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2013年2月25日月曜日

他の場所でも

国土の中で養われてきた自然と建築との関わりをダイレクトに身体に感じるために、寺社仏閣などを回るのがかなり有効的だと思っているが、それと同じくらいに有効なのが時の権力者達の作り出した建築。

その際たるものが古の都・京都に鎮座する御所を筆頭とする天皇家一族に関連した建築郡。ブルーノ・タウトを驚愕させた桂離宮をこの中華新年に訪れたイタリア人スタッフは、「モダニズムよりも遥かにモダニズムだ」と、未だに興奮冷めやらない様子。

それだけに留まらず、日本の様に起伏に飛んだ地形の国で、戦乱の世を勝ち抜くために開発された城郭建築郡。日本のあちこちに散らばるこれらの城こそ日本独特の地形を読み解き、その地形を拡張させて建築化して、戦闘と防御に特化した建築様式を作り出していく過程で、まさにこと細かく地形を読み解き、場所の力を具現化されたものだったに違いない。

日本のあちこちで、戦略的意味だけでなく物流の拠点としても重要な意味を持つ特別な場所を押さえ、現代でいう都市計画の拠点となっていく城郭建築。山城から平城まで防御から領主の屋形、ひいては地域の拠点として役割を変遷していくなかで、寺社仏閣に劣らず地域の良質な場所をその建築場所に選定されたことは想像に難くない。

そう評価していくと、現代でも街の中心に城を構える都市は、かつて栄えた時から拠点を移すことなくそのまま土地の力を活用しながら現代まで発展を続けていることになる。つまりは昔の人々が感じた、そして見つけた土地の力を具現化して立てられた城の様に、力強い土地の力を受けつづけ現代を生きている都市ということになる。現代にとってつけたように、「開発」というかつての人にとっては価値を見出せなかった場所に、無理やり近代のシステムの最たるものである「鉄道」を敷き、価値を植え付け「作り出された」新しい都市とはその成り立ちにおいて確固たる差異があることになる。

そんな訳で百名城だけでなく、各地の名所となっている百景や、山登りのためにと100名山などの場所も含め、自らのGoogle Mapにマッピングしたのは既に6,7年前で、それらのアイコンも徐々に「既に訪れた」赤色へと多くが変わっていっている現在、さて次にマッピングすべきはどんな場所だろうと頭を巡らせる。

そして次にくるのは各地の風景の拠点ともなる「公園」空間。その土地土地に生まれ育った人ならば、遠足や遊びの中で当たり前の様に身体に取り込んでいるその風景は、その土地以外で育ち、移り住んできた人々にとってはなかなか入っていきにくいし、その場所が土地の中で持つ意味を捉えにくい。東京で言えば、大学あたりから移入してきた人々にとっても馴染みが深いものといえば、代々木公園、日比谷公園、井の頭公園程度で、生活レベルに合わせてそこに世田谷公園や砧公園、上野公園、芝公園、青山公園などが入ってくる程度で、水元公園や舎人公園などは何らかのきっかけでその地に住まない限りほとんど知られることのない存在であろう。

しかし城や寺社に負けず劣らず、アースダイバーではないが、川や池、森や丘が作り出し、近代以前の街づくりでも庭園や憩いの場として場所の心地よさを評価され整備された場所があり、近代になりより統計的かつ計画的に整備され、地域のコミュニティを形成する上で大きな意味を込められて作り出された特権的空間であったはずである。そう考えいけばいくほど、これは無視できない存在だということになり、東京中の有名公園をマッピングし、日本中に広げて「日本の都市公園100選」などもマッピング。

そうしてみるとやはりかなり知らないところが多いことに気がつかされる。グローバリゼーションで世界は狭くなったはずが、まだまだ深くなることが可能だということかと、今度は「にほんの里100選」などに手を伸ばし、まだまだ控える100選リストを頭に入れながら、これで次に行くべき場所の再選定が必要だと想いをめぐらせる。

2013年2月24日日曜日

学ぶ場所としての寺社


この歳にもなってくると、見に行く建築や場所と行ってもある程度ネタが尽きてきた感が出てくる。

地方の主要都市や東京近郊のアクセスが比較的良いところは徐々に網羅され、毛細血管の先まで足を伸ばしていくか、訪問先の質を変えていくかになる。

環境建築を学生と一緒に考える時間を持てたのも一つのきっかけかもしれないが、現代に住まう我々はたまたま土地が手に入ったのでその中でどう環境に対応して住むことができるかと、すでにスタートの時点で制約を受けながら住宅を設計しその土地に住まうことになる。

歴史的にみれば、それが如何に貧しい住まい方だったであろうかと考える。

時代を遡れば、その「ここに建てなければいけない」という制約の密度も薄まり、より心地いいという場所を選べる幅が広かったに違いない。森や小河、起伏に富んだ地形と自然の脅威、それらを考慮しながら風が流れ、日の光が差し込む、木漏れ日の下で、清々しいしい空気の中に住まう。そんな場所を選ぶ事を生業とした人がいたに違いない。

そして時代は変われど、その土地の一番良い場所を優先的に占拠してきたのはその土地を守る寺社仏閣であったはず。ヨーロッパの様に街の中心に位置して、風景の中にシンボルとして聳えるカセドラルの様な中心の在り方ではなく、街の外れのどん詰まりに位置し、後ろに聖なる山を控えて街に向き合う寺社。

街からアプローチしていくと徐々に草深くなり、温度も1・2度さがり、現代的に言えばマイナスイオンが溢れる中を、木々の木漏れ日を感じながら辿り着く山門。山の起伏から導かれた勾配の階段で自然の形を感じ取り、山岳信仰と一体化した様々な土地の守り神達にお参りに行く。そんなどの時代でも当たり前の様にあったはずの風景。

自然の力が感じられる場所の森を拓き、自然の恩恵を一番得られる様に配置を決めて、自然と調和して構築されて次第にそれ自体がその場の自然となる。そんな贅沢な土地の選び方。それに比べ以下に貧相な現代の土地の選び方。しかも現代でも利用可能として残っている土地は、歴代の人々が使ってきた土地の残りの部分の中での選択。だから現代では寺社の建つような場所に敵う快適な場所はなかなか見つからないのが自然の摂理。

現代に生きる建築家として、その当時にいたであろうゲニウスロキを感じ、場所を見つけ、配置を決めて、建築を主導していった人物。現代であれば建築家と呼ばれたであろうが、彼らは現代の建築家よりもよりもはるかに自然の要素に対しての洞察力や感受性が強く、建築と自然との関係をより良きものにする能力が優れていたであろうことは容易に想像がつく。何せ現代において、「この街で好きに場所を選んでいい」と言われて設計を始めることもなければ、そういうことに想像を馳せる時間も無い建築家は、設計の条件として与えられるものと思っている自然を読む訓練んど受けていないからであろう。

そんな思いで、古刹と呼ばれ、地域の中で重要な意味を持ち、かつ長い年月地域の人々に愛されてきた寺社仏閣の空間に備わる自然への眼差しや読みときを少しでも自分の体の中に入れるようにと、出来るだけ素晴らしい古刹には足を運ぶことになる。

総本山と言われるような一大事業であった空間に比べて現代の巨匠が設計した美術館を秤にかけたら、間違いなく体験すべきは前者であり、そういう眼差しを持って比較していくと、意外と訪れたいというリストに残る現代建築の少なさに、なんだか建築本質を見る気がする。

そんな訳で古刹名刹と呼ばれるような百寺や名の挙がる古寺というのは対外自らのGoggle Mapに網羅して、その土地に足を運ぶ度に、「こんなとこにも百寺があるのか・・・」と思いながら車を走らせると、やはり古刹と呼ばれるものであればあるほど徐々に期待感を高めるような空間配置をとっており、地形の良さを利用してアプローチを設定していたり、これでもかというくらいに山深いところに配置されており、これだけ豊かな空間体験はなかなか他ではできないだろうと自分で納得することになる。

言ってしまえば寺社仏閣の空間には、日本と言う場所で培われた様々な自然との関係性において建築をするという知恵がふんだんに詰まっており、どんな建築の教科書にも勝る教えを感じ取れるそんな場所が日本には多く残ると言うことを我々現代に生きる建築家はもっと感謝すべきだろうと思いながら、次に訪れる場所に想いを馳せる。