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2016年2月23日火曜日

「日本人はなぜ美しいのか」 枡野俊明 2014 ★



海外でもその庭園作品が知られ、随分とさまざまな場所で講演に呼ばれたり、作品を手がけていることで、建築に関わる人間であれば、禅僧というよりは、ランドスケープデザイナー、作庭家として認識している著者。いつか一緒にプロジェクトに関わることができたら良いなと思っている一人でもある。

そんな著者の名前を本屋で見かけ、「これは手にとっておかないと」と購入した一冊。京都などでよく見ることができる枯山水と呼ばれる庭園は、室町時代の禅宗寺院で発展された世界観であり、そのために禅僧であり、かつ作庭も手がける著者が何を語っているのかぜひ知ることができればと期待した一冊。

「日本人の美しさとは、しなやかな強さである」という著者。具体的な作庭への思想や方法論がかかれているかと思ったが、どちらかというと「日本人がどれだけ巣晴らしか」ということが主なトピックを占めているので、「あれ?」と思い調べてみると、驚くほどの著書を出版している著者・・・

個人のクライアントへの庭園プロジェクトが多いようであるが、一度ぜひその作品を実際に体験してみたいものである。

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■目次  
はじめに-「禅の庭」から見える、日本の美

第1章 外国から見たときの、日本の圧倒的な美しさとは
/なぜ私の仕事が海外から求められるのか
/スティーブ・ジョブズも、ビル・ゲイツも、禅に傾倒していた 
/贅沢と真反対の「禅」こそが、心の癒し
/西洋人の日本文化への憧れの根源とは
/「禅」と日本文化の密接な関係
/禅文化が花開いたのは、中国ではなく、日本だった
/西洋が好むのは完全な美、日本が好むのは不完全なる美
/移ろうのか、壊れるのか
/墨絵と油絵ー’その瞬間’を描くのはどっち?
/墨一色で、世界は無限に広がる
/いけばなとフラワーアレンジメント。何故ここまで違うのか?
/自我を形にする西洋の庭、無我をかたちにする「禅の庭」
/枯山水とは何か
/’自然を借りる’という、庭園の発想
/日本家屋の、理にかなった美しさ
/光と風を読みきった日本家屋ー京都の町家に見る
/日本家屋は「狭い」からこそ、凄い
/「椅座」ではなく、「床座」の文化が思索を深めた

第2章 まわりにある日本の美を再確認すべし
/食のシーンは、四季を感じるのにベスト
/食材の「添え物」には、日本人の知恵が詰まっている 
/四季に応じて、住いに季節を取り入れる
/企業は日本の美しさに目をむけよ
/禅の思想に最先端の技術を載せた・・・アップルにしてやられた!
/一品にこだわるがゆえに生まれる美
/日本人は繊細である
/味覚の鋭さも、日本人ならでは
/見えないところはど手を抜かない
/家事を機械まかせで、その間ダラダラする時間は美しくない

第3章 「禅の美」とは何か
/京都の庭はなぜ美しいのか
/日本の庭は「おもてなしの心」からできている
/「禅画とは、禅僧が描くもののこと」はまちがい
/禅文化の歴史と変遷に、「武士」の存在あり
/禅の美しさとは①-均斉がとれたときは、「終わり」である
/禅の美しさとは②-簡素であるからこそ、豊か
/禅の美しさとは③-「悟っている」自分に酔う人は美しくない。「枯高」を目指す
/禅の美しさとは④-たくまない。あるべきように。自然に
/禅の美しさとは⑤-「間」や「余白の空間」がなければ、日本の美は完成しない
/禅の美しさとは⑥-こだわらず、自由な心で生きる
/禅の美しさとは⑦-騒音や情報が消える、「静かな心」を持つ瞬間を得る
/日本人は美しい’遺伝子’を持っている
/美しさに理由を探しても意味がないー龍安寺石庭が教えてくれること
/「禅の庭」の正しい見方とは?
/’最高の贅沢’とは、何も持たないこと!?
/時代の流れや変化を取り入れてこそ、’本質’は守られていく

第4章 日本人の「心」とは
/日本人は、死後に「無形のもの」を受け継いできた
/古きよき風景を、子どもや孫に語り伝える。それだけでも日本の力になる
/茶の湯にみる「おもてなしの心」
/利休の発明
/和菓子や伝統工芸品にあらわれる、日本人の繊細な美意識
/日本人の「おもてなし」は、「無私の実践」である
/’白黒つけない’という美学
/「お蔭様」「お天道様」という言葉を見直すと気づくこと
/真摯さ、精密さ、正確さとともに「融通」が利くのが、日本人の美
/かつて日本人は、「質素」が心を満たしてくれることを知っていた
/四季の変化は日本最高の宝
/「月を愛でる」日本人の完成の豊かさ
/禅では「月は悟り」
/水の様に生きる
/無言の所作にこもるおもてなしの心

おわりにー日本人の美しさとは、しなやかな強さである
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2016年2月3日水曜日

「子どものまま中年化する若者たち 根拠なき万能感とあきらめの心理」 鍋田恭孝 2015 ★★


鍋田恭孝

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子供の頃思っていた、「大人になったらどうなっているんだろう?」という問い。漠然と、大人になるということは、いろいろなことができるようになり、知識も増え、様々な責任も受けながら、忍耐強く、自分のことは我慢してでも家族を優先し、社会の中で立派な人間として認められる。そんな漠然としたイメージを持っていた。

その時想定していた「大人の年齢」をはるかに超える歳になっているにも拘らず、当時の想定からは大きく離れた未熟なままであるが、それでもなんとかそのギャップを埋めようと意識は持つようにしている。

しかし、どうも世の中ニュースなどを見ていると、そうでもない人が多いようである。電車の中で周囲の人が見てようがお構いなしでマンガ雑誌を見入ったり、携帯でゲームにふける。そんな「公と私」の境目が曖昧なままに都市の中に垂れ流されている人々や、自らの欲求を理性によって押さえるなどして適正に制御しきれないまま周囲に撒き散らす人々の様子は、ニュースや書籍でいくらでも目にすることができる。

そんな明らかに「大人としての自覚」をもって「成長しなければいけない」という思いと焦りを持って日常を過ごすのではなく、刹那的に今の快楽を求め、短期的に生きている人たちが増えているのは間違いないであろう。それが若者に限ったことではなく、中高年と呼ばれる「いい大人世代」の中にも、いまだにそのような人がいる。

ひょっとしてどの時代もそんなもので、大人としての適正がないままに成長している人というのはある程度の割合いたのかも知れないが、それでも自己中心的な振る舞いで、小さい子がおもちゃ売り場で駄々を捏ねている様を見ているようないい大人の見苦しい振る舞いが日常のあちこちで見受けられる、そんな時代になってきている。

その変化がいったいどこから来ているのか?社会のどのような変化がその子供のまま大人になる人々を増加させているのか?それを少しでも知り、できるだけそこから距離を取るために手にした一冊。


以下本文より、
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/何もかもあるのに何もない世界
何もかもあふれるほどにそろっているのに、手ごたえのあるもの、信ずるもの、理想や希望、守るべき規範などが失われた世界

/子供のまま中年化する若者たち
いつまでも親離れせず、遊び気分を抱き、ファンタジーの世界を好み、未熟な自己中心性を抱き、友達からの承認を求め続けるなど、子供のままの生き方をする。その一方でリスクを避け、今の生活レベルを守り、家族だけを大切にし、上から言われたことには反抗せず、与えられて狭い世界に順応し、ワクワクすることよりも、ゆったりできることを望み、何よりも居心地の良さを大切にする。

第1章 いま若い世代に起きていること
/買い物に行っても選べない、選びたくない
心地よい刺激に対しても、量が多すぎると反応しなくなる
幼児が喜ぶあやす行為をすると、途中までは喜ぶが、ある一定の頻度を超えると反応しなくなる

/思い付き・遊び感覚の犯罪の増加 
代わって増えたのが、「いきなり型」「暴発型」の犯罪
「思い付き型」「遊び感覚型」の犯罪
川崎の13歳の少年 遊び感覚

第2章 精神科臨床30年の現場から
山竹伸二「認められたい」
コミュニケーション能力が重要になり、「空虚な承認ゲーム」
「社会の承認」が不確実なもの、コミュニケーションを介した、「身近な人間のしょうんん」の重要性が増している
多少、不本意なキャラでも、承認を失わないように演じ続ける
キャラからはみ出すことは許さない

/社会の規範・役割にぶち当たって途方にくれる
わが国においては、大学までは学生は大切にされる。会社は、何といっても生存競争の中にある。

第3章 悩めない、語れない若者たち
/「コミュ障」とは何が問題なのか
斉藤環 現代のコミュニケーション・スキルにおいて、好ましいとされる属性は、「メッセージ内容の軽さと短さ、リプライの即時性、頻繁かつ円滑なやり取り、笑いの要素、顔文字などのメタメッセージの多用、キャラの明確さなど」
短く、浅く、身近な内容
コミュ障
語れなさ 自分の思いや考えをイメージ化して言葉にする能力 自分の体験を物語として語れない
語りの乏しさとともに反射的活主観的で一方的なコミュニケーション

/心の中からも村社会が消えた
親が優しくなった
何とか社会(村社会ともいえよう)に参入しなくてはならない
親からの働きかけもなくなっている
共同体感覚が消失した

/植物化とクラゲ化の二極化が進む
培養植物化 クラゲ化

第4章 「青春」がなくなった人と世界
/生きる力のベースとなる枯渇感と満足感
枯渇感が消えた
ものも情報も、多すぎてはいけない

/人間関係も時間軸もフラットなバーチャル世界
世の中の厳しさを知り、大人として生きるためのしつけや訓練も、与えられなくなった

/10歳までの育てられ方が一生のペースをつくる
今後養育格差社会が生まれる
子供を健やかに安定した人物に育てるのは家族だけ
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■目次  
プロローグ
/何もかもあるのに何もない世界
/「それは無理です」
/植物化する男子、クラゲ化する女子 
/ワンパターンでモノトーン
/子供のまま中年化する若者たち
/他国とは異なる変化が起きている?

第1章 いま若い世代に起きていること
・もはや動物でなくなりつつある-学童期の子供たちの変化
/さまざまな身体機能の低下
/物事を統合して把握できない
・あきらめ、流されて生きるー思春期の若者たちの変化
/多くの調査結果から見えてくる思春期像
/反抗期の減少ーいつまでも親が大好き
/買い物に行っても選べない、選びたくない
/思い付き・遊び感覚の犯罪の増加 
・言われたことはまじめにやる ー青年期の変化
/学生たちとの驚くべき経験
/車はほしくない、コスパには敏感
/将来は不安だけれど現在には満足
/親元から離れない、無理しない
・群れになれない世代ー学童期から青年期まで一貫している変化
/グループ活動が成り立たない
/自分ひとりの小さな世界で

第2章 精神科臨床30年の現場から
・思春期・青年期の心の病の変容
/古典的な神経症の対人恐怖症は軽症化
/摂食障害・BPD・不登校は70年代から増加
/90年代半ばからすべての疾患の病像が変化
・古典的な対人恐怖症から「ふれあい恐怖」「承認不安」へ
/わが国の伝統的な葛藤を抱えた若者・K君
/2011年に受信したR君ー現代型対人恐怖症
/「身近な他者」の承認を求めて汲々とする
・摂食障害の変化ー激しい拒食から、漂う過食へ
/「完璧な良い子」の強烈な自己主張・A子さん
/親・治療者への拒否的エネルギーが弱いB子さん
・苦しむ不登校から葛藤なき不登校へ
/優等生の息切れ型不登校・J子さん
/葛藤なきタイプ・語れないタイプの増加
・沈静化した家庭内暴力
/開成高校生殺害事件のT君
/川崎金属バット殺人事件のI君
/高学歴神話が生んだ悲劇
/ネット回線を切られて暴れたG君ー最近の家庭内暴力
・増加する若者のうつ病ー現代型うつ病の登場
/典型的な従来型うつ病のY君
/現代型うつ病(新型うつ病)とは何なのか
/「うまくいかないのは会社のせい」のX君
/やさしく、素直すぎ、周囲にあわせすぎのW君
/社会の規範・役割にぶち当たって途方にくれる

第3章 悩めない、語れない若者たち
・すべてにおいてエネルギーが低下ー元気のない若者たち
/飛行も病気もおとなしくなった
・反射的・断片的なコミュニケーション
/「わからない」「別に」「何となく」「びみょう」 
/「コミュ障」とは何が問題なのか
・自分から動けないー主体性の低下
/少し困るとすぐに固まる
・社会参加へのモチベーションが低下
/心の中からも村社会が消えた
・理想を追い求めない
/理想の自己像がないから葛藤もない 
・脆弱な子供のままの若者たち
/根拠なき万能感ゆえの、傷つきやすい自己愛 
・「症状が出せない」「病みきれない」若者たち
/症状を出すだけの力がない
/様々な症状が断片的に出てくるU子さん
/リストカットを続けて死んでしまった南条あやさん
・自分の世界にこもる若者・状況に漂い続ける若者
/植物化とクラゲ化の二極化が進む
/多くを望まなければ生きていける

第4章 「青春」がなくなった人と世界
・世の中から失われたもの
/明治維新以来の成長神話の終焉
/世の中から理不尽が消えた
/親に反抗し、異性に恋い焦がれる「青春」が消えた 
/生きる力のベースとなる枯渇感と満足感
/群れて進化してきた人間から「群れ」が消失
・新たに、我々の環境に溢れてきたもの
/自分は有能で評価に値する人間だという思い込み 
/生活の隅々まで行き渡った巨大システム
/人間関係も時間軸もフラットなバーチャル世界
/世界のスピード化は人間をどう変えるか

第5章 日本人はこのまま衰退するのか
/「ワクワクするのは疲れます」24歳L君
/「もう人に気を遣うのに疲れました」23歳Hさん
/子供のまま諦めの中年期を生きる
/「成熟社会の宿命」だけでは説明がつかない
/若者の亜スペルがー傾向が進んでいる?
/不幸ではないが、ぼんやりと不安
/狭い世界の身近な理不尽が押し寄せる
/10歳までの育てられ方が一生のペースをつくる
/経済格差より深刻な養育格差
/親は子をどうのうに育てればよいのか

エピローグ
/新しい若者・新しい頑張り方
/植物的な生き方こそが時代に遭う
/やっと足元を見るようになった

あとがき
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「辺境生物はすごい! 人生で大切なことは、すべて彼らから教わった」 長沼毅 2015 ★★


長沼毅

「生物と無生物のあいだ」の大ヒット以降、こうした物理化学の世界の非常に専門性の高い学問の話から、どうにかして一般社会にも通じる美しい物語を引き出そうとする出版社の意図を感じずにいられず、それは普段あまり一般の人の目に留まりにくい様々な分野の研究を広く世に広める役割はあるとは分かりながらも、その分野を淡々と紹介するのを超えて、なんとか一般化しようとする意図が透けてみえてしまうようである。

もちろん研究者というのは、ある分野の研究を生業としており、誰もが「生物と無生物のあいだ」の福岡伸一の様に作家顔負けの文才があるとは限らず、また専門分野のある事象をまったく異なるスケールや角度からみることによって、社会や一般生活に適応できるある種の生物界の真理を描き出す、そんな業を磨くために日々の時間を過ごしている訳でもなく、職業人としての能力の高さが、それを物語として本にまとめ、世間に伝える能力と比例するのではないと、誰でも本を出すような時代に我々は改めて気がつかないといけないのだろう。

本来なら普段知ることのない、また知り合うことのない特殊な分野の研究者の研究内容や、その世界の不思議を、懇切丁寧に小学生でも分かるような言葉で説明するような本が、一番真摯にその世界を世に伝えることになるのだろうが、編集者の意図が介在するのか、どうもそこから啓蒙的な内容や、一般社会に適応しうる事柄へとリンクさせようとするくだりがどうしても気になってしまう。そんな印象が否めない。そんな風に思わせてしまうほど、「生物と無生物のあいだ」がもたらした衝撃は強かったのだろうと改めて思うことになる。

「辺境」という生命の限界である場所に生きる生物を見ることで、逆に生命の強さや神秘を知り、そこから生物や地球の根源的な意味を探ろうとする著者の研究と、始めの方の章に書かれる内容は非常に興味深い。「餌の少ない環境では、ライフサイクルの遅い生き物のほうが生き残りやすい」や、「クジラから大腸菌まで、どんな大きさの生物でも、その身体を構成する細胞のサイズがほぼ同じ」という内容は、生命の神秘の根源につながりそうなヒントを十分に孕んでいるように聞こえてくる。

「環境に合わせるのではなく、環境に合った形質を持って生まれた者が生き残る 生物の進化」という現代の進化論である「ネオ・ダーウィニズム」。それは環境を受け入れ、いかに環境に適応していくのか。それが生命としての生存に深く関わる問題だとする。どんな場所にいようとも、自分の心持によってはそこが「辺境」の意味を持ってくることもある。安穏として時間を過ごさず、生命の存在する意義と自らを包括する環境を意識しながら、日々を生きることが大切ということだろう。

2013年11月30日土曜日

「葬式は、要らない」 島田裕巳 2010 ★★

身近な人物の「死」を通して始めて体験する葬式という儀式。

人生に数回しか当事者とならなく、「死」を弔うという特別な状況下の為に、多くの人が慣れておらず、またどのような処置が適切なのかも分からず、何よりも世間体を気にするあまりに専門家に言われるままに物事を執り行う事になりがちなこの葬儀。

その専門家とは誰かというと、葬儀社と寺。

彼らが当然として伝えてくる儀式の内容とその必要経費が果たして適当なものなのかどうか?デフレにどっぷりと浸かっていた現代社会においてはも、「聖域」として守られてきたアンタッチャブルなその部分にメスを入れるかのように出版された、葬式に対する常識を正す様々な書物の先駆けともいえるこの一冊。

今回、近しい親族の葬儀を通して自ら見ることになるその現状。フラットに眺めてみてもやはり「オヤッ?」と首を傾げたくなるような場面に多々遭遇する。両親に聞いても納得できる回答が得られず、いろいろな視点から考えてみてもやはり「ストン」と落ちるような答えは見つからない時にフラッと入ったブックオフで見つけた背表紙に必然の様に手が伸びる。

「葬式が厄介なのは、それが突然に訪れるからである。」

というように、誰もが知識も無く、準備もできていない時に突然当事者にされて、それを日常としてそれでメシを食っている専門家が登場して「あーだこーだ」とお悔やみを申しながら「教えて」くる。非日常に出くわしてある種の思考停止に陥っている状況で、それはある種「これに従えば間違いないんだ」と思わせるマインド・コントロールのようなもの。

しかし本当に必要なのは、世間体を気にする事よりも「葬式はどんな意味を持つか?」を常日頃から自分なりに調べ、考えて、そして次の当事者になるであろう家族としっかり話し合っておくこと。

本書の中で示されるのは

全国平均で葬式費用231万円
その内訳は
葬儀一式費用(葬儀社へ支払うもの)143万3000円
飲食接待費用(料理屋、香典業者)40万1000円
お布施・心づけ 54万9000円

という。これがいつのデータなのかは良く見なかったが、今回の葬儀ではこれほどかかる事はなかったが、自分の日常的な常識から考えても理解できないくらいの高額のお金が必要となっていた。

このような「死」に対する儀式でこういう言葉を使うのは非常に憚れるのだが、葬儀社への支払いではとてもじゃないが、通常のコスト・パフォーマンスの感覚からは遠くかけ離れた食事やサービスが目に余る。

「人類が大昔から葬式を営んできたのも、そこに一定の役割があるから」

というように、確かに葬式という最後にその人とのお別れを、各人が心の中で区切りをつける場として必要としたというのはとても理解できるし、それは時代が変わろうが宗教が違おうが決して変わる事のない人類の本質に関わる事であると思う。

問題は、江戸時代に寺請制度が導入されてから、ある種戸籍管理システムとして脈々と続いてきた日本全国に張り巡らされた檀家制度。そしてその制度導入と同時に一般の庶民も死後に戒名を授かるようになったことによって、それまでは村単位で行われていた葬式とうい儀式が、檀那寺の専売特許となり、それが葬式仏教としての流れを加速さていく。

その流れは寺院に対して安定した収入を確保するのと同時に、新規参入を難しくすることにも働いたのは想像に難くない。地域社会が安定していればいるほど、流出者が少なければ少ないほどに、その寺院の収入は安定するが、近代において檀家制度に属さない家庭が増えたり、地域から流出する家庭の増加などにより、安定収入が不安定になることと同時に、バブル時代にその経済の流れにのってより細かい項目を作り出す事と、単価を吊り上げるなどによってより形骸化へとすすむ葬式仏教。

誰もが学校で習うように、釈迦が悟りを開いたところから始まる仏教。それが中国を経て日本にたどり着いた飛鳥時代。その時代は大陸から伝えられた最先端の学問の一つとして、国の安定化のためのシステムとして採用された。その事実を伝えるように、奈良の古寺である法隆寺、薬師寺などは墓地を持たず檀家がいない。ある種純粋な仏教の姿を見せている。

その後、空海などの平安仏教もまた護国のための仏教であったが、法然や親鸞などの鎌倉仏教を経て徐々に庶民へと広がり、その流れを受けて、仏式の葬式が普及していく。ただしその時には現在のような葬儀に来る導師への「お布施」や、脇導師へのまた別途のお布施。ランク別に値段を決められた「戒名」など、どうしても生臭く感じてしまわずにいられない。

「死」を扱うプロフェッショナルであることは、普段から檀家として寺の存続をサポートする家庭に対して、非常時である葬儀の時には、心から近しい人を失った残された家族の気持ちをいたわり、精一杯の弔いをするのが筋かと思うが、どうも高額のお布施が当然で、一種の特権者として儀式を執り行ってやっているんだという態度で、お布施や戒名料の金額次第で執行態度を豹変させる。そんな僧侶も多々いると聞く。

世間ではグローバル社会の競争に晒され、誰もが一円でも効率化を進め、人員整理や社内仕分けなどを経てなんとか市場で競争できる価格に持っていこうとしている時代。安定した地域社会が崩れ、誰もが少しでも上へ、他の人よりも稼ごうと、容赦のない弱肉強食の日々の中それでもなんとか生き抜いていこうと知恵を絞っている昨今。

その横では変わる必然性を感じずに、ましてお布施という不透明な金の流れと納税の義務を免除されている寺という聖域の中で、それこそあまりにも時代にそぐわないシステムではないだろうかと思ってしまうのもしょうがない。

仏教国は世界に多々有るにも拘らず、戒名というのは日本のみにあるシステムであり、それこそ既存の身分秩序が簡単には崩れないように、成金などがすぐにコミュニティの中で高い地位を得る事ができないように、コミュニティを守ると同時に硬直化させる仕組みであり、同時に寺の安泰を約束する仕組みであると考えてしまいがちである。

しかし、読み進めていくうちに、そうとは一概にも言えずに、兼業などをしない限り現在の仏教寺院の収入はそれこそ葬儀や法事などでの儀式を執り行う事に対して檀家から支払われるお布施が大半を占める事になり、それから計算すると寺院を維持していくには300軒の檀家が必要であるが、都市化によって寺院と檀家との関係が希薄したことと、経済至上主義の影響で葬式にも商用化の波が押し寄せてきた点により、時代と共に300を超える檀家を抱える寺は減ってきているという。

それはイコールで寺院の収入の減少を意味し、それを裏付けるように曹洞宗の寺院での日本全国での平均年収は565万円でだという(平成17年)。封筒の中に包まれた金額がどれだけか分かるのは檀家と寺院のみで、そこに領収書が発行されるでもない非常に不透明な金のやり取りに加え、本山に上納されるという戒名料なども実際のところいくらが渡されているのは決して知りえる事がないやり取りが見え隠れするだけに、この数字がどれほど信憑性を持っているのかは疑問があるが、それでもいわゆる一般サラリーマン家庭と変わらない経済規模だというのは、恐らく大多数の人にとって意外な事実であるであろう。

しかもその約半数は年収300万円未満という注釈付きというのであるから、世間だけではなく寺院もまた厳しい経済の波に同じように飲み込まれていることとなる。

「葬式は贅沢である」

と結論付け、時代にあって、自分にあった色々な形の葬儀のやり方がより普及してくる事。「家族葬」や「直葬」、「樹木葬」など自分自身もいつか自分の番になったら選ぶであろうと思える方法を紹介する。

一般常識的な葬儀を盲目的に執り行う必要は無く、外国などの状況などを説明し、一般的に葬儀に対してのどのような事が行われ、どれくらいの費用が支払われるかを紹介し、如何に現在の日本での葬儀のやり方が過剰であるかを解いていく。

しかし、これでは自分だけは時代に合わせて檀家から抜けて、個人レベルでできる規模の葬儀を行っていきます。というだけでは、それまで脈々とこの土地に根付いてきたゲニウス・ロキや地縁を断ち切るだけであり、日本の風景を支えてきた寺院を崩壊に導くだけであると思わずにいられない。

本当に必要なのは、現在の社会、現在の時代にあった「死」の儀式のあり方を、社会も仏教界も各家族も個人も、皆が改めて考えて、身の丈にあった規模と内容に修正していく、そんな必要があるのだろう。

様々な既得権益が複雑に絡み合い、それでメシを食っている多くの人間がいるからこそ、簡単には変わらないとは思うが、それでも現状のまま放置していけば、間違いなく一世代で葬儀のあり方、檀那寺のあり方、墓のあり方がガラッと変わってしまうのは目に見ていることである。

少なくとも、家族と親と兄妹と親族と、そして現在の檀那寺と時間を取って話し合うことが自分達にもできることだと改めて知る事ができる一冊であろう。

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はじめに

第1章 葬式は贅沢である
/どんなに寿命がのびたとしても
/古代から人間は葬式を営んできた
/葬式費用231万円は世界一
/葬式は法的な義務ではない
/葬式無用の主張
/散骨はいつから認められるようになったか
/葬式をしない例は少ない
/社葬は日本の文化
/何も残らないにも関わらず

第2章 急速に変わりつつある葬式
/「直葬」登場の衝撃
/直葬とはどんな葬式か?
/昔「密葬」、今「家族葬」
/葬式のオールインワン方式、ワンデーセレモニー
/葬式だけでない簡略化の流れ
/家から個人の儀式へ
/墓の無縁化と永代供養墓
/創価学会の友人葬
/樹木葬・宇宙葬・手元供養
/宇宙葬すら100万円しかからない

第3章 日本人の葬式はなぜ贅沢になったのか
/古墳壁画や埴輪から古代の葬式を想像する
/見出せない仏教の影響
/もし仏教がなかったら
/日本仏教を席捲した密教
/葬式仏教の原点としての浄土教
/地上にあらわれた浄土
/易行としての念仏
/仏教を大衆化させる道を開いた親鸞
/禅宗からはじまる仏教式の葬式
/浄土を模した祭壇

第4章 世間体が葬式を贅沢にする
/仏教式だからこそ
/細部へのこだわりが
/世間体が悪いという感覚
/村社会の成立と祖先崇拝
/柳田國男の祖霊信仰
/山村の新盆と「みしらず」
/村のなかでの格と戒名
/世間に対するアピール

第5章 なぜ死後に戒名を授かるのか
/戒名の習慣と戒名料
/戒名料の相場
/戒名のランキング
/日本にしかない戒名
/戒名への納得できない思い
/葬式仏教が生んだ日本の戒名
/出家した僧侶のための戒名
/日本的な名前の文化
/戒名の定着と江戸期の寺請制度

第6章 見栄と名誉
/高度経済成長における院号のインフレ化
/バブル期に平均70万円を超えた戒名料
/仏教界の対応
/戒名はクリスチャン・ネームにあはず
/有名人の戒名に見る、それぞれの宗派の決まりごと
/死後の勲章としての戒名
/生前戒名が広まらない理由
/墓という贅沢

第7章 檀家という贅沢
/介在する葬祭業者
/仏教寺院の経済的背景
/阿修羅像はなぜ傷んでいるのか?
/必要な檀家は最低でも300軒
/減る年忌法要と無住化の危機
/戒名料依存の体質が変わらない訳
/檀家という贅沢

第8章 日本人の葬式はどこへ向かおうとしているのか
/柳田國男が恐れたもの
/核家族化で途絶える家の後継者
/仏壇を祀らせる運動として
/家の葬式から個人の葬式へ
/土葬から火葬へ
/日本人が熱心なお墓参り教
/大往生が一般化した時代
/最後に残るのは墓の問題

第9章 葬式をしないための方法
/葬式をいっさいしないために
/完全自前の葬式は可能か
/僧侶を呼ばなければさらに
/宗派による葬式と墓の自由不自由
/寺檀関係のない僧侶のぼったくり
/作家と戒名
/戒名を自分でつける方法
/火葬するのも贅沢

第10章 葬式の先にある理想的な死のあり方
/死んだ子どもの思い出に創設されたスタンフォード/大学
/裕次郎さえ寺は残せなかった
/PL教団の花火は葬式だった
/葬式で儲ける!?
/派手な葬式と戒名で財産を使いきる
/本当の葬式とは

おわりに
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2013年10月16日水曜日

「僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか 絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想」 荻上チキ 幻冬舎新書 2012 ★★


最近テレビでも良く見る著者。若者世代を代表しながら、様々な軽く新しいメディアを横断しながら、メディアで横行する曖昧な議論に対して、しっかりとしてデータを提示し、どう評価するかのクライテリアを明確にし、自分なりの結論を出して整理していく。

こういう若者が同じように総合地を備えた他の分野で、頭半分抜け出してきたスマートな若者同士で繋がって、また新しい言論世代を形成していくのだろうと想像できる。

全体的にはやってることは全て正しいし、言ってる事もすべて的を得ていると好感を持てる。「そりゃそうですよね」と正論だと認めざるを得ないある種のポリティカル・コレクトネス。

既存勢力に対して、「あなたはそうは言っても、その論点は結局既得権益を持っている団体に対して何も切り込んでいないじゃないですか?」なんて、建前をぶっとばして本音に切り込んでいってしまう。

だから旧態依然の政治家達がタジタジになる姿が受け、痛快に映るのだと想像する。テレビの前で多くの主婦が、「そうよそうよ、その痛いところを誰もつかないからああいう人間が偉そうにしてるのよ」とメディア側にも重宝されているのだろうと想像する。

確かに
あれはダメ。
上の世代はダメ。
既得権益持ってる世代はダメ。
何をやっても変わらない日本はダメ。
ダメだから何をやってもダメ。
ダメだといっているのが一番いい。

というのは何も生み出してなく、結局は既存の社会のシステムの中に飲み込まれていくだけである。それでは何も変わらない。そして自分たちの世代も次の世代に空虚を手渡していく。

その閉塞感。
何も変わらない。

変わったほうがいいとは誰もが思っているが、総体としては変わらないでいいという「力」が働く。その方が何かと面倒でないからだ。その方が何かと都合がいいからだと。

負の作用は弱い部分に負荷をかけ、概念的に社会の中心から離れた場所に存在するものたちに負荷をかける。

中心、それは国であり、政治であり、数であり、既得権益である。多数決で物事が決まっていく以上それは避けられない。

中心に近ければ近いほど、システムを制御する側にいればいるほど、保護が厚くなる。どんなにサボっても、どんなに能力がなくても、切り捨てられはしない。護られ、形は変えれども生きていくのに不自由はしない。

かたや中心地から遠く遠く離れたところで必死に生きている人は、どんなに能力があろうとも、どんなに努力をしようとも、母体が自らを護ろうとするときに、皮膚を刺す蚊を追い払うように、無意識にそれもいとも簡単に振り落とされる。切り捨てられる。問題はそれが中心に生きるものが何も問題だと感じていないところにある。

ダメ出しをするばかりではなく、小さくていいからとにかく始めようよと、自ら行っている行動を最後に提示する著者。そこは明らかにゴースト・ライターが一般受けやすいようなフォーマットで纏めたと思われる溢れる数の新書とは違って本人の手の痕跡がとても感じられるし、事実紹介だけに終わりなんの提案もない数々の本よりは好感が持てる。

自分に出来る社会に貢献する為に、まずは自分の職能を上げていくことが重要で、新たなる中心を作るのではなく、多くを切り捨てることなく新しいフォーマットへ移行する為に、何ができるかを数十年単位で考える事が重要なのかと改めて思うことになる。

2013年10月5日土曜日

「ネット帝国主義と日本の敗北―搾取されるカネと文化」 岸博幸 2010 ★★

今世界中の人が毎朝オフィスでパソコンを開くたびに頭を抱えているのだろうと想像する。

その視線の前にあるのは、「もうすぐiGoogleのサービスが終了します」のメッセージ。

水や電気と同じように日常を支配するインフラとしてのネットの、一番のベースが覆されるようなものである。まさに一大事。箱に詰まった砂をトントンと叩きながら慣らしていくように、長年をかけて徐々に自分の身体に一番あったホームページとして培ってきたiGoogleをあっさりと「終了します」と終えられる・・・

ネット世界の巨人、Googleに染まって生きる生活を選んだ以上、こういうことは不可避だと理解しながらも、ネット上に溢れる代行サービスのページを試しながらも、未練がましい男の様に、未だに毎朝画面に現れるメッセージに心を痛めつけられる日々を送る。

そんなサブリミナル効果からではないと思うが、たまたまブックオフの100円コーナーで見つけたテレビでお馴染みの経済学者の関連書籍。誰もが気がついているが誰もが声にして言ってこなかったことだと興味を持って手にした一冊。

ネットが完全に日常に入り込んだ現代の生活。歯を磨くのと同等の無意識でネットを利用する現代人にとっては、それは「無料(フリー)」であるというのが常識になっている。そのネットはインフラ、プラットホーム、コンテンツの3つのレイヤーから構成されており、ネットビジネスが混沌期からある種の秩序を持ち始めた今改めて見てみると、真ん中に位置するプラットホームを提供する企業、グーグル、ヤフー、アマゾンなどだけが一人勝ちの状況を呈しているという事実。

それは同時に「コンテンツはフリー」という状況を作り出し、それがネット以前までに培われてきた「文化」を浸食し始めている。これも大きな問題だが、更に大きな問題はそのプラットホームのビジネスを牛耳っているのはアメリカの企業だという事。

そうだよね・・・

と感じてはいたが、改めて振り返って考えてこなかった問題点を整理してくれているので、ある種の心地よさを感じながら読み進める。

インフラを牛耳ることは、その国の文化まで見えないうちに牛耳る事になり、同時に全ての情報を好きなように使用できる事になる。それが一国の企業によって全て成されているという事が異常事態だと映っていないことに警鐘を鳴らす。

確かに今全世界でグーグル以外の独自の検索エンジンがシャアを誇っている国といったら、恐らく「百度」を要するこの国以外にないのではないかとゾッとする。恐ろしいほどフィルターがかけられているといわれているが、それでもこの本を読んだ後は少なくとも他国にプラットホームを牛耳られているよりはよっぽど国として健康的なのかと思わずにいられない。

そうかそうかと読み進めるが、ふむふむと思っている間に読み終えてしまう。目次を見て上がった期待値が、「ならば現状打破するにはこうするべきだ!」と明るい提案があるものばかりと思っていたがそうではなくて、極めてさらっとした内容。

さてプラットホームの巨人との付き合い方を考えなければいけないなと思いながら、11月からパソコンのホームページをどこにしようかそろそろ決めようと思うのに丁度よい一冊。
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目次
第1章 
ネット上で進む一人勝ち
/ネットがもたらしたプラスとマイナス
/ネット・バブルの歴史
/ネット上のサービスの構造


第2章 
ジャーナリズムと文化の衰退
/新聞の崩壊
/音楽の崩壊
/社会にとってのマイナス


第3章 ネット上で進む帝国主義
/米国の帝国主義を助長するエコシステム
/プラットフォームの米国支配の問題点


第4章 米国の思惑と日本が進むべき道
/グーグル・ブック検索
/米国の戦略と野望
/ネット上のパラダイムシフトの始まり


第5章 日本は大丈夫か
/プラットフォームを巡る競争の激化
/ジャーナリズムと文化をどう守るか
/日本はどうすべきか

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