ラベル NHKスペシャル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル NHKスペシャル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年4月22日土曜日

「わたしは、ダニエル・ブレイク」 ケン・ローチ 2016 ★★★

--------------------------------------------------------
カンヌ映画祭(2016) 最高賞パルムドール受賞
--------------------------------------------------------
日本でも宮崎駿監督が引退撤回で再度長編アニメをと意気込んでいるように、海の向こうでも往年の名監督が現代の社会を憂い、再度映画の世界へと舞い戻ったことで話題になった作品。

その作品が、2016年のカンヌ映画祭で最高賞・パルムドールを受賞するというのだからケン・ローチ(Ken Loach)の作品はこれを機にちゃんと観てみようと良いきっかけになる。

ユーロ離脱で揺れに揺れた2016年のイギリス。緊縮財政政策で福祉にかける予算が減らされ、現場の職員には余裕は無くなり、それが本当に困っている一般市民へとジワジワと押し寄せるそんな姿が見事に描かれる。

ブレグジット(Brexit)に追い込まれたのは、移民問題とユーロ問題と言われるが、ヨーロッパにおいても移民に対して最高レベルの保障を与えてくれるイギリスは、国境を失ったEU内部の国々からの人々のもっとも望む目的地となった。彼らの福祉の為に支払われる膨大な税と、比較的低賃金でも自らの出身国での待遇に比べたら遥かによい給料が支払われる仕事は次々と移民の手へと流れていき、単純労働と呼ばれる職がイギリス人から奪われる。

国際政治の舞台において「寛容さ」を失わないために、ポリティカル・コレクトネスを保持していくことは、真綿で首を絞めるように、今までは何の疑問も持たずに仕事をし、それなりの生活を享受できた自国民の生活を苦しめていく。

リテラシィが低いことで本来得られるべき補助を得られなくなるのは、情報でもITにおいても同じことである。本来なら様々なところで公的な助成が受けられるのに、それを知らない為に自らとその子供たちを貧困のループに陥れてしまう情報の難民の様に、主人公の元大工のダニエルもパソコンとインターネットの使い方が不慣れな為、公的な補助を思うように受けられず、宙ぶらりんな状態で苛立ちだけが募っていく。

そんな中に福祉施設の受付で、同じようにトラブルに巻き込まれているシングルマザーと2人の子供と出会い、似たような境遇の者同士助け合いながら、それぞれに向き合っている厳しい社会の現実を描き出しながらも、互いにできるところで助け合うことで、「私は人間だ、犬ではない」という言葉に示される「尊厳」を描き出す。

これと同じことは、恐らく現在の日本の様々な都市でも見られ、シングルマザーで生活がままならないまま、子供たちも貧困や非行へと落ちていく姿や、情報にアクセスする余裕すらなく生活に追われ、それでも「自己責任」として周囲に助けを求めることなく社会から孤立していく人々。

この時期に、この内容で、こうして社会を描くことは、やはり社会派監督として映画の力を信じてのことであろうが、昨年あたりまで繰り返しの様に放送されるNHKスペシャルを見ているような思いになるのも、また事実。ぜひとも、日本でもこのような内容の映画が、テレビのドキュメンタリーとしてではなく、「映画」というメディアで作られる、そして多くの人がそれを通して社会の現実や問題に目を向ける。そんな時代が日本にも来ることを祈らずにいられない。
ケン・ローチ(Ken Loach)

デイブ・ジョーンズ(Davy Jones)
ヘイリー・スクワイアーズ (Hayley Squires) 


2015年12月5日土曜日

「NHKスペシャル|調査報告 介護危機 急増“無届け介護ハウス” 」 NHK 2015 ★★


2016年の日本。どんな都市に住んでいようとも、現役世代は親世代やその上の祖父母世代の介護問題を、現実問題として常に日常の中にあるか、すぐ横に迫っている。誰もが家族や親戚の中で、介護が必要になった高齢者をどうの施設に入れるか、また費用や待機の問題で入れることが出来るか、そしてそのやり取りにおける家族への負担を実際に体験しているはずである。

それと同時に、この10年近くで地方を巡ると大きく風景が変わったことに気がつくことになる。「こんなところに大きな施設ができたけど、なんだろう・・・」と思うような施設は大概、この様な高齢者ケア施設であることが多い。非常に控えめで、決して目立つことなく風景に溶け込もうとしているが、それでもやはり何かしらの違和感を風景に与える結果になっているのは否めない。

そんな高齢化社会が実際問題として社会の風景を変え始めた現代。政府が取った方針は、できるだけ「在宅介護」を推し進め、社会保障費を抑制しようとする政策。病院側には、患者の多くを在宅に帰さなければ診療報酬を加算しないようにして、無期限に受け入れるのではなく、できるだけ「帰宅」という結果を出させようとし、また逆に高齢者側にも比較的低予算で入所することが出来る「特別養護老人ホーム」への入所条件を厳しくすることで、現在でも多くの人が待機老人として入所街しているにもかかわらず、更に入所できない人を増やすことになっていく。

そうなると、自らの経済的負担を増やして、民間のケアハウスなどに入所しろということになるが、それには驚くほどの費用がかかるのは、恐らくどこの家庭でも既に経験済みにことであろう。何百万、何千万という費用を払ってケアをしてもらうか、それとも仕事を辞めたりやり方を帰ることで、家庭の中から誰かが介護をするか、いわゆる介護格差がより一層鮮明になることになる。

そんな状況の中ある意味必然として登場するのがこの無届け介護ハウス。その内容はいくつか異なるケースがあるが、この状況に苦しむ人々に対しての受け皿をなるべく、低予算でも十分なケアが受けられる施設を高齢者やその家族の視点から考えて社会に提供しようとし、空き家となった民家に手を入れて、共同で生活を営みながらケアを提供するというケースにおいては、政府が定める施設の設備まで完璧に満足するには相当な費用がかかってしまい無理ではあるが、実際問題として生活を営み、困っている家族の負担を軽減するための使用できる施設としてはなんとか十分であるという状態であり、その為に行政側からとしては基準を守るために改修をするなどの要求を突きつけられ、それが出来ないなら施設の運営を取り消す処分を行うなどの厳しいやり取りが行われている。

そうで無いケースは、「安かろう、悪かろう」ではないが、この状況を一つのビジネスチャンスと見込み、誰も使わなくなった建物のストックを利用して、高齢者の生活に相応しい建物として改修することなしに、とにかく家庭では面倒を見れなくなった高齢者を家から出し、その受け皿として低予算で入ることが出来る場所を提供するという施設も登場してくる。もちろん、集団が共同で生活する、更に身体の不自由な高齢者であるということを考えれば、火災など何か発生したときに大きな問題になるのは目に見えている。

だからこそ行政側もできるだけこれらの施設を取り締まろうとするが、それでも社会のいたるところに、こういうレベルの施設でも高齢者を受け入れてくれ、自分達の負担が軽減するのは非常に助かるという家庭があるというのも現実であり、彼らに上記の非常に高額な民間の受け入れ施設を許容できる経済的余裕があるかと言えば、決してそうではなく、その社会の歪が徐々に大きくなっていっている。それが現在の日本。

恐らく、今後都市部よりも地方都市の方が、この社会問題によってどんどん風景が変わり、その速度はより加速するものと想像される。それぞれの場所で生まれた人々が誰でも入れることの出来た小学校や中学校。それと同じ様に、人生の最後に誰でも低予算にて入ることの出来、そして決して贅沢ではないが必要十分なケアが受けられる終末を迎える施設はどうにかして行政側で作り運営していく、それが本当に必要な時期になってきているのだろうと想像する。

その為には、本当に税金が不必要なところに回されたり、途中で搾取されたりと消えたりすること泣く、明確にどんな使い道がされたのか、それがどんな効果をもたらしているのか、そんな風に国の運営の仕方が変わっていくことを願うばかりだと思いながらテレビを消すことにする。