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2014年3月28日金曜日

どうせなら

建築なんていくものはやたらと時間がかかるものである。

大きなプロジェクトであれば、開始から竣工まで数年。下手すれば10年スパンのプロジェクトすらある。

そして残念ながら人生は一度しかないし、与えられた時間にも限りがある。

なので、建築家としてあれもこれもとやることはできない。そして建築家の日常というのは、どんなプロジェクトに関わるとしても、どっちみちとてつもなく忙しない時間を過ごし、日常に忙殺されることになるものである。

なのでどうせやるなら、一度しか選べない建築家としての一生であるならば、とてつもなく自分が美しいとか、かっこいいと思えるものを作るために時間を費やしたいと思う。

あーだこーだと理論武装して生きるよりは、自分がもし一人の建築好きとして、その建築を見に行ってみたいと思えるようなもの、その空間に感動を覚えるだろうと思えるもの。世の中の誰かが、建築は素晴らしいと思えるようなものを作るために貴重な時間を費やしたいと思わずにいられない。

どっちにせよ、ストレスに苛まれ、健康を犠牲にし、家族との時間を代償にして向き合う仕事であるならば、何を言われようとも、距離を置いた時にでも自分がそれに魅了されると思われるようなプロジェクトに関わる方がよっぽどいい。

2014年2月26日水曜日

欧米スタンダードの生活を求めてくる外国人

幾つものプロジェクトの締切りが同時に迫っている。それぞれのチームメンバーがストレスと疲労を抱えて時間を過ごす。オフィスに長い事在籍しているスタッフは締め切りを控えたプロジェクトがどの様なスピード感覚で進んでいくか、どの様にしてデザインを落とし込んでいくか、どのようにしてプレゼン資料を纏めていくのかをある程度理解している。

が、比較的新しくオフィスに来たメンバーは、ここでどの様に物事が進んでいくのか分からない中で、緊張感を持った時間を過ごすことになり、周りの見えない暗闇の中で手探りで歩くように余分な疲労を感じやすい。

そんな環境の中では、「このような短い時間では思うように設計ができない」ということを言ってくるスタッフが出てくる。

そういう言葉を耳にするたびに思うのが、欧米のしかもかなり恵まれた環境の設計事務所でのスタンダードを求めてこの中国にやってきている外国人がかなりいるということである。

先進国と呼ばれる国の建築家達からは「どうせ中国だから・・・」と呼ばれながら、そういうフィルターをかけることで本当に何が起こっているのかを見えなくしてしまう環境の中で、それでも必死にできることとを伸ばし、新しい建築の可能性を見出そうとし、ドロドロになりながら時間を過ごす者がいる。

この国で何を得るのか、そしてその為には何を犠牲にしなければいけないのか。

他の場所では手がける事ができない面白い可能性を秘めた建築プロジェクト。それに関与できることは、その代償として何を求めるのか。

一つのプロジェクトが安定した状態を保ち、建築家が望むような十分なスタディを行う時間を与えられるような環境がどこで得られると思うのか。夕方になればオフィスでワインでも開けて、皆でプロジェクトについて議論をする。そんな夢の中のスイスの建築事務所の様な時間の過ごし方ができると思うのか。

できないのは、時間の短さのせいではなく、自らの能力不足の為だとは思わないのだろうかと、不思議に思ってしまう。大学を出て数年の実務経験で、いきなり常識の違う国に来て働こうというのに、根拠の見えない自分の常識を押し付けようとするその身振りには、大国の身勝手さを感じないわけにはいかない。

グローバル化の進んだ建築業界。そこで求められる人材となるためには、まずは他人は自分と違う事を認識する、文化人類学の基礎をしっかり理解し、そして違う国には違う国の物事の進め方があり、自分に必要な事はその枠組みの中でも必要とされる、求められるだけの職業人としての能力を高める事ではないだろうか。

2009年10月10日土曜日

「ODA 援助の現実」 鷲見一夫 1989 ★



人の為に何か出来ないかと真剣に考える人が、別の何かを犠牲にしなくても良い、それが援助の本当の形ではないかと思う。

人体が多様性のバランスによって成り立つように、都市や国家、そして世界自体も様々な力のバランスによって成り立つ。

パワー・オブ・テンの様に異なるスケールで異なる世界が広がる様に、この世を成立させる力にも異なるスケールで異なる欲望が支配する。

一つのスケールの欲望は異なるスケールにおいては、時に暴力として現れる。しかも見えない力として。

同じ時間に生まれたにも関わらず、国を追われて、祖国を思い、今日一日を必死に生きる人々。その人たちの為に「微力ながらも自分にも何かできないか?」と想いを持って援助の世界に飛び込んでくる若者。

その反面、国家予算から捻出される巨大な予算に群がる様々な思惑。そしてできるだけ自国の自分達の利益へと繋がるように仕組まれたそのシステム。

世の中は決して綺麗事では回らないが、それでも援助を冠された税金であるからこそ思い描く、貧しい国の人々が少しでも良い暮らしを得られるようになるイメージ。そんな生ぬるい世界で無いと分かるからこそ、いっそ今はやりの仕分事業にODAも入れてほしいと願わずにはいられない。

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1 援助―その多面的な顔
2 霞のなかのODA
3 何が行われているのか
4 受け入れ国側の事情
5 誰のための援助か
6 新しい発想、多様な試み
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