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2014年5月26日月曜日

「忘れられた日本人」 宮本常一 1984 ★★★★

いつも「法隆寺を支えた木」の著者である宮大工の西岡常一と名前が混乱してしまうが、こちらは民俗学と言えば必ず名前が挙がる宮本常一。

日本全国、いたるところを歩き回り、実際に自らその地に入り込み、そしてその土地に住まう人々から話を聞く。決して自分が前に出はしない。ただじっくりと耳を傾ける。

それは作者が炙り出そうとしたのが「無字社会の日本」であるから。様々な事柄や出来事を「記録」として「文字」という媒体を利用して後世に伝えていく文化の継承。しかしその一方、文字が普及せず、ひたすら口伝によって継承される「記憶」の文化もある。そして文字を持たない農村部に住まう人々がどのような文化を継承してきたかをその場に入り込み、その場で生きてきた人々がどのような話を受け継いできているのかに耳を傾ける。

「記録」に残らない、つまり「記録」の積み重ねで作られる歴史の中からは「忘れられて」しまった人々の中にあるのもまた間違いない「日本」であり、彼らもまた「日本人」の一面であるということを描きだす。

その為に、自分の意見をどうのこうの書くのではなく、ただただその地にいる人たちがどのような日常を過ごしているのか、どんな話をするのかをただただそのまま描く。その地に伝わる「語り」と「継承」。そして四季折々に行われる行事の中に見える文化や踊り。そして歌。

アカデミー賞を受賞した、「それでも夜は明ける」を見てみても、奴隷として農作業に従事する黒人がその農作業の辛さを紛らわせるかのように皆で歌を歌いあう姿が何度も描かれる。

日本の農村で田植えに励む人々も「田植唄」という歌を田植え作業をしながら皆で歌いあう。そこに共通するのは時間が過ぎるのを紛らわせるという、単純作業、辛い農作業を少しでも皆で軽くしたいという思い。これはどの時代、どの場所でも同じなのだと理解する。

若い頃いった「夜這い」の話を懐かしい思い出として話す各地の人々。女性もまたそれを一つの楽しみとして話している姿から、娯楽が非常に限られていた時代に、限られた人間関係の中で生きていた人々が長い年月の中である種のルールを構築しながら日常の中にハレの場を作っていたことが良く見て取れる。

「村の寄り合い」の場面で、どんなに時間がかかろうと、皆が納得するまで話し合い、村の将来の為に最後は代表者の判断を信用する。そんなコミュニティのあり方。そのプロセスに参加している為に、自分も強い所属意識を持ちながら日常を過ごすことになる。

「利便さ」という「価値観」によって、ズタズタに切り裂かれることになった現代日本。自分達の祖先がどのような日常を過ごして来たか、ほんの少し前の日本では、どれだけ日常を過ごすのが大変だったのか、如何に今の自分達が様々な技術の進歩の恩恵を受け、楽な時間を過ごしているのか、それすら知ろうともしない多くの現代の日本人。

日本人が住まう場所に広がるのが日本の風景。現代の日本人が一体何を考え、何を語り、何を感じて生きているのか。それを見て、知らない限り、現代日本の風景は見えてこないのだろうと思いながら、できるだけ多くの日本人に出会い、話を聞くことが今後の日本を作る建築家にも必要なことなのだと理解する。

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■目次  
/対馬にて
/村の寄りあい
/名倉談義
/子供をさがす
/女の世間
/土佐源氏
/土佐寺川夜話
/梶田富五郎翁
/私の祖父
/世間師(一)
/世間師(二)
/文字をもつ伝承者(一)
/文字をもつ伝承者(二)
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2012年12月23日日曜日

記憶と記録

今読んでいる本の中に、「記憶と記録」に関するやり取りが出てきた。

これを書きたかったために、著者はこの話を構想したのだなと分かるような内容になっている。

記憶は誰もが嘘で固めらて、その中にほんのちょっとだけ事実が混じっているだけ。それが時間が経つにつれて、何度も語る中において、嘘で固められた記憶が曖昧に本当にこととして定着していく。

辛いことや悲しいことも、記憶の中で薄められること、忘れられることが可能だからこそ、今日を生きることができるわけで、どんなことも克明に覚えていなければいけないのなら、恐らく一日だって過ごすことはできないだろうと。

誰だって望むようには生きられないから、記憶の中で少しだけ手を加え、思ったように行かないからこそ、また明日を生きられるということだ。

記録することで記憶を選り分け、選り分けられた記憶の中で明日を生きる自分を見つける。そうしてキチンと過去に線を引いていくことが、この情報社会で道に迷わず生きる術なんだろうと非常に納得する内容である。


今年のうちに

今日は天皇誕生日。ここまで来ると流石に一年の終わりと意識せずにいられない。

残り数日と迫った一年の暮れに毎年思うことだが、できることなら今年出来ることは今年のうちに区切りをつけたいと願う。

建築という一つ一つのプロジェクトが数年かかるという職業に就いていると、一年というスパンでモノを考えるよりは、もっと長いスパンで物事に向き合う姿勢が必要だと思考の基準時間軸を伸ばそうと努力はするが、やはり一人の社会に生きる人間として、どうしても来年に今年の雑多な事象を持ち込みたくないと思うのものである。

読みっぱなしの本や、見っぱなしの映画、メモで終わっていた徒然なる事柄に、整理されずにいる訪れた建築、彫りかけの木彫りや、仕事の進行状況。

記録するためではなく、記憶化するために、ちゃんと自ら過ごした時間に向き合い、もう一度行ったこと、経験したこと、感じたことをしっかりと見据えて消化する。

忘れる為に言語化し、生かすために身体の外に置いておく。

部屋の中と同に、激しい情報に一年晒されてきた頭の中も、データで埋まったパソコンの中も同じように綺麗に整理整頓して次の一年に向かう。

そんなことを思いながら、残された数日に思いを馳せる天皇誕生日。

2012年12月19日水曜日

「エクサバイト」 服部真澄 2011 ★★★★

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目次
プロローグ 2033年
第1章 2025年
第2章 2025年
第3章 2031年
第4章 2119年
解説 池上彰
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今年度読んだ中でも強烈な印象を残した一冊に選べる一冊。

エクサバイトはデータの量やコンピュータの記憶装置の大きさを表す単位。 EBと略記される。

キロ
メガ
ギガ
テラ
ペタ
エクサ
ゼタ
ヨタ

多くのデータを扱う建築設計という世界に身をおいていても今はテラの時代。10数年前、学生時代にメガバイト時代に増えるデータ容量と、バックアップのためのHDの費用とで四苦八苦していたのが嘘の様に、ギガを超えて既にテラの時代。

もちろんオプティマイゼーションが日常業務の一つとなるのと同時に、来年はひょっとして「ペタ」と口にしているかもしれないと思わずにいられない。

かつては印刷した写真をアルバムに入れていたのがいつのことか懐かしいように、今では日常の中で写真は撮り放題で、見返すかも分からないがとにかくデータとして保存する。それどころか静止画のコマ送りである動画までデータとして保存し、個人がストックする記憶のデータは加速度的に増えていく。

現代の日常においても、「あの時みたあの建物のあの扉のディテール良かった気がするな・・・」と記憶の片隅に残っているイメージを元にして、「あそこに行ったのは何年だったっけ。何月くらいだったから・・・」とフォルダーを掘り起こし、該当する日付の写真を見つけ出す。

もしくは、保存する時にうまい事フォルダー名をつけておいたならば、「建築家の名前、建物の名前、都市の名前」など「タグ」から該当写真を見つけることが出来る。

では、今後この流れはどうなっていくだろうか?

そんな刺激的な問いに自分が知る中では一番現実性を持ち、かつ想像力豊かに答えたのがこの作品。

時は2033年。「ヴェジブル・ユニット」とよばれる極限まで小型化されたカメラを両目の間に埋め込んだ人類は、その15テラバイトのメモリ容量に支えられ、自らが見聞きしたものすべてを一生にわたって記憶し続けける。

「あなたの見てきたことが、映像となって残ります。生涯の記憶、見える日記、見える自伝」

そんな広告に誘われるように、様々な人が「ヴェジブル・ユニット」を装着し、人類の生きた映像データを増加させていく。

そうなると、そのデータを集めて、より多視点の記憶。総体的な記憶を構築しようと試みるものが現れる。まさに現代で言えばグーグルのようなIT巨人。同時間に生きるさまざまな人の見たもの、記憶をトラックできれば、例えばある殺人事件が起こったときに、その時にどういう状況だったのか?当該者達が過去にどのような問題を抱えていたのか?それがどのように発展して事件が発生したのか?などという、「マイノリティ・リポート」に近いことが可能になる。

そしてそれは、次の事件の発生を防ぐ事になる。つまりより多くの人間の記憶を手に入れたものが、より多くの力を手に入れることになる。その時に発生が予想される問題。現代の「グーグル・ストリート」で起こっている問題のより未来版。如何にプライバシーに関する問題をクリアするかまでよく考え込まれており、それがうまく物語りに入り込んでいる。

データが膨大になる時に起こるもう一つの問題。それをどうフィルタリングして、重要なものを選り分けていくか?写真でも何百と言う枚数から重要な一枚を探し出すのはとても大きな労力を使うことになる。しかも「何をポイントとして重要とするか?」というパラメーターが変わってしまえばそのフィルタリングの結果も大きく変わってしまう。

それが今度は一人の人生すべてといえる映像。そしてそのほとんどはなんとも退屈な日常風景。その中からどうやって、その人物の人生を決定付ける重要な瞬間を検索するのか?という「検索」の問題が大きくクローズアップしてくるだろうというのは、流石といえる作者の視線。

何度も何度も映像に表れてくる人物はその記憶の持ち主にとって重要な意味を持つ人物であったに違いない。

というような「タグ」のつけ方。そのタグのプログラミングを行う「検索システムデザイナー」という鋭い視点。移動や冠婚葬祭という人生の大きなターニングポイント。それらを検索し、見たいところだけをすばやく選り分け、頭だしして再生していく。

そんな時代に現れるのは、自分が生きた証を人類の歴史として提供しようとする自尊心をくすぐる巨大なビジネス。歴史に名を残したい普通の人々。通常なら死亡時にデータが消滅するべくセットされているが、本人が望めば百年後に指名した人物に記憶のデータを譲渡することが出来る。それを使って、人類の共通のデータを作って新たなる歴史を編纂しようとする意図。

一人ひとりの一生は何の変哲も無いかもしれない。しかしとある出来事が、世界を動かしているかもしれない。

まさに全人類検索。

なんとも恐ろしいが、実現しないと誰が言えるのだろうか?ではその先に待つのは何だろうか?人類の記憶を手にした一企業が次にあけるパンドラの箱とは?

それこそ歴史の捏造。

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つまり、ものを突き詰めて考えている者だけだよ。一般的には自分の理想像を残したがるからね。個々の人間が記録を美化してしまう。

古代の人間は、現代のような文明の利器や情報手段を持たなかった。けれども、だからといって不幸だったのだろうか?
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過去に何度も行われてきたように、勝者によって都合のよいように塗り替えられる歴史。誰もが懸命に自らの過去を飾り立てようとする。

引用されるのは美術修復や鑑定の技術。進歩した技術は立体画像の修復すら可能にする。しかしそこでも使われるのは修復理論の三原則と呼ばれるブランディの三原則。

1 修復に際して加える処置 その後に見たとき、明確に修復だと確認できるものでなくてはならない。
2 作品の見かけ上の仕上がりを変えてはならない
3 修復処置は容易に元に戻せるものでなくてはならない

修復というのはオリジナルに戻すことではない。あくまでも時間を経た現在の美術品の状態を修復する。

しかし悪意を持ったものが現れ、目の前にある実態を持った作品を偽装するのではなく、その物体をパソコン上に取り込んだスキャンされたデータのほうを加工したらどうなるか。柄は相変わらず偽者。ところがスキャンデータは脚色されたもの。
 
過去や現在をありのまま持ってゆくことはできない。それが現実だ、未来に残された記録データが真なのか偽なのか、誰に確かめることができるというのかね。

何が本物で何が偽者か。その質問すら何を意味するのだろうか。


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病人を献身的に介護するのは、遠隔操作でそれらの位置や角度を調整することができる介護ロボット。家族は病室に足を運ぶ必要が無く、お互いの立体映像を介し言葉を交わし、デリバリー業者によって施設に届けらる花を選ぶような世界。ツールにより距離を一足飛びに縮めていく。

オッジは今日
ドマーニは明日
イエリは昨日

組織を病ませるのは、いつだって個人
一人の野心家の存在が、いつでもすべての無にする

都合の悪いことは忘れ去る、あるいは隠す。そうしなければ、生きてゆけないんだ。人も、組織も。誰にもどうすることのできない定めなのだ。
時と記憶とは相容れないんだ。記憶された事実にこだわりすぎれば、命が危うくなる

ありがたいことに、辛い記憶や苦しい思いでは日ごとに薄らぐ。最愛の肉親を失っても、いつかは涙が涸れる。時折、感情が強く掻き立てられることはあっても。誰しも、苦しい記憶をそのままの形で恒常的に抱え続けてはやりきれない。

心の苦しみは、人をじりじりと死に導いていく。強いストレスは身体を蝕んでいく。激しい憎しみを生み、爆発的なエネルギーとなる。

誰にも、人には知られたくないことがある 万人がごまかし、自分を飾り立てる。

人間の生活は、すべて自己保存につながる行動だ。大部分はエゴの塊なのだ。

幸い記憶では、我々はそれをなかったことにできる。いともやすやすと、人は他人の知らない自分の過去を偽り、飾る。そればかりか、事実を美しい包装紙でくるみ、あたかも一場の夢であったかのように思いなしてしまう。記憶の中で、不意打ちもだまし討ちも英雄の手柄に変わる。自分に関心を持ってくれた何のとりえも無いみすぼらしい女は、歳月の中で薄倖の美女になり、くだらない切手やコインを少しばかり集めただけだったのに、失ったアルバムに備えられていた蒐集品は、どれも選りすぐりの逸品ぞろいだったと思えてくる。昔はそれだけのことができる人間だったのだ、と思い直す。自分には生きる価値があると自身に暗示をかけ、思い込み、あるいはそう振舞う事で初めて、日々、新しく生きてゆくことができる。過去に闇を持たぬ人間など居ないのだ。それでいながら、現実には、皆、そのことをものともせずに生きている・・・
それこそ記憶の効用なのだ。それゆえ・・・真実のみが織り成してきたことなど、この世には存在しなかった。これまでは。絶対にだ。嘘の糸がとめどなく吐かれ、綴られ、なかにほんの数本、真実がごく僅かに混じる、それが我々の織り成してきた世界だ。君達も同じだろう。忘れることができるからこそ、この仕事を続けながら、生き続けられる。そう思わないか。

人間の生活は、ずっと見てゆけば、いずれも似たり寄ったりなのだ。誰もが何より大切にしているのは、自身のイメージの保持だ。滑稽なくらいにね。それも、地位や持っている金の高さに比例して、それらの保持や見栄のためにあくせくして、費やす時間が増えてゆく。死んだ時間が。自分が生まれつき与えられている持ち時間が、何かによって、いつのまにか侵蝕されてゆくんだ。私は、そんな生活はごめんだと思い始めた。君達に、自身の時間はあるのかね?世間対も何も気にせずに、好きなことにかまかけて過ごせる時間が。もし、生きた時間があるのだとしたら、それを心ゆくまで楽しみ、大切にすることだ・・・
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パソコンの進化と共に、人の「記憶と記録」の役割が徐々に意味を変えてきている現代。このまま無意識に技術の進歩に身体を預けていればいったいどんな未来がやってくるのか?その時に我々の「記憶」とは何を意味するのだろうか?

作者が必死に感が抜いた末に人類に慣らした警鐘のような美しい作品。今後の人生で何度も何度もこの本を思い出す瞬間が訪れるだろうと確信しながらページを閉じることにする。


2012年3月6日火曜日

鉄は熱いうちに打ち 思ったことは鮮明なうちに書き留める


引っ越しに合わせ、自宅とオフィスと実家の片付けをするハメになり、出てくるのはデジタルに移行する前にそれこそ高校生時代から三日坊主の繰り返しで書き綴られた日記と手帳の束。

筆跡鑑定は一理あるなと納得させられるほど今と変わらない文字で、それこそ今とたいして変わらない内容が綴られる。

不思議なものでその文を読んだ瞬間にその事象に付随する様々な事や感情が蘇る。アンジェラ・アキではないが、その時々の自分に今の自分が怒られないか何だか身が引き締まる。

高画像で写真におさめ、捨てようとゴミ箱に入れるが、

「文字だけじゃなくて、いろんなものが残ってるからやめた方がいいんじゃない?」

と妻に言われ、捨てられない母親を責められないなと思いながらゴミ箱に手を伸ばす。

人は忘れる生き物で、一度忘れた感情の鮮度は失われるだけならば、せめてこのようにかつての自分を召喚できる記録を残す手段を持つのも悪くはないかと、今日もまた文章を綴る。