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2014年2月11日火曜日

少々の不自由さ

北京に戻り、冷蔵庫を開けるが暫く家を空けていたのでこれといった飲み物が無い。そんな時思うのは、深夜にも関わらず、すぐに外にでて近くのコンビニで何十種類の中から好きな飲料を選ぶ。そんな日本の便利さはここにはない。夜には閉まるスーパーが朝に開くのを待つしかない。

こんな些細な事だけと、日本にいると当たり前のことがどれだけ過剰に便利であり、心地よい環境かということを思い知る。

これを企業努力というのだろうが、人は少しでも便利だと思う事、快適だと思う事にお金を払う。それが企業にとって少しでも儲けに繋がる、利益になれば、様々な手段を使って開発される。競合他社よりも一時間遅くまで営業していれば、利益がどれだけ上がる。ほかよりもより近く、高密度で店を展開すればどれだけ売り上げが上がる。

高度なマーケティングのシュミレーションと組み合わされ、住まう人はデータを作り出すパラメーターとして把握される。そこには、快適な調整された環境で育てられた動物が、いきなり厳しい野生の中に放り込まれたら自分を守ることもできずに死に絶えてしまうような、「人はどこまで快適さを与えられたら、厳しい現代社会で生きていくうえでの力を無意識のうちに失っていくか」などという要因は加味されない。

確かに便利になったり、快適さを感じたりすることに流れるのは止める事ができない。ただ、それが世界の他の国と比較して、どれだけ差異化されているのか?多様である他の国では、どれほど日本から見たら低いといわざるを得ないスタンダードで多くの人がそれを当たり前として暮らしているのか。

それを認識せずに、ただただ全てを与えられ、すべてを経済性から捉え、対価を支払う事で進歩したサービス産業の恩恵を受けるんだと開き直ることで、どんどんと楽に慣れた堕落した人間を作り出してしまうのではと思わずにいられない。

コンビニの例だけではなく、様々な場面において一つの事をこなそうとする時のハードルが過度のサービスの発展の為に、非常に低くなっている現代の日本。しかし提供されるサービスが向上するのは、それはあくまでもビジネスの一環であるから。そこに利益があがるというシュミレーションが働くから。

もし、そこが限界集落、極点社会へと針が振れ、利益の見込みがなくなった時には、恐ろしいくらいにあっさりと撤退していくのが競争に晒された企業の本質。日本が人口を失い、国の枠組みが少し外に開き始めれば、外部のスタンダードが大量に流入するのは眼に見ていてる。

そんな時代を見据えると、至れり尽くせりのサービスにどっぷりと精神を浸して過ごすのではなくて、人が健康的に生きていくのに一体どの程度が適切か、自ら判断しながら、世界の標準と距離を測りつつ、しっかりとサービスの中から意識的に選択して付き合っていく必要があるのだろう。

少々の不自由さの中で生きたほうが、人は困難を克服しようとする力が養われる。特に小さな子供には、できるだそんな環境で育っていくのがいいのではと思いながら冷蔵庫を閉めることにする。