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2014年1月28日火曜日

文具調達

帰国の際にすることの定番となったのが、文具屋に行って普段欲しいと願う文具を好きなだけ調達する事。その為に新宿の世界堂と東急ハンズに行く日を必ず確保する事になる。

西新宿の狭い世界堂の店内を行き来し、自分の手にしっくりあうボールペンのペン先の細さを確認し、スケッチ用に黒、赤、青を数本ずつ手に入れる。中国産のシャープペンシルの芯は、どうも微妙に太さが違い繊細な日本の製図用シャープペンシルでは詰まってしまってダメにしてしまうらしく、帰国の際に繊細な日本のシャープペンシルの芯を購入していく。

次にフロアを変えて、同じくスケッチ用に決まった色の色鉛筆を物色し、手頃な大きさの鉛筆削りも合わせて購入。また1階に戻り今度は手頃な太さのマジックを探し出し、違った機能を描き分けられるだけの色を揃えていく。

そんなこんなをしていると、なんだか楽しくすぐに30分ほど過ごしてしまう。日常の中でこんな店に足を運べる東京の当たり前が羨ましいが、こうして偶にしか来れないというのもまた楽しいものだと再認識してレジへと向かう。

2013年12月19日木曜日

処理速度

建築家の仕事と言われてもさまざまな事がある。設計事務所というのは一つの会社組織である以上、会社が持ち合わせる「営業」「人事」「総務」「経理」などの各業務内容に加えて、もちろん一番重要な「設計」という業務もこなしていかないといけない。

その「設計」業務も、あげれば切りが無いほど多岐に渡った内容が含まれる。新しいプロジェクトの敷地の中に条件を考慮してどのような建築を作り出すかのコンセプト段階から、現場でコンクリートの打設が10センチずれてしまったので、構造体を覆う断熱材を入れるスペースを確保できずにコールド・ブリッジになる部分の処理をどうするか?という現場処理まで、本当に幅広い知識と経験が必要となる職能である。

一つの建築の一つの平面図を決定するのにも、構造、面積、機能、規制、眺め。多様な要因を同時にバランスしながら、ベストの解答を見つけていかなければならない。このような作業に関しては、もちろん何人ものチームが何日もかけてやっても、ある一人が一時間でやったほうが良い結果がでるということもあったりする。それはエンジニア的な経験と知識と共に、建築家としての美的センスを同時に要する非常にバランスを要する作業であるからである。

しかし、建築事務所の日々の業務の中の大半は、上記のような作業とは別に、それでも「処理速度」が必要となる仕事が占めることとなる。

毎日必ず何かのプロジェクトのある部分に関して問題が起こる。施工図を担当するLDIから「空調の関係から、構造の荷重の問題で、地下の駐車場のレイアウトから、外装材の施工性から・・・」などと様々な理由と合わせて、「この部分はできないから設計を変えてくれ。この部分はどう処理すればいい?」と何十という問題点が送られてくる。それらは「今日中に返答をもらわないとこちらが処理しきれない」というリミットと共に。

これらの問題を如何に事務所が望むデザインを確保しながらも、条件と折り合いをつけながらどうやって解決していいか?その「処理」をするのに多くの時間が費やされる。

その問題ががどんな要因が絡み合って発生しているのか?
コスト、施行、設備、構造。何を考慮し可能性を探らなければいけないのか?
条件を把握し、可能性を洗い出し、それらの上にデザインを考慮してスケッチをしていく。
それらを与えられた時間の中で、どう仕事を進めるのか?
チームの中の誰に伝えて、どう処理するかを伝えて、いつチェックが必要かを考える。
どの部分が、外部のどのコンサルタントや協力会社とのコミュニケーションが必要になるのか?
最終的にどのような資料を誰にいつまでに渡さないといけないのか。

毎日発生し、毎日過ぎ去っていくこれらの業務は、ほぼ処理すべき仕事である。
アーティスティックな側面では決して無く建築事務所の中のエンジニア的な仕事。
そしてこの業務が建築事務所を支えるとても大切な業務でもある。
それだけに日々の多くの時間がこれらの仕事に割かれることになる。

決して指の間からこぼれ落とすことができない業務であるからこそ、どれだけ効率的に、どうやってこなしていくかを真剣に考える。与えられた時間は変わらず、その間にもたらされる問題は加速度的に増加する中で、諦めることができないのなら、唯一できるのは自らの処理速度を高めること。

毎日朝にやるべき仕事内容と、その考慮すべき項目を書き出し、カレンダーの中でスケジュール化。それぞれのプロジェクトのそれぞれの問題部分をスケッチして、何度も何度も描き直し、描いてみてはじめてて見えてくる別の問題を考慮して、再度スケッチを描いていく。

それを元に、プロジェクト・アーキテクトと話し合い、修正を加えてパートナーと確認。それをもってチームに割り振る。プロジェクトの数とその規模を考えると、毎日やるべき作業はものすごい量となる。

自分の手からこぼれ落ちてもオフィスの中のどこかの網に引っかかるようなシステムを作ることはもちろん平行して行っていくが、何よりも自らの職業的能力を高め、処理速度を加速度的に向上させていくことでしか、満足する建築への近道は無いのだと改めて認識する2013年の暮れ。

2013年9月28日土曜日

「建築を愛する人の十二章 」 香山壽夫 2010 ★★

本人が「分析の役に立ったとしても、それがそのまま創作の方法とはならない」と書くように、建築というものは、数々の歴史の中の建築作品を分析し、それが何をして美しく、何をもって社会にとって意味のある建築物として残されてきたかを理解することはとても重要であるが、その理解をした建築家全てが、同様に素晴らしい建築作品を作れるかというとそうではない。

つまり、数々の建築物の良さを建築学というアカデミックな視点、そして一般の人が体験する空間としての視点から解説し、より深くそれらの建築物の良さを伝えることができるのと、その系譜に並ぶような素晴らしい建築作品、建築空間を設計できることとはまったく違う才能である。

そして作者は、前者の建築の魅力を伝えることに関しては間違いなく日本でトップレベルの知識と経験と、それを言葉にする能力をもっていると改めて思わされる一冊。放送大学用のテキストという、専門分野以外の人を意識し、より一般的な表現を使いながら建築を語る中でその能力はより磨かれたのかと勝手に想像するが、根源的な建築の魅力を解説する素晴らしい言葉達に出会えることになる。

そして上記のように、建築を理解し解説できることが、そのまま素晴らしい建築を設計できることにならないように、いくつか訪れてきた作者の建築作品も、この本で語られるようなキラキラした建築言語とはどうにも乖離しているように思えてしまうのは自分だけではないと思うが・・・

兎にも角にも、日本の建築アカデミズムの真ん中を歩き続けた正統なプロフェッサー・アーキテクトによる建築史を横断し、建築の持つ魅力を各部から解説していただける一冊。その中には、下記のように「明日も建築をやっていこう」と思わせてくれるような素晴らしい言葉や、耳が痛くなるような激励の言葉が盛りだくさんである。

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スケッチを作り、スケッチする事によって問いかけ問い直しのである

日常とは、数多くの約束や目的あるいは習慣によって成立している世界の事である。建築は、これらの制約を受け入れた上で始めて成り立つ。それだけではない。建築は、大空の下、大地の上に建たねばならぬ。雨風や地震に抗い、重力を支えて、建築は立ち上がらねばならない。

建築は技術。明治以降の近代化の課程で、西欧の工学の一分野として、近代の建築学を受け入れた日本においては、とりわけそういう見方が一般的である。建築において、芸術と技術を分けることは不可能である。分けたとしたら、その瞬間に建築は死ぬ。

フランスの小説家・ゴーチェの言葉
「何の役にも立たないものに、真の美がある。有用なものは全て醜い。なぜなら、必要は人間の本性と同じく、貧弱で、下劣で、厭わしいものだからだ。」

アメリカの哲学者 ジョン・デューイ「経験としての芸術」より
「建築は存在の安定と持続を表現するに最も適したものです。音楽が海なら、建築は山である。」

建築家は共同体に形を与える

私は、空間に包まれている。

外から眺められるだけでは、建築とはいえない。それでは、彫刻と同じだ。建築はその内に人を包み込むもので無ければならない。

空間とは何か

自分を包むもの。自分を包んでくれる囲い

ミルチャ・エリアーデ「家は世界の模型である。」

ルイス・カーン「部屋、建築はひとつの部屋を作る事に始まる」

閉鎖的な高い塀「日本の住居が閉鎖的でまったく中の生活が見えない」

ミース ガラスの家 開放的空間の純粋的な実現

ある部分の開放性は他の部分の閉鎖性で補わられている

華やかに人目を引いている建物でも、その空間があなたを優しく、暖かく包み、そしてあなたがそこにとどまっていたいと感じられないものであったら、それは良い建築ではない、と言い切ることにしよう。自分の空間を、しっかりと持っている人は、そこから出て外と繋がる事ができる。それが無い人は、外と繋がっていくことが難しい。

良き建築は、常に大地を讃えるものでなければならない。

平凡な地形。それが、建築郡と、そこで続けられている意図の営みによって、まったく特別なものとなる。それが建築の力である。

人間が、自然と深く関わりながら生き、それに対する畏敬の念を失っていなかった時代に建てられた建築は、全てこのように大地を賛美しており、その姿を見る私達の心は喜ぶ

建てられる場所の特性を、豊かに感じ取り、正しく理解せねばならない。そのような感性を、原始・古代の人々が豊かに持っていたこと 残された遺跡や遺構は私達に教えてくれる

場所にそれぞれの「霊(アニマ」がある

今日の日本の大都市とその周辺の敷地は、画一的に開発されてしまって、それぞれの特徴を見出すことは、極めて難しい

フランク・ロイド・ライト
「私に良い敷地を与えてくれるなら、私はあなたに良い住宅を与えよう」
「そこが美しい敷地だったことは、その家が建てられるまで誰も気がつかなかった」

「建築は、場所の特性を視覚化する」

建築を作り出す決定的な力を、屋根が持っている。従って屋根とは、内に包んでいる良きまとまりを、外に向かって表現するものとならねばならない。屋根は、内なる空間を外なる大空に向かって表現するのだ。

谷崎潤一郎「外から見て最も目立つのは、或る場所には瓦葺、或る場合には茅葺の大きな屋根と、その庇の下にただよう濃い闇である」

建物の内部に会衆を呼び集めるものとして、教会堂は誕生した
神社、初期の仏寺 内に入ることが出来る人は限られていて

門をくぐる時、私達の心は躍る。門のかたちは、そのような力を持っているものだ。緊張させ、逡巡させ、立ち止まらせる。門の意味は、入れてもらえる人もあれば、入れてもらえない人もあるという。入れてもらえない人もある門に、自分は入れてもらえたからこそ嬉しいのだ。

都市が門を持っている。内には法律と秩序 外には無法、無秩序。

エリアーデ「門とは秩序の支配する空間と、無秩序の支配する空間との境」

細長い奥行きを持った門。門は準備の場所。宗教建築。長い参道は、心を整えるための空間

豊かな内部空間を持った建築は必ず見事な門・入口を持っている。

窓は建築の目。窓の持つ多様なかたちと、それが生み出す豊かな働きついて見ることは、建築の与えてくれる最も大きな喜びの一つです。

窓は、望ましい景色に向かって開かれる
様々なものが窓を出入りする。光、風、視線だけでなく、時には小鳥や蝶や木の葉も出入りするかもしれない。

建築家が、はっきりとした意図で、この景色をこの位置からこの方向で見てくださいと考えて作られた窓もある。

様々な外と内との繋がりを多様に、そして適切に制御するために、様々な形の窓がつくられる

ロンシャンの教会堂 彫塑的造形 奥行きの深い窓から射す光 ロマネスクの窓 更に古代ローマの建築の光

空間は、自分から発し四方に広がっている。必ず中心を持って成立している。良きまとまりには中心がある。

プリンモア女子大学の学生寮。分棟型から中心型へ移っていく空間生成。何故、学生は学生寮に住むのだろう。大学の寮で共に暮らすことと、街のアパートでそれぞれに住むことの違いはどこにあるのだろう。その問い直しの結果、食堂・居間・図書室のまわりに、個室郡は集中する。

アルベルティが「都市は大きな住居であり、住居は小さな都市である」

力を支えて立つ柱が美しいこと。柱は人の心に働きかける根源的な力を持つ。

空間のうちと外を区切るための重要な空間要素。守られ、安全と安定があるからこそ、人は、外とつながることができる。我が国において、都市を囲む城壁が築かれることはなかった。自邸を囲った 。

ロバート・ヴェンチューリ「建築において、壁は、常に、少なくとも、二枚重なっている」

良い部屋には必ず良き日の光がある。

あなたの忘れられない光はどのようなもの

構造体は光を与え、光は空間を作る

光の濃淡、陰影、差し込む光の位置と強弱、そして反射や透過を、自分の思うようなものとするために、壁や柱や屋根を造形することが建築の設計なのだ。光と影を描くことによって、空間を描くことを学んでいく

自然の景色は、南都心慰められる安らかな 人間がそのように美しくつくるためには、どうすればいいのか?

むき出しの生身で自然に対していた太古の人々は、そう簡単に、自然這うt区しいなどと甘いことを言うな、と言うに違いない

美しい自然がある、人間はそれを美しいと思う

なぜ、「なぜ」と人は問うのか それはつくりたいからだ。美しいものを作る方法を見出したい身体。

ウィトルウイウスは紀元前後 最古の「建築書」 「美は、建築の寸法が正しいシュンメトリアの理法に従っている場合に得られる」 

シュンメトリア 「建築の各部分と全体の間に、一定の比例関係が成立すること」
シンメトリーの語源
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[目次]
第一章 建築はいつも私達と共にある
第二章 空間は私を包む
第三章 大地に根ざして立つ
第四章 大空の下に立つ
第五章 門は招き、あるいは拒む
第六章 窓は建築の目
第七章 空間には中心がある
第八章 支える柱
第九章 囲む壁
第十章 空間をつくる光
第十一章 自然と人工
第十二章 建築を見る楽しさ、作る喜び
私の作品
あとがき
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2013年9月21日土曜日

動き出す時間

一週間以上もジムに行かないと、どうも身体のあちこちにポツポツとにきびが出来てくる。明らかに通常の生活では新陳代謝が十分に成されておらず、強制的に汗をかいて内部から押し出してやらないと身体の内部にどんどん不純物が溜まっていく。

それと同じく身体の中に溜まる膿。

足を運んだ場所、そこで目にしたもの、そこで感じた空間。それらについて何かしら外部化していかないとどんどん身体の中で腐っていく。本来なら時間をかけてその場でスケッチを描き、見たものを平面化してみて、そこで新たなる発見として日常に持ち帰る。

それが出来れば一番良いのだが、それほど余裕のある生活を送れるほど何かを成し遂げても居ないので、とにかく修行の身として出来るだけ多くのことを目にし、見たものから興味を得、それを少なくとも知識として仕舞っていく

体内で腐敗を起こさないように、出来るだけ自分の言葉で見たものを纏め、簡単でもいいが体系立てて理解をする。その作業の中で自分化を行っていく。その為にとても役立つのがこのブログとういメディア。

そんな訳でやっとまとめ終えた100を超える寺社の訪問記。別に誰かに頼まれているわけでも、誰かが喜んでくれる訳でもないが、それでも自分なりにしっかりと今をこなして行く為にちゃんと時間を消化する一つの基準。

ただし時間は待ってくれないから、「今」はすぐに「この前」に変わり、なんとか「かつて」になる前に定着しようと試みる。その為に、どんどん「今」から偏差しながら「この前」の「今」を言語化することになる。チクタクと進む時間との闘い。その間もどんどん増えていく「今」が更におざなりになっていく。

「この前」の「今」を消化するために、別の膿が身体に溜まっては本末転倒もいい所で、なんとかドォッと吐き出す様にまとめては、やっと「今」に追いつく。

歪んだ時間のイメージが「カチリ」と動き出す。

それと同時にすっかり「かつて」に属するようになってしまった、本や訪れた建築。ほったらかしにされて、すっかり記憶も陳腐化してしまってはいるが、カレンダーから掘り起こしてはその時のメモを見返して、「今」の言葉ではなく、「その時」の言葉で外部化していく。

再度の読書体験と共に、自分の記憶のあちらこちらで「カチリ」「カチリ」と様々な時間が動き出す。

2013年9月18日水曜日

対極に振れる

この世が作用反作用の法則によって支配されているように、人の感情もやはり寄せては返す振り子の様に、一方に振れた後は必ず対極に振れ返すものだと思う。

自分にとってもここ数年の寺社を始めとする日本の数百年もの古建築などに対する興味もまた、その振れ戻しの作用なのだと思わずにいられない。では、その対極にある日常は何かと考えると、毎日を過ごす中国でのスピード感。

日本では、というよりも、他のどの国でも考えられないほどのスピード感とプロジェクトの巨大さの波の中で揉まれながら生きている。波に呑まれて流されないようにと必死に手を伸ばすように、効率を上げて考えながら、同時に手を動かしてスケッチをする。

建築家として生きてきた時間の仲で、こういう短い時間でこなしていかないといけない設計では、どうしても奥行きのある味わい深い空間はできないだろうと理解しても、今やれることはそこから逃げ出すことではなく、その状況に自分を晒し、慣らし、手なずけること。そしていつか自らコントロールできるように自分が上がっていくことに他ならない。

朝に、「ッフ!」と息を吸い込んで、気がついたら夜になっている。そんな疾走感。

建築家を目指したからには、ゆっくりといろんな本を読みながら、じっくりと様々なことを考慮しながらスケッチをし、いろんな角度から検討して設計を深めていく。そんな世間よりゆっくり流れる時間を持ちながら設計に取り組む。そんなことを夢見るものであるが、今の状況ではそれは望めないこともまた理解する。

だからこその振れ戻し。自分の中でのバランスをとるために、どれだけ振れ戻さなければいけないか?それは頭よりも身体が知っている。その求めるままに人の人生なんてなんて短いスパンだと思えるような悠久の時間が流れる空間に身を置きに行く。

悩み苦しむ自らの一日なんて、まさにハッと息を呑む一瞬だと理解するために。

出来る限りの対極に振れ戻せば戻すほど、日常を生きる力になるのだろうと思いながら、多くの聖域に流れる空気を自分の身体に吸収して帰ってきた日常の時間の中で、以前よりも更に遠くまで触れることができるようになった自分を感じながら今を生きる。

2013年8月14日水曜日

所作

学生相手に建築の考え方を指導している時期に一緒にユニットを担当していた教授はその昔、自分もお世話になった建築家の先生。

ある日学生に参考の為に、パドヴァにある教会の話をしていたら、「たしかスケッチブックにプランがあったはずだけど・・・」と鞄の中から取り出したのは分厚いA5サイズの良い感じに色あせた皮のカバーをかけられたスケッチブック。

その中からは溢れんばかりの陽に焼けたベージュの紙に書かれた幾つものスケッチとメモ。それらをペラペラめくりながら、「あ、これこれ」と取り出したのは、ポーチ部分が前面道路に対応して歪んだ教会堂のプラン。

それを見ながら、この先生は、心に残ったものをスケッチし、メモを取り、この一冊のスケッチブックにスクラップしていくとうい作業を何十年も変わることなく続けていたのだと理解し、その繰り返された行動とその結果生み出されたこのスケッチブックは何者にも変えがたい美しさを放っていると感じた。

積み重ねる時間の中で、徐々に収束する一番適した自然な動きを身に着けることが所作だと思う。この先生のスケッチブックもまたその所作の一つであると思う。

その人の生き方に対応した所作を身につけている人は美しいと思う。

決して回りに流されること無く、乱されること無く、どんなにスローであろうとも、淡々と自分の時間の流れ方を知っている。誰もが乱すことができないその所作。

茶道などはその最たるもの。人一人が人生をかけて身に着けるその所作。その身に着けたものを更に次世代へと受け継ぎ、何代にも渡ってより高い極みへと昇っていく。

逆に言えば、職業人として如何に早くその所作を身に着けられるかが重要である。何十年と続く職業人としての時間。その中で経験や知識と共に過ごし方が変わるのではなく、職業人として土台を作るのと同時に如何に所作を身に着け、循環の中で向上を手に入れていくか。

所作が身についたものほど、日常の仕事から受けるストレスも少なくなり、自分のペースで仕事を進めることが出来る。やるべきことをリスト化し、カレンダーに項目化し、一つ一つスケッチによって視覚化し、スタッフとコミュニケーションし、上がってきた資料を確認していく。

建築家としての所作を身につけ、ぞれぞれの所作をより精密化しながらも、その組み合わせで目の前の問題に対応していく。そう頭を巡らしながらも、心を整え新しいスケッチに向かうことにする。

2013年6月21日金曜日

凄い脳


オーストラリア日本と忙しなく過ごしたここ数週間。

異なる場所で、様々な人に会い、色んなことを話して聞いてと、移動に伴う変化の中で時間を過ごしていると、脳内に入ってくる刺激に比例していろんなことを考えることになる。それと同じくらい自分が出来てないことを知らされ傷つき、もっとやらないとと思わされることになる。

そんな変化の中にいると、毎日同じリズムを繰り返す、安定した日常がいいと思う。

そうして戻る日常で、同じ時間に起床して、同じものを食べて、同じ道を自転車で走って出勤し、同じ忙しさの中で流れるように過ぎている時間を見ていると、また変化が懐かしく思うものである。

そう思うと、人は無いものねだりの馬鹿な生き物だと思わずにいられない。


変化と日常の中で、様々なことを感じ、考える。

それらの思考を出来るだけ身体の外に置いておこうと、言葉に変換してブログやスケッチやらと形を変えてみるが、全てを顕在化していたらもう一つの人生が必要になってしまう。

どれだけネットであるプロジェクトの記事を見て理解したつもりになっていても、その場所に行かないと分からない建築の空間同様に、様々な条件の中、困難を抱えながらもチャレンジ精神を忘れずに、新しいものを作り出していった建築家本人の言葉で語られう作品を見て、そして何よりその建築家と同じ時間を過ごして人となりを知ること。それに勝るメディアは無いんだと理解する。

その濃密な時間から得られる情報はとても言葉にして現すことができない。経験などとあやふやな言葉に置き換えられるが、その時に感じた気持ちや、浮かんだ考え、そしてそんな刺激的な時間を得て自分の中で芽生える変化。それらをどうやっても言葉には置き換えられないが、頭の中ではもやもやしながらも比較的少ない時間で処理してくれる脳。

その能力は本当に驚かされる。

例えば、ぼーっと何も考えていないような顔をして道に座っている人でも、頭の中では物凄い量を思考し、物凄い濃密な時間を過ごしているかもしれない。

何も言葉を発せずに、フラフラと街を漂っている若者も、実はその脳内で、「人生とは何か?」、「生きる意味とは何か?」、「建築のあるべき未来とはなにか?」などと、物凄い勢いで考えているかもしれない。

ぼーっとしているような顔をして、実は物凄い経験を頭の中でしてしるのかもしれない。

外からは何も変わってないように見えて、その実内面では大きな変化、幾つも歳を取るよりもよっぽど意味のある成長をしたのかもしれない。

人類の起源に対して深い思考を巡らせたり、
複雑な量子力学を解いてみたり、
宇宙の始まりをシュミレーションしてみたり、
新しいビジネスモデルがどう成長するか考えを巡らせたり、
自我とは、社会とはと永遠の問いを投げかけたり、

それらの思考を終えるみると、今までの自分とはまったく違ってしまうだろう。

そして、外からその変化は決して見えない。

それを可能にする恐るべき脳の活動。

そんなことを考えながら、帰り道の胡同の道端に座っているおばさん達も、ひょっとしたら頭の中に無限の宇宙を抱えているのかと想像を膨らませながら、人間の神秘を感じて自転車を飛ばすことにする。

2013年6月20日木曜日

生命体としてのオフィス


オフィスというものは、人がいて始めて成立するものである。

どんなに優秀な建築家でも、一人で「あーだこーだ」と声を上げている段階から、徐々に人が増えていき、オフィスという社会性のある組織へと変化していく。

そして、人が入ってきたり出て行ったりということが日常化してくる。

その中で、あるスタッフが辞めていくことになる。比較的長く勤めてくれたので、その分彼自身にストックされた知識や経験も多くなり、オフィスにとって辞められのは確かなる痛手であるし、その後はチームやオフィスへの負担も一人が抜けたという数学的には見えてこない負担が多くなる。

辞めていく前はいつもそう思うものだが、それでもオフィス自身が自ら負った傷をなめて癒すかの様に、徐々に今いるメンバーで毎日が回っていくようになる。そしてそれがオフィスの日常になっていく。

その推移を見ていると、オフィスもまた生命体であり、生命体である以上、負った傷は治さずにいられないのだと思いながら、徐々にその彼がいないことが日常になっていく雰囲気を感じる。

止まることは、死ぬことを意味する。

ならば少々の傷も気にならないほど、強い命になりたいものだと思わずにいられない。

2013年6月18日火曜日

神社の型 鳥居の型 狛犬の型


建築家なら大学時代の日本建築史の授業で一度、そして一級建築士の試験時にもう一度向き合うことになる神社の様式。

神明造は伊勢神宮。
春日造は春日大社。
大社造は出雲大社。

などと、必ず一問はでる日本建築史に関する問題で、一点を落とさない様にと必死に記憶したこれらの様式。その時にはとても楽しめる余裕は無かったが、今になって気がつく根本的な疑問。

何故違う?

これだけ様式が分かれているのは理解できるが、その様式の中でもその土地、その時代ごとに建てられる神社。それらがなぜか全て微妙に違うのは何故なのか?

「うちの神社は何々系なので、様式は何々造りで行きます。しかし独自性も出して行かないと他との差異化ができないので、細かいデザインに関しては職人の皆さんの想像力にお任せします」

なんていう会話がなされたのかどうかは今となっては知る由も無いが、生活圏が限られた古代から中世。手に入る建材もある程度限られたはずである。そして何よりも、他の場所でどんな最先端のデザインが生み出されているのか、そんな情報も限られ、あるのは人による伝聞やスケッチのみ。

その少ない情報をヒントにして、新しい世の中に相応しい神社の型を作り出そうと魂をこめた職人達。そうやって想像力の風呂敷を思う増分広げて見上げるそれぞれの神社はそれぞれに飛び切りのドラマが後ろにあるのだと思わずにいられない。

そんな神社の様式を再度理解するのにお勧めなのが、毎回お世話になるこのサイト。

本殿建築様式について

神殿の様式のいろいろ

そんな風に見ていくと、いやいや建物だけじゃないぞと。その手前にもデザイン要素がごろごろ転がっているのが神社の空間。

一見大きな違いが無いように見えていた鳥居もこれだけ微妙に変化がついていたとは露も知らず。

鳥居の形のいろいろ

そして最近気になるのがこの狛犬。とても愛嬌のあるものから、恐ろしい形相のものまでそれこそ千差万別。

狛犬見聞録

狛犬ネット

足を運びたい神社が多くあるからそれぞれの場所で細かく鳥居と狛犬のデザインを鑑賞する時間はなかなか取れないが、見てきたものを写真で見返し、「ほう、これは」などと言う発見の楽しみがまた一つ増えることになる。

2013年4月27日土曜日

こむら返り

かつてロンドンで働いている時に、同じくAAの大学院を出て、同じタイミングでザハ事務所で勤務し始めた当時10歳くらい年上のオーストラリア人がいた。

その年齢からか、もしくは彼の経験からかわ知らないが、こちらが必死にコンペで最後の仕上げをしているのに、定期的に画面を覗きに来ては「どうなってる?」「問題ない?」「ここはちょっと直した方がいいね」などと偉そうに言ってくる役割を担っていた。

「オマエは何もしてないのに、何を偉そうに・・・」

と思いつつ、顔が似ているということで、チームの周辺にやってくる度に「ミスター・ビーンがやってくる」と皆でコソコソ言っていたのを思い出す。


恐らくその時の彼の年齢に自分も達したであろうこのごろ。

大きな大きなコンペの締切りを控えたこの時期、今の自分はオフィスの中でよく歩き回っている。

チームのメンバーのパソコンの前まで行き画面を覗き込み、印刷させてはスケッチをし、イラストレーターでの着色を微調整し、インデザインのレイアウトに使う参考写真を探してわたし、レンダリングの雰囲気を描きこむなどととにかく歩いて回る。

そのおかげでかこの数日、朝方にこむら返りになる程。

指示をして、そのスタッフが正確に意図を理解し、テイストを感じ取り、クオリティを確保でき、時間通りに仕上てくれるのなら、こちらはきっと歩く必要はないのだろう。

しかし、これだけ様々なバックグランドを持った人間がいると、それぞれの仕事への姿勢も大きく差があり、ましてはインターンという学生もチームに入っていると、どうしても誰かがこまめにグルグル回って、全体を統合していかなければいけなくなり、その作業は外から見ているよりもずっと難易度が高いものである。

「やれる、やれる」といいながら、一向に仕上がらない平面図。遠くからその作業振りを見ていると、ちょっとやってはすぐに携帯をいじっているスタッフの姿・・・。思い通りに行かないと、必要のないことをやりだしてみるスタッフ。全体を見渡す役割を担わせて見ても、ついつい一つのタスクに視野を取られてしまうスタッフ。

それが人間の性だと分かりつつ、その為には時間と経験が必要だと知りつつ、「勝てるプロジェクト」に磨き上げるために、期限内で仕上るために、明日の朝もまたこむら返りだと思いながらまた歩くことにする。