2021年12月15日水曜日

Villa Savoye サヴォア邸_Le Corbusier ル・コルビュジエ _1931 ★★★★★

 


ル・コルビュジエ Le Corbusier


ル・コルビュジエ が公共建築を手掛けるようになる前の時代。住宅をテーマに現代建築の在り方を追求してきた前期のコルビュジェの記念碑的作品。コルビュジェが掲げる近代建築の五原則が明快に表現されているということで、建築を学ぶ者にとっては一度は訪れてみたいと願う住宅であろう。
 
その後は公共性の高い建物を手掛けることが多くなり、住宅となると国外のプロジェクトがメインとなり、フランス国内ではジャウル邸など非常に限られるものになる。その意味から30年代初頭に作られたいくつかの住宅群はコルビュジェがキャリアの初めから向き合い、20年かけて養ってきた現代における住宅の在り方とは?という問いにきっちりとした答えを提示しているために、1世紀近い時間が経つ今でも多くの魅力を放ち続けるのであろう。
 
 
大学時代にバイトをして貯めたお金でモスクワ経由の安い航空券でやっとの思いで辿り着いたパリ。事前に調べていた経路と地図を頼りにパリから電車に乗って随分郊外に来たなと感じた
ポワッシー。住宅自体よりも、最初に感動を覚えたのは、その緑豊かな周辺環境だったと記憶する。
 
建築を考える上で陥りがちなことは、現代の視点をもって、今から100年近くも前に設計され、作られた建築を見てしまうこと。大切なのは、その当時どのような建築が、どのような住宅が社会の中で主流を占めていたのか、それを意識し、それを念頭に置いてそれぞれの建築を見なければ、その建築が挑んだ常識や、何を変えたのかは見えてこないということ。
 
そのことを思いながら改めて当時の写真や図面を見返すと、初めて訪れた時から20年経った今も、変わらず住宅とはどうあるべきかを表している部分と、そして自分自身が20年経った今だから見えてくる意味とが感じられる。

サヴォア邸から100年だ経とうとしている現代において、今を表現する住宅とは一体どんな建築なのかと改めて考えることにする。





2021年12月1日水曜日

師走(しわす)12月

 

本当にあっという間の一年。

Brief Garden ブリーフ・ガーデン_Bevis Bawa ベヴィス・バワ_1929-1949 ★★★

 


Bevis Bawa ベヴィス・バワ


建築に関わる人にはなじみ深いジェフリー・バワ。そのバワが長年時間を費やして作り上げた理想郷がスリランカの南に位置するルヌガンガ。一度は訪れてみたいと長年の夢を実現した際に、ルヌガンガのスタッフの人から教えられたのがもう一人のバワの存在。それがジェフリー・バワの兄であり、バワを建築の道に進むことになる刺激を与えた実の兄、ベヴィス・バワ(Bevis Bawa)。
 
ぜひ訪れた方が良いと勧められ、ルヌガンガからコロンボへと戻る前に立ち寄ることに。道もそれほど整備されていない、自然が残る細い道を抜けると、緑の中に隠れるように現れるのがべヴィス・バワがこちらも長年かけて作り上げた理想郷であるブリーフ・ガーデン。
 
両親から受け継いだゴムの栽培のための農園に移り住み、そしてそこに自ら住まう場所として徐々にランドスケープを整えていったベヴィス。バワ同様、彼も同性愛者であったということで、庭園のあちこちにはなかなか刺激的な彫刻が設置されており、とてもユニークな空間を作り出している。
 
庭園には強い軸線が3本引かれ、高低差の強い地形を利用して非常に西洋的な庭園空間が部分的ンに現れ、その周囲には濃い自然が囲い全体を把握することなく、部分のつながりで全体が構成されている。これはプランテーションの為の土地に手を入れて徐々に整えていったことも手伝っているのであろう。
 
この兄の庭園を見て、弁護士から建築家へと転身を決めてバワは、より強い関心を建築と外部との関係性に置き、さらに強くスリランカ独特の空間性を作り上げていくことになるのだが、やはりその意味からも、個々の空間の強さはバワの方が勝っていると思われる。
 
しかし時代を超えるバワの建築と空間性の発芽がここにあるという意味と、一人の人間に自らの職を変えてまで身をささげる決心をさせてこの場所の持つ意味を考えると、ルヌガンガとブリーフ・ガーデンをともに体験できたことは、とても意味が大きいと思いながら帰路に就くことにする。 



















2021年11月24日水曜日

シンドラー・ハウス Schindler house and studio_ルドルフ・シンドラー Rudolf Schindler_1922 ★★★

 


ルドルフ・シンドラー(Rudolf Schindler)

フランク・ロイド・ライトに憧れて、ヨーロッパのオーストリアからアメリカに渡り、ライト事務所で働いていたシンドラー。ライトがロサンゼルスで進めるホリーホック・ハウスの担当をするが、その時ライトは重要プロジェクトである帝国ホテルのプロジェクトの為に日本に思う居ていたために、ほとんどのプロジェクトを担当者として設計を行ったのがこのシンドラー。
 
オーストリアではオットー・ワーグナーやアドルフ・ロースから建築を学び、同級生にはリチャード・ノイトラもいたという建築界のエリート。当時台頭しつつあったアメリカの現代建築に思いを馳せ、海を渡りシカゴで建築家としてのキャリアを開始し、ついに憧れであったライトの事務所で働けるようになるシンドラー。ホリーホック・ハウスなどいくつかの作品をライトの下で手掛け、そのままロサンゼルスで独立し、すぐに手掛けたのがこの自宅兼スタジオ。
 
ライトもどっぷりとはまっていた日本の木造建築の影響は、そのままシンドラーにも色濃く受け継がれており、木造建築の持つ繊細なサッシと水平線。襖の様な引き戸に、障子を思わせるような細かなサッシなど、日本人が訪れたら、このどこがミッドセンチュリーの名作建築なんだ?と思ってしまうような既視感と感じる懐かしさ。 基本的には当時シンドラーが好んだプレキャストのコンクリートパネルの床と壁によって、そこに繊細な木製の建具が挿入され、ライトの大地から生まれたような力強い素材性と、間仕切りの曖昧で、緩くだが配置と外部との関係性で空間を緩く繋ぐ日本建築らしい空間配置が、シンドラー独特の空間を作り出している。
 
妻のポーリン(Pauline)もデザイナーであったため、二人の為のアトリエと、自宅として毎日ここで生活が行われた為に、二人がどのような空間を理想と考え、そして育てていったかが良く分かる住宅。決して派手なことはしていないが、それぞれの空間に美意識と思想が表現されて、どの時代になっても古く感じない、そんな自邸であるだろう。