今日から三日かけて妻と一緒に大分をあちこち巡り、良質の温泉に使って疲れを癒す旅に出る。その目的は昨年完成したばかりの大分県立美術館(OPAM)が、21世紀美術館、青森県立美術館という現代の新しいタイプの美術館の流れで、どんな空間を見せているのか非常に興味があったからというのもあるし、いつか足を運んでみたかった宇佐神宮やその元となっている大元神社にも参拝したいし、そこまでいけばついに風の丘葬斎場も見に行くことができると・・・目的地を整理していたら、「神社とか寺とか建築とか、一日に何個もやめてね。ゆっくりするのが目的だから」と妻から厳しく釘をさされ、「いやー、そんなに詰め込まないさ。今回は温泉メインだから・・・」とあくまでもたまたま道すがらあるので立ち寄るという体で行程を決めていく。
さてそんな盛りだくさんの大分県。その大半は旧国の豊後国(ぶんごのくに)に属す。西海道という九州全体をカバーする「道」の一部で、豊後国と豊前国とセットで非常に分かりやすい。旧国の中で多く見られる、いわゆる上下、前後、前中後の中での前後タイプな訳である。見てみると、
上下; 上総・下総、上野・下野
前後; 羽前・羽後、丹波・丹後、筑前・筑後、豊前・豊後、肥前・肥後
前中; 後陸前・陸中・陸奥、越前・越中・越後、備前・備中・備後
よく見たら西海道には三つもの前後が集中しており、他のメンバーもやはり都から遠い九州や東北、関東に位置していることからも、当時の世界の中心と周縁の関係性が見て取れる。そんな豊後国は頭文字から豊州(ほうしゅう)と呼ばれていたというが、なら豊前国は何と呼ばれていたのかというと、こちらも豊州(ほうしゅう)。やはり少々手抜き感が否めない・・・元々一つの国としてのくくりを何かのきっかけで二つに分割したというのが流れであろうと思われる。
国東半島(くにさきはんとう)を境に来たの宇佐市・中津市は豊前国に所属していたことから、この国東半島の山々が古代における地勢を決定付けていたのが理解できる。国府は現在の大分市で、当時からの中心地が現代においても移動していないタイプの旧国となる。一宮は西寒多神社と柞原八幡宮でともに大分市の中に位置する。戦国時代の藩としては、府内藩や岡藩で、5万石前後の藩であり、全国的にはそれほど知れた藩は無かったようである。
九州の豊富な活火山の恵みを受け、県内いたるところに全国的に有名な温泉地を持つ大分県。自らを「おんせん県」としてアピールするだけあって、その数と質は全国トップクラス。訪れるのは何度目かになるが、ぜひとも今回は豊後国の地勢を頭に入れながら、それぞれの街並みを楽しむことにする。
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