2016年2月17日水曜日

どうせ日常に溺れるならば

どんな仕事をしていても、日々の業務に終われ、目の前の仕事を片付けることだけに視界が狭まくなる。長いスパンで、職業人として、社会に向けて、他にも様々なことに目を向け学ばなければいけないかは理解しつつも、歳をとるにつれて、徐々に時間も余裕もエネルギーもなくなり、仕事以外でのプロフェッショナルとしての能力を伸ばすことまで余裕が無くなるものである。

そうであるからこそ、否が応でも時間を過ごす日常の環境が大きくものを言うことになる。

20代で身につけた知識でその後もずっとやりくりできてしまうところなのか、それとも30代、40代と知識と共に経験も身につけながら、10年前の自分とは確実にスキルアップしていると思えるようなところなのか。

建築という幅広い世界に身をおいていれば、その日常業務もまた驚くほど幅広くなる。その中で異なった業務で関わる部分において、プロフェッショナルといえるだけの能力を深めていくことも大切であるが、と同時に、専門職としてカバーすべき能力の範囲を視界に捉えていくことも重要であろう。

どうしても、日常の仕事の内容によって、職業人としての職能が深まる程度が決まってしまうのなら、自分が常に向上し続けることができる業務に関われる日常に身をおくこともまた必要になるのであろう。

数週間や数ヶ月で身につくことから、数年単位で経験となっていくこと。そんな異なった時間スケールをもった専門知識を複層的に学ばなければいけなくなるような、そんな緊張感のある日常。そんな場所を手に入れることができ、そこに身をおき続けることができるのは容易なことではなく、常に外部の専門家とやり取りをしつつ、最先端の知識に触れる機会を持ちつつも、過去の前例から学びながら職業として未来につなげるような日常。

世界的に人材の流動化する現代においては、その様な場所を手に入れるためには激しい競争に常に晒されなければいけなく、気を緩めることはできない。それでも、「ここでいいや」とふと気を抜くよりも、どうせ日常の中に溺れるならば、溺れた先に手を伸ばすのが、プロフェッショナルとして自ら納得できる立ち位置であったほしいと願うばかりである。

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