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2016年2月16日火曜日

美濃国(みののくに) ★★ 東山道


現在の愛知県が尾張と三河に分けられるように、岐阜県も同様に旧国としては美濃と飛騨に分けられる。そしてその両国ともに、東山道(とうさんどう)という都から東北まで日本の中心を通る道に属する国である。

濃尾平野はこの美濃国(みののくに)から尾張国まで広がることから、それぞれの一文字をとってつけられてというが、この濃尾平野を作り出した木曽三川(木曾川・長良川・揖斐川)がこの地域の特性を作り出したのは間違いない。

濃州(じょうしゅう、のうしゅう)とも呼ばれるこの美濃国は、都から「近い海」である近江で琵琶湖を経由し、この美濃を通って飛騨か信濃へと渡りそして上野と下野を通り武蔵を経由して陸奥へと東北へと続く東山道の入り口でもある。海にひらけた東海道とは打って変わり、山と密接に関わってきた道である。

その山岳地域性もあり、明治になった後に鉄道網を基礎として新しい国家の形成が始まったときに、東京・名古屋・大阪という沿岸部の都市間ネットワークの重要性が増すのと同時に、徐々にこの東山道における横のつながりは廃れていくことになる。

歴史の中では何といっても斎藤道三がその娘婿である織田信長に美濃国を全国制覇への足がかりとして与えることによって、一気に戦国時代が加速した舞台となった場所でもある。

一宮は南宮大社であり、現在の都市分布から見てもやはり都市部から離れており、中世と近代における中心部がずれた場所であることが見てとれる。

それでも現代の中心として機能する岐阜市は、長良川の豊かな流れに支えながら、文化的にも豊かさを誇り、非常に住むのには適している規模を保っているようである。大垣や郡上八幡といった特色を保った都市も周辺に位置しており、今度地方創生の一つの核になっていくような気がする地域である。


養老天命反転地 荒川修作 1995 ★★


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所在地  岐阜県養老町養老公園内
設計   荒川修作、マドリン・ギンズ
竣工   1995
機能   公園・アート
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木曽川とともに伊勢湾に流れ込む長良川、揖斐川(いびがわ)を併せて木曽三川(きそさんせん)と総称し、濃尾平野(のうびへいや)として広がる肥沃な平地を作り出す重要な河川であり、愛知県と岐阜県の県境を形成する境界線ともなっている。

愛知県の一宮市から木曽川を渡り岐阜県側の羽鳥市に立ち寄り、続いて木曽川、そして揖斐川を渡り向かうのは背後に濃尾平野の西に位置する養老山地が壁のようにそそり立ち、その一つである養老山(ようろうさん)の麓に位置する養老天命反転地(ようろうてんめいはんてんち)。

アメリカを拠点として活動した荒川修作がパートナーであったマドリン・ギンズとともに、構想を練った巨大なランドアートである。「養老の滝」でも知られるこの養老町(ようろうちょう)。豊かな自然を楽しめるように子供から大人まで遊ぶことができる広大な養老公園が整備されており、その公園内の一部が有料施設となっており、そこがこの養老天命反転地と呼ばれる地面がうねる様になっており、とても変わった建物のようなものが立っていたりして、身体感覚を呼び覚ますかのような場所となっている。ちなみに公園自体は無料であるが、この施設へは別途料金がかかり大人750円。なかなかのお値段である。

荒川修作は1936年生まれの名古屋市出身で、25歳時にすでにアメリカに渡っていたようである。日本国内でもいくつかその作品が残っており、この養老天命反転地が一番知名度が高いようであるが、建築作品として東京の三鷹市に作られた三鷹天命反転住宅もまた比較的良く知られている作品であろう。

1994年 「遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」(岡山、奈義町現代美術館)
1995年 「養老天命反転地」(岐阜県養老町)
2005年 「志段味循環型モデル住宅」(愛知県名古屋市)
2005年 「三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller」(東京都三鷹市)

広大な公園は丘になっていたり、建物内部の床もうねっていたり、人が通れるギリギリの幅の通路があったり、人と通りすがることがほとんどできない道があったりと、自分の身体、そして他人の身体と嫌がおうにも向き合うことになる。そして斜めの床に身体を支えるのがどれほど大変かなどを感じる大人と違って、あちこちではまるでアスレチックのように走り回る子供たちの姿。

平日ということもあったのだろうが、訪れているのは若いカップルや、若い女性二人組。恐らく何かの情報番組や雑誌でしり、面白そうだということでやってきたのだろうが、驚いたことにかなりの人が駅から徒歩でやってきている様子。調べてみると近くに養老線の養老駅があり、名古屋からだと桑名で乗り換えて利用することができるようである。

遠くに一際高く見える伊吹山に見守られながら、芝生の上でお弁当を広げて食べている若い大学生たちの姿を見ながら、穏やかな風景だなとなんだかほっこりしつつ、恐らく東海地方で生活を持つ人にとっては、文化的に興味を持って訪れる場所になっているのだろうと思いながらも、恐らく運営的には非常に難しいのだろうが、なんとかうまく残っていってほしいと思う場所である。










養老天命反転地記念館
養老天命反転地記念館
養老天命反転地記念館
極限で似るものの家


精緻の棟


楕円形のフィールド






羽島市庁舎 坂倉準三 1958 ★★★


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所在地  岐阜県羽島市竹鼻町55
設計   坂倉準三
竣工   1958
機能   市庁舎
規模   地上3階
構造   RC造
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1960年日本建築学会賞
Docomomo100
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朝一番から気持ちのよい一宮参拝を終えて、向かったのは一宮市から木曽川を渡ったすぐの羽鳥市。木曽川が愛知と岐阜の境界線を描くために、すぐ近くの距離ではあるがこちらは岐阜に属することになる。そのせいか、街並みの雰囲気もかなり変わったなと思いながら到着したのが羽島市庁舎。この土地出身の日本におけるモダニズム建築の立役者である建築家、坂倉準三の設計の建物である。

坂倉準三というと、現在世界遺産に登録が間近に控えている上野の国立西洋美術館。その設計者である、ル・コルビュジェの元に弟子入りした3人の日本人のうちの一人であることでよく知られる建築家であり、コルビュジェの下でモダニズム建築を学び、帰国が日本全国で市庁舎を初め様々な建物を手がけ、それらの建物が日本におけるモダン・ムーブメントの建築としてDocomomo Japanに多く選定されている建築家でもある。

岐阜県羽鳥市で生まれ、東大の文学部美術史学科で学び、その後フランスに渡りパリ工業大学で学ぶ。その流れで、モダニストの旗手であったコルビュジェの事務所に前川國男や吉阪隆正とともに、スタッフとして働きながらその手法を学ぶ。その後日本に帰国し、本格的に建築家としての様々な設計を行っていく。

1937年 パリ万博日本館 (36歳,現存せず) 現地滞在の坂倉によって変更。博覧会の建築競技審査で一等を受賞した。
1941年 飯箸邸 (40歳,現・ドメイヌ・ドゥ・ミクニ、Docomomo Japan)
1949年 大阪スタヂアム (48歳,現存せず)
1951年 神奈川県立近代美術館 鎌倉館本館 (50歳,Docomomo Japan)
     東京日仏学院 (50歳,現・アンスティチュ・フランセ東京)
1953年 岡本太郎邸 (52歳,現・岡本太郎記念館)
1955年 国際文化会館 (54歳,前川國男・吉村順三と共同設計,日本建築学会賞,Docomomo Japan選定)
1959年 羽島市庁舎 (58歳,日本建築学会賞,Docomomo Japan)
     シルクセンター国際貿易観光会館 (54歳,BCS賞)
1962年 呉市庁舎・呉市民会館 (61歳,現存せず)
1963年 羽島市勤労青少年ホーム (62歳)
     佐賀県体育館 (62歳,現・市村記念体育館)
1964年 上野市庁舎 (63歳,現・伊賀市庁舎、南庁舎のみ現存)
     芦屋市民センター 市民会館本館 (63歳)
    ホテル三愛 (63歳,現・札幌パークホテル)
1966年 神奈川県立近代美術館鎌倉館新館 (65歳)
    神奈川県庁新庁舎 (65歳,BCS賞)
    新宿駅西口広場 (65歳,日本建築学会賞,Docomomo Japan)
    名古屋近鉄ビル (65歳)
1967年 小田急電鉄新宿駅西口本屋ビル (66歳,現・小田急百貨店本店)
    岐阜市民会館 (66歳,BCS賞)
    山口県立山口博物館 (66歳)
1968年 羽島市民会館 (67歳)
1969年 芦屋市民センター 市民会館ルナ・ホール
1969年 心筋梗塞のため68歳で没
1970年 大阪万国博覧会電力館 (現存せず)
    奈良近鉄ビル
1971年 宮崎県総合博物館 

キャリアを見ても、生まれ故郷の羽鳥市関連の仕事が多いのが見て取れて、まさに故郷に錦を飾った建築家である。同時に非常に多くの作品が、建築学会賞やDocomomo Japanに選定されており、モダニズムが日本に普及する役割を一身に担った時代を代表する建築家であったのが見て取れる。

そしてこの羽鳥市庁舎はキャリアを20年積み、十分に気力も充実していることに手がけたものであろう。市庁舎としては唯一Docomomo Japanに選定されており、ぜひとも一度訪れてみたかった建物である。

車で待っているという両親と妻を残し、一人駆け足で建物に向かうことにする。道の向かいに立ってみてみると、その独特な構成が良く見て取れる。まずは、現代の多くのホテルに見られるように、エントランスをスロープで二階に持ち上げ、

車寄せとともに二階部分に持ち上げられた玄関に続くスロープを駆け上がるようにして建物にアプローチすると、建物の前に象徴的に立つ構造体にまとわりつくようにして上下する斜路にて玄関を通らずに各階にアプローチして内部機能を利用できるようになっているのが分かる。そのスロープの脇には水平性を強調するデザインに高さを挿入する塔が聳え立つ。これは消防用望楼と呼ばれ、街で火事が発生した際の発生場所を確認する火の見櫓の機能を持つという。50年代という戦後の日本において、都市の防火過程に計画された建物の現代との違いをここにも見て取れる。

つまりは現代においてその機能が必要なくなったこの塔であるが、この塔とスロープに繋がる空中通路にて、市役所で働く人々が喫煙場所として新しい意味を付加している姿を見つけながら、60年近い昔に立てられた建物でも、こうしてしっかりと現代の社会の中で機能を果たしている姿にやはり少なからぬ感動を感じながら斜路を降りていくことにする。