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2019年8月24日土曜日

「線は、僕を描く」砥上裕將 ★★

週末に書の稽古に通うようになった為か、新聞の書評で紹介されていた時に同じ墨の文化として気になっていた一冊。

先日札幌に出張に出かけた際に、せっかくだからと北海道大学のキャンパスの雰囲気を見に行こうと夜の散歩に出かけ、正門前でとても良い雰囲気を出していた古本屋に吸い込まれるようにして立ち寄ったら、ちょうど棚にこの本を見つける。きっと多感な年頃の大学生が買って、売りに出したのだろうと想像しながら、何かの縁だと購入してみる。

心に傷を負い自分の世界に閉じこもっていた大学生が、ひょんなきっかけで出会った水墨画を通し、水墨の世界の大家と呼ばれる先生や同年代の絵師など、様々な人との交流を経て、徐々に水墨画の魅力にとりこまれ、そして周りの世界との関りを取り戻していく物語。


墨を磨り、筆を浸して白紙に描く。どれだけイメージをしても、どうしても思うように書くことは叶わず、次の白紙に向かうことになる。何百年前にも同じように、この文字を悔しい思いをしながら書き続けていた人がいたのだろうと、邪な想像を膨らませると、また文字のバランスを崩してしまい、また白紙を重ねることになる。
そんな墨と筆が与えてくれる書の時間は、詰まるところ、自分自身と向き合う時間なのだと徐々に気づき始めた時に出会う、また別の墨の世界の物語。大学前の古本屋に並んでいたのにふさわしく、とても爽やかな読み心地をもたらしてくれたために、読み終えた後の最初の書の稽古にて、先生に紹介すると、ぜひとも読んでみたいとおっしゃっていただいた。

毎週末、学ぶものとして足を運べる場所があるということ。「日日是好日」 のお茶のお稽古の世界の様に、先生がいて、共に学ぶ人がいる。長い道のりの学びではあるけれど、季節の移ろいを感じながら、去年より少しだけ前に進んだ自分を感じられながら進む人生は、やはり日本人に合っているのだろうと思いながら、今週末に書く文字に思いを馳せる。

砥上裕將 

2015年5月10日日曜日

「プロフェッショナルとは何か―若き建築家のために」 香山壽夫 2014 ★★


「建築」を学ぶには様々な方法がある。

実際に建築に足を運び、どの様に空間が構成されているか、自らの身体を使って理解し、細部がどの様に設計されているのかを実物を目の前にして学ぶこと。

実務について、日々行われる様々な検討や施主や各専門職とのやり取りにおいて設計を組み立てていく方法を時間の中で学び、そして自らが描いた図面が現実の世界においてどのように立ち上がるかを現場にて学ぶこと。

専門知識を身に着けるために様々な書籍に目を通し知識を深め、実務能力の向上と共にそれらの知識の見えなかった部分が違った意味で理解できるように本での学び。

そんな「本」の中でも、学問としての建築の素晴らしさを学んだのが、学生時代に何度も何度も読み返し、線を引き、出てくる建築を別の書籍で調べた「建築意匠講義」。今でもたまに見直してみるが、その度に当時の自らの思いを嗅ぐ様な気持ちになれる一冊である。

その著者による最新の一冊。本を通して自らの職に対する「先生」と思える人に出会うことは喜ばしいことで、その人の本を読むことはまるで授業に出席するような気持ちになれるのもまた、息の長い職業に就いている上で、初心を思い出す貴重な時間でもあろう。

読み終えて改めて、改めて自分が選んだ職業に対しての責任を感じながら本を閉じることにする。


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/建築ー私の「プロフェッション」
自分の生涯の仕事、すなわち職業(プロフェッション)と決意し、そういう風に生きていくのが「プロ」です。

/「プロフェッショナル」とはどういうことか
建築設計の専門家としての能力によって、社会に奉仕する
「告白」あるいは「宣言」した人 聖職者
間違って用いられれば、社会を傷つけ壊す力を持つということを自覚する

/選ぶということ
人は選ばねばなりません。心を決めて、可能性の一つを選び、他を捨てねばなりません
何が成功か、何が失敗か、簡単には言えないのが人生なのです。
最終的に、自分の中で、自分に話しかけている、静かな、内なる声に耳を傾け、それによって、最後の決断をしている

/才能とは何か
基本的な手法を身につけずに、自由な表現などあり得ない
プラトン「君が、もし、建築や都市の設計者なろうと思うなら、先ず、第一に幅広い教養を身につけたまえ。なぜならば、様々な芸術家の中でも、建築家は、とりわけ広い知識と能力を必要とするからだ」
世阿弥は、能楽者になる為に大切なことは、ひたむきということだ

/屋根と柱
常に登るように作られている屋根に登ることは空しい。それは結局屋根ではなく床だからだ

/床と段
神道の最も古い形を示す、「磐座(いわくら)」が一段高いところを神の座とした

/大地と基壇
大地は常にうねり、隆起し、あるいは陥没し、変化しようとしている。その動きを抑え、静止さえ、そしてそこに水平面を作り出すことが、建築行為の出発点である。ではその水平面をどのように作り出すか。
方法は二つ 基壇を築くこと。
高床を築くこと
構築の基本
高床は大地から離れて空中に軽やかに浮かんでいる、それを支えている柱は、大地の力を受け止めていつも力いっぱい闘っている
伊勢の柱 コルビュジェのピロティ
基壇の上には、平安がある
基壇の上に立つ列柱には、永遠の安らぎと憩いが

/捧げものとしての芸術
大きな決断は個人を通して出なければできない。間違うかもしれないけど、最後は責任を持って自分で決断する。

/教会空間とは何か
シナゴーグが教会動画生み出される一つの母体であった
初期キリスト教の信者たちが作り出した教会堂建築、ふたつの対照的な平面形式に分類で「集中型」と「長廊型」というこの二つの形式は、人が集まる時に作り出す、二つの空間形式に対応している
前者を「囲み型」、後者を「対面型」
ゴシック様式長廊式の、一直線に信仰する空間の運動性を、一つの極点まで高めた
水平方向と、垂直方向という二つの運動性の、極度に強調された構成が、ゴシックの建築空間の特徴
会衆は祭壇から遠ざけられ
朗読も説明もほとんど聞き取れない
ルネサンスの建築家たちは、集中式の建築に注目し、それを復活させようとした
中心を囲んで集まり活広がる力と、中心に直面してそれを熟視する力をいかに統合する

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■目次
・建築家という「プロフェッショナル」の意味すること
 「プロフェッショナル」とは何か
 いかにして「プロフェッショナル」となるか
 「いつも喜んでいなさい」
・建築家の日常と仕事
 町の家と山の家
 人生のみちしるべ
 「内田ゴシック様式」の展開
・都市に開かれた新しい門と広場
・内田ゴシック建築の上方への展開
・ルイス・カーンの教え
・フランク・ロイド・ライトの内なる対立
・空間と表現
・建築にしかできないこと 聞き手:長島明夫
・建築の経験 建築の持続
 教会堂建築とは何か
 必読指南
・若者への問いかけ、あるいは自身への問い直し
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2015年5月9日土曜日

対話の相手を持つ幸せ

年齢に応じ自分が話したい相手を、自分が思うように受け取り、対話が可能な相手がいることは幸せな歳の重ね方なのだと改めて思う。

人間、歳を取れば取るほど、色々なことを経験し、色々なものを学び、色々なことを考えてくるものである。当然、その過ごした時間によって、自分の意見や考え方もできてくる。真面目に生きていれば生きているほど、自分が過ごした時間とその間に考えたことを今度は誰かに語って聞かせたくなるものであろう。

その聞かせる相手というのは、学校で先生と生徒という関係であったり、会社で上司と部下という関係であったり、家庭で夫婦や子供との間であったり、または友人間でのやり取りであるかもしれない。

もっと多くの人に聞いてもらいたいと思う欲求を向ける先は、現代であるならば、ブログでつづる文章になったりすることもあるだろう。

しかし、もっと多くの人に読んでもらいたいと思う人、もしくは周囲からその貴重な知識や考えを世の中に広めるべきだと声がかかる人には、やはり今までの様に、講演や書籍という形でその考えが世に広まっていく。

歳を重ね、社会的地位が高まれば、自分が考えていることを本という形で世に出すことがより容易になっていく人もいるのであろうが、本当に幸福なのは自分が伝えたいという内容を、自分が伝えたいと思う相手、もしくはそれを正しく受け取ってくれるであろう相手に向けて発することが出来ることだろうと思わずにいられない。

そのタイトルに引かれ手にとった本も、読んで見ると「これをわざわざ世に発する必要が本当にあったのか?本にする必要が本当に重要だと著者が真剣に考えていたのか?」と思うような内容の本に出くわした時の失望は相当に大きい。

夫婦でも、職場でも、友人でも、自ら年齢を重ね、自ら積み重ねる経験や知識に比例して、思考する内容を共に共有し、対話を重ねることのできる相手が身近にいる。そんな歳の重ね方をしたいものである。

2013年9月28日土曜日

「こゝろ」 夏目漱石 1952 ★★★


自分自身の古典を探すためには、人生の中で何度も同じ本を読み返す事が必要だということで、本棚の中から忘却の彼方に置かれている本を探しだし、手に取った一冊。

言わずと知れた「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」の物語。

書生システムがまだ生きていて、学校以外でも自らの「先生」と呼べる人物にである事が可能だった明治末期。

陳腐化する以前の有産階級達がまだ生存していた消費社会の波に呑み込まれる前の日本。その時代には、「生きる」ことに膨大な費用を支払う現代のような汲々とした日常は無く、家族と女中、そして数人の書生を抱える姿は多くの過程で見られた風景であった。

田舎のそこそこの資産家の息子である自分。そして同じく田舎の資産家の息子であった先生。共に学の為に東京にやってきて、学ぶことを目指して日々を過ごす。

書生でありながら夏には涼を求め、房州を巡りながら学習をするなんて、現代から考えたらなんとも贅沢な時間の過ごし方が可能であった時代。高度成長という幻影のお陰で、国全体が豊かになったように見えるが、かつてあった文化的豊かな生活を送る余裕と、それを支える経済力を共に持ち得るのが非常に難しくなった現代は、本当に豊かになったのだろうか?と思わずにいられない。

自分は何を成すべきか?
自分のすべき事に対して自分の日々の過ごし方は十分にストイックであるか?

そんな高貴な思いではなく、もっとドロドロした人間の本質的な感情。自分が叶わないと思っているライバルとどうにかして蹴落としたいが、それを自分が好意を寄せてる相手に知られたくは無い。

千利休が死をもって永遠なる文化の華を咲かせたように、Kもまた死をもって永遠に先生の心の中で生き続ける。明治天皇の崩御に続いた乃木大将の自決。死が選択肢として生きていた時代のまっすぐな自らの表現。

ネットが露にしつつある人間の醜い本性。努力することなしに、誰か近しい人間が自分よりも高みに足をかけようとすると、ものすごい勢いで足をすくおうとする負の力。社会全体が病みだし、生きていくのが簡単ではない現代。

そんな時代にこそ、読み直す価値がある一冊なのかもしれないと読み直しに満足できる一冊。

2013年9月9日月曜日

「なぜ日本人は学ばなくなったのか」 齋藤孝 2008 ★★★

気がついたら1読書サイクルである4年になっている。文庫100冊、新書50冊。専門書、新書、文庫とサイクルで読み進めていたが、どうもサボリ癖がでてしまい、到底読書力のある生活とは言えないこのごろ。

積みあがっていくのは文庫の中でもカウントされない娯楽小説の類ばかり。これはまずいなと新書の数を増やすためにも手にした齋藤先生の新しい本。どうもかなり怒ってらっしゃるようである。そしてひたすらに耳が痛くなる一冊である。

それにしてもこの齋藤先生。もう何年もテレビで見続けているが、知識人という枠の中で常に必要とされるということは、次から次へと出てくる新しく面白い人材がいるなかで、それでもやはり齋藤先生だと言われる何かの理由があるのだろう。それはこの本で書かれている飽くなき向上心であり、総合的教養に支えられた人間性なのだろうと勝手に想像を膨らませる。

生命の宿命として、個体は必ず死を迎える。これは避けられない。誰でも必ず死ぬ。その個体として、自らの一生の中でも身につけた生きていく為の知識や経験を如何に同じ種の仲間に伝えるられるか?その術をもった種は生存競争の優位に立つことになる。その方法は当然の様に伝達による。そして知恵や経験は言葉に置き換えられ時間を超える。それを受け止めるのは「学び」。つまり学ばなくなった個体は、生物としてというよりも種としての生存本能を失ったことと同義である。そんなことを思いながら読み進める。

線が引かれた部分をメモにするために目次をネットで探すが、この本はどこを探しても検索に引っかからない。しょうがないので諦めて自分で打ち込むことにする。妻からもらったペーパー・ウェイトを役立てながら、章題から見出しを打ち込んでいくだけで、十分に耳が痛くなる内容。

日々の生活に汲々としていた時期に手にした本で、耳を痛くしながらもやはり再度の教養だと突入したはずの読書力のある生活。それにもかかわらず、現在の本棚に並ぶのは背表紙に何の個性も表さない小説と呼べないような娯楽文庫の山と、緊張感を持った読書から逃げ出すように途中で投げ出されっぱなしの専門書コーナー。ああ、恥ずかしい。

大学で学生を相手にする時期は、新年度が始まる前に知識の更新時期だとし、2月から3月にかけて大量に購入する建築関係の本と、時代を読み解く新書と、世間を賑わせる文庫。それらを短期に詰め込んで、準備をして向かえる新学期。学校に誘ってくれた恩師の「出来る限り勉強してくれ」というプレッシャーに対峙するための自己防衛。

社会無くして語ることが出来ない建築だからこそ、社会に目を向けない建築家がいない様に、出来るだけ幅広く現代を知るのと同時に、齋藤先生はじめ尊敬する知識人の読んでいる本を調べては、様々な分野に手をつける。

始めは浅く広くと。そして一部から深く掘り進める。ある一定の深さになったら、そこからまた横へと広げていく。そして徐々に立体的な知識の空間を構築する。そんな身体的感覚を伴った読書体験。

人は堕落する生き物であるのは当然で、読書は本来快楽であるはずなのに、読まなくなるのもまたすぐに日常へと組み込まれる。それが人間の適応力。「読んだほうがいいよ」と妻に薦め、「どう、耳痛くなってきた?」と痛みを共有しようと試みる。さぞや自分よりもキツイ痛みだろうと想像していたが、どうもあまり応えていない様である。しょうがないので堕落した自分の姿に一人で向き合うべく、耳を擦りながらも下記の本文をパソコンに打ち込むことにする。

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「バカ」とは、もちろん生まれつきの能力や知能指数ではない。「学ぼうとせずに、ひたすら受身の快楽にふけるあり方」の事だ。

学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心をもたない人間は、自分の明日を今日よりも良い日だと信じる事ができない。「生きる力」とは、「学ぶ意欲」とともにあるものだ。

当たり前の話ですが、人は勉強しなければバカになります。

何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣がごく自然に身についていた

まず自分より優れたものがあることを認識し、それに対して畏怖や畏敬の念を持つこと

ところがある時期を境にして、日本には「バカ」でもいいじゃないかという空気が漂い始め、もはや「あこがれ」という心の習慣自体がありません。学び続ける精神や教養への敬意はないし、学ぶべき書籍や教科書の価値も分からない。それに教えてくれる先生への畏敬の念もない。

ひたすら水平的に「何かいいものは無いか」「おもしろいものはないか」と探し回っているだけの自分探し。

読書の時間とは、著者が自分ひとりに語ってくれる静かな時間であり、それによって自分を掘り下げる時間である。

リスペクトと言う「精神のコスト」をかけずに得られるものは、所詮「それなり」でしかない。

いわば知性のないこと、あるいはそれを逆手にとって開き直る姿が、「強さ」として映るような時代になっている

人間の心の潤いというものは、尊敬や憧れの対象をもてるかどうかで変わってくる

外の情報を検索し、活用し、快適な暮らしをするだけの存在としか捉えられない

親元を離れ、食事も選択も自分でやらなくてはいけないという状況自体が、大学以上に人間としてのステージをクリアする事であった。「上京力」。上京への憧れ、プレッシャー、孤独感、負けん気、誇りと意地。緊張感のある向上心を生み出していた。

競争には参加せず、自分の実力を高める努力は避けつつ、一方で「君はユニークだ」「唯一無二だ」「資質がある」とほめてもらいたい。都合のよい欲求。

授業は授業料の対価としてのサービスとする学生と消費者(学生)優位に陥る大学の逆転現象。浅く短い学生生活を終えていく。一体彼らはいつ勉強したといえるのか。

知的な本を読む習慣さえ持っていません。軽い読み物ばかりです。小説ともいえない通俗小説やマンガ。

大学で学んだことを語れなければ、大学を出た意味がない。基本的な向上心と言うものは、読書量に現れます。学生時代に本を読む習慣を身につけないと、社会人になってからはなおさら読みません。

未来のタイムスパンは短期化している。無定期、無期限の夢だけを見て今を生きる。

いつまでも自分はフリーでありたい、モラトリアムな状態に置いておきたい。自分ひとりの自由。社会的な責任を負いたくないと短絡的に発想する。

学ぶと言う事は、たんに知識を獲得するだけの行為ではない。そのトレーニングを通じて、わからないことや大量の問題に立ち向かっていく心の強さを養っていく事

ウォークマンの出現により、自分自身の快適な空間を持ち運べるようになった。音楽は麻薬に似ている。音楽を聴くには努力も才能も徳も不要。要するに努力しなくてもエクスタシーを味わうことができる。地道な努力の果ての達成感、それは登山のようなもの。誰でも易きに流れやすいもの。「気持ちいいことが好き」。

アメリカのヒッピー文化。家から離れ、若者だけで漂流し、さまざまな人と出会い、コミューンと呼ばれる集団生活を行うというライフスタイル。

異性関係における若者の評価ポイント。イケメンかどうか。見た目が良いか。見た目が欧米人に近いことを重視する。

経営者の場合、強靭な精神が求められます。一般の人には考えられないほど、心身ともに疲れる激務です。途中で休むとか、具合が悪いから誰か交代してと投げだす訳にはいきません。自分自身がぶれない中心と言うものを持っている、あるいは判断力の基礎を養っているという自身があれば、それを原動力としてさまざまな障害を乗り越える事ができる。

自分の成功や快適さより優先すべきものがある。人としてどう活きるべきかどうか指針を持つ。

読書にかぎらず、高い山の切り立った崖を登るような努力やエネルギーを必要とする事は、若い頃に経験しておくべきなのです。

概して人間的にはさして問題ない。しかし、あまりにも本を読まないために、教養がない。したがって読書で知識・教養を得る面白さを知りません。高いレベルのものに憧れ続ける事によって、自分の心を生き生きとさせるという習慣も身につけていません。結局そのまま大学を卒業してしまうのです。

多くは生活に終われ、仕事のみに汲々とする日々を送っています。そこでどうやって心を癒すかといえば、インターネット、テレビ、あるいはSNS。いわば高校の同窓会のような雰囲気を続けている。ネット上では、お互いに追い込み合わないような、ゆるやかな会話が繰り広げられる。そしてお互い安心しあおうとする。

マルクスも指摘したとおり、こうしう文化的なことは経済的な基盤がなければできません。下部構造としての経済活動があって、初めて文化が生まれるということは、世界史を見ても明らかです。一人残らず明日の食べ物に困っていたら、さしもの紫式部も物語を書く余裕は無かったはず。
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一つ一つの段落ごとに猛省をし、せめて今まで読んではそのままになっていたメモを纏めるのから始めようかとカレンダーを遡ることにする。

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本文中で紹介される本や映画など
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栗原彬「やさしさのゆくえ=現代青年論」
石原慎太郎「太陽の季節」
アラン・ブルーム「アメリカンマインドの終焉」
富田常雄「姿三四郎」
福沢諭吉「学問のすゝめ」
サミュエル・スマイルズ「自助論」
サミュエル・スマイルズ「西国立志編」
西田幾多郎「善の研究」 
倉田百三「青春をいかに生きるか」
阿部次郎「三太郎の日記」
新渡戸稲造「自分をもっと深く掘れ!―名著『世渡りの道』を読む」
夏目漱石「こころ」
「きけ わだつみのこえ」
林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
スタンダール「赤と黒」
バルザック「谷間の百合」
ピエール・ロティ「氷島の漁夫」
マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々」
フローベール「感情教育」
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
倉田百三「出家とその弟子」
西田幾多郎「自覚における直観と反省」
和辻哲郎「古寺巡礼」
倉田百三「愛と認識との出発」
筒井清忠「日本型「教養」の運命 歴史社会学的考察」
森見登美彦「太陽の塔」
ハイデッガー「存在と時間」
渋沢栄一「論語と算盤 」
ジョン・スタインベック
ウィリアム・フォークナー
フランシス・フィッツジェラルド 
アーネスト・ヘミングウェイ
ジャン=ポール・サルトル「嘔吐」
ジャン=ポール・サルトル「存在と無」
九鬼周造「「いき」の構造」
和辻哲郎「風土―人間学的考察」
レヴィ=ストロース「野生の思考」
下村湖人「論語物語」

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目次
序章 「リスペクトの精神」を失った日本人
・バカを肯定する社会
・垂直志向から水平志向の世の中へ
・「検索万能社会」であらゆる情報がフラットに
・大学教授を引きずり下ろすテレビの性
・「内面」のない人間があふれ出す
・「ノーリスペクト社会」の病理


第1章 やさしさ思考の落とし穴
・濃い交わりを避ける学生達
・幼稚化する中高生
・「知」と出会わずに卒業していく大学生
・読書量の減少は向学心の衰退
・自ら転落していく若者達
・経済より深刻な「心の不良債権」
・「夢」しか持てない30歳代アルバイター
・若者はなぜ「やさしさ」に目覚めたのか
・「やさしさ」と「自由」の相関関係
・社会へのアンチテーゼとしての「やさしさ」
・「心の不良債権」の処置を
・「ゆとり教育」こそ元凶だ
・「偏差値教育」のどこが悪い?
・世界に比べても学ぶ力が落ちた日本の子供
・「モンスター・ペアレンツ」が子供に与える影響
・公立小学校の授業と教科書のレベルを上げよ
・将来の格差を是正する為に、今できる事

第2章 学びを奪った「アメリカ化」
・「アメリカ化」する若者達
・教養に対して「ノー」を表明する国・アメリカ
・ロックで簡単に得られる快感
・「性の解放」が日本にもたらしたもの
・「教養主義」はいつ没落したか
・ヒッピー文化が再興した「身体論」
・「中身」より「見た目」重視へ
・憧れの対象は白人文化から黒人文化へ
・アメリカ文化の優れた部分は導入せず
・精神の柱を失い、金銭至上主義へ
・広がる格差、崩れる信頼関係
・「学び重視」から「遊び重視」への大転換

第3章 「書生」の勉強熱はどこへ消えた?
・司馬遼太郎はなぜ「書生」にあこがれたのか
・「姿三四郎」に見る師匠と書生の濃すぎる関係
・「深交力」があればこそ
・大家族、居候、書生が当たり前だった時代
・「同じ釜の飯を食う
・学ぶ事が身体的だった素読世代
・明治の文豪は「一家」を背負っていた
・若い時代の「修行」が糧となる
・「書生再興」のすすめ
・「深効力」は人生の醍醐味

第4章 教養を身につけるということ
・旧制高校に心酔して
・哲学的思考を試みるなど垂直願望の生活を送った
・新旧の「世界」の違い
・「わだつみのこえ」の格調高さはどこから来るのか
・独特の「恥の文化」が向学心を生む
・修養主義から教養主義へ
・哲学を学び、思考の基本スタイルを作る
・大学の「一般教養」に忍び寄る危機
・教養の欠落を嘆く人すらいなくなった
・「新しい教養」としてのマルクス主義
・マルクス主義に予見されていた今日の日本
・「徳育」教育への期待
・倫理観を再興するための「読書力」
・「迂回」を知らない社会の脆さ
・現代恋愛事情が生み出した虚無感
・お金の使い方にも本来は教養が必要

第5章 「思想の背骨」再構築に向けて
・責任は中高年世代にある
・薄い人間関係を志向する若者達
・「パノプティズム」に陥った日本
・「コーチング」が流行する裏側
・早期退職する若者達の悪循環
・読書とは自分の中で行う他者との静かな対話
・「無知ゆえの不利益」に気づけ
・実在主義の「投企」に生きる意味がある
・「ポストモダン」で思想は終焉した
・思想なき世をいかに生きるか
・「ガンダム=世界観の全て」の恐ろしさ
・思想的バックボーンが溶解した日本
・「学び」へのリスペクト導火線に火をつけて

あとがき 次代へのメッセージ
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