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所在地 東京都豊島区西池袋
設計 芦原義信
竣工 1990
機能 劇場(841席/300席)、コンサートホール(1,999席)
延床面積 49,739
規模 地下4階、地上10階
構造 SRC造(一部S造)
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今回は進めているコンサートホールの設計の為に、音響設計を担当していただいている世界的音響設計者である豊田泰久さんと、以前設計された東京の幾つかのコンサートホールを実際一緒に見学し、各部の設計がどの様になって、どの様に使われているのか理解するために訪れることとなる。
その一つの目的地が池袋に位置する芦原義信(あしはらよしのぶ)設計による東京芸術劇場。まずはその設計者について。建築に関わる人であれば、その設計よりもむしろ著書の
「街並みの美学」が思い浮かぶであろう建築家。1918年生まれで、坂倉準三の事務所で働いた後アメリカに渡り、近代建築の先進国であったアメリカの地にてハーバード大学で修士を取得し、マルセル・ブロイヤーの事務所で働き、帰国後自らの事務所を開設し、武蔵野美術大学、東京大学で教鞭をとり、特に「景観」という観点から多くの名著を残した建築家である。
作品
1959年 日光ユースホステル(41歳)
1964年 オリンピック駒沢体育館・管制塔(46歳)
1964年 武蔵野美術大学 アトリエ棟など(東京都小平市)(46歳)
1964年 秀和青山レジデンス(東京都渋谷区)
1966年 ソニービル(48歳)
1967年 モントリオール万国博覧会・日本館(49歳)
1969年 富士フイルム旧東京本社ビル(51歳)
1980年 国立歴史民俗博物館(62歳)
1982年 金沢市文化ホール(金沢市)(64歳)
1990年 更埴文化会館(長野県千曲市)
1990年 東京芸術劇場(豊島区西池袋)(72歳)
1991年 岡山シンフォニーホール(岡山市)(73歳)
著作
1962年 外部空間の構成/建築から都市へ(彰国社)(43歳)
1975年 外部空間の設計(彰国社)(57歳)
1986年 隠れた秩序(中央公論社)(68歳)
こうして見ると、この東京芸術劇場はキャリアのかなり後期、70歳前後にて設計が進んでいたこととなり、建築家としてのキャリアの集大成に当たるものであるといえるであろう。こうして建築を訪れることを契機に、その建築家の作品を改めて調べ、プラスその建築作品を改めて自らの地図へとマッピングすることで、次の訪問へと線を繋いでいくことは、建築家の思考の過程を自らの身体へと取り込むことにも繋がる。
さてこの「芸術劇場」、先日訪れた
「水戸芸術館」と非常に似た背景を持ち、共に専用のコンサートホールと劇場を持ち、展示空間も抱える複合施設。完成したのも同じ1990年ということで、計画が進んだのはバブル景気が弾け飛ぶ前夜ということも同じ。
そして共に永田音響設計がコンサートホールの音響設計を担当したというのも同じで、その二つの施設がこうして時代が変わった現代の日本にて、文化の場として都市の生活の一部となっているのを目撃するのもなんとも建築の命の長さを感じずにいられない。
さて、そんな似た背景からという訳ではないだろうが、水戸の設計者である磯崎新はかつて新聞に「東京には5つの文化施設という粗大ゴミができた」となんともセンセーショナルな言葉を発している。その一部だけを取り上げて、それが勝手に一人歩きし、様々なところで誤解を生じさせているようであるが、その5つとは、
東京芸術劇場 1990(芦原義信)
東京都新庁舎 1990(丹下健三)
江戸東京博物館 1993(菊竹清訓)
東京都現代美術館 1995(柳澤孝彦)
東京国際フォーラム 1996(ラファエル・ヴィニオリ)
であり、1931年生まれの磯崎新が一つ上の世代の芦原義信や師である丹下健三の作品に対しての発言と言うことでかなり注目を浴びたようであるが、その意図はこれらはすべて行政主導の公共建築であり、その建築の機能が都市の中においてどの場所に位置するか、それが今後の東京の発展を見据えて的確であるかどうか?という行政への提言であると言える。
池袋(豊島区)の東京芸術劇場
西新宿(新宿区)の東京都新庁舎
両国(墨田区)の江戸東京博物館
清澄白河(江東区)の東京都現代美術館
丸の内(千代田区)の東京国際フォーラム
これらが建てられた1990年初頭からすでに四半世紀が経った今、改めてそれを俯瞰して見ると、ヨーロッパの都市の様に、文化施設の中心がある程度はっきりし、どこに行けばよいのかが分かる都市計画とは違って、上記の様に23区にある程度ばらつきを持って散らばっているが、その後完成した大江戸線などによって比較的アクセスも確保されているという印象である。
その中でも両国(墨田区)の江戸東京博物館と清澄白河(江東区)の東京都現代美術館はやはり少々アクセスに問題があり、そのために一般的な知名度もそれほど高くはないのではと思わざるを得ない。
それに比べたらのこの池袋(豊島区)の東京芸術劇場はすっかり池袋の西口の顔となり、「池袋ウエストゲートパーク(IWGP)」というテレビドラマが物語る様に、完全に都市の一景観を作り出したと言ってよいであろう。それほど、池袋の西口はこの芸術劇場を無くしては語れないのではないだろうか。
それはともかく、建築を見ていくと東京都主導による「東京ルネッサンス事業」の一環として、世界に東京の文化を発信する場として優れた舞台芸術を都市に提供するようにと企画されたという。「東京ルネッサンス事業」という計画がその後どうなっているのか・・・と調べてみても、どうやらあまり情報は無いようである・・・
機能を見ていくと、この過密な都市の中心部の限られた敷地の中に、2000席近いコンサートホールに、800席を越す劇場ホール、そして300席のシアターとかなり厳しい条件の中、加えて地下には地下鉄が走っており、その騒音と振動は繊細な音を聴き取る空間であるコンサートホールにとっては大敵であり、強力な境界線を作り出して遮断するか、それともできるだけ距離を稼いで影響を薄めるかのどちらかの選択から、高さ方向に距離を稼ぐために最上部にコンサートホールを持ってくるというかなりアクロバティックな手法がとられたという。
地上階部分は多くの人が恐らく建築の一部だとは気づかずに通り過ぎていると思われる天井の高いガラスのアトリウム空間がエントランスホールと機能しており、この空間が地下で池袋駅と直結し、地上部には様々な商業施設などが入り込み、そこから巨大なエスカレーターによって各階にアクセスするようになっている。
この巨大なアトリウムを都市に解放することと、巨大なエスカレーターによって各機能が位置する階に直接アクセスできることで、大多数の人が利用する巨大な文化施設が地上面に近い階に位置していないという不都合をなんとか解消しているようである。
クライアントと一緒に後部の搬入口から入らせていただき、劇場の方の説明を聞きながら各空間を巡っていく。メインのコンサートホールは2000席近いボリュームを持ちながらも、素晴らしい音響が確保されており、プラス各席からのサイトラインも十分に保たれている様子である。しかし当時の日本では一体いくつのパイプオルガンが設置されたのだろうと思うほど、このホールも前後二つのパイプオルガンが設計されており、用途によって回転させて使っているという。
トイレやコントロールルームを一つ一つ確認し、色々な場所の席に座って音響とサイトラインを確認していきながら、少しずつ設計段階の建築家の思考を追っていく。
現在の東京において、現在進行形で作られているコンサートホールはほとんど存在せず、すでに十分に作りきられてしまっているのを見ても、コンサートホールと言う公共建築を設計する機会はそれほど貴重である。ゆえに、一つの都市や一つの国だけの経験に終わらせず、人類の音楽文化に対する経験とその英知を少しでも未来に向けて紡げるように、少しでも多くのことをこのホールから吸収し、現在設計しているホールの設計に反映できるようにと、舞台に向けて視線を正すことにする。