1995年公開ということは、今から20年前の1993年には相当なところまで詰められていたということになる。相当レベルの高い想像力である。かつて見たときは恐らく「マトリックス」に影響を与えただとか「ブレード・ランナー「や「2001年宇宙の旅」などと並び、未来を描く作品の金字塔の一つとして良く語られるからとにかく見ておこうというような流れで、しっかり理解したかと言えば相当怪しいものだったはず。
士郎正宗による漫画が原作で、2029年を舞台としたSF作品ではあるが、その原作の構想力もさることながら、漫画というコマの世界から立体の都市の中で動き回る3次元の世界に立ち上げる時に、世界を補完するするために挿入される作者の想像力。
SFという近未来を描く作品では、どうしてもその物語りの背景となる社会情勢を説明することになる。それがあまりにも現在とかけ離れてしまっていると、その説明に多くの時間を要するし、様々な知識レベルの見ている観客全員に分からせようとすれば、それこそ小学校5年生にするような説明になってしまい、作品の品格はあっという間に損なわれてしまう。
そこで物語の序章部分で、説明らしくならずにそれでも物語の背景となる社会の姿を描き出す必要があるのだが、その理解の手がかりとなるような、現在の世界から理解しうる伏線を引くのが一般的だが、あまりに世界観が完結し、完成されているからなのか、そのようなおざなりの説明的シーンを取っ払って物語りは進行する。
その妥協の無さ。それを成し遂げるために、世界観を昇華させるたまのディテールへのこだわり。プロットの作りこみ。物凄いプロフェッショナルなチームの存在が感じられる。武器に関しても、電子技術、インターネットの世界の未来像、ロボット技術の発展とその後に起こるであろう問題点、現実と虚像の曖昧化とそこに現れる新たなるアイデンティティー・クライシスの形、電子時代における国家間の争いなど。その世界観が本当によく構想されている。その一つ一つに破綻がない。
それは登場人物の一つの台詞にも現れており、その台詞の裏づけがしっかりとれているのだろうと想像する。登場人物の中の一人に今の台詞について質問しても、おそらくすらりとその根拠について答えるだろうと思わせる。やはりこれがトップ・クリエイターと言われる人物の作品。そして各分野のプロフェッショナルが集ってつくることの成せる業。こういうものを見てしまうと、ハリウッドに対抗するよりも、こういう形である種の職人技的作品を世界に発表していくほうが、よっぱどその性に合っているという気がする。また、一人で妄想と狂気を抱え込み、それを自らの手で磨いていくことの差が明らかになるような気がする。
押井守といえば、かつて展示空間の設計を担当した「美麗新世界」という展覧会にて「東京スキャナー」という作品を出展しており、「これこそ新しい日本の映像作品の方向性だ」と、東京画廊の田畑さんとも話していたのを良く覚えている。
「東京スキャナー」は六本木ヒルズのオープニングに合わせて発表された押井守監修作品で、まるで地球外生命体が地球にやって来て、東京という街がどのような生態系を持ち、どのような生物が住んでいるのかをシュキャニングしていくという作品。そのアニメ的なカメラワークを現実の映像と融合させることで、今まで見たことの無い東京の姿を映し出すというもの。
この「攻殻機動隊」は「エヴァンゲリオン」とほぼ同時並行で世に出せれた作品であり、それまで未来、ロボットといえば「ガンダム」だった時代から、その硬質な機械の未来像から、透明で、粘々した、そして感情をもったアンドロイド像へと未来像を変換する。「エイリアン」の示した新しい未来に、さらに情報技術を融合させてようなものである。
その世界は極度の電脳化によって、脳へのハッキングが頻繁に起こることになる。これは後の「パプリカ」や「インセプション」の世界に踏襲されていくことになる。ほぼ人間と見分けの付かなくなったサイボーグたち。感情も電子で作り出され、その先にたどり着くのは、自分が自分であることの根拠、つまりはロボットのアイデンティティ・クライシスの問題。こちらの主題は後に「イヴの時間」へ通じることになる。
虚構と現実が入り混じり、「人形使い」と言われる高度なハッカー相手が「ゴースト」を「義体」に入れ込みながら探し出したのは、鏡に映ったもう一つの自分。生命体と自分を定義するためにかけていた最後のリング。それは次世代を残すという生殖能力。そのつがいの相手。
とにもかくにも、原作の力も、それを映像化した作家の力、そしてそれをバックアップしていくチームの力。20年たった今でも全く古びないその世界観は、世界で評価されるのに相応しい名作である。