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所在地 岐阜県羽島市竹鼻町55
設計 坂倉準三
竣工 1958
機能 市庁舎
規模 地上3階
構造 RC造
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1960年日本建築学会賞
Docomomo100
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朝一番から気持ちのよい一宮参拝を終えて、向かったのは一宮市から木曽川を渡ったすぐの羽鳥市。木曽川が愛知と岐阜の境界線を描くために、すぐ近くの距離ではあるがこちらは岐阜に属することになる。そのせいか、街並みの雰囲気もかなり変わったなと思いながら到着したのが羽島市庁舎。この土地出身の日本におけるモダニズム建築の立役者である建築家、坂倉準三の設計の建物である。
坂倉準三というと、現在世界遺産に登録が間近に控えている上野の国立西洋美術館。その設計者である、ル・コルビュジェの元に弟子入りした3人の日本人のうちの一人であることでよく知られる建築家であり、コルビュジェの下でモダニズム建築を学び、帰国が日本全国で市庁舎を初め様々な建物を手がけ、それらの建物が日本におけるモダン・ムーブメントの建築としてDocomomo Japanに多く選定されている建築家でもある。
岐阜県羽鳥市で生まれ、東大の文学部美術史学科で学び、その後フランスに渡りパリ工業大学で学ぶ。その流れで、モダニストの旗手であったコルビュジェの事務所に前川國男や吉阪隆正とともに、スタッフとして働きながらその手法を学ぶ。その後日本に帰国し、本格的に建築家としての様々な設計を行っていく。
1937年 パリ万博日本館 (36歳,現存せず) 現地滞在の坂倉によって変更。博覧会の建築競技審査で一等を受賞した。
1941年 飯箸邸 (40歳,現・ドメイヌ・ドゥ・ミクニ、Docomomo Japan)
1949年 大阪スタヂアム (48歳,現存せず)
1951年 神奈川県立近代美術館 鎌倉館本館 (50歳,Docomomo Japan)
東京日仏学院 (50歳,現・アンスティチュ・フランセ東京)
1953年 岡本太郎邸 (52歳,現・岡本太郎記念館)
1955年 国際文化会館 (54歳,前川國男・吉村順三と共同設計,日本建築学会賞,Docomomo Japan選定)
1959年 羽島市庁舎 (58歳,日本建築学会賞,Docomomo Japan)
シルクセンター国際貿易観光会館 (54歳,BCS賞)
1962年 呉市庁舎・呉市民会館 (61歳,現存せず)
1963年 羽島市勤労青少年ホーム (62歳)
佐賀県体育館 (62歳,現・市村記念体育館)
1964年 上野市庁舎 (63歳,現・伊賀市庁舎、南庁舎のみ現存)
芦屋市民センター 市民会館本館 (63歳)
ホテル三愛 (63歳,現・札幌パークホテル)
1966年 神奈川県立近代美術館鎌倉館新館 (65歳)
神奈川県庁新庁舎 (65歳,BCS賞)
新宿駅西口広場 (65歳,日本建築学会賞,Docomomo Japan)
名古屋近鉄ビル (65歳)
1967年 小田急電鉄新宿駅西口本屋ビル (66歳,現・小田急百貨店本店)
岐阜市民会館 (66歳,BCS賞)
山口県立山口博物館 (66歳)
1968年 羽島市民会館 (67歳)
1969年 芦屋市民センター 市民会館ルナ・ホール
1969年 心筋梗塞のため68歳で没
1970年 大阪万国博覧会電力館 (現存せず)
奈良近鉄ビル
1971年 宮崎県総合博物館
キャリアを見ても、生まれ故郷の羽鳥市関連の仕事が多いのが見て取れて、まさに故郷に錦を飾った建築家である。同時に非常に多くの作品が、建築学会賞やDocomomo Japanに選定されており、モダニズムが日本に普及する役割を一身に担った時代を代表する建築家であったのが見て取れる。
そしてこの羽鳥市庁舎はキャリアを20年積み、十分に気力も充実していることに手がけたものであろう。市庁舎としては唯一Docomomo Japanに選定されており、ぜひとも一度訪れてみたかった建物である。
車で待っているという両親と妻を残し、一人駆け足で建物に向かうことにする。道の向かいに立ってみてみると、その独特な構成が良く見て取れる。まずは、現代の多くのホテルに見られるように、エントランスをスロープで二階に持ち上げ、
車寄せとともに二階部分に持ち上げられた玄関に続くスロープを駆け上がるようにして建物にアプローチすると、建物の前に象徴的に立つ構造体にまとわりつくようにして上下する斜路にて玄関を通らずに各階にアプローチして内部機能を利用できるようになっているのが分かる。そのスロープの脇には水平性を強調するデザインに高さを挿入する塔が聳え立つ。これは消防用望楼と呼ばれ、街で火事が発生した際の発生場所を確認する火の見櫓の機能を持つという。50年代という戦後の日本において、都市の防火過程に計画された建物の現代との違いをここにも見て取れる。
つまりは現代においてその機能が必要なくなったこの塔であるが、この塔とスロープに繋がる空中通路にて、市役所で働く人々が喫煙場所として新しい意味を付加している姿を見つけながら、60年近い昔に立てられた建物でも、こうしてしっかりと現代の社会の中で機能を果たしている姿にやはり少なからぬ感動を感じながら斜路を降りていくことにする。
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