2015年2月20日金曜日

違和感 車産業の飽和点

先日富士山周辺の神社を見て回るために訪れた三島沼津。そしての高知市内。

地方都市と呼ばれる都市の中でつかまったのは偶発的な事故などの理由ではなく、明らかに構造的な問題に起因する慢性的な渋滞。一日のある時間帯には完全に都市が機能不全に陥ったかの様に車がまともに進めない時間が発生する。

その都市に住んでいれば、「この時間のこの道は混むから避けよう」という対象になるのだろうが、外から来た人間でナビによって誘導される人間は迷うことなく街一番の幹線道路を進むことになる。そして出くわすどこも同じような渋滞の風景。

始めは街のつくりの問題。つまり人々が目的地とするスポット、会社などが密集する場所や、新しいショッピングセンターやスーパーがある場所と、人々が多く住む場所からのアクセス。そのバランスが崩れているのだろうと分析する。

恐らく一つの原因としてこの分析は間違っていないであろう。

数十年前に比べ車が日常の移動手段として「当たり前」に各家庭に入り込み、各家庭から距離を問題にせずにアクセスすることができることを前提に郊外にやってきた大規模マーケット。街の中の車の流れを一気に変えた出来事で、その変化に道路が対応できるはずもなく、これが新しい渋滞の原因。

現代においては、これだけ街の交通に大きな影響を与える店舗が出店される時には、街の中でどのように交通の流れが変化し、どこに新たなる渋滞が発生し、その規模と影響がどれほどが、それが人々の日常に与える影響が許容できるものかそうでないのか、対策を講じるべきなのかそうでないのか、また考えうる対策はどのようなものか。

ということを総合的に分析できる専門家が必要になってきているように思われる。恐らく交通分析のコンサルタントと都市計画を手がける建築家と、マーケティングの専門家などがチームとしてふさわしいのだろう。

しかし、渋滞があまりに永いので少し思考を先に進めてみると、原因はその様な表層的な部分で留まらずさらに深い場所に根を張っていると思われてくる。

バックミラーに見える後ろの車を運転しているのは20歳前後と思われる若い女性。右の車を見てみると、子供を後部座席に乗せた若いお母さん。左には70歳近いと思われる高齢者夫婦。

現在の都市の中で、我々が使っている道路が施設されたのはいつごろだろうか?

それをおよそ30年前だと考えてみる。その時代に車を運転していたのはどのような人々だろうか?恐らく今あげた様な人々は車を運転する側にはいなかったのではないかと想像する。恐らく各家庭に一台の車で、父親が仕事と家庭で使用するのが一般的な想定であったはず。

それは社会が変わり、家庭の在り方が変わり、車の所有がより一般的になり、より個人ベースに変わり、男女に関わらず、若年層から高齢層まで広がり車を必要な足として、かつては考えられなかった距離まで日常の中に取り込む時代になったことを意味する。

そう考えると、現行の大部分の道路が計画された時点に想定されていた日常的に車に乗る人の数と、それから爆発的に伸びた現在の車の乗る人の数。その偏差をどう分析するか。そして都市が機能する一定数の車に対しての道路面積。それがいったいどのようなバランスになっているのかの分析がどうなされているのか。

そう思うとぞっとしつつ、そういう自分もまた他の場所からやってきてレンタカーの使用者として、都市内を走る車の数を増やす新しい一つの要因であるレンタカーの数も無視できないと思いを馳せる。

本来ならある一定面積の都市においては、その都市の経済規模、住民構成、そして現在のそして将来的に予定されている道路面積とそのネットワークのあり方から、どれだけの数の車がこの都市にあることが適切か、現在すでにある車の数と比較し規制することが必要であろう。

しかし恐らく車産業という、国の根底を支える巨大産業になっているだけに、あまりに多くの人がその産業に依拠して生活を営んでいることと、国家産業として国の財政にも大きく関わることから、販売する車の数を規制するという方向にはどうしてもも持っていけないのだろうと想像できる。

新車を販売し続けるという以外に別の産業の発展を見つけられていない現在の車産業。そのツケが飽和に達しつつある都市の側に大きなしわ寄せを発現しだしている。

多くの人がこの違和感を抱えながらも、恐らくテレビや新聞など主要メディアでこの問題を提言するのは、あまりにもスポンサーとして必ず入ってくる世界企業となった車メーカーの意向に沿わないのも想像に難くない。

大都市、地方都市、郊外、農村部と場所によって車と社会のあり方を早急に再検討し、無理のない共存の仕方、地下の大部分を駐車場したり、空き地に中層の駐車場ビルを建設するなど走っていない時の車の居場所の問題も含めて、本気で検討しなければいけないときに来ているのは間違いない。

技術を公開するという会社規模での先進的な行動ももちろんであるが、産業として誰かが一歩先に出て、産業にとって短いスパンでは痛手になるが、社会と産業の長い目で見た関係性の中でより構築的な提案をしなければ行けない時期にさしかかっているのだろうと思いながら、やっと流れ出した渋滞を抜ける。

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