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2012年12月27日木曜日

新しい時代にあった飛行機の乗り方

年末年始。様々なところから家族で過ごす故郷に向けて、いろんな人が移動する時期。

北京からKLまでの6時間強のフライト。3人がけの席の後ろに陣取ったのは、夫婦と小さな女の子と赤ん坊。チケットが必要な年齢に達していないためか、その席の横にはもう一人若い女性が陣取って、3人がけに5人が座るという事態になり、航空会社のスタッフが「これはありえない」となにやら揉めている様子。「この子達は2歳に達してないから。」という夫婦の説明によって、なんとか横の女性が我々の座る席の間に移動して落ち着く。

そんな訳で、その夫婦、早速空いた席に上の子を座らせてスペースを確保するが、飛び立ちもしないうちからその上の子が泣き叫ぶ。周囲の乗客(正月を国で過ごすと思われる、マレーシア人や正月休暇をあったかい場所で過ごそうとしている外国人)も、さすがに子供だからと、みな困ったなぁという視線は送るがそれ以上何も要求できずという状態。

せめてあやして泣き終えるようにするとか、何かしゃぶるものを与えるとか、少しは周囲に迷惑がかかってしまって申し訳ない的な行動を取るのかと思っていたが、心の相当強い夫婦なのか、それともまったく社会性をどこかに置いてきてしまったのか、それとも自分たちだって困っているんだと開き直ってしまったのか、それとも子供を持つ親というのは大変なんだという方向に行ってしまったのか、とにかく何らかの対応を取る気配はない。

それどころか後ろをチラッと眺めると、泣き叫ぶ二人の子供はほったらかしに、ウトウトと眠りに落ちる夫婦の姿が目に入る。しかしこの子供達は更に激しく泣き叫び、まさに阿鼻叫喚の様。しかもそれが日本人というオチ。

用意しておいた耳栓を奥まで詰めても、アイフォンに入れておいた激しい音楽を最大ボリュームでイヤホンに流しても、その声は鼓膜まで届きBGMとして成り続ける。どうせ眠ることは無理そうだからと激しい音楽を聴きながら、この問題について考えをめぐらせる。

年末年始、ネット上でこの問題に対してあーだこーだと問題になるが、子供は泣くものだとか、子連れでは飛行機に乗るなとか、泣く子供連れならビジネスに乗れとか、逆にそれだとより高いお金を払って苦痛を感じずに旅をするはずのビジネスシートの意味が下がってしまうとか、子供を持った親じゃないとこの苦しみは分からないとか、その場の感情論的な意見は多々あるが、恐らくこれは時代が変わりインフラがその変化について来れていない歪の現れである。

昔の親は子供が自制が効くまでは、このような空間を他人と共有する行動はしていなかった。泣いてしまう子供がいるのなら、時間がかかっても車で高速道路を使って里帰りし、車内で泣いてしまう子供でも、家族としてその時間を受け入れていた。それに比べて今の親は、公共性や他の人に気を遣わず、便利であることだけで公共交通を利用して、迷惑の押し付けが多すぎるという意見も聞く。

しかし、やはり公への気の遣い方のモラルハザードはあるとしても、グローバル化が進んだ世の中において、どうしても個人で所有できる移動手段では辿りつけないほど、家族と自分たちの住まう場所の間に距離ができてしまったことは間違いなく、そうなると公共交通手段に依存をしなければいけなくなるのはしょうがない。

だからといって、「私も大変なんですよ。困ってしまっているんです。だから文句は一切受け付けません」的な雰囲気を醸し出す親たちの姿が正しいのかといえば、それもまたそうとも言えない。

そうならば、そういう抵抗することのできない社会の変化に対応すべく、公共のほうもシステムの在り方を柔軟に変化させていくほかない。数年前に「女性専用」という摩訶不思議な車両を東京の鉄道会社が導入し、世界に日本の異常性を見せ付けたが、今こそこのような空での時間の過ごし方に対して、独自の対策を採用する航空会社が現れるべき時代に入ってきているのだろう。

それなら何が可能かというと、やはり子供連れの乗客にはある一定のシートを「優先して」割り振り、他の乗客と距離をとって空間を分離する方法しかなくなってくるように思える。KLで宿泊予定のホテルも、明確に「12歳以下の子供はお断り」とうたっているように、これは「差別」ではなく「区別」であり、たとえ自分の子供が泣かなかったとしても、同じ子供を持つ親としてそのリスクを共有し、その空間を共有すること。そんなことを実行する航空会社がでてきてもおかしくない時代に来ているのだろう。

後部の座席は子供連れが座るようにして、前に来るにつれて、ところどころに防音の良く効くカーテンで仕切っていく。泣いた子供をあやす姿を横の親が「大変ですねぇ」という言葉にも、これならより一層の重みが加わるというもの。

グローバルに展開する世界では、如何に「差異」化するかが生き残りの道であり、その中では逆に子供連れの乗客はお断り、という航空会社が出てくるかも知れない。そうすれば、子供連れもOKですというチケットはもう少し安くなって差異化が加速し、後は顧客の「選択」次第ということになる。リスクを知り、自らが「選択」をした結果であれば誰も文句は言えないが、「選択」が与えられない中で、ただ「偶然」に乗り合わせてそれを強制されるよりははるかに納得感が増えることになる。

自分の立場によって意見がブレまくるこの問題だが、時代の流れを考えると、上記のような勇気ある航空会社が現れるのもそう遠くは無いなと確信する。

どんな時代に入っていっても、公共性というココロを失うことはしたくないなと心に誓う空の上。

2012年12月17日月曜日

末端神経としての日本

日本に出張のためにまだ人気の少ない早朝の空港内を歩きながら思う。

建築にとって、空港というのは駅舎という次に現れた公共交通空間であるにも関わらず、20世紀に駅舎が作り出した出会いと別れのシーンを飲み込む巨大な舞台空間のインパクト同様な新たなる建築空間を提示するには至っていない。

多木浩二が「都市の政治学」で述べる様に、都市の郊外に置かれ点としての都市と都市をつなぐ航路という線に乗る、拘束された身体に貶められる前の数時間を過ごす場としての空港は、ドラマを作り出すよりも、個人として過ごす空間に留まり、その現代都市での建築空間としての可能性をいまだ発揮することは無い。

機能性を追及し一つの入口から安全という監理の経路を通過する。ゲートという出来るだけ多くの飛行機が接地できるような構成は、メイン建物の壁面を多くすることが現在のところの最適解のようで、自然における最適解が同様な形状を示す端的な例に違わず、人の神経構造のように枝分かれする構造となる。

先にいえば行くほど入口からの距離は伸び、荷物を抱えた旅行者への負担は増大し、カフェやトイレなどのインフラも出来るだけ多くの人に触れるようにと、枝分かれの少ない中心に配置されるから、神経の先は寂れた温泉街の様に、暗く寒く人気もなくなる。

つまりは現代の巨大都市におけるハブ空港は、もはや一つの街としての空間性を持ちえてしまっている事実。

ではその距離を誰に強いるのか?そのゲートに配置されるのは何処かの航空会社である、何処かの国にいく便が必ず毛細血管の先に接地することとなる。

その国とはどこか?

それが空港の位置する国がその行き先の国をどう位置付けるかであり、どれだけの重要視するかの現れであるはず。

その国の人間がビジネスか観光で訪れる。
その国に住まうかの国の人間が休暇や仕事で帰国する。
かの国から観光や仕事で来ていた人間が帰国する。

それらの人の肩にのる重しの様に負わされる距離。その距離に秘められた様々な事情を感じながら辿り着く最奥のゲート。

まさに末端。

それが今のこの国での日本の位置なんだと実感しながらやっと椅子に腰を下ろす。