人を育てあげるのだねという結論に。

言語というのは、ある民族の世界への眼差しの投影であり、世界をどう捉えるか、世界の中のどの様な事象が重要か?それを示すことに他ならない。

雨の滅多に降らない地域の水に対する言語の在り方と、高温多湿の地雨なアジアの地域の水に対する言語の在り方では確実に違いがあるように、母国語で養われるのは、言語が時間の中では培養してきた、その地域に生きて、そして死んでいった民族としての世界の投影図。誰もそこからは逃れられないし、民族のDNAとして我々の中にひっそりとだが確実に生きている。

そしてそれは他のDNAと比較することで始めて差異が認識される比較人類学と同様に、英語や中国語、ドイツ語などの言語がその成熟過程で世界に何を見たのか?を身体に入れることで初めて本当に意味で理解されるのだと思わずにいられない

多言語の環境に生活してこそ、母国語の意味が問われるのだと再認識をするある日の夕食の風景。

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