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2016年2月9日火曜日

中国割烹旅館掬水亭 池原義郎 1990 ★★


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所在地  埼玉県所沢市大字上山口
設計   池原義郎
施工   西武建設株式会社
施主   西武鉄道株式会社
竣工   2013
機能   宿泊施設/ホテル
規模   地下1階 地上6階 塔屋1階
建築面積 965.78m2
延床面積 7,010.35m2
構造   RC造
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1992年 BCS賞
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狭山湖と双子のように広がる多摩湖。その東の端に立つのがこのホテル・中国割烹旅館掬水亭。先ほどの早稲田所沢キャンパスの設計者である池原義郎の設計による作品である。施主は西武鉄道で、施工は西武建設。この作品以前に手がけてきた西武グループ関連のアイコンとなる二つのプロジェクト、ライオンズ球場と西武遊園地も手がけてきた後に同じ西部グループの目玉となるホテルの設計を依頼されるということは、前の二つの仕事に対する施主側の満足度が相当に高かったこと、そして建築家と施主の関係が非常にうまくいっていたことが見て取れる。

それにしても、球場や遊園地という非常に特殊な建築で、下手をすればそれをきっかけにその分野に特化して次のプロジェクトへとつなげていきそうであるが、あくまでも建築という懐の広さを感じさせるように、そしてあくまでも建築の分野で設計に向き合っていくという意思表明のように、この掬水亭が設計されていた時期には日本中でいくつかのホテルプロジェクトが進行していたようであり、不特定多数が訪れ、一日単位で空間を体験していくホテルというプログラムに対してそれぞれの場所で異なる解答を探そうとしていたようである。

この場所では多摩湖のすぐ脇で、しかも少し起伏を持った敷地で前面道路からスロープを上がってアクセスするロビーでもすでに湖に向けての眺望が望めると非常に恵まれた敷地を最大利用する為に、客室を21室と限定し、全室から湖への眺望を確保できる配置として、宴会場やレストランを併設することで、恐らく時代的にも西武グループ、もしくは関連会社の保養施設的な要素を持ちつつ、高級宿泊室として外部にも開かれていたのであろうと想像する。

車寄せのキャノピーはその後いろいろな作品で見ることができる三角形を使用した軽やかな構造で、それぞれの部分がさらに細かいスケールの要素へと還元されており、それは内部のロビーでも同様に、池原デザインだと理解させてくれる特徴的なディテールが散りばめられている。

恐らく客室からは、朝目覚めとともに美しい多摩湖に反射する朝日で見られるのだろうと思うと、いつか泊まりに来てみたいものだと思いながら徐々に三多摩地域に近づいていくことにする。








2015年10月7日水曜日

東京芸術劇場 芦原義信 1990 ★★★


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所在地  東京都豊島区西池袋
設計   芦原義信
竣工   1990
機能   劇場(841席/300席)、コンサートホール(1,999席)
延床面積 49,739
規模   地下4階、地上10階
構造   SRC造(一部S造)
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今回は進めているコンサートホールの設計の為に、音響設計を担当していただいている世界的音響設計者である豊田泰久さんと、以前設計された東京の幾つかのコンサートホールを実際一緒に見学し、各部の設計がどの様になって、どの様に使われているのか理解するために訪れることとなる。

その一つの目的地が池袋に位置する芦原義信(あしはらよしのぶ)設計による東京芸術劇場。まずはその設計者について。建築に関わる人であれば、その設計よりもむしろ著書の「街並みの美学」が思い浮かぶであろう建築家。1918年生まれで、坂倉準三の事務所で働いた後アメリカに渡り、近代建築の先進国であったアメリカの地にてハーバード大学で修士を取得し、マルセル・ブロイヤーの事務所で働き、帰国後自らの事務所を開設し、武蔵野美術大学、東京大学で教鞭をとり、特に「景観」という観点から多くの名著を残した建築家である。

作品
1959年 日光ユースホステル(41歳)
1964年 オリンピック駒沢体育館・管制塔(46歳)
1964年 武蔵野美術大学 アトリエ棟など(東京都小平市)(46歳)
1964年 秀和青山レジデンス(東京都渋谷区)
1966年 ソニービル(48歳)
1967年 モントリオール万国博覧会・日本館(49歳)
1969年 富士フイルム旧東京本社ビル(51歳)
1980年 国立歴史民俗博物館(62歳)
1982年 金沢市文化ホール(金沢市)(64歳)
1990年 更埴文化会館(長野県千曲市)
1990年 東京芸術劇場(豊島区西池袋)(72歳)
1991年 岡山シンフォニーホール(岡山市)(73歳)

著作
1962年 外部空間の構成/建築から都市へ(彰国社)(43歳)
1975年 外部空間の設計(彰国社)(57歳)
1986年 隠れた秩序(中央公論社)(68歳)

こうして見ると、この東京芸術劇場はキャリアのかなり後期、70歳前後にて設計が進んでいたこととなり、建築家としてのキャリアの集大成に当たるものであるといえるであろう。こうして建築を訪れることを契機に、その建築家の作品を改めて調べ、プラスその建築作品を改めて自らの地図へとマッピングすることで、次の訪問へと線を繋いでいくことは、建築家の思考の過程を自らの身体へと取り込むことにも繋がる。

さてこの「芸術劇場」、先日訪れた「水戸芸術館」と非常に似た背景を持ち、共に専用のコンサートホールと劇場を持ち、展示空間も抱える複合施設。完成したのも同じ1990年ということで、計画が進んだのはバブル景気が弾け飛ぶ前夜ということも同じ。

そして共に永田音響設計がコンサートホールの音響設計を担当したというのも同じで、その二つの施設がこうして時代が変わった現代の日本にて、文化の場として都市の生活の一部となっているのを目撃するのもなんとも建築の命の長さを感じずにいられない。

さて、そんな似た背景からという訳ではないだろうが、水戸の設計者である磯崎新はかつて新聞に「東京には5つの文化施設という粗大ゴミができた」となんともセンセーショナルな言葉を発している。その一部だけを取り上げて、それが勝手に一人歩きし、様々なところで誤解を生じさせているようであるが、その5つとは、

東京芸術劇場 1990(芦原義信)
東京都新庁舎 1990(丹下健三)
江戸東京博物館 1993(菊竹清訓)
東京都現代美術館 1995(柳澤孝彦)
東京国際フォーラム 1996(ラファエル・ヴィニオリ)

であり、1931年生まれの磯崎新が一つ上の世代の芦原義信や師である丹下健三の作品に対しての発言と言うことでかなり注目を浴びたようであるが、その意図はこれらはすべて行政主導の公共建築であり、その建築の機能が都市の中においてどの場所に位置するか、それが今後の東京の発展を見据えて的確であるかどうか?という行政への提言であると言える。

池袋(豊島区)の東京芸術劇場
西新宿(新宿区)の東京都新庁舎
両国(墨田区)の江戸東京博物館
清澄白河(江東区)の東京都現代美術館
丸の内(千代田区)の東京国際フォーラム

これらが建てられた1990年初頭からすでに四半世紀が経った今、改めてそれを俯瞰して見ると、ヨーロッパの都市の様に、文化施設の中心がある程度はっきりし、どこに行けばよいのかが分かる都市計画とは違って、上記の様に23区にある程度ばらつきを持って散らばっているが、その後完成した大江戸線などによって比較的アクセスも確保されているという印象である。

その中でも両国(墨田区)の江戸東京博物館と清澄白河(江東区)の東京都現代美術館はやはり少々アクセスに問題があり、そのために一般的な知名度もそれほど高くはないのではと思わざるを得ない。

それに比べたらのこの池袋(豊島区)の東京芸術劇場はすっかり池袋の西口の顔となり、「池袋ウエストゲートパーク(IWGP)」というテレビドラマが物語る様に、完全に都市の一景観を作り出したと言ってよいであろう。それほど、池袋の西口はこの芸術劇場を無くしては語れないのではないだろうか。

それはともかく、建築を見ていくと東京都主導による「東京ルネッサンス事業」の一環として、世界に東京の文化を発信する場として優れた舞台芸術を都市に提供するようにと企画されたという。「東京ルネッサンス事業」という計画がその後どうなっているのか・・・と調べてみても、どうやらあまり情報は無いようである・・・

機能を見ていくと、この過密な都市の中心部の限られた敷地の中に、2000席近いコンサートホールに、800席を越す劇場ホール、そして300席のシアターとかなり厳しい条件の中、加えて地下には地下鉄が走っており、その騒音と振動は繊細な音を聴き取る空間であるコンサートホールにとっては大敵であり、強力な境界線を作り出して遮断するか、それともできるだけ距離を稼いで影響を薄めるかのどちらかの選択から、高さ方向に距離を稼ぐために最上部にコンサートホールを持ってくるというかなりアクロバティックな手法がとられたという。

地上階部分は多くの人が恐らく建築の一部だとは気づかずに通り過ぎていると思われる天井の高いガラスのアトリウム空間がエントランスホールと機能しており、この空間が地下で池袋駅と直結し、地上部には様々な商業施設などが入り込み、そこから巨大なエスカレーターによって各階にアクセスするようになっている。

この巨大なアトリウムを都市に解放することと、巨大なエスカレーターによって各機能が位置する階に直接アクセスできることで、大多数の人が利用する巨大な文化施設が地上面に近い階に位置していないという不都合をなんとか解消しているようである。

クライアントと一緒に後部の搬入口から入らせていただき、劇場の方の説明を聞きながら各空間を巡っていく。メインのコンサートホールは2000席近いボリュームを持ちながらも、素晴らしい音響が確保されており、プラス各席からのサイトラインも十分に保たれている様子である。しかし当時の日本では一体いくつのパイプオルガンが設置されたのだろうと思うほど、このホールも前後二つのパイプオルガンが設計されており、用途によって回転させて使っているという。

トイレやコントロールルームを一つ一つ確認し、色々な場所の席に座って音響とサイトラインを確認していきながら、少しずつ設計段階の建築家の思考を追っていく。

現在の東京において、現在進行形で作られているコンサートホールはほとんど存在せず、すでに十分に作りきられてしまっているのを見ても、コンサートホールと言う公共建築を設計する機会はそれほど貴重である。ゆえに、一つの都市や一つの国だけの経験に終わらせず、人類の音楽文化に対する経験とその英知を少しでも未来に向けて紡げるように、少しでも多くのことをこのホールから吸収し、現在設計しているホールの設計に反映できるようにと、舞台に向けて視線を正すことにする。









2015年10月6日火曜日

水戸芸術館 磯崎新 1990 ★★


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所在地  茨城県水戸市五軒町
設計   磯崎新
竣工   1990
機能   美術館、コンサートホール、劇場
規模   地上4階、地下2階
構造   SRC造・RC造(塔本体のみS造)
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東日本大震災後、引き続く余震の度にテレビの地震速報でグラグラと揺れている映像を見て、「大丈夫か、あのタワー?」と知名度を上げた感のあるこの水戸芸術館。水戸市100周年事業として市長の鶴の一声で「予算100億、タワーの高さも100m」と音楽、美術、舞台と言った文化を使って市の活性化をしようという壮大なプロジェクトである。

1990年と言えば、1991年に弾けたとされるバブル景気の真っ最中に計画が立ち上がり進行していたということになり、当時日本全国の自治体による様々な町おこしブームの一環として起こったものの中で、明確に「文化」を軸にし、現代にもしっかりと都市に根付いているのを見ると、その先見の明があったことを物語る。

そしてもう一つ先見の明があったと言わざるを得ないのは、当時どこでも「多目的ホール」という音楽の演奏も聴くことができ、演劇も見れ、更に大きな会議にも使えるという多用途に対応できるフレキシブルなホールがあちこちに生まれた。しかしこの芸術館では、計画当初から美術・音楽・演劇の各部門に「芸術監督」なる外部のスペシャリストを招聘し、建築家と協議しながら設計に反映したというプロセスを経て、多機能に重ね合わせるものではなく、あくまでも三つの機能を独立させ、それぞれの機能に特化した空間を作り出すという方法を取ったこと。

その為に、コンサートホールでは音楽を楽しむための音響に特化した設計に、美術館では自然光を取り入れ、様々なタイプの展示に対応できる長さのある展示空間に、演劇では舞台を取り囲むように360度に配置された客席によって観客と演者の距離を近づけ、「見る/見られる」の関係から一体に演劇を楽しむ空間に設計を押し上げることになる。

それらの三つの文化機能が複合され、全体として芸術館という一見分かりにくい名前が冠されているわけである。

そして敷地脇にはシンボルとなる高さ100mのアートタワーが設置され、これはエレベーターにて上部の展望台にアクセスできる設計となっている。東日本大震災でもぐらぐらと揺れながらも、決して倒壊することなくその構造設計の正しさを証明することとなる。

建築の設計を担当したのは磯崎新。再度そのキャリアを見ていくと、そのキャリアの中期の作品に当たり、同県のつくばセンタービルから7年を経て、また茨城の地にて重要な建築を手がけることになったということである。

1960年 大分医師会館 (29歳)現存せず
1966年 大分県立大分図書館(現アートプラザ) (35歳)
1966年 福岡相互銀行大分支店 現存せず
1970年 日本万国博覧会・お祭り広場の諸装置 (39歳)
1972年 福岡相互銀行本店(現西日本シティ銀行本店) (41歳)
1974年 群馬県立近代美術館
1974年 北九州市立美術館
1974年 北九州市立中央図書館
1983年 つくばセンタービル  (52歳)
1985年 ザ・パラディアム
1986年 新都庁舎コンペ案
1986年 ロサンゼルス現代美術館(アメリカ)
1987年 お茶の水スクエアA館(カザルスホール)
1987年 北九州市立美術館アネックス
1988年 東京グローブ座
1990年 水戸芸術館 (59歳)
1995年 京都コンサートホール
1998年 秋吉台国際芸術村
1998年 なら100年会館
2007年 イソザキ・アテア(ビルバオ、スペイン)
2008年 深圳文化中心
2008年 中央美術学院美術館
2011年 ヒマラヤ芸術センター (80歳)
2014年 上海交響楽団コンサートホール(中国)


最近設計を進めているコンサートホールのプロジェクトのため、日常的に様々なコンサートホールを訪れたり、図面を見たりしては、その肝である音響設計を理解しようと、すっかりコンサートホール漬けの日々を送っている。

そしてこの水戸芸術館でも、日本が世界に誇る音響設計のスペシャリストである、永田音響によって音響設計が行われ、2014年に同じく磯崎新設計によって完成した上海交響楽団コンサートホールまで、建築家と音響設計者とのコラボレーションは長く続くことになる重要な一作。

コンサートホールを見ると680席という中規模のホールで、この水戸という都市には適したサイズのホールとなっている。舞台を6角形にし、舞台の後ろにも客席を置き、前方は3方向へと座席が広がるタイプであり、舞台と客席の一体感を作り出す配置となっている。

本来コンサートホールにあるべきパイプオルガンが、この建物ではエントランスホールの上空に設置され、背の高いホールの空間を時に音楽イベントでも利用するという意図で設計されたという。

タワー、パイプオルガン、劇場、コンサートホール、美術館。そして併設されるレストランなどのサービス機能を考えると、一体どれだけの機能を合わせ制御しなければいけなかったのかと、その設計過程を想像すると少々頭が痛くなる。

それを100億という予算で行ったと言うのであれば、恐らく行政としては十分にもとの取れる投資であったのではと勝手な想像を膨らませる。

市街地活性化の為に行われたプロジェクトではあるが、まさか竣工後すぐにバブル景気が吹き飛ぶとは誰も想像しなかったであろうが、それでも完成からすでに25年。四半世紀を経てもしっかりとこの都市で重要な場所となっている姿を感じ取り、次の目的地へと向かうことにする。






















2014年2月2日日曜日

仁摩サンドミュージアム 高松伸 1990 ★


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所在地  島根県大田市仁摩町天河内
設計   高松伸
竣工   1990
機能   美術館
規模   地下2階
敷地面積 63,423㎡
建築面積 1,084㎡
延床面積 1,124㎡
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何で日本の文化施設はこうも早く閉館するのかと、9:00-17:00(受付終了16:30)という開館時間に恨みを吐きながら、スピード超過で捕まらないようにと気をつけ先を急ぎ、道を挟んだ側にある駐車場に車を停めて駆け足で階段を駆け上がり、なんとか受付に到着したのが16:25分。肩で息をしながらチケットを購入する。

「町おこし」のため、と掲げて作った施設であるなら、せめて完全に日が落ちるまでは開館しているべきではないだろうか。欧米の観光地では、日が長いのも寄与してだが、夜の21時まで空いている文化施設なんてざらである。大人が夜の闇の中で美しい照明に照らされた文化施設で優雅に観光をする。

それがどんな仕事の仕方をしていても、当たり前の様に税金にて給与が払われ、定刻に当たり前に閉館して家路に着く受付で働く地域のおばちゃん。文化施設と銘打つのであれば、少しでも訪れてくれる客に対して有意義な観覧をしてもらおうという姿勢があってしかるべきだと思うが、と訳の分からない八つ当たりが頭の中で渦巻くのを感じ、やはり時間の余裕が無いと人は品位を落とすなと自分を戒める。

さて、1990年に竣工なので1991年に弾けたバブル景気の真っ只中に計画・建設が行われたことになるこの作品。バブルの後押しを受けた建築業界の好景気。日本中で煌びやかな商業施設や後に「ハコモノ」と呼ばれる行政施設を設計しまくった建築家が何人か存在する。建築という経済に左右される宿命を持った職業だけに、それが良いか悪いかは別にして、「スター建築家」として青天井の予算で自らの設計思想を具現化する為にポストモダンの旗の下、なんでもありの建築を行っていたバブル期の建築家達。

建築家が建築物の計画構想を立ち上げるわけではなく、もちろん最初は行政などが色々と検討し、他の例を参考にし予算を獲得し、その計画のもと建築家を選定していく。その計画にそって設計を行った建築家が悪いかのように言うのは少々酷であるのは間違いない。

バブルという実体が伴わない景気に日本中が浮かれ、数十年後にはこの国の景気が後退し人口すら減っていく縮小社会に突入するなど想像して、その時代の社会も想定しながら建築計画を立てるべきだというのは流石に厳しすぎるだろう。

しかし山陰の小さな街で、なんら特別な産業があるわけでもなく、日本中から人を呼べるような観光資源がある訳でも無い街が、今後何十年に渡ってどのように街として存在していくか。それを真剣に考えたら、近くの浜の砂が「キュキュ」と鳴くような音がするからこれを使ったミュージアムを、地元出身の「スター建築家」に膨大な予算を元に全国から観光客が押し寄せるような目玉スポットを設計してもらえれば、後々まで語り継がれるような「町おこし」になって、この街がより活性化するだろう、とはなかなか考えられないと思う。

では何が背中を押したのか?

それこそが昔なつかしの「ふるさと創生事業」。当時の首相・竹下登の指揮のもと、1988年から1989年にかけて地方交付税交付団体となっている自治体に均一に使い道を自由とした1億円が交付された事業。まさに「ばら撒き」と揶揄されてもしょうがないとんでもない税金の使い道である。その竹下登の地元もこの島根県。何たる縁と思わずにいられない。

しかし、全国にばら撒かれた1億円がどのように使われたかを30年近く経った今となってはあ、その使い道の結果を見ることで、当時の各地方自治体とその首長が一体どんなビジョンをその自治体に持ち、どんな幸福な未来を見つめていたのかが良く分かる。


村営キャバレーを造ってしまったところもあるようなので、決してこの「サンドミュージアム」を構想した町長が政治家として悪かったということはなく、むしろ少しでも将来につながる地元の観光地を残す方向で税金を使用としたことは評価に値するだろう。

延床面積が1,124㎡なので、総工費がその「ふるさと創生事業」の交付金である1億円で賄えたとは思えないので、総工費が合計でどれだけになったかは定かではないが、間違いなくこの「ふるさと創生事業」の交付金の存在が「ゴーサイン」を出すことに寄与したのだろうと想像する。

さてこの街出身の高松伸。バブル期に京都の街中に多くの奇抜な設計を残した建築家でもあるが、この仁摩町出身と言うこともあり、地元出身の大建築家ということで山陰地方には多くの高松作品が残されている。その設計を廻っていくと、時代と共に大きく作風が変わっていくことが良く見て取れる。

さてさて、このサンドミュージアム。ルーブル美術館を思い出させるようなガラスのピラミッドが丘の上に鎮座し、その中の最大のピラミッドの内部には、全ての砂が落下するのに1年かかると言う世界最大の砂時計が展示されている。

まさかとは思ったが、その構想のヒントとなったのは、エジプトの3つのサイズの異なったピラミッドが呼応する風景であるという。「なんと直裁な・・・」と思わずにいられないし、「なんでエジプトのピラミッドがこの山陰の地に関係が・・・」と思わずにもいられないが、それがポストモダンだったんだといわれてしまえばそれまでなのだろうか。

兎にも角にも、建築家にとって、この山陰の地に必要なのは、強烈なシンボリズムを持った建築だったということだろう。

昨年、新国立競技場の国際コンペの結果について、その規模が今後の東京の社会に相応しいものかどうかを問う誠意と勇気のある建築家の声が社会を動かした。世のほとんどの建築家が、自己実現の為に得られる機会はできるだけ利用し、与えられた条件を受け入れてその中で自ら求める、そして目指す建築を設計する。その中でその前提条件に対して疑問を呈すことは相当に難しいことになる。

ただし、バブルに踊り、社会の不良債権を残した前世紀の日本の姿を見て育った我々世代の建築家は、数十年と言う長いスパンでその社会を眺め、本当にどんな公共の場が必要であるのか、こんな小さな街にこれほどの施設をどうやって維持し、使いきっていけるのか、身の丈にあった、コミュニティに適した建築とプログラムとは何なのか、ということを常に問い続けていかなければいけないのだろうと思わずにいられない。

『私と建築』、『私と建築2』など素晴らしい建築に対する言葉を紡いできた高松伸。素晴らしい建築家の眼差しを感じ、学生時分の自分も大いに影響を受けた著書。それらを読む中で、「こんな世界なら自らの一生費やしてもよいのでは」と十分に若者の心を掴んだものである。

優れた理論家が優れた設計をするとは限らないのが建築の難しいところであり、それでも優れた理論を振りかざす建築家が力を持つのもまたアカデミズムとして存在する建築の宿命である。そんなことを考えながらも、夕日に照らされた3つのピラミッドの風景もまた、この地で育つ子供達の原風景となっているのだろうかと思いを馳せる。