2011年1月21日金曜日

「ソーシャル・ネットワーク」 デビッド・フィンチャー 2010 ★★★

極東の国ではネットが受験に不正使用され、中東ではネットを使っての革命の勢いが止まらない。

そんな現代を代表するのが世界最大のソーシャルネットワーキング、つまりSNSとなったFacebook。その若き創設者マーク・ザッカーバーグの半生を描いた映画ということでとにかく話題になっている一作。

あのデビッド・フィンチャーがメガホンを取ったことでも話題だが、なんと言ってもまだ現在進行形の一会社の社長の半生がすでに映画化されるということで、その創造力によって世界にもたらされた世界への影響力を物語っているかのようである。

ハーバード大学在学中の主人公が、好きな女の子の興味を引くために特異なプログラミングで学生同士のソーシャル・サイトを開設するところから始まる。何ごろのきっかけは、「もてたい」という根源的な欲望から。

そして「知ってる人の写真だから興味がある」という「知り合いの知り合い」という繋がり感が爆発的に受け、あっという間に急成長をし、ファイル共有サイト「ナップスター」創設者であるショーン・パーカーとの出会いを経て、社会現象を巻き起こすほどの巨大サイトへと急成長するなかでの、摩擦や葛藤を描きながら物語は展開する。

ハーバードというアメリカを代表するアイビー・リーグの伝統が良く描かれているのも楽しめる。フラタニティとソロリティという男子・女子学生サークルによって護られるエリート主義。イエール大学出身のパートナーは構内でKKKのサークルも見かけたことがあるといっていたが、やはりどんなところでも若者は気の会う一生の仲間を見つけていくものであろう。

見終えて感じる少なからぬ危険性。

何かを成し遂げる人は目的がお金じゃなく、ただやりたいから我武者羅にやっているのが、結果的に抜き出ている。毎日、毎時間、ずっとそのことばかりを考えてる。毎日やらなければいけないこと、こなさなければいけないこと、そんなことは考えない。

そういう生き方が出来るのは、ある種の才能を持った人間だから。その準備ができている人だから。

そうではなく、向上するために緊張感を持ってではなく、ただただ惰性と共に日常を過ごしている人間も同じく、「自分もこういうまっすぐな生き方ができるのかも」と思い始めたら、この社会は成り立たない。

創造的活動には、それを支える経済という下部構造が必要だとマルクスも言うように、自由な創造活動を行うためには、その為の下地が必要で、大学というのはまさにその時間的余裕を与えてくれるところ。生きることに必死になって過ごす必要は無く、自分のやりたいことに必死になって向き合う時間。

それが本来の大学のあるべき姿なのだろうと思わずにいられない。それに比べ日本の大学の風景といったら、社会という砂漠にでるまでの猶予期間としてカウント・ダウンされる時間を貪るように刹那的に生きる。

SNSの中で退屈な日常に手を加えて知り合いの知り合いに「素敵な一日だね」と言われて喜ぶような今を過ごすのではなく、今の自分のやれることを必死になって過ごすことが大切なのだと矛盾を孕みながらも突きつけられるような一作であろう。
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スタッフ
監督 デビッド・フィンチャー

キャスト
ジェシー・アイゼンバーグ;マーク・ザッカーバーグ
アンドリュー・ガーフィールド;エドゥアルド・サベリン
ジャスティン・ティンバーレイク;ショーン・パーカー
ジョセフ・マッゼロ;ダスティン・モスコヴィッツ
ルーニー・マーラ;エリカ
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作品データ
原題 The Social Network
製作年 2010年
製作国 アメリカ
配給 ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
上映時間 120分
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2011年1月15日土曜日

「渇いた夏」 柴田哲孝 2008 ★★★★

1987年夏-。
男は、まだ少年といってもいい年頃だった。

と、子供時代の回想から始まる物語は、曖昧な少女への強姦の記憶へと続いていく。

私立探偵である神山健介は、無くなった伯父から届いた手紙を頼りに、生前に伯父が住んでいた家を相続し、その伯父の死の謎に迫っていくことになる。

作者の小説に必ず登場する「かっこいい男」は今回この伯父さん。家のあちこちに転がる品々は、どれもがこだわりの一品ばかり。消耗品として購入されたものではなく、嗜好品として一生使うものとして収集されたものばかり。男に生まれたい上、こういうモノたちを集めながら、時間を積み重ねて生きたいものだと改めて思わされることになる。

「書斎とは男の魂が宿る聖域」

そんな書斎をいつか持ってみたいものである。

「服、車、家電製品といった消耗品には全く金をかけない代わりに、道具や嗜好品には惜しげなく贅沢をする」

デフレの世の中に生きるにはとても耳の痛い言葉達。

「人間は、不思議だ。ちょっとした手の感触や、音、もしくは匂いで、数十年の時を超えて過去に戻ることができる。」

その為には、その感触を立ち上がらせてくれる手の感触が染み付いた良質なモノ達の存在が大前提ということか。

作者の趣味自慢もある域に達してきて、嫌味を感じることなくメインのストーリーとよきマッチングを醸し出す。主人公が色気のある大人の男に変わっていく過程と共に明らかにされる時間の真相と共に、十分にそのハードボイルドな世界観を楽しめる一冊。

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プロローグ
第1章 遺産
第2章 獣道
第3章 逆流
第4章 渇水
解説 新保寛久
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2011年1月13日木曜日

箱根駅伝
















正月といえば、これ。

子供の頃は正月といえばかくし芸だった気がしたが、今はなんといっても駅伝だ。特に今年は母校の調子が良いとのことで、二日に実家から帰り、なんとか生の声援を届けるためにテレビ中継を見ながらタイミングを計り近くの増上寺前に駆けつける。

試しに嫁を誘ってみるが、案の定お断りされ、一人カメラを抱えて自転車を飛ばす。

到着と共に、トップの選手が駆け抜け、「あと少し!」と声をかけていたら直ぐに二番手が追いかける。その後、シード権争いの5チームが団子状態で目の前を走りぬけ、結局最後の一校まで読売新聞の旗を振りながら声を荒げて応援をする。

最後の一校が走っていくと、まるで祭りの後のように、道路が片付けれられ、沿道のおばちゃんたちも「今年は・・・・」なんていいながら、皆それぞれに散っていく。

皆が、誰か一人や一校だけでなく、全ての選手と大学を応援する。選手が戦っているのはライバル校よりも自分自身。1秒でも早く、このタスキを次の走者に繋げる為に。だからこそ、皆が皆を応援する、非常に特異な日本独特なスポーツが正月にあるというは、やはり気分がいいものだと思いながら、横で携帯のワンセグでテレビ中継を見ている人の画面を覗き見し、母校の優勝を知ってさらに気分を良くし、旗をフリフリ家路に着く。





































2011年1月12日水曜日

厄除け 西新井大師














男性の本厄が25歳、42歳、61歳。
女性の本厄が19歳、33歳、37歳。

前後賞というか、前厄、後厄をあわせると、男性で9年齢、女性で9年齢の計18年齢。一つも被ってないのがうまいところ。

100歳以上が大量に消えたのでかなり怪しいものだが、日本人の現在の平均寿命が82歳ということを考えると、日本人の1/5から1/4がなんらかの厄に追われて一年を送る計算になる。

つまり4人家族なら大体一人は厄に絡んでくるということで、信心深い人たちばかりなら、毎年家族に連れられてか自分の厄払いかで、初詣がてら、厄払いも行ってもらうことになるこのビジネス・モデル。うまいことできてるなぁと思わずにいられない。

しかし、寿命が延びて、高齢社会になってバランスを崩しつつある現在。61歳が最高齢という本厄にも、実は・・・と70代、80代が追加される必要もありそうだなと思いながらも、妻の厄払いの為に関東厄除け三大師の一つ西新井大師に初参拝。

東京の西新井大師、栃木の佐野厄除け大師、神奈川の川崎大師合わせて、関東厄除け三大師。初めて訪れる西新井だったが、なんとなく川崎大師周辺と似た雰囲気を感じ、弘法大師ゆかりの地には何らかの共通点があるのでは・・・と、今度は佐野まで足を伸ばさなければと思いながら、本堂内部にて仏像や弘法大師の話を聞きながら、お経を聞きながら厄払いを願う。

老いも若きも、ギャルもオヤジも、寒い板張りの本堂に座り、手を合わせて目を閉じ、心の中で願いを唱える。行くか行かないかはあなた次第、というくらいのものなのだろうが、それでもこんな風景を見ながら、家族と一緒に晴れ晴れしい気分になれるのだからこれほど長く続く風習なんだと思いながら、頂いたお札を大切に抱えながら中田屋の草だんごを食べながら参道を歩く。

岡崎城 ★★★





















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岡崎城  ★★★
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所在地       岡崎市康生町
主な城主     松平氏
築城年      1452
機能        城郭
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押し寄せるイナゴの群れの様に、日本中を覆い尽くし、そこ以外は荒廃した地平が残されるかのようなジャスコやイオンの総合小売店舗に代表されるグローバル世界の商業主事。

かつての中心であった目抜き通りもシャッター街になってでも、それでも皆が元旦から集まれる場として、新しいショッピングの欲望の空間型として定着した感があるが、老いも若きもごっそり吸い上げる大型掃除機の様な店舗内部は、パッサージュ、百貨店、ショッピング・モール、コンビニと変貌してきたショッピングの形態の現在形であるのは間違いないのだが、変貌と共に陳腐化した欲望は隠しきれず、楽だし、便利だし、開いてるし、何でもあるし、子供も楽しめるし、ご飯も食べれるし、というどちらかというとネガティブな動機付けの波に皆呑み込まれる。

そんなイナゴにせめても一矢報いる為にも、イナゴの群れにも犯されず、大地にどっしりと根を張って町を見守る城詣でに出かけようと、久々に地元の岡崎城に向かう。

なんといっても、あの徳川家康が生まれた城として、その周辺は康生町と呼ばれ、かつては岡崎市の中心地としての賑わいを見せたものだ。夏には大規模な花火大会の為に桟敷が敷かれる乙川のほとりに建つ岡崎城は、岡崎公園内にあり、併設される三河武士のやかた家康館と共に、比較的市民に愛され、馴染みのある城ではないだろうか。

岡崎城から真っ直ぐ北に進むと徳川家の母体でもある松平氏の菩提樹である大樹寺が位置する。

特徴的なのは、激しいほどに鋭いその堀。深さ10m以上あり、覗くのもちょっと恐いくらいのその角度。その脇を抜けていくと、龍城神社への参拝客が眼に入り、その後ろをぐるっと回って天守閣への入り口へ。

家康館での目玉は、関ヶ原の戦いを朝から一日かけて説明してくれる大きなジオラマ。両軍がどのような布陣を張ったか、なかなか動かない小早川に向けての発砲など、大人も夢中になれるほどの出来映え。その先には、火縄銃や甲冑を実際につけることができるブースもあり、これまた子供から大人まで結構夢中になれる。

今年は江姫。家康の息子で二代将軍秀忠の正室。パックス・トクガワーナ前夜の激動期だから一体どれだけの名城がでてくるのかが楽しみだと、司馬の「城塞」を読みながらワクワクする。

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日本百名城
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2011年1月11日火曜日

「デリカテッセン」 ジャン=ピエール・ジュネ、マルク・キャロ 1991 ★★★★
















冬空のした自転車を走らせながら、耳を切る風音の誘発されて口ずさむ音楽。あれ、これは何の音楽だったっけ・・・と暫くペダルをこぎながら気づいたのは、この映画ののこぎり演奏。

何年か前に見たことは確実なのだけど、どうしてもストーリーが思い出せない派手な映画でなくて、こういう風に、いつまでも記憶の奥底に眠っていて、ふとした時に蘇ってくるのは、その独特な雰囲気に、脳細胞のある部分が、強烈に反応していたということだろう。やはりこういう映画はいい映画だと思いながら、ポヨーン、ポヨーンと続ける。

アメリの監督と言えば分かりやすいか、ジャン=ピエール・ジュネ。兎に角独特の雰囲気の影像作家。

時代設定のすらどうでもよくなるような、もやのかかったパリ郊外にポツンと建つ廃墟のような建物。優しさをもちよる軋むベットではなく、メトロノームのメタファーとして、一定の快楽のリズムを奏でる軋むベットは、ビルの住民の生活のテンポを刻む。

変てこな設定の中の変てこな住民がくりひろげる日常が破綻しないのは、それぞれの身につける小物から、動きから、毎日何を考えて過ごしているのか見えてくるような、ディテールへのこだわり。

今の世の中で一体どれだけの人間が、まだファンタジーというものを見る想像力を与えられているのかを考えると、驚くほど少数の人数に限られると思われる。そんな中、間違いなくテリー・ギリアムやティム・バートンなどと同様に、その頭の中で一体どんなファンタジーを見ているのか気になる才能の持ち主の一人。
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キャスト:ドミニク・ピノン、マリー=ロール・ドゥーニャ、ジャン=クロード・ドレフュス、カリン・ビアール、チッキー・オルガド
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2011年1月8日土曜日

七福神巡り


















お正月に七福神をめぐると福が来るという。七福神とは、家内安全や商売繁盛などを呼ぶ7人の福の神様の集まりで、日本、中国、インドの神様オールスター。

実家での初詣を終え帰京して直ぐ、今年はランニングがてらでなく、妻と一緒に一つ一つお守りを買い求めながら、2日にわたっての七福神めぐり。まだまだ人気のない六本木や、2011になったばかりの東京タワーの照明を見ながらの散策で、普段の生活の場がまだ動き出す前というシーンを見れてとても楽しい。

女性の神様が弁財天か・・・とか、仙人みたいなのが福禄寿か・・・とか、布袋さんみたいなお腹になる前に・・・などと、毎年同じようなことを思いながら一つ一つお参りをし、宝船を含めて8つの繭のお守りをいただく。色とりどりでなかなかモノとしても美しい。リングに通して纏め、架けるところを探していたら、ぴったりのものが見つかる。

エイリアンのように沢山の卵を身につけた、とてつもなく縁起の良さそうな太陽の塔に見守られながら、今年一年の無病息災を祈る。

















































































































































「10話」 アッバス・キアロスタミ 2002 ★★
















10・9・8・7・6・5・4・3・2・1・・・・・

結局車に乗り込んできた男性は、10、5、3、1の息子アミンのみということになる。

一台の車の中で行われる会話。ボンネットからの映像だけで、後はひたすら二人の会話のみ。それ以外は一切ない映画。それだけに、なんだか自分の後ろの席に座って、聞いてはいけない会話を耳にしてしまって、気配を消さないと思いながら身を小さくしてる気がしてくるから不思議だ。

状況説明的な映像が一切無いから、二人の関係や、それぞれの心の動きなどは、会話の中から徐々につかんでいくしかないのだが、この人たちは本当にカメラがあるというのを知っているのだろうか、と思うほど、なんだか盗撮のような映像の中の登場人物は、その視線の追い方など、極めて日常的で素であるから、本当に不思議なほどに話に入れる。

徹底的に流れる風景や、ハレーションを起こして白く飛ばされた風景として、消去されるコンテクスト。イラン人とモスクというリージョナリズムは与えられるが、出てくる会話は離婚した親子の確執や、分かれた彼氏への未練、娼婦として解放された欲望など、恐らく世界中どこの都市でも同様の会話は行われているだろうと想像できる内容。

ある方向に、要素を徹底的にそぎ落とし、ここがギリギリ映画として成り立つという極地まで追い詰めたような第57回カンヌ国際映画祭 ある視点部門出品作品。
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第57回カンヌ国際映画祭 ある視点部門出品作品
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キャスト:マニア・アクバリ、ロヤー・アラブシャヒ、キャタユン・タレブザデー、マンダナ・シャルバフ、アメネ・モラディ、アミン・マヘル、カムラン・アードル、モルテザ・タバタバイ、バフマン・キアロスタミ、マスタネー・モハジェル、マズダク・セパンル、レザ・ヤズダニー、ヴァヒド・ガーズイ
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2011年1月7日金曜日

春の七草 人日の節句

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ春の七草

五節句のなか、唯一、重日思想に乗らない1月7日:人日。

正月の暴飲暴食で完全に疲れた胃腸を労わり、今年一年の実りと、無病息災を願って、家族と共に土鍋を引っ張り出してコトコトと弱火で前夜より粥をゆでる。

初詣も終え、七福神めぐりを終え、厄落としを終え、賀状返しを終えて、忙しない日本の正月行事を一通りこなして、日常へと戻っていく7日の朝。「一年の計は元旦にあり」というが、気持ち新たに迎えた一年の始まりの7日間に行うことが、その一年の一番の理想の過ごし方であるということか。

そうでなくてもやるべきことは沢山ある日本の正月。やるべきことを教えて育ててこなかった子供達が、キレて、ひきこもり、他責的なうちになったとなげく日本の社会だが、その社会をつくった親達が、便利だとか、楽だとか、個の実現だとか、やるべきことをどれだけ放棄してきたのかと、鍋の様子を見ながら、正月のニュースを流すテレビを横目に見ながら思いを馳せる。

食欲をそそる出来上がった七草粥を写真にとって、遠くに住む家族に送り、向こうでも「そうだ、そうだ、作らなきゃ」と、今年も家族で季節を共有しながら一年を開始する。

「売春窟に生まれついて」 ザナ・ブリスキ 2004 ★★
















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「母さんが部屋で働く時は、外か屋上に行って遊んでないといけないの」

こういう映画をゴールデンタイムにフジテレビあたりで放映すれば、日本の何かがきっと変わる気がする。

「父さんが私を売ろうとしたの」

ついでに言えば、一週間に二時間程度、各テレビ局がスポンサー無しでの自社制作の番組放送をし、それぞれがスポンサー獲得の為の視聴率稼ぎではなく、社会に対して何を放映するか本気になって考えれば、このようなセンセーショナルだけれども日本であまり目にすることのないような映画にも生存権が与えられるのではないだろうか。

「貧しくても幸せな生き方があるの。誰かがそれをしなければいけなくて、それが私でいいの。」

もしくはグーグルあたりのスーパー・カンパニーが各テレビ局の同じ時間帯の枠を買い、スポンサーの思惑は、「どれだけ社会性があって、文化的で、刺激的なものです」というくらいの曖昧な題目を与えて、各局に好きなものを流してもらう。そうすれば日本も何か変わる気がすると、つくづく思わされる2005年アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー賞受賞作。

BOPビジネスが叫ばれるが、その底辺周辺にも一日嬉しかったり悲しかったりする子供が生きているという強い現実。お婆ちゃんも、お母さんも売春婦で、初潮を迎えたら自分も当たり前の様に客を取り、それ以外の生き方など想像することもない子供達。

カルカッタの売春宿で生まれ育つ子供たちに、ザナというイギリス人女性カメラマンが何年もかけて交流を重ねる。レッド・ライト・ストリートに取材で入ると、そこに住む人々から拒絶をされるので、代わりに子供達にカメラを与え、子供の目を通して世界を見、そこに写る明るさと暗さを捉える。与えるだけではなく、ちゃんと子供達に写真というものを教えていくザナ。構え方から構成とはどうやって要素を四画の中に入れ込むかなど、しっかりと基礎からかなり奥深いことまでじっくりと教え、しかも子供達に自分達で考えさせ、自分達で選ばせる。

イギリスとインド。かつての宗主国と植民地。優しく、しつこく、暖かく子供達に接するザナの姿に、イギリスの懐の深さを感じずにいられない。

成熟拒否の現代日本。派遣村が世を賑わしたのもいつのことだったかそろそろ皆が忘れ始め、今日一日を生きれることが当たり前のこととして身にしみている現代日本人の我々。

それでもモニターの向こうの世界の話なのか、それとも生れ落ちた場所に感謝するのか、はたまた今日一日の過ごし方を恥ずるのか、見終わった時の感想がじっとりと一週間ほど残りそうな映像作品。
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2005年アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー賞
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2011年1月5日水曜日

「白いリボン」 ミヒャエル・ハネケ 2009 ★★
















初夢・初詣・初日の出に気をまわすように、初映画となる正月一発目に見る映画の選択は結構気を使う。

どうせ後半にはぐずぐずになって、緊張と緩和の緩和だと自分を言い聞かせながら、なんら精神的集中を必要としないエンターテイメント映画に引っ張られてしまうのだから、せめて前半は飛ばして行こうと、ソフトなものよりもハードな映像を選ぶことになる。

しかもできることなら、映画館でしっかりと見たい。となると結構選択肢が狭められることになる。そんな訳で、これはと思いながら、敢えて年明けに残しておいた一本。

私の映画は観客にポップコーンを食べさせない、という監督の言葉に沿うと、娯楽気分で嫁を誘えるはずも無く、正月休みの空いた時間にそそくさと一人逃げるように銀座に足を運ぶ。

ミヒャエル、と聞くと、つい、エンデ、となってバスチアンの冒険が思い浮かんでウキウキしてしまうが、ハネケの方はとことん暗い。表現するならば、弱火であるけれど、ふつふつと沸く沸騰寸前の鍋の様な映像。

時は第一次大戦前夜のドイツの小さな村。仕掛けられた見えない針金によって、医者が落馬する事件がその後村で起こる様々な出来事のプロローグとして物語は始まる。

144分の上映時間を通して貫かれるのは、宗教という旧社会を支えてきた規律では抑えきれないねじれやゆがみ。それが臨界点へ達し爆発ギリギリという緊張感。

圧力の象徴としての白いリボンと、それに鬱憤を感じながらも、あくまでも良い子を演じ続ける子供達が、その数年後にナチの中心世代を構成していくというこれまたギリギリの時代背景。

家族を守る為に建前を並べて威厳を守り、共同体のガス抜きとして異物として登場する知恵遅れの子。思い出されるのは、「ドッグヴィル」の演劇的共同体だが、健全な共同体とは一体なんだろうか。

小さな村の混乱は解決されないままに、まるで大きな祝祭のように、そのまま戦争という大きな物語に渦を吸収されていく。

すっかりフラットになって、個人が世界に直接リンクされる時代に到達した今だからこそ、共同体の崩壊が誰にも止められずに、大きな破壊へとつながっていった時代を撮りたかったのだろうかと思いながら、そういうえばポップコーンを食べなかったことに気がつく。
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2009年カンヌ国際映画祭パルム・ドール
2009年ゴールデングローブ賞外国語映画賞
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2011年1月4日火曜日

「トーク・トゥ・ハー」 ペドロ・アルモドバル 2002 ★★★★★

一体どれくらい前に見た映画なのかよく覚えていないが、とにかく印象的だったのは作品の中で非常に強いキーワードとなる「ダンス」。

冒頭から世界的な振付師でありダンサーであるピナ・バウシュ(Pina Bausch)の独創的なコンテンポラリー・ダンスの迫力に心をあっさり奪われる。「人間の身体とはこういう風に動くものなのか・・・」と思わせてくれるその舞いの一つ一つの動作まで緊張と緩和を計算されつくされた美しさに心を奪われる。

ロンドンのAA Achoolという前衛的な大学院に足を踏み入れた時、前年度のあるユニットの成果報告の中に、アメリカ出身のバレエ振付家である、ウィリアム・フォーサイス(William Forsythe)の動きをマッピングし、そこから建築空間へと翻訳をするという内容のスタディが行われていた。

バレエの動きを解体し、再構築することで新しいコンテンポラリー・ダンスの高みへと挑戦していたフォーサイスのことを知ったのもその時が初めてであったが、建築という学問が水平に様々な分野に開き、同様に新しいことにチャレンジする同時代に生きるクリエイターから何かしらのヒントと建築への可能性を見つけようとするその姿勢になんとも度肝を抜かれたのを今でも覚えている。

空気を切り裂くようなバイオリンの音楽を背景に、一人舞台の上で今まで見たことも無いような身体の動きを見せてくれるコンテンポラリー・ダンス。何も言葉を発せずとも、それでも身体中を使って表現されるのは人間の心の動き。その姿を見ているだけで、言語と言う声帯による空気振動を通さずに、身体によって震わされた空気の振動を自らの身体が直接受け取ることにより、視覚と言語に頼りすぎている現代に生きる我々にはまったく新しい刺激を与えてくれることになる。

舞台の上で見たことのない、しかし何か訴えるものを表現するダンサーの姿と同じくらいに印象的なのが、それを客席で見ている中年のおっさん。あまり正確には覚えていないが、頭も禿げ上がり始めたそのおじさんは、確か建築家の設定だったのではと記憶する。

家庭で居場所を失うのでもなく、心を殺して平日を乗り切るのでもなく、自分が何を求めているのか知り、一人でも劇場に足を運び、自らの強い感受性で、誰が見ていようとも関係なく、心の叫びの様な舞いを身体で感じ取り、一人静かに涙する。そんな中年のおっさんになりたいなと望んだことを思い出す。

自分が何をしたいのか、なんてことを考えることを無しに日常を生き、行きたいのかも分からない飲み会に、ただただ空気を読み、自分の居場所を無くさないために足を運ぶ。そんな生きにくい社会となった現代の日本。誰もが横並びで、誰もがそこそこの生活を送る中では、自分の心の声に耳を澄ますこと、自分の感情が何を求めているのか向き合うことすらままならない。

そんな日本に生きるからこそ、都会の夜という誰にでも公平に与えられた時間の使い方を、自分の感情にとって必要なものを探し出し、それに対価を払い、そして一人足を運び自分なりの受け取り方をする。そして自然と流れる涙。そんな当たり前のことがなんとも羨ましく感じる。

ストーリーも絵も見慣れたアメリカ映画からはかなり遠い場所にあるのは間違いないが、作中でも歌われるカエターノ・ヴェローゾ (Caetano Veloso)の歌の独特なゆったりしたリズムの様に、時代に寄り添うのではなく、自らの感性を信じるその映画のあり方に、やはりアルモドバルの凄さを感じる一作。

見え終えた後さっそくサントラを入手し、いつか自分も一人夜の闇に紛れ、コンテンポラリー・ダンスの舞に自分の心の奥から湧き上がる感動に耳を傾けるような日を楽しみに「トゥトゥトゥ」と口ずさみながら思いを馳せる。
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スタッフ
監督・脚本 ペドロ・アルモドバル

キャスト
レオノール・ワトリング
ハビエル・カマラ
ダリオ・グランディネッティ
ロサリオ・フローレス
ジェラルディン・チャップリン
パス・ベガ
ピナ・バウシュ
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作品データ
原題 Talk to Her
製作年 2002年
製作国 スペイン
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