2013年12月16日月曜日

ジャンプはできない


一年の終わりのこの季節。

一年を振り返ると同時に、「来年の今頃はどうなっているだろうか?」と思いを馳せる。

たった一年で仕事内容や、家庭の状況、生活レベルなどがドラマティックに変化するはずも無く、やはり結局は「今」の積み重ねが来年の「今」となって現れてくるのだろうと思う。「今」の延長線上にあるその先の「今」という訳か。

ホップ・ステップ・ジャンプ

と言うように、なんだか分からないがいきなり今までやってきた事が実り、大きく生活スタイルが変化する。大きな仕事のチャンスを手に入れて、望むように日常を過ごせる。そんな漠然とした夢のような変化が起こるのではと思っていた若かりし頃から、さすがにそんなジャンプはできないものだと理解する30代。できる事はひたひたと「今」を確実に前に進めること。

その先の「今」を見る為に、かつて歩いた「今」を見る。一年前、何を考えていたか。何を行っていたか。その時点よりも、現時点の自分がどれだけ進歩していると感じられるか?成長したと思えるか?何かが変わったか?

一年前の「今」に比べて少しでも心も生活も豊かになったと思えているのなら、少しでも職能人として成長していると思えているのなら、それは積み重ねた「今」を肯定してあげて、その先の「今」に希望を抱くことにして今年を終えることにする。

2013年12月15日日曜日

「世界は分けてもわからない」 福岡伸一 2009 ★★


ハルビンで進めているオペラハウスのプロジェクトの為にもちろんであるが、そこで使う椅子のデザインも進めている。行政のプロジェクトなのでこれらの施行会社の決定プロセスが入札によって行われるのであるが、その為にもまずは椅子のモックアップ。つまりサンプルを作って見て、デザインを確認していく作業を進めている。

そんな中モックアップを作成してくれている椅子会社からある程度出来上がったのでチェックに来て欲しいというので、北京の南に位置する大兴区までチェックしにいくことにする。

中国人のプロジェクト・アーキテクトと担当者、そしてデザインを担当しているイタリア人のスタッフと一緒に車で1時間かかるその会社の工場兼ショールームまで向かうことにする。

そんな訳で車の中で話をする。そのイタリア人スタッフは、イタリア北部のベネチア近郊のヴェローナ出身で、イタリアでも建築学部では屈指の名門であるベネチア大学を卒業し、インターン経てフルタイムへとなり、既に一年ほどオフィスに在籍している。

出身がヴェローナということから、イタリアを代表する現代建築家、カルロ・スカルパの代表作であるカステル・ヴェッキオの話から、『ロミオとジュリエット』の舞台となった街並みなどから始まり、少し下に移動して一時期東ローマ帝国の首都機能が置かれた為に初期キリスト教文化が花開いたラヴェンナのサン・ヴィターレ教会や、少々内陸に移動してテアトロ・オリンピコなどパッラーディオ祭りとなっているヴィチェンツァの街など、ベネト地方を中心とした北部イタリアの話も徐々に中心地ベネチアに収束し、いい加減にどうにかしないといけなくなっているサン・マルコ広場の高潮時の水浸しや同じくスカルパのベネチア大学建築学部の門のデザインなどあれやこれやと話しているとふと思い出す一つのイタリア語の言葉。

「コルティジャーネ」

この本で出てくるイタリア語で、意味は「高級娼婦」。ベネチア共和国が富と権力の中心として栄えた1500年代の中ごろ。貴族に囲われた「コルティジャーネ」達は肉体的だけではなく、文化や学問にも高い知識を得ており、精神的にも肉体的にも特別な刺激を与える存在であったという。

「そんなある時代にのみ許された存在の彼女達の「視線の先」が問題なんだよ。」と話していると、「何の本ですか?」というので、「生物学」と答えると、「interesting」だと言う。確かにそうだろう。何で高級娼婦の視線の話が生物学に繋がるのか?

そんなことを考えているとやはりこの本を手にとらなければ、ここでこうしてイタリア人と「コルティジャーネ」について話す事も無かったと思うと、それもまた生命の神秘と言わずにいられない。

という導入がよく示すように、この著者は前作の「生物と無生物のあいだ」 で日本中にその文才と専門分野の高い知識を知らせると同時に、本当に頭の良い人と言うのはやはり総合知を併せ持つ人であり、どんなに高度な専門分野の内容でも、一般の人が興味を持つように、そしてかつただ単にレベルを落とすのではなく、品を保ちながら読ませることが出来る人。その為には深く正確な理解と、そして専門分野から離れた幅の広い知識と人間的経験が必要だと見事に証明してみせた。

そんな訳で「生命とは自己複製システムを持つこと」から始まり、「内部の内部は外部である」という建築家にとって非常にインスピレーションに溢れた言葉まで与えてくれた前作によって高められた次作への期待度。

ハードブックの専門書を覗けば新書としてこれが次作とよべると思うのだが、さて今度はどんな生命の物語に誘い出してくれるのか、素晴らしいファンタジーの映画でも見るかのようなワクワク感を持ちながらページをめくる。


恐らく作者自身、前作が余りにもうまくいき、自分自身も納得の美しい文章と構成に纏まった手ごたえを感じていたに違いない。だからこそかなり肩に力が入って、次の作品が生まれるのを待っていたに違いない。

そして選ばれた今回の導入は「トリプトファン」。まったく理解できない単語。そしてそれを、「私が好きなものの名称である。五角形と六角形が合わさったその姿が好きだ。」と少々のヒントと共に更に煙に巻いていく。

なかなかいい導入ではないだろうか。とりあえず、訳の分からない言葉で興味を引いておく。専門分野の中から分野外の人に向けての広告塔となるその言葉は、できるだけキャッチーである必要がある。「トリプトファン」。悪くない。「では建築なら何か?」そんなことを考えながらページをめくる。

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昔読んだシャーロック・ホームズの中にこんな話しが合った。ここにあるのは、何らかの暗号だ「英語のアルファベットで一番頻度が高く使われる文字を知っているかい。Eだよ」20種類のアミノ酸には、一文字のアルファベットがあてがわれる。

グルタミン酸はたいていのタンパク質の中に最も多く含まれるアミノ酸である。それはうまみを司る。

では一番頻度が低く使われる文字は?「タンパク質を構成しているアミノ酸で一番頻度が低く使われるものを知っているかい」それがトリプトファン。そしてそのアルファベットは「T」がすでにトレオニンにとられているから「W」
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ふむふむと生物学の本だと言う事を忘れさせる。この辺りの導入は素晴らしいと思わずにいられない。恐らくこういう導入部分を思いついて本を書き出したのでは?と思ってしまうほど。

/視線とは何か
ハーバード大学文化人類学者・テオドル・ベスターという権威を引っ張り出してきて、何を語らせるかと思えば、「築地」で行った魚類の網膜の一層下部にある反射板の調査。つまり光を反射する眼。そしてそれは人間にも同じ事が言えて、それが我々が感じ取る「視線」の正体だと迫っていく。

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/夜空の星はなぜ見える?
大学に入りたての頃、理科系の学生なら必ず読んでおくべき本というものがあった。それは教師が講義中にそういったのかもしれないし、誰かクラスメートが熱心に読んでいるのを見てそう思ったのかもしれない。共通の了解のもとにある書物が何冊かあった。「夜空の星はなぜ見える」田中一

/赤い光の粒子
星を追う人は、ずっと昔、少年の私にこう教えてくれた。夜空に星を探す時は、まっすぐに星を見てはいけない。眼の端で捉える様に。
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建築の世界でも、大学何年生までにはこの本を読んでなければ恥ずかしい。一人前ではない。と刷り込まれていた情報が確かにあり、そのリストを片付けることなくただただ本棚に増えていく専門書を恨めしく思いながら眺めていたあの時代。どの分野でも同じなんだとホッとしながら先を進む。

かなり建築好きだと思われる作者。007でも一作に一つ有名建築が登場するなどという都市伝説があったようななかったようなだが、こちらも前作ではカーン設計のソーク研究所。そして今回はメイヤー設計のゲティ・センター。建築家ならば誰でも知っている有名美術館である。

しかし建築家の視線が捉えるのは、曖昧模糊としたその空間性。斜面を利用して作られた建物に内部に現れる様々な地形とトレースした場所性。しかし作者が捕らえるのは更にスケールを落として辿りつく一枚の絵。

まるでグーグル・アースの様に、やっと視線に目的の絵を捕らえたと思ったら「グーーーー」っとズーム・アウトしてぐるっと地球を回り、再度ズーム・インして見えてくるのがベネチア。その案内人は須賀敦子。見えてくるのはどこを眺めているのか、虚空に投げられた「コルティジャーネ」達の視線。

その間に補助線として「須賀敦子の文章には幾何学的な美がある。本を書くに至るまで彼女がずっと長いときを待っていたという事実」と幾何学と時間を導入してくる。

そして視線によってつながれる二つの絵。線を繋げて気がついたら「環」として完結している。

学生時代にある先生から、「よい建築の条件」について教えられた。それは、「ある場所から建物を入って、中を体験していくと、いつの間にか一周して下の場所に戻ってこれる」それが良い建築の条件だと言う。

良い文章もまさに同じ。自ら引いた伏線が後々見事に閉じられて一つの「環」として成立する。その心地よさ。一つの世界をぐるりと見てきた達成感。しかし、建築でも敷地があり、プログラムがあり、コストがありと、様々な条件の中で行う設計作業の中で、そう毎回毎回うまい事「環」を閉じられるばかりではない。時にまぐれの様に、「ピタッ」と嵌る時があるが、大概はうまくいかずに四苦八苦するばかり。それは文章の世界でも同じようである。

それを物語るように、この時点までは非常に美しい幾何学によって文章が構成され、その構成に使われたマップが見えるかのようである。そして次の章の案内役はその「マップ」。

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おおよそ世の中の人間の性向はマップラバーとマップヘイターに二分類する事ができる。

マップラバー map lover 地図が大好き。俯瞰的に世界を知る事が空きなのだ 
マップヘイター map hater  地図はいらない 私と前後左右 自分との関係性

/ジグゾーパズルをどう作るか
マップラバーは俯瞰的な全体像と局所的な現場を行き来しながら、世界を構築していこうとする。しかしマップヘイターはそうしない。行動のルールが単純。自分の形と合致するかしないか。それだけ。個々のピースは、自分が全体のどの部分に定位しているかを知る必要が無い。つまりマッピングの必要が無い。
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この部分は非常に面白い。というか、マップヘイターと共に生きるマップラバーの苦悩を少しでもマップヘイターに理解してもらいたい。そんな訳でという訳ではないが妻に読ませて、「どう?どう?」と感想を聞いてみながら先を進む。

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ガン細胞
細胞は分化を果たすと一般に分裂をやめるか、その分裂速度を緩める。つまり自分が何者であるかを知り、落ち着くわけである

生命現象に、「部分」と呼べるものは、本当には実在しない。ある部分がある機能を担っているとする考え方は、俯瞰的な視点からの、マップラバーによる見立てにすぎない。

実在しているのはたった一つの受精卵から出発した細胞の連続的なバリエーションだけ
つまりここで存在と呼べるものは、部品という物質そのものではなく、動的な平衡とその効果でしかない
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恐らく、そろそろ本書の「肝」と言える部分に入ってきた雰囲気が出てくる。

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/プラスαの正体
全体は部分の総和以上の何ものかである

ミクロな物質がひとたび組み合わさると動き出す。代謝する。生殖して子孫を増やす。感情や意識が生まれる。思考までする。

生命を生命たらしめるバイタルなもの。それは、「生気」である。
流れ。
エネルギーと情報の流れ。
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これも凄い事実である。心臓、肺、腎臓、肝臓、骨、筋肉。それぞれがそれぞれとして存在していたら何も行わない。しかし一度身体と言う枠組みの中で組み合わされると、それぞれの器官の役割だけでなく、全体として更に様々なことをやりだす。妄想したり勝手な解釈をしたり、悲しんだり、喜んだり。誰も頼んでないのに勝手に行うそれらの生命活動。

オフィスもそう。個人が集まってある知的活動を行うのであるが、時に個の総和以上の働きをすることがある。その時に居合わせることは建築家としてとても心地よいものである。

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/アミノ酸の握手
この10年ほどのあいだに急速に明らかにされた意外な事実がある。細胞は、つくる仕組みよりも、こわす仕組みの方をずっと大切にしており、そのやり方はより精妙で、キャパシティもより大きい。
タンパク質の合成ルートは一通りしか存在しない。しかし、タンパク質を分解するルートは何通りも存在するのである。

/生命現象における秩序
新しい形が生まれるということは、すなわち新しい秩序が生み出されるということで
秩序とは「情報」の同意語
情報をつくりだすには、その対価としてエネルギーが必要となる

/秩序はこわされるのを待っている
トランプ・タワーには秩序とエネルギーが含まれている
秩序は、その中に、構築のための膨大なエネルギーと精妙さを内包している。けれども、ひとたび組み上げられた秩序を壊すためなら、ほんのわずかな揺らぎがありさえばよい。秩序は壊される事を待っているからである。

暖めたコーヒーはまもなく冷える。熱い恋愛ほどなく醒める
乱雑さ=エントロピー増大の法則
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ここらへんは、専門分野へ徐々に話を引っ張っていく導入であろう。繰り返すようであるが、小難しい専門分野の話を門外漢にどうやって分かりやすく、レベルを落とすことなく伝えるか?「ごちそうさん」の「熱伝導」をどう見つけるかという訳である。

そんな訳で妻をよんで、「家が汚れる、すぐにぐちゃぐちゃになる。これは世界の物理法則に沿っているんだ。だから誰が悪いわけではない。自然の法則にしたがっているんだ」とその反応を伺ってみる。

しかし問題なのは、すっかりエントロピーの法則の本質を忘れてしまっているので、「え、どういうこと?」と聞き返されるとすっかり説明できずになってしまう。

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/恐怖の研究室セミナー
君が無能だということ。
無能さに給与を払っている。

/たんぱく質の挙動を調べる「レシピ」
ヒトは常に間違える。忘れる。混乱する。だから、それをしないよう注意をするのではなく、それが起こらないための方法論を考えよ。あるいはミスが起こったときに、その被害が最小限にとどまるような仕組みを考えよ。それが君達の仕事だ。
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建築事務所をやっていると、どうしても能力の違ったスタッフ達と毎日接する事になり、上記のような言葉を思い切って発したいと思う衝動にも駆られることになる。しかし感情で言葉を発するのではなく、論理で理解させられるようにと数秒グッと堪えて説明をする。

恐らく前作のせいで上がった期待値が想像以上に高かった為だろうが、なかなかの導入に比べて後半は不可避の専門分野の内容に終始し、最後の最後で紙を捻ったらうまい事「環」が現れる的な綺麗な終わりとはいかなかった様である。

それでも、作品を作り続ける。専門のことを毎日やり続ける。手を動かし続けることが、昨日よりも今日を前に進めてくれるのだと理解し、自分に出来るのは建築の設計を今日もやり、少しでも美しいものを生み出しながら、同時に言語化する作業を怠らないことだと言い聞かせてページを閉じる事にする。

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目次
プロローグ パドヴァ、2002年6月
/最も希少な必須アミノ酸
/トリプトファンのゆくえ
/脳の中のバリアー
/毒を無毒化する仕事人
/酵素とは何か

第1章 ランゲルハンス島、1869年2月
/視線とは何か
/人間の眼も光る
/夜空の星はなぜ見える?
/赤い光の粒子
/眼の解像力
/パワーズ・オブ・テン
/ランゲルハンスの小さな島
/イームズのトリック

第2章 ヴェネツィア、2002年6月
/世界一ゴージャスな美術館
/石油王J・ポール・ゲティ
/「ラグーンのハンティング」の謎
/ヴェネツィア爛熟の影
/須賀敦子の歩いた道
/高級娼婦の視線の行方
/もともと一つの絵だった

第3章 相模原、2008年6月
/コンビニのサンドイッチはなぜ長持ちするか
/ものがくさるメカニズム
/ミクロな”パックマン”
/ソルビン酸の質
/人体には無害?
/インビトロの実験
/ヒトの細胞で実験してみると
/腸内細菌と人間の共生
/見えないリスク

第4章 ES細胞とガン細胞
/マップラバーとマップヘイター
/ジグゾーパズルをどう作るか
/細胞は互いに「空気」を読んでいる
/自分を探し続ける細胞
/ガン細胞とES細胞は紙一重

第5章 トランス・プランテーション
/境界のこちら側と向こう側
/鼻はどこまでが鼻か
/明確な仕切りはどこに?
/この世界がもつ可能性

第6章 細胞のなかの墓場
/プラスαの正体
/アミノ酸の握手
/生命現象における秩序
/秩序はこわされるのを待っている
/細胞の懸命な自転車操業
/死も誕生も定義次第?

第7章 脳のなかの古い水路
/脳に貼りついた奇妙なバイアス
/モザイク消しの秘密
/空耳・空目
/必死にパターンを見出そうとする
/おせっかいな認識回路
/見たと思ったものはすべて空目

第8章 ニューヨーク州イサカ、1980年1月
/恐怖の研究室セミナー
/流浪の科学者、エフレイム・ラッカー
/細胞のエネルギー代謝
/なぜ細胞はガン化するのか
/忍耐と体力勝負の精製実験

第9章 細胞の指紋を求めて
/たんぱく質の挙動を調べる「レシピ」
/アクリルアミドの高分子化
/ゲルに小さな浅い井戸を掘る
/井戸に細胞サンプルを落とす
/タンパク質を泳がせる
/細胞の指紋を浮かび上がらせる
/卓越した実験者

第10章 スペクターの神業
/なぜスペクターにだけそれができたか
/再構成実験にも成功
/ガン細胞が浪費家なワケ
/細胞レベルの仕事の切り替えスイッチ
/ミクロなくさび
/Pのゆくえを追跡する
/ブレーキとアクセルの平衡関係
/放射性同位体を可視化する

第11章 天空の城に建築学のルールはいらない
/神々の愛でし人
/ガン細胞と正常細胞は何が違うか
/リン酸化の滝
/ガンウイルスの働き
/高らかな勝利宣言
/鳴り響いた警告音
/そこにないはずの放射性同位体の存在

第12章 治すすべのない病
/スペクターはなぜ信用されたか
/たくみな偽装
/証拠不十分、嫌疑不十分
/どこまでが本当でどこからが嘘なのか
/追試実験はなぜ成功したか
/治すすべのない病

エピローグ かすみゆく星座

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「すべては音楽から生まれる」 茂木健一郎 2007 ★★

どうもクラシックというのは文化的にかなり高い位置にあり、小さなころから十分に「学んで」きた人達だけが理解でき、それが出来ない文化的に劣っている人たちは徐々にジャズ、ロック、ポップなどのジャンルの音楽へと分散していく。というような何とも言えない図式があるように感じている。

そもそもクラシックというのは数百年前に作曲された崇高な曲があり、それをあるオーケストラを率いる偉大なる指揮者によって演奏されたり、高名な演奏家による演奏があったりして、作曲家、指揮者、演奏家。「いったいどれを軸に聴いていいのか?」がなかなか分からず、聴いてみようかと少し足を踏み入れては全体像が見えないままに聴かなくなってしまうということの繰り返しでこの歳まできてしまった。

それがメンターとの出会いによって、流されるように生の音楽を体験するようになり、再度興味に火が着きはじめた2013の秋。折角だからと手にしてみようとした幾つかの音楽関係の本の一冊。稀代の脳科学者が一体どう音楽と付き合ってきたのかを知る一冊。

読んでみると著者は上記の定義に沿うと、完全にあっち側の人間のようで、高校時代から学祭でオペラを自分達で上演するようななんとも文化的に圧倒的な時間を過ごしてきたようで、体内に積み上げられた音楽の蓄積の厚さはものすごいようであるが、ところどころ今の自分にも響くような文が散りばめられている。
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「ウィーン・フィル シューベルトの交響曲《未完成》を聴き、「心が震えた」などと言ってしまうと、凡庸かもしれない」

「「旋律」と「戦慄」が同じ音であるのは偶然だろうか」


「絶対的な座標軸ーたとえば「喜びや美の基準」といったものさしーが自分の中にあれば、日々の難事や苦しみは、ずいぶんとやわらぐものである。あくまでも自分のものさしだ、という点に強みがある浮世の表面的なこととは関係が無い。自己の体験から生まれた独自の軸なので、揺らぐことなく自分を内側から支えてくれる」


「一瞬一瞬に生身の体で感動する事によって、人は、自己の価値基準を生み出し、現実を現実として自分のものにできる。それが「生きる」ということ」

「本当の感動を知っている人は、強い。生きていくうえで、迷わない、揺るがない、折れない、くじけない」


「新しい自分に出会いたくて、コンサート会場へ足を運ぶ。今までの自分の人生がどれくらい豊かであったかを確かめる」


「息をつめて待つ。その緊張感。能動的、主体的な感動は、自分自身の経験として残り、育まれ、確固としたものとなるのだ」


「釈迦の思想「無記」。わからないものは、わからない。わからないのなら、断定的なことを語らない」


「小林秀雄「モオツァルト」。ジェームズ・タレル 《南寺》。聴こうとすることを妨げる情報が多すぎるのだ」


「リヒャルト・シュトラウスの曲は絢爛豪華で壮大。シューベルトの歌曲 独特の温かさ。バッハの《コーヒー・カンタータ》 日々は意外と平凡で退屈だ。だが、それこそが生きるということだ。」


「議論の目的が、「証明」に帰結してしまい、そこには「感覚」の入り込む余地がなくなってしまうからである」
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長く続くものにはやはり何かしらの理由があるはずであり、クラシックもまたしかり。せっかく少しずつ身体に取り込み始めた音楽なので、楽しみながら自分なりにつかみどころの無い世界を少しずつ広げていく為に体系立ててクラシックの世界の地図を作っていこうと心に決める。

起床と共に「トリスタンとイゾルデ」で一日を始めるという著者。そこまでたどり着くには相当な時間と濃密な時間が必要なのだろうが、教養の為に知らなければいけない音楽ではなく、人生を豊かにしてくれる楽しむべきものとして日常の中に少しだけ散りばめさせていこうと「展覧会の絵」を洗面所で聞きながら朝を始めることにする。



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【目次】
第1章 音楽は微笑む
/私の中に楽器があるーシューベルト/交響曲第八番「未完成」
/人生の絶対的な座標軸
/経験は成長する
/臨界を越える音楽ーウェーバー/歌劇<魔弾の射手>
/クオリアという鍵
/音楽のクオリア
/たった一度の出会いを求めて
/音楽の女神は微笑む
/人はなにを語り得るのか

第2章 音楽との出会い
/あの静かな没我の様子ーR.シュトラウス
/歌劇「エレクトラ」
/「知りたい」という気持ち
/耳をすます
/美しきクラシックの効用
/「モーツァルト効果」
/「ラ・フォル・ジュルネ」との出会い - ベートーヴェン/交響曲第六番<田園>
/眠らないニューロンは奏で続ける
/音楽はすべての芸術をつかさどる

第3章 音楽と創造力
/まるで一つの啓示のように
/モーツァルトとザルツブルク
/作曲家の素顔 - モーツァルト/管弦四重奏曲第19番<不協和音>
/暗黒の先にある光
/天才と呼ばれた作曲家の苦闘
/盲点としてのシューベルト
/等身大のまなざし
/背中合わせの愛と悲しみ
/生と死に向き合うーシューベルト/歌曲<魔王>
/人々の生活に根付いた「森」 - シューベルト/歌曲<旅人の夜の歌>
/創造性と劣等感 - シューベルト /歌曲集<冬の旅>

第4章 音楽のように生きる
/日々と音楽ーワーグナー
/楽劇「トリスタンとイゾルデ」
/知らない自分との対面
/脳の中のシンフォニー
/人生に秘められたリズム
/嘲笑的な願望の水先案内人
/指揮者の謎
/祈りとしての音楽
/言葉と音楽
/<生>を全うする手段
/遺された「未完成」
/音楽の抱擁

第5章 特別対談 「音楽の力」-ルネ・マルタン×茂木健一郎
/ルネ・マルタン印象記ー茂木健一郎
/本物の「美」と出会える場「ラ・フォル・ジュルネ」
/クラシックをもっとポピュラーに届けたい
/ライブ演奏が持つ魅力と楽しみ
/スタッフ全員が一つの哲学を持つ
/音楽そのものが原動力となる
/最も美しい言語としての音楽
/すばらしい音楽家達との出会い
/アーティストの発言に耳を傾ける
/大衆的な音楽、民族の伝統的な音楽
/シューベルトのコンサートを再現したい
/「音楽的な道のり」を用意する
/一生残り続ける思い出を創り上げる
/すべては奇跡のために
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ルネ・マルタン インタビュー
/音楽の感動を家族で共有して欲しい
/脳の中のシンフォニーと共鳴させる
/15歳の時の自分と同じように
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茂木健一郎推薦 CD・DVDガイド

バッハ:平均律クラヴィーア組曲
グレン・グールド(ピアノ)/1962-1971年[ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル SICC-643-5,649-51]

バッハ:(ゴールドベルク変奏曲)
グレン・グールド(ピアノ)/1955年[ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル SICC-639]

バッハ:(マタイ受難曲)
カール・リヒター(指揮)、ミュンヘン・バッハ管弦楽団、エルンスト・ヘフリガー(テノール)他/1958年[ユニバーサル・ミュージック・クラシック UCCA-9028-30]

バッハ:(コーヒー・カンタータ)
クリストファー・ホグウッド(指揮)、エンシェント室内管弦楽団、エマ・カークビー(ソプラノ)他/1986年[ボリドール POCL-4780]

ベートーヴェン:交響曲第5番《運命》、第6番《田園》
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/1982年[ユニバーサル・ミュージック・クラシック UCCG-3552]

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番《月光》、第23番《熱情》
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)/1970年、72年[ユニバーサル PHCP-21023]

ヘンデル・オラトリオ《メサイア》 輪DVD(日本語字幕付き)
クリストファー・ホグウッド(指揮)、エンシェント室内管弦楽団、エマ・カークビー(ソプラノ)他/1982年

ハイドン・オラトリオ《天地創造》
クリストファー・ホグウッド(指揮)、エンシェント室内管弦楽団、エマ・カークビー(ソプラノ)他/1990年[ボリドール POCL-1096/7]

モーツァルト:減額四重層曲第19番ハ長調K.465《不協和音》
ハーゲン弦楽四重層団/1998年[ユニバーサル・ミュージック・クラシック UCCG-70093]

モーツァルト:フルートとハーブのための協奏曲ハ長調K.299
ユーディ・メニューイン(指揮)、イギリス室内管弦楽団、吉野直子(ハーブ)、サミュエル・コールズ(フルート)/1990年[EMIミュージック、ジャパン TOCE-8757]

プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》 DVD
ジェイムズ・レヴィイン(指揮)、メトロポリタン歌劇場管弦楽団他/1987年[ユニバーサル・ミュージック・クラシック UCBG-9012]

シューベルト:交響曲第8番《未完成》
ジョゼッペ・シノーポリ(指揮)、ドレスデン国立管弦楽団/1992年[ユニバーサル・ミュージック・クラシック UCCG-7007]

シューベルト:アルベジオーネ・ソナタ
ヨーヨー・マ(チェロ)、エマニュエル・アックス(ピアノ)/1995年[ソニーレコード SRCR-1615]

シューベルト:歌曲(魔王)(「ザ・ベスト・オブ・シューベルト」)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ジェラルド・ムーア(ピアノ)/1955-65[EMIミュージック・ジャパン TOCE-59222]

R.シュトラウス:歌劇(エレクトラ) DVD
クラウディオ・アバド(指揮)、ハリー・クブファー(演出)、ウィーン国立歌劇場管弦楽団他/1989年[ジェネオン・エンタテインメント GNBC-2002]

R.シュトラウス:楽劇《ばらの騎士》 DVD
カルロス・クライバー(指揮)、バイエルン国立管弦楽団、ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)他/1979年[ユニバーサル・ミュージック・クラシック UCBG-1141/2]

ヴェルディ:歌劇《アイーダ》
ゲオルグ・ショルティ(指揮)、ローマ歌劇場管弦楽団/1961年[ポリドール pOCL-3923/4]

ワーグナー:楽劇《トリスタンとイゾルデ》
カール・ベーム(指揮)、パイロイト祝祭劇場管弦楽団、ビルギット・ニルソン(ソプラノ)、1966年[ポリドール POCG-3848-50]

ワーグナー:楽劇《ニーベルングの指輪》
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/1967-71年[ポリドール POCG-90131-44]

ウェーバー:歌劇《魔弾の射手》
カルロス・クライバー(指揮)、ドレスデン国立管弦楽団/1973年[ポリグラム POCG3825/6]
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2013年12月14日土曜日

コンサート 「Hüseyin Sermet Piano Recital Piano Virtuosos」 NCPA 2013 ★★★★

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Programme

Papillons, Op. 2 Schumann
Scottish Fantasy in F sharp minor Op. 28   Mendelssohn
   
 ——Intermission——  
Pictures at an Exhibition   Mussorgsky
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今年最後のNCPA。

そして何度も足を運んだ中で今年一番だったと思えるコンサートで最後を飾れたのはとても幸福だと思う。

今日はコンサート・ホールにてピアノ・ソロ。なので調べる情報も比較的シンプル。まずは何と言っても、主役であるピアニスト。フセイン・セルメット(Hüseyin Sermet、1955年-)というトルコ人のピアニスト。随分前にメンターが、「NCPAのカレンダーの名前表記が間違っていたから気がつかなかったが、彼は凄いピアニストだからぜひチケットを買ったほうがいい」と強く勧めてくれたピアニストである。

イスタンブール出身というセルメット。日本でも何度も演奏を行っているようで、人気も高いようであるが、とにかくトルコを代表するピアニストの一人だという。

前半一曲目は「Papillons, Op. 2 / Schumann」

シューマンと聞けば有名作曲家の一人だとは知っているがそれ以上は・・・となるとあまりにもあやふやな状態なので調べてみる。ロベルト・シューマン(Robert Schumann, 1810年 - 1856年)はドイツの作曲家で、ピアノ曲の作曲家として世に出たという。その作品番号の1から23番まではすべてピアノ曲。顔を見る限りかなりのイケメンだったようである。

そして今日演奏されるのは、そのシューマンの作曲した「蝶々(Papillons)」。「Op. 2」が何を意味するか良く分からないので放っておくことにする。「蝶々(Papillons)」はシューマンの作曲したピアノ曲で、全12曲からなるという。「曲の中にさらに12曲??」と思ってしまうが、「12曲が合わさって一つの全体を作っている」ということだろうと理解する。


前半二曲目は「Scottish Fantasy in F sharp minor Op. 28   Mendelssohn」

シューマン同様、メンデルスゾーン(Mendelssohn)についても詳しいことは知らない。調べてみるとフェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn 1809年 - 1847年)、ほとんどシューマンと活動時期が被っている。しかも同じドイツに生まれたユダヤ人作曲家。恐らくライバル関係にあったか、良き親友だったに違いないと想像する。写真を見る限り、シューマンとは打って変わってなんとも優しい顔をしている。

そして演奏されるのは「Scottish Fantasy in F sharp minor Op. 28」とプログラムには書いてあるのだが、これがうまく見つからない。恐らく表記ミスではないかと思う。調べるとメンデルゾーンでは「Fantasy for piano in F sharp minor, Op. 28」というのはあるようだが、それがスコットランド幻想曲(Schottische Fantasie)として呼ばれているのか?それとも、スコットランド幻想曲(Schottische Fantasie)はマックス・ブルッフの作品で、表記の間違いであるだけなのか、こういうのがクラシックを聞くのを億劫にする要因であるのだな・・・と思いながらとにかく先に進む。


そして幕間を挟んでなんといっても今日のメインは後半。「Pictures at an Exhibition   Mussorgsky」

モデスト・ムソルグスキー( Modest Mussorgsky, 1839年 - 1881年)の名は恥ずかしながら今日の今日まで聞いたことが無く、上記の二人に比べてもマイナーなのでは?と思わずにいられないが調べてみるとそうでもないらしい。

ロシアの作曲家であるムソルグスキーはシューマンやメンデルゾーンに遅れること30年。1世代下の作曲家となる。「ロシア五人組」の一人というらしいが、それもまったく知らない。ロシアへの距離の遠さを改めて感じつつ、コンペもやっていることだし、この機会にロシア文化を少し調べないとと心に決める。

そして演奏されるのは代表作であるピアノ組曲「展覧会の絵(Pictures at an Exhibition)」

「タン・タン・タン・タララン・タララン・タ・タン・タン・タン」

何とも心地よいメロディ。どこかで聴いたことがあると思うその調べはやはりコカ・コーラの『紅茶花伝』やキャノンの『IXY600F』など、日本のCMでも多く使われて日本人なら一度は耳にしたことがあるのではないかと思う一曲。これほどメジャーな曲なのに、なぜ今まで作曲家の名前に出くわさなかったのだろうと頭を抱えて写真を見てみると、流石はロシア。凶暴な熊のような風貌で、そのどこにこんな繊細な音楽を生み出す感性があったのだろうと思わずにいられない。

この「展覧会の絵」。特徴的なそのタイトルの通り、ムソルグスキーが友達の画家であるハルトマンの展覧会に足を運び、10枚の絵を歩きながら見て回った時の印象を音楽にしたというピアノ組曲。オープニングで流れる、一番耳に残っている部分でもある「プロムナード(Promenade)」は絵の間を歩いている様子を描写しているらしく、10枚の絵の間を歩くように、曲中に何度も何度も表れて句読点の様に作用する。


以上が本日の基本知識。という訳で何ヶ月振りにオフィスに足を運ばない日曜を過ごし、少し早めの夕食を済ませて妻を後ろに乗せて電動スクーターで中心道路を走っていると、全ての交差点に赤い棒を持った警察が立っている。中心に近づけば近づくほどその数は増えて、ついに停められてしまう。なんでも「車道は走るな。歩道を走れ」と。恐らく超VIPの人物が訪中しており、中心部で会議などをしている為に警戒を高め、少しでもテロなどの恐れがありそうだと思うものは取り締まっているのだろうと想像する。

しょうがないので少し歩道を走って次の交差点に到着するとまた停められて、今度は「スクーターは二人乗りは禁止されているから、下りなさい」と・・・。「はぁ・・・」と思い、妻を降ろし、スクーターを引きながら少々歩く。恐らく重要施設が面する中心道路は、とにかく今日は規制を厳しくしていて、天安門前を通ることは叶わないだろうと判断し、かなり遠回りになるが、天安門を迂回して裏の下町を抜けていく事にする。

暗闇の中に潜む数々の警察官の姿。その行動原理が自分達の常識とは違っていると理解すると、街中に張り巡らされた緊張感が直接身体に伝わってくるようで、風景も違って見えてしまう。なんとか迂回し、無事にオペラハウスに到着したのは予定よりも20分ほど遅れた開演20分前。

いつもの様にメンターご夫妻と合流し、中に入ってみると偶然にも別々に購入したチケットにも関わらず、たまたま隣の席に。「こんな偶然あるんですね」なんていいあっていると徐々に照明が落とされ会場のザワツキが少しずつ小さくなっていく。

日常からコンサートの空間へ変わるこの瞬間。人々がまだお喋りや携帯などをいじっている普段の振る舞いから、コンサートを楽しむ静かな観客へと会場全体が空気を変えていくこの瞬間はなんとも言えない時間である。徐々に緊張感と期待感が会場を包んでいく。それに応えるかのように音楽家が登場する。「さて、今日はどんな音に出遭えるのか?」と。

前半。いつもの様にアルファ波に包まれて半分眠りの中でもなんとか意識の中で音を捉えていたらいつの間にか終わってしまいやってきた幕間。メンターの大好物のジェラートを食べながら後半に備えながら、「寝てたでしょ?」と妻に突っ込まれる。

そして眠気も吹っ飛び、集中して聴けたからではないだろうが、とにかく素晴らしかった後半。ピアニストの鍵盤の下に手を隠すような仕草や、激しく上まで糸を引くように手を持ち上げる様子。空間の中で徐々に小さくなるが、確実に「音」が漂っているのを観客に確認させるようなものすごい「間」。

その自ら創り出した緊張感を会場全体と共有させる。通常数百人の観客がいるのだから、誰かがどこかで咳き込んだり、ガサガサと動いたりとするのが当たり前のコンサート・ホール。そんな中で確実に数十秒間ほどの時間、会場から全てのノイズが消える瞬間が何度も訪れた。錯覚なのかもしれないし、自分が集中していてノイズを聴こえないように脳が働いていたのかも知れないが、全てのノイズが聴こえなくなる。もしくは会場の誰もが緊張感の為に身動きが取れないのか、いずれにせよ凄い瞬間を何度も体験する事ができた。

ビリビリとした会場の緊張感が感じられる、素晴らしい演奏。その度に違った風景が頭の中に見えてくる。「アバター」と「チャーリーとチョコレート工場」、「ビッグフィッシュ」を足したようなオドロオドロシイ風景。巨大な植物が色とりどりに咲き誇るようなジャングルの中を歩いていて、それでいて心地よいファンタジーの世界。

そんな世界を見せられて後にふと訪れる「プロムナード(Promenade)」。まるで現実に引き戻すかのような作用を感じながら次の曲。次の絵に意識を向ける。とにかく素晴らしい演奏。アンコールで披露したのは声が聞き取れなかったので何の曲か分からなかったが、「小さいころに良く演奏した曲」らしく、短いがとても印象的な曲であった。

とても幸せな気分になり、「タン・タン・タン・タララン・タララン・タ・タン・タン・タン」と口ずさんで会場を出ようとすると、横で妻がまたまた悪意のある笑顔で笑っている。「外れてた?」と聴くと、「別に別に」と・・・

厳しい取締りの為に余計な遠回りを強いられた為に、家まで残り3km程のところで残念ながら電池切れ。妻はタクシーに乗って先に帰り、自分はキックボードの様に地面を蹴りながら最後のともし火で動くスクーターを押しながら家に帰って早速インターネットで「展覧会の絵(Pictures at an Exhibition)」を検索。

便利な世の中になったものだと思うが、権利の問題などもクリアしてフリーでダウンロードできるサイトが幾つかあるようで、さっそくパソコンに取り込んで「タン・タン・タン・タララン・タララン・タ・タン・タン・タン」と足湯をしながら口ずさむことにする。



シューマン

メンデルゾーン

ムソルグスキー



2013年12月8日日曜日

日本人の優秀さ


日本の外で日常を過ごし、日常で接する大多数の人間が日本人以外でいると考えさせられる事の一つに「日本人の優秀さ」がある。

世界で何かを成し遂げるタイプの人間というのは、とにかく自分で物事を決めていく人間であり、朝令暮改になろうとも常に自分で決断を重ね、その以前に行った決断よりもよいベターな選択肢があると判断した時には、周りが困ろうとも、プロジェクトが遅れようとも、より仕事が増えようとも、そんなことはお構い無しに決断をできるタイプの人間である。

ただしその決断には誰よりも責任を持ち、誰よりも深く考え、どんな反論を受けようとも論理的に論破できるだけのロジックを用意する。それでいながらも外からみると「なぜ?」と思うくらい鮮やかに、かつ迅速に決断を下していく。その積み重ねによってより感性が研ぎ澄まされ、リーダーとしての風格をまとっていく。

それに対して日本人で優秀だといわれるタイプは、とにかく空気を読める事。誰が何を欲し、何を望んでいるのかを瞬時に察して、うまく振舞う事ができるタイプ。その空気を読んだ上で決断を下していける人間。

いわゆる優等生といわれるタイプの人間で、常に決定の力の及ぼす枠組みを視点に捕らえ、マジョリティとして生き残るように決断を下していく。小さな頃から教師や親からそのようにすることで「偉いね」と褒められて、その結果同級生からもある程度の尊敬を集めて調整役としてのリーダーの経験を積んでいく。

「クラスの全員が反対しても、俺はこれが正しいと思うからこれだ。」

というような小学生の学級委員が日本中どこを探してもいないのは、この国を覆う空気がなせる業であろう。

典型的な日本人としてその様な時間が身体の中に浸み込んでいる自分にとっては、いまさらながら周囲をバッタバッタと一刀両断するようなリーダーにいきなり変われる訳も無く、どんなに外国人に囲まれる日常でもそれでもやはり空気を読んで調整をしてしまう。

その横で、「お前、この前全然違う事言ってたじゃないか・・・」と思うような決断を下していくパートナーの姿を見ると、「これはどうあがいても日本で育った日本人には無理だし、敢えてそれをやる必要もないから、自分は自分のやり方でボチボチやっていくしかないかな・・・」と目の前に続く厳しい道のりに思いを馳せる事になる。

2013年12月7日土曜日

コンサート 「Stravinsky Festival: Valery Gergiev and Mariinsky Theatre Orchestra」 NCPA 2013 ★★

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Programme

 Fireworks, Op. 4  
 Card Game  
 Concerto for Two Pianos  
   
 ——Intermission——  
 Firebird  
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今年最後のオーケストラ。文化の秋に集中的に身体を舞台芸術の空間にどっぷりと浸らせようと意図し、何度も足を運んでオペラハウスだが、残すところ今日のオーケストラと来週のピアノ・コンサートのみ。

いつもどおりに妻とメンターご夫妻と一緒に行くのだが、今回は妻の分のチケットを購入するのが遅れて、離れ離れの席になる。一番お手頃なチケットが既に売り切れ済みで、一つ上のランクの席を購入すると二階席の右手、オーケストラを上から見下ろす形になるシートを購入する。

以前購入していたチケットはオーケストラを後ろから眺めるシートとなり、近くて識者なども良く見えるから素人には良いように思えるが、音響的には方向が逆になりあまり楽しめない場所だという。

そんな訳でまず自分が2階席、妻が1階のオーケストラの後ろに陣取る事にする。普段は後ろの一番上の席の一番お手頃な席を取ることが多いので、どうしても正面のかなり遠い距離からオーケストラを見るのだが、こうして上から表情も分かるほどの距離で見ていると、今までとは違った楽しみ方ができるのだと理解する。

上から見ると良く分かるそれぞれの楽器がどれだけの人数がいて、二人で一つの楽譜を共有して、からなず一人がページをめくっていくだとか、結構自分が参加しない時間が多い奏者は楽器の手入れなど、いろいろと動いているのだというのを見て、やはりこの人たちも人間なんだとなんだか不思議な思いを持ちながら演奏を楽しむ。

本日のコンサートは、メンターが「これは素晴らしいから!」と力をこめて推薦してくれるように、かなりトピック盛りだくさんの様である。まずは何と言ってもストラヴィンスキー。

イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky,1882年 - 1971年)は、ロシアの作曲家で、20世紀を代表する作曲家の一人であるという。ストラヴィンスキーと名前は聞いたことがあるが、時に高価なヴァイオリンの名前とごっちゃになりそうだが、改めて海馬に植えつける事にする。

非常に長期に渡り活躍したというだけあって、ロシアで活動を始め、その後あまりに前衛的な作風の為に台頭してきたナチスに目をつけられたため、アメリカに亡命しハーバード大学などでも教鞭をとるなど、当時の世界的知識人の一人であったことが伺える。

生涯を通して原始主義、新古典主義、セリー主義と作風を変えつつも、一曲聞くだけで理解できるように相当な前衛的な作品を残したようである。中でも初期の3つの作品、『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』は有名で、その中でも『春の祭典』は20世紀最高傑作と呼ばれているようである。プログラムを調べると今日は『火の鳥』、明日は『春の祭典』ということで、少々残念に思いながら、まずは体験することからだと心を切り替える。

今回は世界最高峰の指揮者がロシアトップクラスのオーケストラを率いて、ロシアが生んだ世界的作曲者であるストラヴィンスキーの曲を3日間に渡って演奏するという壮大な
Stravinsky Festival。そのロシア尽くしが良く理解できるように、会場のあちこちでロシア人らしき人たちの姿を目にする事ができた。

さて続いては、指揮者のヴァレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev, 1953年 - )。現代ロシアを代表する指揮者の一人らしく、とにかくメンターが「この指揮者は世界最高レベルの一人だ」と熱弁している姿から恐らく凄い人なんだろうと理解することができる。

彼に率いられているのはマリインスキー劇場管弦楽団(Mariinsky Theatre Orchestra)。ゲルギエフが若く35歳の時に芸術監督に就任したキーロフ劇場から発展した楽団で、サンクトペテルブルクにあるマリインスキー劇場付属のオーケストラであり、ロシアを代表するオーケストラの一つだという。ゲルギエフの指導の下、世界的な名声を得るまでに発展したそうである。

もう一人重要な登場人物である、ピアノのアレクサンドル・トラーゼ(Alexandr Toradze, 1952年 - )。旧ソビエト連邦のグルジア出身のピアニストらしく、その後はアメリカへと活躍の場を移動させるが、とにかくロシアを代表するピアニストらしい。

これらが本日の基本情報で、オーケストラに引き続いて入ってくる指揮者のゲルギエフは如何にもこの世界で何十年もトップをはって戦ってきた雰囲気を身体中から発散させながら中々の雰囲気のある容貌。演奏を始めようとするが「指揮棒を持たずに指揮するのかな?」と思ってよく見ると、爪楊枝のような何とも可愛らしい短い指揮棒を持っている。しかも両手が「何かの薬でもやっているのか?」と思ってしまうほど細かく震えながらタクトを振っていくとても個性的な指揮者。

曲の始まりから今まで体験してきたオーケストラのような、「あ、日本のCMで聞いたことがある・・・」という心地の良い甘ったるく、脳の中でアルファ波が溢れるような心地よさは無く、一発で「さぞや前衛的だったんだろうな・・・」と思えるような不協和音ともいえるような曲の進行。

それでも、「これがストラヴィンスキーか・・・」と有りがたく思いながら聞いていくが、二曲目に入ると時々びっくりさせるように激しく鳴らされるドラムの音などですっかり身体中が緊張してしまう。

その影響もあるのかしれないが、二階席から見下ろしながら演奏を聴いていくと、この「マインド・コントロールにも使えるのでは?」という調べに身体を浸していると、「フラフラ」と目の前の手すりを乗り越えて下に落下していく姿を想像してしまい、その想像を頭の中から搾り出す事ができずに余計に身体が緊張してしまう。

「これは幕間で妻と席を替わってもらわないと・・・」と思って階下の妻の姿を目で追うと、感動しているのか口元を手で覆いながら指揮者を凝視する妻の姿。確かにこの音楽は身体をダラリと弛緩させて聞き入るようなものではないなと思いながらも、「早く幕間が来てくれ」と願いながら演奏を聞き入る。

やっとのことで幕間になり身体の緊張を示すかのようにトイレに向かって出てくると、どうにも見たことのある顔が。オフィスがロシアはモスクワのとても大きなコンペにショートリストされ、この数週間力を入れて進めているコンペがあるのだが、ロシアから来ているインターンの女の子もそのチームに参加していて、その彼女が今日のコンサートにも足を運んでいたようである。

「あれ、ストラヴィンスキー?」と声をかけると、そうだという。「ストラヴィンスキーはロシア人に好かれているの?」と聞いてみると、丁度妻もトイレにやってきたので、インターンの女の子と分かれて妻と一緒にメンター夫妻に合いに行く事にする。

メンター夫妻に「これっていいんですか?相当からだと緊張させるような調べで何とも楽しめないんですけど・・・」と聞いてみると、奥さんも同じような感想を述べていた。まぁ後半に期待しようということで妻に聞いてみると、「口を押さえていたのは隣の席の男性が、あまりにガーリック臭く、体中から発せられるその臭いにとてもじゃないが耐え切れないんだ」という。こちらは高さに参ってしまい、あちらはガーリックに参っているとは、なんとも似たもの夫婦だと思いながら、荷物を置いてきてしまったので席を替わることができずになんとかお互いに後半を乗り切ろうという事で席に戻る事に。

前半の3曲目から登場したピアニスト・トラーゼも幕間と一緒に引っ込んで、通常のオーケストラとして後半は『火の鳥』一曲のみ。さすが名曲といわれるだけあって、前半とは変わって随分楽しめることができた。所々で各楽器がリズムを変える様にしながらも有る場所ではきっちり一つの線になって戻って来る。ストラヴィンスキーが追い求めたポリスタイリズム(多様式)的な感覚というのが少しだけ理解できる気がする。

そんな調べを楽しみながら、先ほどバッタリあったロシアから来ているインターンについて思いを馳せる。大学時代に、自らの意思で世界中の建築事務所から一つを選び、こんな大気汚染にまみれた北京の地までやって来て、毎日設計の現場で実務が何かを学んでいる。それだけでも自分の学生時代には考えもしなかったと思うのだが、時間を見つけて、自分で情報を見つけて、自分の国・ロシア音楽界のスター達がやってくるコンサート・チケットを手に入れ、週末の夜にオペラハウスへと足を運ぶ。

これは相当に文化レベルの高い育ち方、家庭の教育を受けてきたのだろうと勝手に想像する。自分が学生だった頃に、そういうことを少しでも考える想像力があったらだろうかと思うと何とも恥ずかしい想いばかりである。中年に差し掛かってやっと、舞台芸術が面白いと感じられるようになって今だからこそ、彼女達の育った環境が如何に素晴らしいかが理解できる。

また、こういうことをきっかけでオフィスの中でプロジェクト以外に会話の糸口ができること、それを通して自分がよりロシアという国を理解する事ができる事は非常に嬉しい事だと思わずにいられない。

コンサートを終えて、メンターの感想を聞くと、やはり後半は凄く良かったと言っていた。妻と一緒に寒い北京の夜の電動スクーターで走りながら、そろそろ毛嫌いしていたロシア文学を手にしないといけない年齢に入ってきたんだなと思いを馳せながら家の棚に眠っているトルストイなどに思いを巡らす。
















2013年12月3日火曜日

音楽家の作り方

コンサートに足を運ぶことが少しだけ日常の中に入ってきた2013年の秋。

いくつかのコンサートを体験して思わずにいられないのは、音楽家の作り方。こんな現代を代表する大国の首都にあるオペラハウスで演奏するくらいの音楽家というのは、それはそれは業界では大成功。天才と呼ばれながらも努力を辞めなかった人たちばかりだと想像する。

様々なドキュメンタリーや映画で見るように、そんな世界的音楽家になるには、まさに「ファースト・ポジション」のような生活を幼少期から送っているのだろうと想像する。小さい頃から英才教育を受けて、学校教育では受けられない特別なレッスンを受け、地域レベルから国レベル、そして国際レベルへと指導者も変えながら成長していく。

世界がフラットになり、競争者が増えたことは、その競争をより厳しくさせ、開始時点をより小さな頃にさせる。音楽や踊りだけに関わらず、体操や水泳、様々な芸術とスポーツに同じ事が言えるであろう。そして競争が激しくなればなるほど、一流と呼ばれる教育には差異化の為に膨大なお金が必要になる。

つまりその経済的余裕がなければ競争に参加できないか、良い指導者というスペシャル・アイテムを手にする事ができない。「それが不公平か?」と言われると、おそらく人類の歴史上、このような特別なポジションを手に入れるには、多かれ少なかれ同じ事が繰り返されて、ある種の特権者だけがその競争に参加できたのだろうと想像する。

かつてはそれが階級や家柄などで守られていたかもしれないが、それが徐々に取り払われたこの資本主義の世界では、新しい差異化の手段として経済性を採用するのは一番安易な方法であるが、一番効率的なものであるといえるのだろう。

それがいいかどうかは別にして、こうしてステージの真ん中に一人立ち、小さなころから慣れ親しんできたその楽器から、「どうやったらこんな人を感動させる調べが奏でられるのか?」と思うような演奏を聴いていると、やはりこういう芸術的才能は小さい時から特別な教育を施さないと獲得できないものなんだろうと納得してしまう。

その身体を使い、楽器から創り出された音が空間を充満していき、徐々に人々を酔わせていく。その過程を見ていると、それこそ時代によってはある種の魔術師だと思われていたに違いないと思ってしまう。

恐らく芸術家についても同じような事が言えるのではと思う。芸大に入るような人というのは、油絵にしても彫刻にしても、やはり小さいころから親の影響などで特殊な教育を施されてきたという人が多いのではないだろうか。

そこで思わずにいられないのが建築家。果たして建築という極めて理性的でありながら芸術的感覚を必要とする職業においては、上記の音楽家、芸術家、運動選手のような幼少期からの特別な教育が必要、もしくは幼少期からの特別な教育を受けていればその分だけ能力が高くなることは可能であるか?

その答えのヒントになるのが、有名建築家の息子として育った人物で、同じく建築を職業としている人たちが父親同様、もしくはそれ以上の才能を発揮しているかを見ることがいいのかもしれない。少なくとも普通に生活していたらなかなか接する事のない建築家という職業。そのために父親という存在を近くで見ながら育つ事は、必然的により深い理解を身体の中に入れながら成長する事と同義であろう。

世界中を眺めてみても、どうも二世で成功した建築家は少ないように思われる。もしくは建築家としての生活を見ながら育つと、それと同じ道に進むのは嫌だと別の世界に行く人が多いのだろうと思うし、親もまたそう願う事が多いのだろう。

そもそも根本的な前提が違っていて、芸術家や音楽家の様に、親がなって欲しいと期待する職業に建築家が入っていないために、その様な特殊教育を受けさせるシステムが発展していないとも考えられる。それはイコールで、音楽家や芸術家のように社会的ステータスと経済的成功を獲得できる位置に建築家がいなく、成功や名声を求める親達にとっても魅力がないということか。

それとも違い、建築という社会に深く関わる職業であるからこそ、小さいころから将来を定め、ある一つの目的の為に盲目的に突き進む事は返ってその職業的視点を狭めてしまうことになるということかもしれない。

まぁとにかく世界的な音楽家を作るには、幼少期からそれなりの育て方が必要であるように、もし感性の豊かな建築家を育てるのなら小さな時にどんな事が必要であろうかと考えてみる。プリツカー賞受賞建築家である伊東豊雄が主宰するようなものがそれにあたるのだろうか?

恐らくそれよりも、日本全国に散らばる長い歴史を持った寺社仏閣を丁寧に見て周り、そこで何かを感じる事を育む事の方がよっぽど建築家として場所を読み解く力に繋がると思う。

まぁとにかく、建築家なんて育てられてなっても恐らく長続きはしない職業であって、自ら覚悟をもってでしか長い建築家人生を全うできないんだととりあえず納得する事にする。